「ひとつのことを主に願う」
27:1 【ダビデの詩。】 主はわたしの光、わたしの救い わたしは誰を恐れよう。 主はわたしの命の砦 わたしは誰の前におののくことがあろう。 27:2 さいなむ者が迫り わたしの肉を食い尽くそうとするが わたしを苦しめるその敵こそ、かえって よろめき倒れるであろう。 27:3 彼らがわたしに対して陣を敷いても わたしの心は恐れない。 わたしに向かって戦いを挑んで来ても わたしには確信がある。 27:4 ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。 命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。 27:5 災いの日には必ず、主はわたしを仮庵にひそませ 幕屋の奥深くに隠してくださる。 岩の上に立たせ 27:6 群がる敵の上に頭を高く上げさせてくださる。 わたしは主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ 主に向かって賛美の歌をうたう。 27:7 主よ、呼び求めるわたしの声を聞き 憐れんで、わたしに答えてください。 27:8 心よ、主はお前に言われる 「わたしの顔を尋ね求めよ」と。 主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 27:9 御顔を隠すことなく、怒ることなく あなたの僕を退けないでください。 あなたはわたしの助け。 救いの神よ、わたしを離れないでください 見捨てないでください。 27:10 父母はわたしを見捨てようとも 主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。 27:11 主よ、あなたの道を示し 平らな道に導いてください。 わたしを陥れようとする者がいるのです。 27:12 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。 偽りの証人、不法を言い広める者が わたしに逆らって立ちました。 27:13 わたしは信じます 命あるものの地で主の恵みを見ることを。 27:14 主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。 主を待ち望め。 2013年最初の主の日を迎えました。今日は詩編27編をご一緒に読みます。 敵 詩編27編の作者が置かれた状況が非常に厳しいものであることは一読して明らかです。「さいなむ者が迫り、わたしの肉を食い尽くそうとする」などはある種の誇張表現でしょう。でも、群がって戦いを挑んでくる敵が作者を陥れようとしていることは間違いありません。12節を見ると、その敵は「貪欲な敵」であり、「偽りの証人、不法を言い広める者」のようです。今のようなDNA判定などなかった時代では、法廷で二人三人が偽りの証言をすれば有罪が確定してしまいます。法廷でなくとも、悪評を立てられてそれが噂として人々の中に浸透していけば、その社会の中で生きることが出来なくなり、社会的には抹殺されてしまうこともあります。最悪の場合は自殺に追い込まれるのです。 昨日の新聞を見て暗澹たる気持ちになりました。最近は、インターネットの世界である個人に対して集中的な誹謗中傷が寄せられることがあります。カナダ人のまだ十四歳の少女が、ある男の巧みな口車に乗せられてネット上で半分顔を隠して胸を見せてしまったそうなのです。すると、その映像があっと言う間に世界中に配信され、誰であるかが特定され、顔も名前も知っているフェイスブック上の多くの友達からも様々な悪意に満ちた書き込みが続いたのです。引越しても転校してもネット世界では何の意味もなさず、ついにその子は生きる場を失ったと思い、自殺してしまったというのです。そういう「敵」がいつ何時襲い掛かってくるか分からない。それがこの世の一つの現実であることは、いつの時代も変わることがありません。 弟子に対する言葉 10節には「父母はわたしを見捨てようとも」とあります。この世における愛の中で最も強いのが父母の愛であることが前提とされていると思います。しかし、イエス様はある時、「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と弟子たちにおっしゃいました。 これ以上厳しい言葉はないと思います。しかし、同時にこれ以上慰めに満ちた言葉もありません。この世で最も強い肉親の愛の脆さが語られると同時に、肉親の愛よりも強い神の愛があると語られているからです。注意すべきは、この言葉は「すべての人に」向けての言葉ではなく、イエス様を「神からのメシア」と信じて従っている「弟子たちに」対する言葉であるということです。 