「わたしの羊飼い」

及川 信

       詩編 23編 1節〜6節
23:1 【賛歌。ダビデの詩。】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。
主は御名にふさわしく
わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも
わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。

 「わたしの羊飼い」


 今日は詩編23編の御言葉に聴きます。22編は来年の受難節に何回かにわけてご一緒に読みたいと思っています。
 詩編23編、これは多くの方が愛唱する詩だと思います。新共同訳聖書で暗唱する方よりは、かつての文語訳とか口語訳で暗唱する方が多いのではないでしょうか。
 文語訳聖書ではこうなっています。

エホバはわが牧者なり 我乏しきことあらじ
エホバは我を緑の野に伏させ、いこひのみぎはにともなひたまふ

 口語訳聖書ではこうです。
主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。

 残念なのは、私たちが今礼拝で用いている新共同訳聖書では「主は羊飼い」となっていて、「わが牧者」とか「わたしの牧者」ではなくなっていることです。原文にはちゃんと「わたしの」が入っているのに、どうしてこうなってしまったのか分かりません。客観的に、「主は羊飼いだ」と言うのと、「私の羊飼いだ」と言うのとでは意味合いがまったく異なります。ここはやはり「私の牧者」「私の羊飼い」と読んでおきたいと思います。
 旧約聖書では「羊飼い」は民を導き養う王の比喩としても出てきます。実際には、民を弾圧したり搾取したりする王の方が多いが故に、主なる神が王として支配してくださることを待ち望み、それがメシア待望に繋がるのです。

 羊

 また、羊は一匹で生きる動物ではなく群れとして生きるものです。彼らは、「青草の原」「水のほとり」に連れて行ってくれる羊飼いがいなければ死んでしまいます。また、群れからはぐれてしまうと自分で牧草地や泉を捜すことができないので、飢えと渇きによって死ぬか、肉食動物の餌食になってしまう。そういう愚かで弱い存在が羊なのです。
 この詩の4節までは、明らかに羊飼いと羊の比喩で神と人との関係を語っています。この詩に出てくる「わたし」は個人でありつつ群れの一員です。私たちも一人のキリスト者ですが、同時に中渋谷教会という信徒の群れの一員です。この詩においては、人間全般が羊と考えられているわけではありません。もちろん、すべての人がこの群れの中に入ることが願われていると言っても良いでしょう。でも、少なくともこの詩の中では、神を信じる群れの一人が、神様を「わたしの羊飼い」として信頼し、従っていく所にある深い平安とか喜びが語られていると思います。

 主人の守り

   しかし、後半の5節6節は羊飼いの比喩ではありません。ここには、敵に追われた者が他人の天幕に逃げ込み、その天幕の主人に歓待され、敵から守られるという風習が背後にあると言われます。今でも中東の部族社会の中では、一旦家に招き入れた客人は何が何でも守るという風習があるそうです。追いかけてきた人々は、最早手出しができない。手出しをすることは、その家の主人を敵に回すことになるからです。

 信頼の詩

 この詩においては、前半と後半で比喩は異なっても、「この方についていけば安心だ」「この方が共にいてくだされば安心だ」という信頼を神様に向けて語っている点で一貫しています。しかし、こういう強い信頼を私たちが簡単に持つことができるのかと言えば、そんなことはないでしょう。空腹とか渇きによる苦しみ、「死の陰の谷を歩く」と言わざるを得ないような絶望的な経験、また「苦しめる者」に追い詰められて命からがら他人の天幕に逃げ込む経験、そういう深刻な人生経験がこの詩の背後にはあります。
 「あなたの鞭」「あなたの杖」とは、羊に襲いかかる外敵と命懸けで戦う羊飼いが持っているものです。自分のために命を懸けてくださる羊飼いがいる。その方が「わたしの羊飼い」として「わたしと共にいてくださる」が故に安心であると、彼は言っています。それは、この羊飼いがいなければ自分は死んでしまう、死んでいるということでもあります。
 また、自分を苦しめるために追いかけて来た者を前にして悠然と食卓を整えてくださり、頭に香油を塗り、杯を満たして歓迎をしてくださる方がいる。その方がいなければ、自分は敵に捕まって滅ぼされてしまう。この方が一緒にいて、味方となってくださることによって、初めて自分は生きることが出来る。だから、自分は生きている限り「主の家に帰り」そこに留まり続けると言っているのです。
 つまり、青草の原、水のほとり以外の場所は命にとって危険に満ちた場所であり、主の家の外もまた危険に満ちた場所なのです。「青草の原」「水のほとり」「主の家」「食卓」において初めて魂は生き返るのです。そして、「恵みと慈しみ」は、敵が追いかけてくる以上に私たちを追いかけ、主の家に連れ帰してくださるのです。私たちが今、この礼拝堂にいることが出来るのもその「恵みと慈しみ」の故なのです。

