「主よ、あなたの裁きを望みます」

及川 信

       詩編 26編 1節〜12節
26:1 【ダビデの詩。】
主よ、あなたの裁きを望みます。
わたしは完全な道を歩いてきました。
主に信頼して、よろめいたことはありません。
26:2 主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。
26:3 あなたの慈しみはわたしの目の前にあり
あなたのまことに従って歩き続けています。
26:4 偽る者と共に座らず
欺く者の仲間に入らず
26:5 悪事を謀る者の集いを憎み
主に逆らう者と共に座ることをしません。
26:6 主よ、わたしは手を洗って潔白を示し
あなたの祭壇を廻り
26:7 感謝の歌声を響かせ
驚くべき御業をことごとく語り伝えます。
26:8 主よ、あなたのいます家
あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。
26:9 わたしの魂を罪ある者の魂と共に
わたしの命を流血を犯す者の命と共に
取り上げないでください。
26:10 彼らの手は汚れた行いに馴れ
その右の手には奪った物が満ちています。
26:11 わたしは完全な道を歩きます。
わたしを憐れみ、贖ってください。
26:12 わたしの足はまっすぐな道に立っています。
聖歌隊と共にわたしは主をたたえます。

 主の憐れみ

 昨日、私は福島教会に行って参りました。今、同じ時刻に福島教会で捧げられている伝道礼拝と午後のコンサートの下準備をするためです。この礼拝とコンサートに掛かる費用はすべて皆さんの祈りに基づく支援献金によって支えられています。また、今日の礼拝とコンサートには中渋谷教会から十名の方が参加してくださっていることも感謝です。説教とチェロの演奏をして下さる井上とも子先生やピアノ伴奏をしてくださる菅野万利子さんも、私たちと同じ祈りの輪の中に入り、喜びと感謝をもってご奉仕してくださっています。
 昨年の震災によって会堂を失い、一時期は牧師も失い、打ちひしがれていた福島教会の皆さんが、今、新たな牧師を得て、再び福音説教のために立ち上がり前進しようとしています。しかし、福島市だけでも六千人の方が避難しているのです。福島教会の皆さんは、今日の礼拝とコンサートのチラシを近隣の家のポストに入れて、一人でも多くの方をお招きするための努力をされました。そこで知ったことは何軒もの家が空き家になっていることだそうです。
 福島県は放射線汚染と風評被害によって今後もずっと厳しい状況に置かれることは確実です。しかし、そのような中で、主に叫ぶようにして祈りつつ御国の福音を宣べ伝えていこうとしている方たちがいます。私たちはその方たちを祈りに覚え、共々に主を賛美しつつ歩んで参りたいと願います。
その歩みを支えるのは、主の慈しみとまことであり憐れみです。主はご自身の民に対する憐れみを決してお忘れにならない。そのことを信じる。その信仰によって私たちは歩くのです。「完全な道を歩く」のです。
 今日から待降節に入ります。クリスマス礼拝に向けた歩みを始めるのです。その時期に読まれるべき御言葉の一つはルカ福音書の「マリアの賛歌」です。天使ガブリエルから受胎告知を受けたマリアは打ち砕かれました。しかし、霊に満たされながらこう主を賛美しました。

「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。

(主は)その僕イスラエルを受け入れて
、 憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

 イスラエルの民は長く苦しい歴史を生きていたのです。しかし、ご自身の民に対する主の憐れみは、決してなくなることはありません。私たち人間の予想をはるかに越える形で、また裏切られる形で与えられるのです。私たちは、そのことを信じるが故に主の憐れみを求めて生きる主の民なのです。そのことを覚えつつ、今日の詩編の言葉に耳を傾けて参りたいと思います。

 複雑な思い

主よ、あなたの裁きを望みます。
わたしは完全な道を歩いてきました。
主に信頼して、よろめいたことはありません。
主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。」