道 27編の作者は「主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください」と願っています。「平らな道」とは、主に向かってまっすぐに走っている道とも言ってよいかと思います。その道を歩むのが主の弟子です。しかし、その道を歩むことは、時に親兄弟から裏切られ、「すべての人に憎まれる」ことであるし、「偽りの証人、不法を言い広める者」に追い詰められることでもあるのです。一見すれば、その道は「平らな道」であると言うよりは危険に満ちた道です。しかし、それが主に向かっている道であるならば、やはりそこにこそ命があるのです。そして、主イエスは「その命をこそ求め、その命を勝ちとりなさい」と弟子である私たちにおっしゃるのです。 作者は、敵に囲まれ、恐れとおののきに震えて当然の状況の中で「わたしの光」「わたしの救い」「わたしの命の砦」である主への信頼に堅く立ちます。そして、そのことの故に、敵がどれほど強くても主が必ず守ってくださると「わたしには確信がある」と宣言できるのです。 わたし 1節から6節には、何度も「わたしの〜」という言葉が出てきますし、4節の「願う」「求める」などの動詞の主語もすべて「わたし」です。その「わたし」とは、「主の幕屋でいけにえをささげ、歓声をあげ、主に向かって賛美の歌をうたう」「わたし」なのです。つまり、己が罪を悔い改め、犠牲をささげつつ罪の赦しを願う礼拝をしている「わたし」です。 彼は、自分が神様の前にいつも正しく敵は間違った人間である。正しい人間である「わたし」だから、神様は「災いの日には必ず」「幕屋の奥深くに隠してくださる」と信じているのではありません。ここに出てくる「幕屋」とは「主の家」とか「その宮」と同じく神様に礼拝をささげる場所のことです。その礼拝でなすべきことは、何よりも「いけにえをささげる」ことです。罪の赦しを求めることなのです。27編の「わたし」とは、その礼拝をささげている「わたし」です。 憐れみ カトリック教会のミサ曲は「キリエ エレイソン」、「主よ、憐れみたまえ」という歌から始まります。つまり、「私の罪を赦してください」と祈ることから始まる。この祈りなくして、神様の御前に立つことは出来ないからです。 27編の後半は、「主よ、・・・憐れんでください」という言葉から始まります。そして、こう続きます。 「心よ、主はお前に言われる 『わたしの顔を尋ね求めよ』と。 主よ、わたしは御顔を尋ね求めます。 御顔を隠すことなく、怒ることなく あなたの僕を退けないでください。」 神様の御顔を尋ね求めることが求められる。それは、恐るべきことです。神様の御顔の前に立つことは罪人には恐ろしいことです。しかし、神様の御顔の前から隠れて生きるとは、アダムとエバの物語に即して言えば、葉っぱの陰に隠れて生き続けることであり、そこに救いはありません。それもまた恐るべきことです。神様の御顔の前に立ち、その御顔を拝することが出来ない限り、人は神様との交わりの中で生きることが出来ないからです。神様との交わりの無い命はただの肉体の命に過ぎません。そんな命を生きるために神様は私たちを創造されたのではありません。「主を賛美するために民は創造された」と詩編にあります。私たちは主を賛美し礼拝する喜びに生きるために創造されたのです。 だから、「わたしの顔を尋ね求めよ」という主の言葉は、「わたしは、あなたの罪を赦す。私たちとの交わりの中に立ち返りなさい。そこで生きなさい」という「憐れみ」による招きなのです。そして、作者は、神様の憐れみを求めて「主の幕屋でいけにえをささげて」いるのだし、憐れまれていることを感謝して「主に向かって賛美の歌をうたう」のです。ここには、常に正しい「わたし」がいるのではなく、神様の憐れみを求め、その憐れみによって御顔を仰ぎつつ賛美する「わたし」がいるのです。その「わたし」を、主なる神は決して見捨てることはない。「光」として「救い」として「砦」として守ってくださる。その確信に基づく喜びを告白している。いや喜びをもって賛美しているのです。 喜びの日 私は先週と今週の礼拝の最初に歌うべき讃美歌として「よろこびの日よ」(「讃美歌21」204番)を選びました。「ここぞ」という時に私がしばしば選ぶ愛唱讃美の一つです。「年末年始の礼拝の冒頭に歌うのはこの歌だ」。そう思って選びました。 「よろこびの日よ ひかりの日よ なぐさめの日よ いこいの日よ 代々の聖徒の みまえにふし こよなき御名を たたえし日よ あめなる家に かえる日まで この日のさちを うたいつづけん 父・子・聖霊の ひとりの主を こころあらたに たたえ歌わん」 歌うたびに心が震え、また奮い立たせられる讃美歌です。