 礼拝

 こういうことを合わせて考えていくと「青草の原」「水のほとり」「食卓」「主の家」とは、私たちが今も群れとして集っている教会の礼拝そのものであることが明らかだと思います。ここで私たちの魂は命の糧を受けて生き返るのだし、最大限の歓待を受けつつ守られるのです。いかなる敵が襲い掛かってこようとも私たちの羊飼いが命懸けで戦ってくださるのだし、この家の主人が私たちの命にとって必要な糧を与えてくださるからです。その糧が与えられなければ、私たちはその最も深い所で死んでしまう、いや死んでいるのです。そこで言う「死」は、ただ肉体の死のことではありません。魂の死です。人間には魂があり、それが死んでいれば肉体は生きていても人としては死んでいるのです。

 魂の渇き

 私は詩編23編を読みつつ42編の言葉を思い起こしました。そこでは鹿の比喩が用いられています。

「涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。
いつ御前に出て
神の顔を仰ぐことができるのか。
昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。
人は絶え間なく言う
『お前の神はどこにいる』と。」

 喉が渇いて今にも死にそうな鹿に自らを譬えたこの詩の作者は、かつては多くの人々と共に神殿の礼拝に集い、喜びと感謝の賛美を神様に捧げていた人なのです。しかし、何があったか分かりませんが、今は群れから離れ、神の御顔を仰ぐ礼拝にも行けないのです。彼はこの後、繰り返しこう言います。

「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ
なぜ呻くのか。
神を待ち望め。
わたしはなお、告白しよう
『御顔こそ、わたしの救い』と。
わたしの神よ。」

 作者は、「お前の神はどこにいる」という人々の言葉に深く傷ついています。でも、それは彼自身が神を見失い、神がどこにおられるのか分からなくなっているからです。御顔を仰ぎ見ることができなくなっているのです。その絶望をさらに深めさせるのが「お前の神はどこにいる。お前を助けてくれる神はいるのか」という声です。その時、その人の魂は渇きます。「命の神」が命の水をくださらなければ、そして御顔を仰ぐことを許してくださらねば、その魂は渇きによって死ぬ。そういう切実な渇望感が詩編23編の背景にもあるのだと思います。
 ここにおられる多くの方が、そういう渇望感を抱いたことがあったり、今も抱くことがあるからこそ、今日もこの礼拝堂に来られたのだと思います。この礼拝堂で捧げられる礼拝において、私たちは青草を食み、また命の水を飲み、備えられた食卓に与り、「恵みと慈しみ」を存分に頂いて、まさに魂が生き返る経験をするからです。その礼拝が週に一回、週の初めの日になければ、「荒野」とも言うべきこの世の中に、また死の陰を通らざるを得ないこともある人生に、日々苦しめる者が追い迫ってくることもある社会に、勇気と望みをもって出て行くことが出来ないからです。だから皆さんは、この暑い夏も毎週せっせと礼拝に来られたのではないでしょうか。

