「王は主に依り頼む」

及川 信

       詩編 21編 1節〜14節
21:2 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い
御救いのゆえに喜び躍る。
21:3 あなたは王の心の望みをかなえ
唇の願い求めるところを拒まず〔セラ
21:4 彼を迎えて豊かな祝福を与え
黄金の冠をその頭におかれた。
21:5 願いを聞き入れて命を得させ
生涯の日々を世々限りなく加えられた。
21:6 御救いによって王の栄光は大いなるものになる。
あなたは彼に栄えと輝きを賜る。
21:7 永遠の祝福を授け、
御顔を向けられると
彼は喜び祝う。
21:8 王は主に依り頼む。
いと高き神の慈しみに支えられ
決して揺らぐことがない。
21:9 あなたの御手は敵のすべてに及び
右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。
21:10 主よ、あなたが怒りを表されるとき
彼らは燃える炉に投げ込まれた者となり
怒りに呑み込まれ、
炎になめ尽くされ
21:11 その子らは地から
子孫は人の子らの中から断たれる。
21:12 彼らはあなたに向かって悪事をたくらみ
陰謀をめぐらすが、決して成功しない。
21:13 かえって、あなたは彼らを引き倒し
彼らに向かって弓を引き絞られる。
21:14 御力を表される主をあがめよ。
力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。

 王の詩


 今日ご一緒に読みます詩編二一編は、詩編二〇編に続いて「王の詩」と呼ばれます。この二つは、一つの詩として続けて読んでしまってもあまり違和感がありません。
 その二〇編の最後はこういう言葉でした。

「主よ、王に勝利を与え
 呼び求める我らに答えてください。」


 ここで「勝利を与え」と訳されている言葉は、二一編で「御救い」と訳されている言葉と根っこは同じです。何に対する勝利を想定するかで翻訳も変わってくることだとは思います。
 ここで確認しておきたいことは、王に「勝利」あるいは「救い」が与えられることは、その王を戴く民にとっても重大な問題だということです。ここで「呼び求める我ら」とは、イスラエルの民を代表している人々でしょう。その人々は、自分たちとは関係のないこととして、王が救われること、王が勝利することを主に求めているのではありません。王が勝利することは自分たちもその勝利に与ることですし、王が救われるとは自分たちも救われることなのです。それほどに王と民は一体の関係なのです。それ故に、王に勝利(救い)が与えられることを切実に願っている。そのことを確認しておきたいと思います。

 御力のある方だから

 二一編においてもその事情は同じだと思います。今日の説教題を「王は主に依り頼む」としておきました。八節に「王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ、決して揺らぐことがない」とあるからです。
 なぜ王が「主に依り頼む」のかと言えば、主には「御力」があるからです。力のない者に依り頼んでも安心は出来ませんが、力のある方に全身を委ねることが出来れば安心です。九節以下にありますように、主はご自身に敵する者たちと戦い、必ず勝利されるお方です。だから、この方に依り頼むことが本当の安心なのです。
 詩編二一編では「御力」が、冒頭と末尾の一四節に出てきて全体を囲む形になっています。その「御力」「いと高き神の慈しみ」において現れるのです。他の国々のように戦車や軍馬などの軍事力に現れるのではなく、真実な愛において現れるのです。「慈しみ」(ヘセド)とは、契約を守る愛のことです。契約の相手であるイスラエルが、互いに愛し合って生きるという契約を破ったとしても神様は破らない。真実な愛で愛し続ける。そういう愛です。それは神しか持ち得ない愛です。
 ギリシア語訳の聖書では「ヘセド」は「エレオス」と訳されています。それは日本語ではしばしば「憐れみ」と訳され、ルカ福音書ではイエス様の誕生を巡る一章の中に四回も出てきます。神様の変らざる「慈しみ」、イスラエルの罪を赦す「憐れみ」の徴としてイエス様は誕生される。マリアとザカリアの賛美の中に出てくるのです。このことは極めて重要なことだと思います。

 喜びの礼拝

 二一編の始まりはこうです。

「主よ、王はあなたの御力を喜び祝い
御救いのゆえに喜び躍る。」


 現在の詩編の繋がりから言えば、この言葉は二〇編の最後の祈願に対する応答として読むことが出来ると思います。そして、先ほど言いましたように、二〇編でしばしば「勝利」と訳されている言葉が二一編の二節と六節では「御救い」と訳されています。(本当は統一されていた方が良いように思います。)民が切実な思いで祈願した「御救い」が、主の「御力」によって与えられていることを「王が喜び祝い」「喜び躍る」ことから、この詩は始まります。この詩も二〇編と同じく神殿における王の即位式とか戦勝祈願のような礼拝が背景にあることは間違いないでしょう。そして、礼拝とは、神様に願いを捧げるだけでなく、神様がその慈しみの故に与えてくださっている「御救い」を感謝し、喜び、賛美することです。その「御救い」が王に与えられ、また王を通して民全体に与えられる喜びと賛美を捧げているのが二一編です。

