「わたしの神よ」

及川 信

       詩編 22編 1節〜12節
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。
22:4 だがあなたは、聖所にいまし
イスラエルの賛美を受ける方。
22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
依り頼んで、救われて来た。
22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され
あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」
22:10 わたしを母の胎から取り出し
その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから
わたしはあなたにすがってきました。
母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

 今、私たちは受難節を生きています。3月31日が主の復活を祝うイースターです。そこで今月は、四回に分けて詩編22編をご一緒に読んでいきたいと思います。
 22編の冒頭の言葉、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」は、キリスト者なら誰もが知っている言葉です。イエス・キリストが十字架の上で叫ばれた、あるいは祈られた言葉だからです。この詩には、それ以外にも主イエスの十字架の場面と関連のある言葉がいくつもあります。
 今日は12節までしか読みませんでした。しかし、祈りの言葉は分割して読むべきものではありません。でも、これだけ長い祈りを自分なりに読んで一回で語ることは、私には出来ません。そこでやむを得ずこういう形にさせていただきますが、できる限り毎回全体を見渡しつつ読み進めて行きたいと願っています。

 詩の構造

 最初に、この詩の構造を簡単に見ておこうと思います。この詩は、1節から22節までと23節以下で前半と後半が分かれます。前半には神様に見捨てられた嘆きと助けを求める切実な願いがあります。しかし、後半は一転して「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」という賛美の言葉で始まるのです。この賛美はどんどん拡大していき、ついに「塵に下った者もすべて御前に身を屈めます」と言われるまでになります。これは、死んで陰府に下った者たちまでもが主を礼拝するようになるということで、旧約聖書の中では例外的な言葉だと言って良いと思います。
 この「塵に下った者もすべて御前に身を屈めます」は16節の「あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」という言葉に対応しています。前半に出てくる「塵」とか「死」のイメージが、後半では「命に溢れてこの地に住む者はことごとく」とか「わたしの魂は必ず命を得」と躍動する命のイメージに逆転されているのです。
 そして、夜も昼も嘆き、救いを求めて叫んでいた作者が、最後には「主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう」(31節〜32節)と言うようになる。同じ口から正反対の言葉が飛び出てくるのです。

 主は与え、主は奪う

 この詩を、十字架の主イエス・キリストが祈った言葉として読む立場があることは確かです。四回のうちの一回はそういう立場から読むことになるかもしれません。しかし、当然のことながらキリスト誕生以前の一人の信仰者の祈りとして読むという立場もあります。私としては、まずはその立場からこの祈りの世界に入って行きたいと思います。
 先日、「信仰と職場を語り合う会」がありました。毎回、私が楽しみにしている会です。私が何の準備もする必要がなく、出席する度に深い話を聞ける会は他にはありません。今回の話題の中心は、ヨブ記に出てくる「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」という言葉を巡ってのことでした。奪われているようで、実は与えられている。そういうことがあるのではないか。何をもって「奪われる」と言い、「与えられる」と言うのか。そのことについて考えました。
 私たちは誰でも実社会の中で様々な困難に直面します。不安や恐れを感じることがある。健康面の不安、金銭面の不安、対人関係の不安。様々な不安があり、時に恐れに捕われることもあります。しかし、そういうものに襲われている時は毎日必死に聖書を読み、礼拝に集中し、祈っていた。しかし、外的な意味では困難を乗り越えた時、神様に感謝しつつも、あの不安と恐れが一杯だった時の様に祈らなくなった。神様との距離が少し遠くなったように感じる。一体、どちらがよい状態なのか?与えられることは実は失うこと、奪われることは実は与えられることでもあるのではないか。そういうことを語り合ったのです。詩編119編には「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(119:71)「わたしを苦しめられたのはあなたのまことのゆえです」(同119:75)という言葉があります。
 「卑しめられる」ことや「苦しめられる」ことによって、主の口から出る律法、愛を知ることが出来た。愛を信じ、愛を生きることが出来るようになった。そのことを喜んでいるのです。

