「栄光に輝く王が来られる」

及川 信

       詩編 24編 1節〜10節
24:1 【ダビデの詩。賛歌。】
地とそこに満ちるもの
世界とそこに住むものは、主のもの。
24:2 主は、大海の上に地の基を置き
潮の流れの上に世界を築かれた。
24:3 どのような人が、主の山に上り
聖所に立つことができるのか。
24:4 それは、潔白な手と清い心をもつ人。
むなしいものに魂を奪われることなく
欺くものによって誓うことをしない人。
24:5 主はそのような人を祝福し
救いの神は恵みをお与えになる。
24:6 それは主を求める人
ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。
24:7 城門よ、頭を上げよ
とこしえの門よ、身を起こせ。
栄光に輝く王が来られる。
24:8 栄光に輝く王とは誰か。
強く雄々しい主、雄々しく戦われる主。>br> 24:9 城門よ、頭を上げよ
とこしえの門よ、身を起こせ。
栄光に輝く王が来られる。
24:10 栄光に輝く王とは誰か。
万軍の主、主こそ栄光に輝く王。

 解釈される文書

 9月末から毎週金曜日に青山学院の3年生に講義をしています。私は飽きることなく創世記の天地創造から語り始め、毎回、授業の感想レポートを書いてもらっています。二コマで二百人を優に越える学生のレポートを全部読むのは大変です。でも、次週にいくつかの質問をプリントにして学生たちに配り、私が考えていることを語るようにしています。
 その問いの中にはこういうものがあります。「イエスとは神なのか人なのか?」「イエスを完全に理解することは不可能なのか?」「初めに神が天地を造られたとして、その神はいつ誕生したのか?」「人間が神を作り出しているのではないか?」いずれももっている知識で答えられる問いではなく信仰の本質に関わる問いですから、短い時間でそれなりの説得性をもって応答することは簡単ではありません。
 ある学生は、質問というよりも自分の意見としてこういうことを書いてくれました。

「聖書はただ受身で受け止めても無意味であり、自ら積極的に問いつつその中身に迫っていき、自分で解釈せねばならない。そして、古来、名作と呼ばれるものは、読者たちの解釈という衣をまとっているものだ。」

 この意見に関しては深い同意を表明しました。同時に、聖書そのものの中に解釈の層があることを語りました。

 聖書は旧約聖書(続編を含めば)だけでも千年くらいかけて書かれ続けて来た文書の集積です。それは、その長い期間に亘って読まれ続けてきた書物だということでもあります。「千年」は、神様にしてみれば瞬きするような時間かもしれませんが、人間にとってはとんでもなく長い年月です。その間のイスラエルの民の歴史は、遊牧民時代、奴隷時代、荒野放浪、カナンの地への定着から王国時代、滅亡、捕囚、解放、ユダヤ教団の成立、新たな外国による支配とそれに対する激しい抵抗などがあります。
 そういう歴史経験の中で、神の啓示を受けた人々は天地創造から終末に向かう世界について考え、人間について考え、国家、歴史、自然、人間の生と死、天国と陰府、救いと滅びに関して考え続けてきたのです。先に書かれた文書はいつも新たに読み直され、解釈され、ある時期までは修正付加されました。聖書は、それ自身の中に既に解釈の歴史があるのです。思考の層が幾重にもありますから、表面だけ見て意味が分かったと思うことはやはり危険なことです。かと言って、いわゆる聖書の専門家と呼ばれる人が聖書をよく分かっているかと言えば、主イエスの時代の律法学者を見るまでもなく、専門家はその狭い世界の中でいじくり回しているだけということもあります。
 私自身は長い人生経験の中で信仰を生きてこられた方をお訪ねして、その方の前で聖書を読んで奨励をする時や祈る時に、聖書の奥深い世界を垣間見させていただけることがしばしばあります。「ああ、そういうことだったんだ!」と閃くというか、分からされることがある。これはいつも不思議な喜ばしい体験ですが、牧師に与えられた大きな恵みだと思っています。