 理想と現実

 三節から五節には「心の望み」「唇の願い」「願い」という言葉が並びます。そして、主に信頼する王の「望み」や「願い」を、主は聞き入れてくださり、「豊かな祝福」と共に「黄金の冠」「生涯の日々を世々限りなく加え」「栄光」を与えてくださるという信頼の言葉が続くのです。
 しかし、実際の歴史の中で、ダビデを初めとする王たちがこのような主への信頼を生きたのかと言えば、残念ながらそうではありません。
 一例だけ挙げます。紀元前八世紀の南王国ユダの王アハズは迫り来る敵を前にして動揺します。激しく揺らぐのです。主に依り頼むことをしないからです。関心のある方は後でイザヤ書七章をゆっくりとお読みいただければと思います。外敵が迫ってきた時に「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と記されています。王と民は互いに緊密な関係の中にあり、王の不安は民の不安なのです。
 主は、アハズ王に会ってこう言うようにイザヤに命じました。

「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」。
「信じなければ、あなたがたは確かにされない」。


 さらに主はアハズに「しるしを求めよ」と言います。しかし、アハズは「わたしは求めない」と答えるのです。つまり、主の慈しみに依り頼むことはしない、ということです。
 にもかかわらず、イザヤは「主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という預言をするのです。
 キリスト教会は、このインマヌエル(我らと共にいます神)の誕生こそが、神の子イエス・キリストの誕生の預言なのだと受け止めました。
 この点は後にまた帰ってきます。ここではダビデの子孫であるユダ王国の王たちの現実はこういうものであったことを覚えておいて頂きたいのです。預言者たちは「主に依り頼み、信頼せよ」と繰り返し呼びかけました。しかし、王も民衆も、自らの軍事力を頼みとしたり、自分たちを守ってくれそうな国を探して右往左往する。それが、「彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」(サムエル下七章一三節)と神様が約束されたダビデ王国の現実の姿です。そういう現実がこの詩の背後にはあります。
 その現実の中で、王の即位式においてこの詩が読まれたとするなら、それはどういうことになるのでしょうか。
 「あなたは、主に依り頼む王になって欲しい。主に依り頼み、その慈しみに身を委ね、その力に頼み、心の願いを主に告げ、主が祝福をもって応えることを待ち望む王になって欲しい」。
 そういう痛切な願いが込められているのではないかと思うのです。しかし、その願いは叶えられませんでした。アハズ以後の多くの王も、主に「依り頼み」「いと高き神の慈しみに支えられ、決して揺らぐことがない」王ではなく、「森の木々が風に揺らぐように動揺」する王だったからです。そして、結果としてダビデの王国は滅亡してしまいました。

 王国がなくなっても・・

 しかし、王国が滅亡した後もこの詩は読まれ続けてきました。神殿での即位式はなくなったのに読まれ続け、書き写され続けてこうして聖書に残ることになったのです。最早新たに即位する王はおらず、国が無くなったのにこの詩はその存在意義を失わなかったのはどうしてなのか。それが今日の問題です。

 二一編と二二編

 二一編は、主なる神様が与えてくださる救いを喜び賛美する詩編です。主の慈しみに依り頼みつつ「心の望み」「唇の願い」を主に訴えれば、主は祝福をもって応えてくださる。黄金の冠、長寿、栄光を与えてくださる。そして、敵に勝利してくださる。そういう主を賛美するのが二一編です。
 しかし、その続きの二二編は「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」という絶望的な叫びで始まります。二一編で重要な「救い」とか「依り頼む」という言葉が二二編にも出てくるのです。でも、二二編では、主に依り頼んでも主はただちに救ってくださるわけではありません。「先祖は主に依り頼んで救われてきた」し、「主に依り頼んだ者が裏切られたことはない」。しかし、私は主に依り頼んでも救われず、虫けらのように扱われ、「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」と嘲笑されるだけだとなっています。詩の後半に至って、この嘆きが賛美に変っていくのですが、その前半は二一編とはまったく逆のことが語られているのです。聖書が一面的な「教えの書」ではないことが、こういうことからも分かります。
 そこで問題になるのは、「主に依り頼む」とはどういうことであり、「心の望み」「唇の願い」とは何であり、主の「慈しみ」において現れる「御力」「御救い」とは究極的には何であるかです。

 王としての人間

 先ほど、王国が消滅した後もこの詩編二一編は読み継がれてきたことを言いました。人々は、どういう思いでこの詩編を読み継いできたのかに関して色々考えることが出来ます。
 一つは、ここに「王として立てられた人間の姿」を見たということがあると思います。詩編八編は、神様が造られた天体を仰ぎ見て圧倒され、創造主なる神を賛美します。そして、その後にこういう言葉が続くのです。

そのあなたが御心に留めてくださるとは
人間は何ものなのでしょう。
人の子は何ものなのでしょう
あなたが顧みてくださるとは。
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものをすべて治めるように
その足もとに置かれました。