 苦難は善き賜物

 戦前から戦後にかけて国際的に活躍したキリスト者に賀川豊彦という人がいます。賀川は関東大震災の惨状を目の当たりにして「苦難に対する態度」という文章を書いています。読み始めたばかりですけれど、大震災という理由が分からない苦難に直面しつつ、彼はこう言うのです。

「私はそれについて分からぬことが多くある。しかし、私はかく信じたい。神は、この苦痛をもってしても猶、愛であると。」
「苦難は私どもにとっては善き賜物である。死さへ、神の御心である。神の懐にて凡てが溶解せられている。私はすべての苦難をもってしても猶、神を疑うことが出来ない。」
「そうだ。苦痛は生命の一部分である。」
「苦痛の反面には喜悦、歓喜にまで伸び上がる力がある。」

 22編の特色

 苦難とは、それまで与えられていた平穏が奪われることでしょう。しかし、その苦難を通して喜悦、歓喜、賛美が与えられる場合がある。苦難を経なければ知り得ない世界がある。だとするならば、神が与える苦難はその渦中においては決して喜ばしいことではないにしても、「善き賜物」なのです。
 今、「神が与える苦難」と言いました。この詩には、他の詩編にあるように罪の告白がありません。6編、32編、51編などでは、苦しみの原因は罪なのです。作者は罪を告白します。そして、赦しを求める。しかし、22編にはそういうものがない。つまり、苦難の原因が分からないのです。なぜ自分がこのような苦しみを味わわねばならないのか。それが分からない。突然の事故や災害に襲われる時、いきなり不治の病を宣告された時、いきなり謂れのない誹謗中傷にさらされる時などに、私たちはそういう苦しみを味わうだろうと思います。それは自業自得の苦しみではなく、神が与えた苦難と言うべきかもしれません。
 また、22編には敵に対する報復や裁きを願う言葉がありません。これも実に珍しいことです。そういう意味で、罪なきイエス様の十字架での祈りに相応しいとも思います。
 この詩の作者は、自分としては神様に対して罪を犯している自覚はないのです。しかし、具体的に何なのか分かりませんが、とんでもなく苦しい目に遭っている。人々はそういう自分を見て嘲り、「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」と口々に言ってくる。なぜ、自分がそのような嘲笑を受けなければならないのか分からないのです。
 その苦しみの中で、彼は「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きの言葉も聞いてくださらないのか」と神様に向かって叫びます。12節でも20節でも「わたしを遠く離れないでください」と叫んでいます。具体的な苦しみよりも、主が遠く離れていること、主に見捨てられたとしか思えないこと、幾ら叫んでも聞いていただけないこと、自分が天涯孤独になってしまったということ。そのことが彼にとっての最大の苦しみであり、悲しみであり、嘆きなのです。そして、人が孤独になるとは本当に恐ろしいことです。人は孤独の中で死に呑み込まれていくことがあるからです。しかし、その逆に、深い孤独に陥ることを通して初めてインマヌエル、共にいます神と出会うこともある。

 人が孤独になる時

 昨年度は、十五年ぶりに年間の自殺者が三万人を切ったそうです。西南支区の教師会で自殺防止のために働く講師からお話を伺いましたが、いきなり三千人も減った原因はよく分からないとおっしゃっていました。東日本大震災で多くの方が命を落としてしまった様を見て、自殺を思い止まる人が増えたのではないかとも言われます。しかし、被災地では、震災を生き延びたのに自殺を選ぶ人が以前より多いことも事実なのです。
 先日のニュースでも自殺のことが報道されていました。ある相談センターのリーダーは、「自殺に心が動いてしまう人の話を聞くことが基本だが、話を聞くだけではなく一緒に問題解決のために働く人間がいることを分かって貰わないと防ぐことは難しい」と言っていました。自殺を思い止まったある女性は、職場での辛い体験を通して、「自分なんかこの世にいないほうがいいんじゃないか。はやくおじいちゃんやおばあちゃんのいる所に行った方がいいんじゃないかと思うようになった」と言っていました。自分は無価値なだけでなく、社会にとって邪魔な存在になってしまったと思う時、人は生きている意味を見失い、生きていく望みを失うでしょう。
 22編の7節にはこうあります。

「わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。」

 昔も今も、こういう惨めな気持になることが人にはあります。自尊心が粉々に砕かれて、自分なんて虫けら同然で、屑なんだ。死んだ方がいいんだ。そう思わざるを得ない。そういう時があるのです。
 そういう時に、周囲の人々から追い討ちをかけるように「主に頼んで救ってもらうがよい」と嘲笑されるなら、それはまさに「塵と死の中に打ち捨てられた」という気持ちになるでしょう。誰も自分の心の呻きを聞いてくれない。そして、「わたしの神」とすがりついてきた主も、今は遠く離れて立っており耳を傾けてくれない。答えてくれない。その絶望が彼に襲い掛かっているのです。そういう状況の中で、彼は叫んでいる。「わたしの神よ、わたしの神よ」と。

 「ねー、ねー、誰か私たちを助けてよ」

 週報に記されていますように、私は火曜日に出発して水・木と続けて石巻山城町教会と福島教会の聖研祈祷会で奨励をさせていただくことになっています。津波に襲われた石巻と放射能汚染が継続する福島では全く異なる現実があります。来週の日曜日の午後には、西南支区総会に先立って捧げる「3・11を覚える礼拝」の司式と説教をすることになっています。随分前から二つの奨励と短い説教について考え続けていますが、まだピッタリと来るものがなくて困っています。
 牧師は、奨励とか説教をする立場であることは分かっています。しかし、私が被災地の教会をお訪ねするのは、むしろ話を聞きたいからです。震災の時、そしてそれからの二年間、どのように過ごしてきたのか。どんな苦しみがあり、嘆きがあり、悲しみがあるのか。どんな希望があるのか。また希望はないのか。どういう思いで毎週の礼拝を捧げているのか。ご家族や友人の方たちは今どんな思いを持っておられるのか。そういうことを聞かせていただきたい。そう願っています。そのことをしないでは、何を語ったらよいか分からない。そういう思いがあります。
 しかし、その一方で、聞いてしまったら何を語れるのか分からない。そういう思いもあります。出来ることなら何も聞かずに、自分がよいと思うことだけをしていたい。そういう思いもある。
 二月の初旬の真夜中のことですが、いつものように何気なくテレビをつけて見始めました。すると、津波に襲われた上に放射能の汚染地域にもなってしまった相馬市の女子高校生四人に関する番組をやっていました。それは『今伝えたいこと(仮)』という番組で、福島放送が作ったものです。私は途中から見たので、ある方に再放送をDVDに録画して頂き、ゆっくりと見ました。
 来月の二十日には福島教会の似田兼司牧師と二人の信徒の方をお招きして礼拝を共にした後にお交わりの時を持とうとしています。出来たらその前の週に、皆さんにもその番組を見て頂きたいと願っています。そうすることが、二十日の礼拝と交わりの時を一層意義深いものにするだろうと思います。
 その四人の女子高生は、震災後の自分たちのことを演劇にして『今伝えたいこと(仮)』として表現しているのです。(仮)というのは、伝えたいことが現在進行形で変化していくからです。
 その演劇の中で、一人の女子高生が自殺をします。それはインターネットの中で、「いつまでも被害者ぶってんじゃねーよ。福島の奴らは福島に閉じ込めておけ。放射能うつすんじゃねーよ」と、誹謗中傷の言葉を投げつけられたことに原因があります。彼女らは、かつては「原発誘致のお陰で潤っているんだろ!」と非難され、事故が起こった後は、「被害者ぶってんじゃねーよ」と非難されるのです。原発の誘致は自分たちの世代が決めたことではないのに、利益を受けてきたんだから不利益を受けるのは当然だと言われてしまう。
 肌身離さず計測器を持ち歩き、その日の被爆線量を記録する日々は、これから恋をして結婚して子どもを産みたいと願う彼女らにとっては胸が潰されるような日々です。しかし、そういう自分たちがいることを大人はもう既に忘れ始めていることに傷つき、修学旅行の旅先で「どこから来たの?」と聞かれ、「福島です」と答えた時に人々が見せる表情や言葉によっても深く傷ついています。その挙句に、「放射能は伝染するから福島に帰れ」と言われたりもする。自分たちはどうなってもよい存在、ハエ叩きで叩かれるように「塵と死の中に打ち捨てられる」虫けら「とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」と思う他にない扱いを受ける。そういう日々を生きている少年少女がこの国にはたくさんいます。
 その演劇の最後に、自殺した女の子が登場して、観客に向かって語りかけるのです。死者の国から、一語一語、叫ぶように語りかけるのです。