 24編の構造

 今日、私たちに与えられた詩編24編も神の民イスラエルの中で、またキリスト教会の中で読まれ続け、解釈され続けてきた詩の一つです。  この詩の成り立ちについては議論があります。私としては、1節2節では世界は創造主のものであることが高らかに宣言され、3節から6節では、主の山、即ちエルサレム神殿で礼拝する者はどういう者たちであるかが語られ、7節から10節は栄光に輝く王としての万軍の主がエルサレム神殿に入場する様が描かれているという説に立っておこうと思います。何らかの宗教的儀式が背景にあるでしょうが、その具体的内容は分からないことです。
 この詩の歴史的な背景が何であれ、この詩には三つの部分があり、そのいずれもが礼拝に関するものである。それは確かなことだと思います。そのことを巡って、少し自由に思うところを語ることから、この詩の世界に入っていきたいと思うのです。

 不安

 私たちが日頃感じているものの中に「不安」があると思います。昨年の3月11日以来、大地は揺らぎ、海の水が襲い掛かってくることを私たちは痛切に知らされました。人間が作り出した放射能による汚染がいつまで、またどこまで広がっていくのか分からないという不安もあります。原発に関する政策は揺れに揺れていますし、政局も一向に安定しません。領土問題も揺さぶられています。経済不況もあり社会保障制度もどうなっていくのか分かりません。様々な危機に備えようにも「これで完璧、何も心配はない」という備えがあるはずもありません。いつ何時、地震や津波が起こり、原発の事故が起こるか分からず、また交通事故に遭うかも知れず、事件に巻き込まれるかもしれません。また、自分が気付いていないだけで重大な病を身に帯びているかもしれない。不安を抱かざるを得ない要素は数え上げればきりがないのです。
 そういう不安は現代人だけが抱くものではありません。人間が抱えている根源的な不安なのだと思います。その人間とはどういう人間かと言えば、天地の造り主なる神様との繋がりを失った人間です。それは、別の言い方をすれば自立した人間であり、自分の人生を、あるいは命を自分のものと思っている人間です。それは人間だけが持ち得る感覚であり、人間が人間であることのしるしであると言っても良いのだろうと思います。
 子どもの時に広大無辺な宇宙の中でぽつんと孤独に生きている自分を感じて、頭の中がくらくらして寝付けないということがありますし、大人になってもそういう現実が少しも変らずに存在することもあります。何も考えていないような素振りで生きているように見えても、何も考えない人はいないだろうと思います。

 大地は主のもの

 24編を書いた人もそういう根源的な不安を心に抱いている、あるいは抱いたことがある人だと思います。
 彼は、冒頭でこう言うのです。直訳風に訳します。

「大地は主のもの
 それに満ちるものも
 世界に住むものらも。」

 冒頭に「大地は主のものである」という宣言があります。そのことを確認して大声で叫ぶ、あるいは賛美できないと、彼は確固とした足場を持って立つことが出来ないのだと思います。
 幼い子どもが何かの拍子に不安に襲われた時、父親や母親にしがみついて、「僕はお父さんお母さんの子だよね。お父さんお母さんは僕の親だよね」と泣きついた時、親が「そうだよ。何も心配しなくていいよ。私はここにいるし、お前を守ってやるから」と言ってくれれば、子どもは深く安心しさらにきつく抱きしめて「大好き」と言うでしょう。それは、幼子の賛美です。
 幼い子にとって親は圧倒的な存在です。しかし、人間の場合は、時にその親自身が不安定であり、さらに悪い場合は親であることを拒否していますから、そこに悲劇が生じることがしばしばあります。
 しかし、誰であっても命の源は創造主なる神様なのです。その神様と出会い、その御腕に抱きしめられるか否かが人生を決定すると言って良いだろうと思います。