この讃美歌には神様を礼拝する喜びが溢れています。 詩編27編の4節には、今日の説教題に選んだ言葉があります。 「ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。 命のある限り、主の家に宿り 主を仰ぎ望んで喜びを得 その宮で朝を迎えることを。」 文字通り読めば、作者は神殿で寝泊りすることを求めているのです。しかし、ここで彼が何を言いたいのかと言えば、「毎日毎日、主を礼拝することをだけを求めて生きていこう」ということです。それは、いつも新たに主の憐れみを受けつつ、主の御顔を拝したいということなのです。そこに「救い」があるからです。「幕屋の奥深くに隠される」救いがある。この世のいかなる敵も近寄ることが出来ない場所があるからです。新約聖書の信仰で言えば「あめなる家」がそこにはあり、その家に帰る「救い」を与えていただく。そのひとつのことを彼は求めている。 御顔を隠す 御顔を隠すことなく、怒ることなく あなたの僕を退けないでください。 あなたはわたしの助け。 救いの神よ、わたしを離れないでください 見捨てないでください。 この言葉を読んで私たちが思い起こすのは、主イエスのゲツセマネの祈りや十字架の場面ではないでしょうか。イエス様はそこで「わたしは死ぬばかりに悲しい」と呻きつつ、「アッバ、父よ」と祈り、御心がなされることを求められました。それは、一方では「御顔を隠すことなく、怒ることなく、・・見捨てないでください」という祈りだと思います。 しかし、この祈りは、神様から見捨てられて当然の罪人が発するべき祈りです。罪を犯しておらず、絶えず神様との交わりの中に生きておられた方の祈りであるはずがありません。しかし、その叫びのような祈りを、主イエスが捧げておられる。それは、主イエスが私たち罪人の罪をその一身に背負っておられるからです。 その祈りを父は聞かれました。聞かれた上で、父の御心をお示しになったのです。その御心とは、罪なき神の御子がすべての罪人の罪を背負って「いけにえ」となることでした。主イエスは、その御心を死ぬばかりの悲しみの中で知らされ、引き受け、十字架の死に向かって行き、その十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(エリ、エリ、レマ、サバクタニ)と叫びつつ死なれたのです。 この十字架の上で、イエス様は父の御顔を拝することはできなかったでしょう。御顔を隠された父を必死に呼び求め、「見捨てないでください」と叫ばれたのだと思います。群衆はその叫びを聞きながら、「エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言いました。しかし、神様はエリヤを遣わすことはなさいませんでした。父なる神は私たち人間の罪に対する怒りを主イエスに向け、罪なき主イエスを見捨てる裁きを与えられたのです。それが神様の御心でした。 御顔を隠す しかし、神様はこの主イエスの十字架を通して、罪人である私たちに対する「憐れみ」を与えてくださったのです。父なる神様は御子イエス・キリストの十字架の死を通して、私たちに憐れみの御顔を現してくださったのです。イエス・キリストに隠された御顔は、イエス・キリストを通して私たちに現された。神様の方が十字架の上にささげてくださった「いけにえ」によって、私たちの罪が赦され、そのことを信じる者は「アッバ、父よ」と御子と共に呼ぶことが出来るようになったのです。つまり、神様を礼拝する心からの喜びを生きることが出来るようになったのです。 この人を見よ だから、神様が「わたしの御顔を尋ね求めよ」とおっしゃる時、それは「十字架のイエスを見よ」ということになります。「あそこに私がいる」ということです。「その私を見よ」とおっしゃっている。 お好きな方も大勢おられると思いますが、「まぶねの中に」という讃美歌の3節、4節にはこうあります。 「すべてのものを あたえしすえ 死のほかなにも むくいられで 十字架のうえに あげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ この人を見よ この人にぞ こよなき愛は あらわれたる この人を見よ この人こそ 人となりたる 活ける神なれ」 ここに「人となりたる活ける神なれ」とあります。主イエスは、十字架の上で御顔を尋ね求めつつ死んで、終わりではないからです。主イエスは、愛に生きた偉大な人物ではありません。「活ける神」なのです。 あの時、エリヤを遣わしてイエス様を十字架の上から引き降ろすことをされなかった神様は、イエス様を墓の中から復活させられました。そのことを通して、罪の赦しに伴う永遠の命、神の国に生きる命を私たちに与えようとしてくださっているのです。