 HSさん

 詩編23編を読むと、私は2008年の2月に90歳で天に召されたHSさんを思い出します。HSさんはミッションスクールに通っていた女学生時代に宣教師から詩編23編を教わり、文語訳でも英訳でも暗唱できる方でした。病院で亡くなる数日前に、「お好きな聖書の言葉は何でしたっけ?」とお尋ねすると、最初「詩編21編」と言われました。私が怪訝な顔をすると、HSさんも少し考えてから、いきなり「Lord is my shepherd」とおっしゃったのです。私に提出してくださった「私の信仰と生活」の愛唱聖句の欄には、大きな字で「エホバは我が牧者なり、我乏しきことあらじ」と書いておられます。
 HSさんは亡くなる数ヶ月前に「わたしはもう駄目なの」とおっしゃって、死を覚悟し受け入れておられました。その「もう駄目なの」は、「肉体はこれ以上もたないの」という意味であって、魂がもう力尽きているという意味ではありませんでした。日に日に肉体の衰えを感じ、病がその肉体を蝕む現実を体感しつつ、なにか達観しているというか、悠然としておられました。
 亡くなる一月半ほど前に、共に聖餐の食卓に与ることはこれが最後だろうと思ってご自宅を訪問し、聖餐礼拝を守りました。その年の4月に信仰告白をして中渋谷教会の群れに加わった長女のANさんも同席されました。その日の夜、HSさんは、私にメールをくださいました。そこにはこう書かれていました。

「本日はお忙しい中を私の為にはるばるお越しくださいまして有難うございました。また聖餐式を受けさせていただきまして、心洗われるようでございました。本当に久しぶりの聖餐式でございました。また色々なお話を承りありがたいことでした。ちょうど娘のANも一緒に与れて幸いでございました。まだ当分教会に伺えませんがなにとぞ宜しくお導き下さいませ、先生もお体をお大事に私たちの中渋谷教会のためにお導きくださいませ。本日は本当に有難うございました。」

 このメールを読みつつ私の心に浮かんだ言葉は、文語訳の23編5節以下の言葉です。

なんぢ我が仇の前に我がために宴をもうけ
わが首(かしら)に油を注ぎたまう
我が杯はあふるるなり
わが世にあらん限りは必ず恵みと憐れみと我にそいきたらん
我はとこしえにエホバの宮に住まん

 毎週きつい坂を上ってこの教会の礼拝に集っていた方が、その礼拝に集えなくなる。それは、本当に辛いことだと思います。この礼拝を通して、主の命の言葉、命のパンと杯を頂いて魂が生き返る経験をしていたのですから。その礼拝に集うことができない。それは辛く寂しいことだと思います。そして、日々、肉体の衰えと病の進行をその身に感じるとき、人には見せずとも、また口にせずとも、深い孤独の悲しみを感じないはずはないと思います。
 人はたとえ誰かが近くに生きていたとしても、やはり独りの人生を生きているのです。家族であっても共に生き、共に死ぬわけではありません。死の陰の谷は独りで歩くしかありません。私たちは誰も付き添えないし、誰もその死に打ち勝つことはできないのです。ただ、主イエスだけがそのことができるお方なのですから。

 神が共にいます

 先日、NMさんの父上であり、伝道者として生涯を生きられた太田実牧師のご葬儀がこの礼拝堂で執り行われました。私は司式をさせていただき、説教は父上が隠退後に出席しておられた橋本教会の須田拓先生が語ってくださいました。太田牧師は隠退後も家庭集会などで御奉仕をされていたようですが、ある家庭集会の奉仕に向かう途中で脳梗塞に倒れ、9年余りの闘病の果てに召されました。太田牧師は青山学院神学部を卒業された方です。青山学院は教派としてはメソジスト教会の流れを汲み、メソジスト教会の創始者はジョン・ウエスレーです。葬儀説教の中でそのウエスレーの臨終の言葉が太田牧師の生涯に重ねるようにして紹介されていました。それは、「最も善いことは、神が共にいますことだ」という言葉です。
 ウエスレーは様々な困難や挫折を経験しつつ生涯伝道に生きた人です。その伝道の生涯を終える時、「神が共にいますこと」を感じとり、それを最善最上の「恵みと慈しみ」として感謝することができたのです。それは真に幸いなことです。主が「私の羊飼い」であることを、また「主の家」の主人であることを確信し、自分はその群れの羊であり、迎え入れられた客人であることを喜び、安んじることができたからです。また、主が自分を滅ぼそうとする敵と命懸けで戦って勝利し、食卓を通して魂を生き返らせてくださることを確信して賛美を捧げることができたからです。他の誰も付き添うことも、共にすることもできない道行きを、ただ主イエスだけが共にしてくださり、死の陰の谷を越えて復活の光が輝く御国へと導いてくださることを確信し、賛美を捧げることができたからです。そのことに勝る幸いはありません。