 大海の上に

「主は、大海の上に地の基を置き
 潮の流れの上に世界を築かれた。」

 「大海」
とか「潮の流れ」とは、人間の力ではどうしようもない混沌の力を表わします。海の水が襲い掛かってくれば、人間は勿論のこと人間が作ったどんな立派な建物もひとたまりもないことを、私たちは深刻に知らされています。大河の辺に栄えた古代文明の多くは、洪水によってしばしば壊滅的な打撃を受けました。大地も世界もいつでも転覆してしまう不安定さがあるのです。唯一の超大国がいつしか衰退して新興国に圧倒される。賑やかな町並みは一瞬にして廃墟になる。私たちはそういう大地、世界の中で明日をも知れぬ人生を生きている。それは事実です。普段意識しようがしまいが事実は事実です。その事実に目を留めて不安に襲われつつ、この詩の作者は更に根源的な事実を知らされていきました。
 それは、「大海の上」「潮の流れの上」に、地の基を置き、世界を築いておられるのは主であるということです。そして、その主の守りの中に自分は生かされている。すべてのものは生かされている。その事実に、彼は目を開かれたのです。その時、人は主を賛美せざるを得ないのです。1節2節の言葉は、不安の只中に置かれた人間が主を発見した喜びに溢れる賛美の言葉なのです。
 私たちも礼拝の前半に讃詠を歌います。それは「昔いまし、今いまし、永久にいます主」を称える賛美です。その方と出会えた喜びを感謝し、賛美する。礼拝は賛美に始まり賛美に終わるのです。

 被造物の賛美

 私は、アウグスティヌスという人が書いた『告白』という本の冒頭部分が大好きでしばしば思い起こします。彼はそこでこう書いているのです。

「主よ、あなたは偉大です。・・・人間はあなたの被造物のわずかな一部として、あなたを賛美しようと求めています。喜んで賛美せずにはいられぬように私たちを駆り立てるのはあなたです。あなたは、私たちをご自分へ向けてお造りになりました。だから、私たちの心はあなたの内に憩うまで安らぐことが出来ないのです。主よ、どうか私に教え、理解させてください。あなたを呼び求めることと賛美すること、いずれが先なのでしょうか。しかし、知らずして誰があなたを呼び求めるでしょうか。」

 子が生みの親に自分の存在の根拠と支えを求めるように、被造物は創造主との出会いを求めます。そして、創造主と出会った時、被造物は賛美せざるを得ないのです。被造物である私たちは元来、創造主に向けて造られているからです。
 私たちの人間関係においても、お互いが顔と顔を見合わせ、きちんと対面して言葉を聞き合うことが出来る時は嬉しいものです。まして、私たちが命の源である方と出会い、御顔を拝し、その御声を聞くことが出来る時は命そのものが喜びます。その喜びが賛美となって現れるのは当然です。そして、その時、神様もまた喜んでくださるでしょう。

 主を呼び求める人

 アウグスティヌスの本はこの賛美から始まりますが、その内容は『告白』という書名からも分かるように、彼自身の迷いに満ちた人生の遍歴です。創造主に出会うまでの長い長い快楽と苦悩に満ちた歩みが記されています。神と正面から向き合うことをしない、あるいは出来ない罪に陥った人間は、それが迷いであることも分からずに迷うしかありません。迷子は気がつくまで自分が迷子であることも分かっていないのですから。
 アウグスティヌスは呼び求めることと賛美することのいずれが先なのかと問い、知らずして呼び求めることがあろうかと言っています。主を呼び求めるのは主を知っているから、いや知らされたからです。
 今日からの3ヶ月間、私は礼拝招詞に詩編24編を選びました。

「どのような人が、主の山に上り聖所に立つことが出来るのか。
それは主を求める人、ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。」