 ここに「栄光と威光を冠として」いただいた王としての人間が描かれます。私たちは神に似せて造られたが故に、神の被造物を治める王の役割が与えられているのです。しかし、王が王の務めを果たすためには自分をその様な者としてお立てになった神様に対する絶対的信頼がなければなりません。その神様への信仰を生きる人間を神様は必ず祝福し、その使命を果たさせてくださる。そういう信仰の表明として詩編二一編を読むことが出来ると思います。

 受難の王(メシア)

 しかし、王としての人間の姿を教えるだけではなく、いつの日か誕生する「理想の王」を待ち望む思いの中で二一編は読み継がれてきたのだと思います。その場合は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのですか」に始まる二二編も含めて考えるべきなのだと思います。
 この二一編は喜びと賛美に満ちた詩です。その喜びや賛美の源にあるのは、敵する者すべてに「御力」をもって勝利する神様に対する絶対的信頼であり、「慈しみ」よってもたらされる「御救い」です。しかし、二一編に出てくる大事な言葉は、イエス様の受難と復活の物語の中にも出てくる言葉です。今日は主に普段ご一緒に読んでいるルカ福音書との関連を取り上げます。
 たとえば、イエス様が逮捕直前に祈られた祈りの中に、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」とあります。ここに出てくる「わたしの願い」は、二一編の「唇の願い」と同じ言葉です。しかし、その「願い」に応えて神様が授けてくださる王冠は、二一編では「黄金の王冠」ですが、イエス様が授けられたのは「茨の冠」です。
 イエス様の「願い」は杯を取りのけていただくこと、つまり、十字架の上で殺されるのではなく、「生涯の日々を世々限りなく加えられる」ことでした。しかし、神様の願いは、イエス様が十字架を王座としてそこで「ユダヤ人の王」として「茨の冠」を被せられて死ぬことでした。そして、イエス様は究極的には神様の願いの実現をお求めになったのです。その願いの実現のためにこそ立てられた王であるという自覚がイエス様にはあったからです。

 「慈しみ」の姿

 先ほど、「いと高き神の慈しみ」の中の「慈しみ」がルカ福音書の一章に出てくることを言いました。主イエスの誕生を喜び、神を賛美するマリアの賛歌、ザカリアの賛歌に「主の憐れみ」として二回づつ出てくるのです。
 それに先立つマリアへの受胎告知にはこういう言葉があります。

「その子をイエスと名づけなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」

 つまり、詩編二一編で約束されている王による永遠の支配は、いと高き方の子イエス(「主は救い」という意味)によってもたらされると天使ガブリエルは言っているのです。
 この「イエス」は十字架に磔にされ、茨の冠を被せられながら、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られました。罪人の罪が赦されること、それこそがこの方の「心の望み」「唇の願い」であり、この方を王としてお立てになったいと高き神の願い、望みなのです。その神様の願い、望みを果たす。それが神様に立てられた「王」の使命です。そして、その使命が貫徹される時、この王の下に生きている民に救いがもたらされるのです。
 イエス様はその救いを民に与えるために十字架を王座とされたのです。神様に「見捨てられる」ことによって、その王座につかれたのです。しかし、神様はそのイエス様を死人の中から復活させられました。十字架の王こそ復活の主であり、全能の神の右の座に座るキリスト(メシア・王)なのです。
 その復活の主イエスは、イエス様の死によって絶望していた弟子たちに向かってこう言われました。

「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
「モーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。」


 イエス様の十字架の死と復活、そこに神様の「御力」「御救い」が完全な形で現れているのです。そして、そこに主の「慈しみ」「憐れみ」があるのです。それは罪と死という圧倒的な力に対する勝利です。神様は、ご自身がお立てになった王(メシア)を通して、私たちを滅ぼしてしまう敵、罪と死に対して完全に勝利してくださったのです。神様は、この王を祝福し、栄光を与え、永遠の支配を与えられました。そして、同時に、この王を通して、すべての民を祝福し、栄光を与え、罪の赦しと永遠の命を与えてくださっているのです。私たちはそのことを信じる神の国の住民です。だからこそ、私たちはイエス様が死人の中から甦らされた日曜日に、主の御力と御救いを喜び、称える礼拝を毎週捧げているのです。

 神の国の王

 私たちはこれから聖餐の食卓を囲みます。この食卓の主は、罪と死という敵に勝利された主イエス・キリストです。私たちはこの聖餐に与る度に、契約を決して破らない主の慈しみに触れるのです。私たちがどれほど罪を犯しても、その罪をご自身の命を犠牲にして赦してくださる主イエスの憐れみに触れるのです。私たちが依り頼む方はただこの方です。この方だけが、私たちに罪と死に対する勝利である救いを与えてくださるメシア、王なのです。
 重い病を初め、様々な危機が襲ってくる時、私たちはしばしば森の木々が揺らぐように動揺してしまうことがあります。そこに私たちと神様とを引き離そうとする罪の力があります。しかし、どんな時も、たとえ神に見捨てられたと思う他にない時も、私たちのために生まれたインマヌエル・キリストが私たちと共にいてくださり、私たちを神の国の食卓に招いてくださっている。そのことを堅く信じ、ただ主イエス・キリストにのみ依り頼み、その慈しみに支えられて揺らぐことなく歩めますように祈ります。

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