 良い羊飼い

 私たちキリスト者は、それぞれ愛唱する聖書の言葉があるだろうと思います。でも、私の母は何度聞いても「そうね〜、みんな好きだから特にはないわ」と言います。それはそれで悪いことではないと思いますが、故人に相応しい葬儀説教をしたいと願う牧師にとっては困ったことです。
 私は愛唱する聖句がいくつかあります。しかし、私がキリスト者になるための決定的な言葉は、ヨハネ福音書10章に記されている主イエスの言葉です。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。・・・わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」

 この言葉を読んだ時の衝撃を忘れることはありませんし、今もこの言葉を読むたびに心が震え、また痛みます。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

 主イエスが「私の羊飼い」になるためにご自分の命を捨てた。これは衝撃的なことです。
 主イエスはおっしゃった言葉をそのまま実行されます。「言葉だけ」ということが一切ないのです。主イエスが「命を捨てる」とおっしゃれば必ずそうなる。そのこと自体に私は衝撃を受けます。私たちが自分の言葉に命を懸けるなんてことは滅多にないからです。命が懸かれば、私たちは幾らでも言葉を撤回するし、言わなかったことにします。でも、主イエスは違う。言葉に命を懸ける。
 そして、なぜ主イエスがご自分の羊のために命を捨てるのか。捨てなければならないのか。それは、そうしなければ羊の魂が滅びるからです。そのことに主イエスが耐えられないからです。なぜ耐えられないか。羊飼いは一匹一匹の羊を愛しているからです。羊を愛している羊飼いは、羊の魂が飢えと渇きの中で滅びることを黙って見てはいられないし、まして襲い掛かってくる狼に捕まって食い殺されてしまうことを見てはいられないのです。
 愛してしまうとは恐ろしいことです。しかし、愛されてしまうこともやはり恐ろしいことです。この方の命を捨てる愛を受け入れることは、自分の命を捨てて愛することに繋がらざるを得ないのですから。でも、その愛の交わりの中でしか、魂が生きることはありません。愛の交わりを失った魂は、ただひたすらに渇くだけです。

 不毛と危険に満ちた世

 空しい言葉が満ち溢れるこの世は不毛の荒地です。私たちは毎日毎日、テレビや新聞を通して、自己保身に汲々としているその場限りの言葉を聞いています。愛などどこにもない言葉を聞いています。そして、気がつけば私たちも同じ言葉を使っているのです。そういうこの世の生活の中で、聖書に記された神の言葉を目にし、耳を傾けることがないならば、そして言葉は即行動であり存在であるというお方に出会わなければ、私たちの魂は渇いていくしかありません。ただただ渇いていくのです。表面的には何不自由なく暮らしていても、真実に自分を愛してくださる方と出会い、その方の言葉を聴き、そしてその方を愛して生きることがないとすれば、それは不毛の大地を独りさ迷う羊や鹿と同じです。そのままでは滅びることが見えているのです。私たちには見えなくても、主イエスには見えている。そして、主イエスはただ見ているのではなく、鞭と杖を持って私たちと共にいてくださるのだし、私たちのために戦ってくださるのだし、勝利の食卓を用意してくださるのです。私たちの魂が生きるためにです。