 聖所に立つ人とは神を礼拝する人ということです。礼拝者とは、一途な心をもって「主を求め」、その「御顔を尋ね求めて」生きる人なのです。具体的な行動基準のすべてをクリアした人という意味ではありません。もし、そうであれば誰も聖所には立てません。
 5節には、
「主はそのような人を祝福し
 救いの神は恵みをお与えになる」
とあります。
 口語訳聖書では、
「このような人は主から祝福をうけ、その救いの神から義をうける」となっています。
 受身形の方が原文に近く、「恵み」は通常「義」と訳される言葉ですし、その方が良いと私は思います。「救いの神」から「義」を受けることを求める人のことなのです。何故、「祝福」「義」を求めるのかと言えば、神様から離れて「呪い」「罪」の中に落ちてしまうからです。その都度、混沌の渦に呑み込まれ、孤独の闇に閉じ込められてしまう。私たちは、そういうことを繰り返してしまう愚かな罪人です。それも事実です。
 「祝福」を与えられるとは豊かに生かされることだし、それは神様からの肯定でもあります。創世記1章では、神様はお造りになった一つ一つのものを「よし」とし、動物や人間を祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言ってくださいました。この「祝福」を主に求める。それが主を知る者の礼拝です。
 そして、「義」を求める。それも私たちが罪に落ちるからです。迷うからです。「義」が与えられるとは詩編23編にあるように,b>「正しい道に導かれる」ことだし、それは罪を赦されることです。神様は、愛する者が迷っていること、罪に落ちていることに心を痛めておられます。そして、立ち帰るのを待っているし、またそのように働きかけてくださっているのです。
 そのように私たちを愛してくださる主なる神様は天地の造り主、創造主であると同時に「救いの神」です。呪いと罪に落ちた人間が、不安に呑み込まれながら主を呼び求める時、その悔い改めと信仰の叫びに必ず応えてくださるからです。祝福し、義を与えてくださるのです。礼拝で起こることはそういうことです。私たちは、この礼拝において御言葉を「学んで」いるのではありません。神様を「礼拝して」いるのです。

 入堂

 7節以下のやり取りは、「栄光に輝く王」としての神がいよいよ聖所に入るから門を開けよと誰かが言う。門の中にいる人が「栄光に輝く王とは誰か」と問い返す。すると、「強く雄々しい主、雄々しく戦われる主」とか「万軍の主、主こそ栄光に輝く王」という返答が来るのです。その上で、聖所の門が開かれ、神が入場する。具体的なことは分かりませんが、イメージとしてはそういうことでしょう。
 私は時折、他の教会に招かれて礼拝で説教し午後に講演をさせて頂くことがあります。その都度、新鮮な体験をします。
 中渋谷教会では、礼拝が始まる十分前に司式者、奏楽者、説教者が講壇の後ろで準備祈祷をしてから講壇の上に座って礼拝の開始を静かに待ちます。この沈黙の時間は非常に大切です。この時に礼拝堂がざわざわしているようではどうしようもありません。そして、定刻になったら奏楽によって礼拝が始まります。私がこれまで出席した教会は皆そうでした。
 しかし、キリスト教会の伝統としてはそういう形の方が珍しいと言うべきだろうと思います。カトリック教会では礼拝は祭司が礼拝堂に入ってくる入堂の儀式から始まります。先頭に十字架を持つ人や聖餐のパンを持つ人がいたりします。プロテスタント教会の中でも、聖餐のパンとぶどう酒を持った長老が先導して牧師が礼拝堂に入ってくるところから礼拝が始まる教会もあります。以前、伺った教会では、定刻になると後ろのドアが開いてガウンを着た牧師が蝋燭をもって礼拝堂に入り、聖餐卓の上においてある蝋燭に火を灯す所から礼拝が始まりました。その日の説教者である私は、その牧師さんの後ろにくっついて入っていくのです。司式者と牧師が前奏の時に入堂する教会が最近は増えてきました。それは日本の教会もキリスト教会の礼拝の伝統を学び始めたからです。
 それはともかく、十字架、聖餐(パンとぶどう酒)、蝋燭などは、いずれも神様が与えてくださる罪の赦し、新しい命、希望の光を意味します。今日の詩編の言葉で言えば、「祝福」「義」を与えてくださる神様を象徴しているのです。その神様が礼拝堂(聖所)に入ってこられる。その神様をお迎えする。礼拝開始において何をするにしても、神様がその礼拝堂に入ってくださらねば、礼拝などしようもありません。