ここに「こよなき愛」、この世にはない愛、父母すら持ち得ない神の愛が現れているのです。 神の敵 私たちは「自分は罪人です」とは言いますが、「自分は神の敵です」とは言いません。神様にいつでも従順に従っているわけではない申し訳なさは感じています。でも、自分が神様に敵対しているとまでは思っていない。しかし、罪人とは端的に言って「神の敵」なのです。「敵をゆるしし この人を見よ」の「敵」は自分のことであると思って歌っていないのであれば、この歌はすべて他人事です。自分にとっては赤の他人である敵たちを十字架の上で赦した素晴らしいイエス様を見よ、と暢気に歌っているに過ぎなくなります。 罪とは、怠慢とか弱さではなく背きです。自分を神の位に置き、自分を中心に生きている。そして、困った時だけ神頼みをして自分のために神を利用できると思っている。こういうことを「背いている」と言うのであり、それは神様に敵対し、神様を無き者にしていることです。そして、神の敵である罪人の行き着く先は滅びとしての死です。神に背いた結果、葉っぱの陰に隠れて生きること自体が滅びだからです。 私たちの味方 しかし、神様はそういう罪に陥る私たちを心の底から憐れんでくださるのです。敵を愛してくださる。「あなたは、どこにいるのか」と呼びかけてくださる。なんとかして、私たちの罪を赦し、新たに造り替え、共に生きようとしてくださるのです。 それは、別の言い方をすれば私たちを滅びに陥れる罪を敵として、私たちの味方となって生きてくださるということです。主イエスの十字架の死と復活は罪に対する神様の勝利の現実なのです。主イエスを信じるとは、その勝利に与り、勝利の主を賛美する喜びに生きることです。 パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っています。 「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。」 「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。・・だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、・・・どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」 神の右の座に着き、私たちのために執り成してくださる御子イエス・キリストを「見ること」が出来る。「私たち」の希望はそこにあります。その「私たち」とは、主イエスの弟子である私たちです。主イエスを信じて従うというひとつのことを求め、願い、そのことの故に家族にも裏切られ、「すべての人に憎まれる」こともある「私たち」です。そのことがはっきりしていなければ、聖書の言葉は自分のための言葉にはなりません。 主の恵みを見る 27編の作者は「見ること」に関してこう言っています。 「偽りの証人、不法を言い広める者が、 わたしに逆らって立ちました。 わたしは信じます 命あるものの地で主の恵みを見ることを。」 この言葉を読んで私の心に浮かぶのは使徒言行録に出てくるステファノが殺される場面です。彼は、ペンテコステの出来事を通してこの地上に誕生したキリスト教会の信徒です。十二使徒ではありません。しかし、彼は「恵みと力に満ち」ており、「すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行って」いました。そういうステファノに対して敵意を抱く人々が最高法院に訴え、偽りの証人を立てて有罪判決を下すように仕向けたのです。しかし、ステファノは何ものに対しても恐れおののくことなく、天地をお造りになった主なる神と神に遣わされたイエス・キリストに対する信仰を大胆に告白しました。 人々は激高し、今にもつかみ掛かって殺そうとします。しかし、「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見た」と記されています。そして、彼はこう言うのです。 「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」 人々はますます激高し、ステファノに石を投げます。しかし、彼は、彼には見える主イエスにこう呼びかけるのです。 「主イエスよ、わたしの霊をお受けください。」 「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」 こう祈って、彼は死にました。この二つの言葉は、ルカ福音書における十字架のイエス様の言葉と基本的には同じです。主イエスの弟子として、ただひとつのことを求め、願った弟子に与えられた最も厳しい試練と最も慰めに満ちた「恵み」がここにはあります。 