 作者はこう祈る、あるいは叫びます。個人的な感想を言わせていただくと、こんな風に自分の正しさを真っ向から主張する人は苦手です。人に対して主張する人も苦手ですが、この場合は神様が相手です。神様相手にこんなことを言えるのか?!そんなことがあるのか?!と思ってしまいます。
 しかし、ちょっと冷静に考えてみると、私が苦手だなと感じる人はしばしば私に似た人なのです。主張がやたらと強くて、自分が言っていることは正しいと思っている。もちろん、自分が正しいとも思っていないことを言う人と付き合うのも嫌なものです。しかし、自分の言っていることが完全に正しいと思っている人も困ったものです。しかし、その人にしてみれば、そう思わなければやっていられない。何も出来ない。そういうこともあるだろうと思います。
 ですから、26編を読むとなにか複雑な居心地の悪さを感じるのです。自分は神様に対してこんなことは言えない、むしろ神様の前からは隠れたいと思っている。でも、普段の自分はこの人ほどではないとしても、自分は正しいと思っている。そういう自分を知らされるからかもしれません。
 詩編の注解書は150編すべてを注解するものです。でも、150編すべてではなく、その中から著者が選んで注解する本が何冊か出ています。そういう本でこの26編を選んでいるものはありません。やはり、自分の罪を知り、神様のみ前で悔い改める、赦しを求めて祈る。そういう詩の方が好まれるのだろうと思います。

 自己義認?

 この詩を読んで、ルカ福音書18章のイエス様の譬話に出てくるファリサイ派の人を思い浮かべる人々もいます。 ファリサイ派の人は神殿の中で神に向かってこう祈ります。

 「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」

 ここには、当時のユダヤ教の中にある特権意識や差別意識があり、また行為義認があるでしょう。「自分には罪がない。だから神様は私を愛してくださっている。そういう自分であることが嬉しい。そして、正しい者を愛する神様を私は愛する。」そういう信仰があるだろうと思います。少なくとも、主イエスはファリサイ派の信仰をそのように見ています。そして、主イエスは、神殿でこのような祈りを捧げる人は神に義とされることはないとおっしゃいます。
 たしかに、詩編26編はファリサイ派の人の祈りと似ています。同じ空気を感じます。しかし、本当にそうなのだろうか?この26編にも自己義認に陥るユダヤ教の限界や誤解が現れているのか?と問うてみると、そんなことはないように思います。

  無実の罪

 イエス様の譬話に登場するファリサイ派の人は、日常的な礼拝習慣として神殿に上がり感謝の祈りを捧げているという設定だと思います。しかし、26編の作者は、切羽詰った状況に追い詰められ、たまらず神殿に上がってきたのです。多くの詩と同じように、具体的状況は分かりません。でも、彼は人々によって「罪ある者」として訴えられ、今まさに裁きを下されようとしているのだと思います。無実なのに罪ありとされる。そういう気の毒な冤罪事件は今でもあります。もし、その事件の被害者にされてしまったならば、誰だって必死になって抗弁するでしょう。無実なのに罪人として裁かれるなんて最悪です。しかし、どれほど「私は無実だ」と叫んでも人々がその叫びに耳を傾けない時、神殿に上って神に無実を訴えることができたそうです。
具体的にどういうことがなされたのかはよく分かりません。祭司たちが抗弁を聞いて裁いてくれるのか、吉凶占いのようなことをして神託を仰ぐのか、それはよく分かりません。でも、そういう制度があったようです。だから彼は神殿に上って叫んでいる。「主よ、あなたの裁きを望みます」と。神様にだけは無実を知ってもらい、そのことを証明して欲しいからです。

 完全な道を歩いてきた

 彼は「私は、これまでも神様を信頼して歩むということにおいて揺らぐことなく、完全な道を歩いてきた。その点で心の思いと行動が分裂したことはない」。そう言っているのです。「はらわたと心を火をもって試して」もらっても構わない。神様の「慈しみ」「まこと」をいつも信じて歩んできた。「偽る者」「欺く者」「悪事を謀る者」「主に逆らう者」と席を同じくすることなく、行動を共にすることもなかった。そう断言できるのです。神様の前にです。
 彼の切なる望みは、神の家である神殿で、神様の「驚くべき御業をことごとく語り伝える」ことです。神様の御顔を拝し、神様を賛美し証する。ただそのことが望みなのです。その望みが不当な訴えと裁きによって断ち切られてしまうことに耐え難い悲しみと怒りを感じている。それは当然でしょう。
 そのことをよく理解した上で、9節10節を読むと心に迫ってくるものがあるのではないでしょうか。

わたしの魂を罪ある者の魂と共に
わたしの命を流血を犯す者の命と共に
取り上げないでください。
彼らの手は汚れた行いに馴れ
その右の手には奪った物が満ちています。

 もし、彼が本当に訴えられているような罪がないのであれば、その「命を流血を犯す者の命と共に取り上げられる」ことは耐え難い悲しみです。その悲しみを味わうかもしれないという恐れを神様に訴え続け、助けを求め続ける中で、彼の心に変化が生じてきたのではないかと思います。
 詩編の詩は目で読んでしまえば一気に読めますが、一つひとつの祈りの背後には何日もの、あるいは 何ヶ月もの苦闘の日々があったかもしれないのです。そういうものとして私たちは読むべきだと思います。