 多様な解釈

 この詩は旧約時代も様々な解釈がなされてきたと思いますが、二千年の教会の歴史の中でも読み継がれてきました。キリストの昇天を記念する礼拝で読まれてきましたし、クリスマスを待ち望むアドベント(待降節)にも読まれます。また、イエス様がエルサレムに入城される棕櫚の主日にも読まれるのです。会堂を神様に捧げる献堂記念礼拝でも読まれます。ある人は、私たちの心の扉を叩いて勝利者として中に入ってきてくださるキリストのイメージを読み取ります。それぞれに意味深いものであると思います。
 この詩に出てくる神様のイメージ自体が多様なのです。天地万物の基礎をすえた創造主は、人々に「祝福」「義」を与える「救いの神」であり、それは「ヤコブの神」「主」(ヤハウェ)です。しかし、その方が「栄光に輝く王」であり「強く雄々しく戦う万軍の主」なのです。創造主、救い主、勝利者であるイスラエルの神がここにはいます。その神は、ご自身を「主」と呼び求める者に「祝福」「義」を与えてくださる神です。別の言い方をすれば、私たちを混沌の闇の中に閉じ込める罪と死に対して戦いを挑み、勝利してくださる「栄光に輝く王」なのです。「この方が私の主である。」そのことを知り、信じ、賛美をもって告白できる。その時、私たちもまたその主の勝利に与るのです。祝福と義を与えられて救われるのです。だから私たちは心から安心し、心から主を賛美するのです。

 RIさん

 先週の月曜日の晩、私たちの群れからRIさんが天に召されていきました。木曜日に葬儀をしました。多くの会員の皆さんが参列してくださいましたこと牧師として感謝致します。
 RIさんは、病で入院をしていたわけではないのです。もちろん89歳なりの弱りはあったのですが、その日の夜までご家族とお話も出来たのです。しかし、最後は心筋梗塞を起こされて突然に召されてしまいました。ご本人にとっても共におられたご家族にとっても、全く予期せぬことでした。突然の別離の悲しみは、これからむしろ深まっていかれるかもしれません。
 しかし、RIさんはキリスト者です。キリスト者とは、常に新たにキリストを通して「祝福」「義」を頂き、御救いに入れられている者です。主の日ごとに礼拝堂に入り、主を知るが故に主を呼び求め、御救いに感謝して賛美しつつ生きる者です。RIさんは恵まれた方で、先月の9日も次女のMさんと共に礼拝に集うことが出来ました。その日の説教は、ペトロがイエス様に向かって「あなたは神のメシア(キリスト)です」と告白した箇所でした。その礼拝を通して、RIさんも新たにイエス様をキリスト(救い主)と告白し、共々に賛美を捧げたのです。

 キリスト賛美

 そのキリストの御業を、パウロはフィリピの信徒への手紙の中でこう言っています。一般に「キリスト賛歌」と呼ばれる箇所です。

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 神様はこのキリストを通して、新たに天上、地上、地下を貫く基を置かれたのです。いかにこの大地が揺らぎ、「大海」「潮の流れ」が襲い掛かって来ても、決して揺らぐことがない基を据えられたのです。私たちを覆い尽くし、呑み込もうとする罪と死に対してキリストはその十字架の死と復活と昇天を通して完全なる勝利を収められたのです。この方の御前にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と告白し、父である神を称える。それが私たちキリスト者の礼拝です。

 勝利の食卓

 私たちはこれから聖餐の食卓に与ります。これまでも何度も語りこれからも何度でも語りますが、この聖餐の食卓は天上の食卓に繋がるものです。天地を貫いて栄光に輝く主となられたイエス・キリストが、今日も私たちに「祝福」と「義」を与えてくださり、罪を赦し、新しい命を与え、復活の希望を新たにしてくださるものだからです。私たちは、この食卓に与ることを通して、十字架と復活と昇天の主イエスの栄光、勝利を賛美するのです。天上の聖徒たちと共にです。
 このパンとぶどう酒を通して、栄光に輝く王であるお方が私たちの礼拝堂に、そして私たちの中に入ってきてくださる。心を開いて迎え入れることが出来ますように。そして、勝利の主を賛美できますように。

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