ステファノは「命あるものの地で主の恵みを見る」喜びを与えられました。その喜びは、「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」」と確信できる喜びです。 新約聖書の信仰で読む限りにおいて、「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」とは、「主は必ず天の御国に招き入れてくださいます。あめなる家に導き返してくださいます」という希望の言葉です。それは、天国で御子イエス・キリストの復活の栄光に与らせていただくという希望です。その希望が、どんな困難がありどんな迫害があっても、ただひとつのことを求めて生きていく私たちの信仰を支えるのです。 パウロの恵み パウロは、ステファノを迫害する側の人間としてその場にいました。しかし、後に主イエスによって罪を赦され、洗礼を授けられて神の教会に招き入れられ、各地に教会を建設し、福音を宣べ伝える伝道者に造り替えられたのです。彼はそのことを「恵み」と表現します。 その「恵み」を無にしないために、彼は主に罪を赦されたように罪を赦す人生を生き始めます。その道がいかに苦難に満ちたものであっても、御子イエスと共に「アッバ、父よ」と祈ることが出来る「恵み」を一人でも多くの人々と分かち合うために生きるのです。彼のただひとつの願い、「それだけを求めよう」という願いはそのことです。 待ち望む 主を待ち望め 雄々しくあれ、心を強くせよ。 主を待ち望め。 作者は自分自身に向けて、そして、すべての人に向けて、「主を待ち望め」と呼びかけます。敵に囲まれ、追い落とされそうな境遇の中で。必ず主の恵みを見ることができる、そして主に引き寄せられると信じてです。 「待ち望む」という言葉をパウロも大切に使います。この言葉のギリシア語訳はヒュポメノーという言葉ですけれど、それは「逃げないで踏み止まる」、「耐え忍ぶ」という意味なのです。 彼は、ローマの信徒に向けては「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び(ヒュポメノー)、たゆまず祈りなさい」と語りかけ、コリントの信徒に向けては「愛は・・すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える(ヒュポメノー)」と教えています。 「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」を信じ、その愛に生きる弟子たちに苦難が付きまとうのは当然のことです。主イエス・キリストが、私たちを愛するために味わった苦難を思えば、当たり前のことです。愛に生きることには苦しみが伴います。しかし、十字架の死を経て復活し、今は天にあって私たちのために執り成し祈ってくださる主イエスが、今日も礼拝の中で語りかけてくださり、聖霊を吹きかけて、赦しを通して新しい命を与えてくださるのです。そして、いつの日か、主イエスはこの世に再臨して天地を貫く神の国を完成してくださるのです。その御国の完成を待ち望むことが出来る時、私たちはどんな苦難の中にあっても喜びを得ることが出来ます。 聖餐 私たちはこれから今年最初の聖餐式に与ります。今日もまた讃美歌205番を歌います。多分、私の生涯の中で最も数多く歌っている讃美歌です。毎年、朝夕の礼拝を合わせて年に三十回は歌っているのですから。皆さんの多くも年に十回以上は歌っているはずです。 その4節はこういう詞です。私の特愛の言葉です。 「おもかげうつししのぶ 今日だにかくもあるを みくににていわう日の そのさちや、いかにあらん」 今年もこの御国における喜びの礼拝を目指して歩むこと、そのひとつのことを主に願い、それだけを求めて歩んでまいりましょう。そして、命ある限り、聖餐の食卓を囲む礼拝を捧げていきましょう。そして、この食卓に、ひとりでも多くの人を招くために伝道してまいりましょう。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」とあります。ここに御国の面影があるのです。この聖餐の食卓を通して、私たちは「命あるものの地で主の恵みを見る」ことが出来るのです。十字架の主、復活の主、天にある主、再臨の主をその信仰の眼差しをもって見るのです。だから耐え忍ぶことが出来る。だから喜ぶことが出来る。だから、確信することが出来るのです。「主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます」と。 この礼拝、この聖餐式が私たちの信仰を支えるのです。だから、私たちはこの年も、ただひとつ、主を礼拝することを求めて生きていきましょう。 |