 慈しみとまこと

 彼は3節で、神様の「慈しみ」を受け、神様の「まこと」に従って歩み続けていると言っていました。「慈しみ」は神様とイスラエルとの契約に基づく愛であり、神様の真実を表わすと思います。また、「まこと」は神様の真理、確固として動くことのない愛を表わすように思います。「慈しみ」「まこと」は詩編の中に何度もセットになって出てきます。直前の25編にも出てきていました。神の民イスラエルは、その「慈しみ」「まこと」に導かれ、支えられて生きているのです。神様の「慈しみ」「まこと」を信頼して生きているのです。この詩の作者も、その点において自分は完全な道を歩いてきたと言っていたのです。

 切実な願い

 その彼が、11節ではこう言っています。

 「わたしは完全な道を歩きます。
 わたしを憐れみ、贖ってください。」

 1節では「歩いてきました」と完了形で言っていたのに、ここでは未完了形で「歩きます」と言っているのです。決意が表れていると言ってよいだろうと思います。しかし、その決意の表明に二つの嘆願の言葉が続きます。
 「わたしを憐れんでください」「わたしを贖ってください」です。9節の「わたしの命を流血を犯す者の命と共に取り上げないでください」と併せると切実な嘆願が三つ続きます。これらの言葉が何を意味するのか?そのことを探求することが、この詩から神様の語りかけを聴き取る上で必須のことのように 思います。

 共に取り上げないで

 最初に「共に取り上げないでください」ですが、この言葉はヘブル語ではアーサプという言葉です。これ「見捨てる」とも訳される言葉です。続きの27編9節後半から10節にかけて出てきます。

 「救いの神よ、わたしを離れないでください
 見捨てないでください。
 父母はわたしを見捨てようとも
 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。」

 ここに出てくる「見捨てる」のギリシア語訳(エグカタレイポー)は「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という、主イエスの十字架上の叫びの言葉と同じです。しかし、26編の「共に取り上げないでください」の方のギリシア語訳(スンアポリューマイ)は、ヘブル人への手紙の中に一回だけ出てくる言葉で、「罪人と一緒に殺される」という意味なのです。
 そういうことを考え合わせると、「わたしの命を流血を犯す者の命と共に取り上げないでください」という叫びは、主イエスの十字架の死とぴったり重なってきます。主イエスはまさに無実の罪で訴えられ、神に背く者、神を冒涜する者として処刑されるのです。強盗、殺人という流血の罪を犯した罪人と共にです。そして、その処刑の最中に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈られたのです。
 その祈りは神様に聞かれました。しかし、イエス様はその後、大声で叫ばれた後に息を引き取られました。天使がやってきてイエス様を十字架から降ろしてくれたわけではありません。しかし、実はそこに神様の「慈しみ」「まこと」が現れているのです。ただ、それは私たち罪人に対する「慈しみ」「まこと」です。イエス様は、罪人の一人に数えられ、罪人と共に命を取り上げられつつ、罪人の罪が赦されるために祈ってくださっているからです。神様は、その祈りを聞かれたのです。そして、神様はイエス様を復活させ、そのことを通して私たちを神の子として新たに生かそうとしてくださっているのです。

 憐れんでください

 その点はまた後に触れることになると思います。今は、詩の作者の心の中に戻ります。罪人と「共に命を取り上げないでください」と願った彼は、「完全な道を歩きます」と表明しつつ、「わたしを憐れんでください」「わたしを贖ってください」と叫んでいます。
 「憐れんでください」という叫びは、罪人が赦しを願って神様に叫ぶ言葉です。ルカ福音書では、17章や18章に出てきます。汚れた病とされる重い皮膚病に罹っているサマリア人たちがイエス様に向かって「わたしを憐れんでください」と叫びます。また、道端に座っていた盲人が叫ぶのです。両方とも当時の社会では神様に見捨てられた罪人とされていた人々です。そういう人々の叫びを、この詩の作者も叫んでいる。「完全な道を歩いてきました」と言っていた彼がです。それは、自分は赦されなければならない罪人です、ということでしょう。