 正しい道

 3節に、「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」とあります。これは大事な言葉だと思います。私たちの多くは、4節の「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」という言葉に慰めを受けていると思います。如何なる時も主は共にいてくださる。死の時も主は共にいてくださる。そこに「恵みと慈しみ」がある。そう解釈している。確かにそれはそれとして正しい解釈だと思います。しかし、3節を読み落としてはならないことも確かなことです。
 ここで私たちが誤解してはならないことがあります。私たちが悪しき道をまっしぐらに突き進んでいる時に、主イエスがその道を共にしてくださるわけではないのです。悪しき道ほどではないにしても、神様の御顔を仰ぎ、その言葉を聴くことを求めることなく、この世の富や名誉を求めて歩んでいたり、自己中心、自己保身の道を歩んでいる時に、主イエスは「そうかい、そうかい、お前がその道を歩みたいなら、私はどこまでも付き合うよ。私はいつでもお前と一緒にいるのだから」と言ってくださるわけではありません。主イエスは、私たちと共に滅びるために命を捨てる訳ではないのです。そういう甘ったれた感じで、「あなたがわたしと共にいてくださる」という言葉を受け止めるとすれば、それは大きな誤解です。
 主イエスは、ご自身の命を懸けて、私たちを正しい道に導いてくださることにおいて私たちの羊飼いであり、主なのです。その羊飼いとして、イエス様はご自分の命を捨てなければならなかったのです。
 何故か?私たちがそのまま歩み続ければ滅びるほかにない罪人だからです。正しい道から離れ、神様からどんどん離れて行ってしまう愚かな羊だからです。自分で命の源から離れ、人はパンだけで生きることが出来るという錯覚に陥り、実は飢えに苦しみ、飲めば飲むほど渇く水をがぶがぶ飲む。そういう罪に支配されている私たちを正しい道に導くために、神の御顔を拝することができる人間とするために、主イエスは命を捨ててくださったのです。

 我渇く

 ヨハネ福音書の十字架の場面は独特です。

「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」

 そして、十字架の下にいた兵士の一人が槍でイエス様のわき腹を刺すと、「すぐ血と水とが流れ出た」とあります。
 「渇く」とは、命の水を知らぬ者たちの現実、罪人の現実です。意識していようといまいと、主イエスの愛を知らぬ時、私たちは渇いているのだし脱水状態なのです。そういう罪人を愛する主イエスは十字架の上で究極的な渇きを味わい、罪人の罪が赦されるための贖いの血を流してくださったのです。罪は裁きを通して赦されるのだし、裁きを通してこそ罪人は義とされるからです。この主イエスの十字架を経ないで私たち罪人は神様の御前に立ち、その御顔を拝することは出来ません。そして、それが出来ないとすれば私たちには命がないのです。私たちは神様の御前に立つ者として創造されたのですから。罪はその命を失わせるものです。罪こそ、私たちにとって最大の敵です。その罪に対する裁きを、主イエスが受けてくださった。そして、勝利してくださった。そのことを信じる。人はただその時に義とされるのです。神様に向かって命の道を歩み始めることが出来るのです。主イエスは、ご自身の十字架の死を通して、私たちをその正しい道に導いてくださっているのです。

 水

 ヨハネ福音書において「水」はまさに命の象徴であり、聖霊の象徴です。主イエスの十字架の中に私たちを生かす正しい道があると信じた者は聖霊と水による洗礼を受けます。古き罪に死に、神を愛し信じるキリスト者として新たに誕生するのです。主イエスの羊となるのです。主イエスを知る羊の群れの一員になるのです。

 聖餐

 その羊たちの魂を生かす糧は御言葉と聖餐です。食物は私たちの体を養います。しかし、主の言葉と主が備えてくださる聖餐の食卓は、私たちの命を養うのです。
 今日は一ヶ月ぶりに聖餐の食卓に与ることが出来ます。私にとっては非常に待ち遠しい日曜日でした。御言葉と聖餐は私たちに無くてはならないもの、欠けてはならないものです。この食卓に信仰をもって与る時、私たちの罪は主イエスの血によって清められ、魂が生き返り、主イエスの復活を通して与えられた命は「永遠の命」であることを知らされ、天の御国に向かって正しい道を歩んでいける希望に満たされます。
 主イエスはこうおっしゃいました。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

 私たちのために命を捨て、罪と死に対して完全な勝利をし、私たちのために復活し、新しい命を与えてくださったイエス様を「私の羊飼い」と信じる。それだけで十分です。そこに何の欠けもありません。この信仰がないままに何を持っていても、永遠の命と復活のためには何の意味もありません。欠けだらけです。ただこの方を信じ、この方の言葉を聴いて従っていく。いつも新たに「主の家」である礼拝に「帰り」「恵みと慈しみ」に満たされて、主を賛美する。そのことを主は喜んでくださいます。私たちにとっても、これ以上の喜びはないのです。 。

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