 贖い 一

 彼はここに至って「贖ってください」とも叫びます。「贖われる」とは身代金を払って解放して貰う、犠牲を捧げることで赦して頂くことです。ギリシア語訳ではルトゥロオーという言葉が使われます。新約聖書では、ルカによる福音書とペトロの手紙一とテトスへの手紙の三箇所にしか出てきません。
 ルカ福音書では、イエス様が十字架に磔にされて死んでしまったことに絶望した二人の弟子が故郷のエマオに帰る場面があります。その二人を復活の主イエスは追いかけてくださり、話しかけるのです。でも、彼らは、それがイエス様であることが分からず、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります」と言うのです。「解放してくださる」「贖う」と同じ言葉です。
 その言葉を聞いたイエス様「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言って、「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明」されました。メシアとは、自分を犠牲にしてイスラエルの民を救い、さらにすべての罪人を救うことになっているのではないか、何度も話してきたではないか、ということでしょう。

 贖い 二

 この二人の弟子たち同様に、当初はイエス様の復活を信じることができなかったペトロはその手紙の中でこう言っています。

 「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」

 今日の午後は受洗志願者の試問会があります。洗礼を受けるとは、「先祖伝来のむなしい生活から贖われる」ことです。神の子として新たに生まれ、神の国に生き始めることなのです。しかし、それは私たちの決意とか努力で実現することではありません。全くそういうことではないのです。神様が罪なき独り子をあの十字架の上で見捨て、御子が罪人のために尊い血を流し、罪人と共に命を取り上げられたのです。そのようにして罪人を贖ってくださったのです。ただ、その事実を信じる。その信仰によって私たちは罪を赦され、汚れを清められ、神の国に生きる神の子にしていただけるのです。そして、神の国の食卓の前味としての聖餐に与ることができるのです。

 贖い 三

 だから、パウロは弟子のテトスへの手紙の中でこう語りかけるのです。

 キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。

 キリストがご自身の命を身代金として捧げてくださった。犠牲の供え物として十字架で死んでくださった。そのことによって私たちは罪の世から贖い出された。それは、「よい行いに熱心な民を御自分のものとして清めるため」です。詩編の言葉で言えば、キリストの犠牲の故に罪赦された私たちが「完全な道を歩く」ためなのです。逆に言えば、私たちが「完全な道を歩く」ためには、憐れみを受け、罪の支配から贖い出されなければならないということです。罪なき独り子が神に見捨てられ、罪人と共に命を取り上げられるという「裁き」を通して罪を赦されない限り、人は決して「完全な道を歩く」ことはできません。

 神に向かって行くが故に

 この詩の作者は自分の義を確信しているかのように神様に向かって行きました。しかし、向かって行く対象が神様であったが故に、神様の「憐れみ」「贖い」抜きに、自分の足が「まっすぐな道に立つ」ことはできないことを知らされたのだと思います。向かって行く対象が人であるならば、決してそのことを知ることは出来ないと思います。彼が、自分を罪人として訴える人々に向かって行くならば、こういうことにはならないでしょう。
 今は衆議院選挙の真っ最中です。党首たちの論戦を見ていると、そこにあるのは相手の間違いの指摘と自分の正しさの主張です。人に向かう限りは誰だってそうなるのです。政治の世界に限らず、私たちが人を相手に論戦すればするほど、それはヒートアップしていきます。いかざるを得ないのです。そして、結局、自己をたたえることに終始せざるを得なくなるのです。しかし、それは空しいことでしょう。自分という偶像を賛美する偶像崇拝に過ぎないからです。
 私たちが、「慈しみ」「まこと」の神に向かって行く時、私たちは己の罪を知り、神の憐れみに縋り、贖いを求める以外にない存在であることを知っていきます。実は自分もまた「偽る者、欺く者、悪事を謀る者、主に逆らう者」であり、「罪人」であったことを知っていくのです。そういう者を、神様がご自身の独り子を見捨てることによって赦し、清めてくださった。その様に憐れみ、贖い出してくださったことを知らされます。その時、私たちは、神殿の「祭壇を廻り、感謝の歌を響かせ、驚くべき御業をことごとく語り伝え」つつ「主をたたえる」者たちとされるのではないでしょうか。

 聖餐

 主イエスの贖いに与った私たちは、これから聖餐の食卓を祝います。この食卓の制定の言葉として毎回読むのは、コリントの信徒への手紙一に書かれたパウロの言葉です。彼はこう言っています。

 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」

 かつては、自分の義を主張することしか出来なかった私たちが、今は、主の死を、そこにある慈しみ、まこと、憐れみ、贖いを証することが出来る者にされている。これはまことに感謝すべきことではないでしょうか?
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