「私が言っていること、真剣に聞いている?ふざけないで!知ったかぶりしないで!お前、私の何を知っているの?何も知らないでしょ!大人の意見ばっかり気にして、子どもの言うことには耳を傾けもしない。なのに『未来の子どもたちのために』??『未来』なんてよく言うよね。お前らが壊したくせに。私たちのこと、ただお気楽に生きている餓鬼だと思っているんでしょ!?ねー、そう思っているんでしょ?!それはそうだろうね。だって、所詮他人だもんね。ねーねー、誰か私たちを助けてよ!

 こう叫んでうずくまるところで照明が暗転して劇は終わります。テレビ画面を通して、私にとっては他人の女子高生が叫ぶのを見聞きするだけでも胸が抉られます。目の前で、自分の娘が叫んだらどうなるかと思います。
 大人たちの無責任さ、建前と本音の使い分け、所詮はすべてが他人事の世界の中で、毎日放射能を浴び、それがどういう結果を自分たちの体に、そして心にもたらすのか分からないという不安。自分たちが産むかもしれない子どもにどんな影響があるか分からないという恐怖。そのことを誰も真剣に考えてくれない。誰もが自分たちとは遠い所に立って、同情したり、怖がったりするだけです。
 復興復旧のために義援金を送ることやボランティアに行くことも大事です。だから継続します。でも、「ねー、ねー、誰か私たちを助けてよ」という叫びを、一体誰が聞けるのか?と思います。また、この叫びを聞くとはどういうことなのか?この叫びに答えるとはどういうことなのか?私には分かりません。分からないのに、あるいは分からないから、この叫びはずっと私の心の中に響き続けています。だから、聞くことは怖いことです。孤独に落ちた人の心の奥底の叫びを聞くことは怖い。しかし、聞かなければ何もできない。本当のことは何もできないのです。しかし、私たちが本当のことなど出来るのか?

 わたしの神よ

 「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」「主よ、あなたただけは、わたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助けてください。」
この叫びは「わたしの神」に向かってのものです。わたしを愛する神です。どんな苦難が与えられても、その苦難の中でなおわたしを愛してくださる神です。どのように愛されているのかは分からない。今の現実の中に愛があるのかも分からない。でも、この時も神はわたしを愛してくれているのだと確信するからこそ、彼は「わたしの神よ」と叫ぶのです。彼にとって、助けてくれる方はこの方しかいない。「ねー、ねー、誰か私たちを助けてよ」ではない。はっきりしているのです。助けてくれる方がどなたであるかは。

 神の選び

 そこに神様の「選び」の確かさがあると思います。多くの日本人は、神様は人間が選ぶものだと思っているように思います。ご利益がありそうな神様を人間の方が選ぶのです。それが信仰、あるいは宗教だと思っている。しかし、聖書の信仰は全く逆です。神様がイスラエルを選んだのです。
 申命記には、こうあります。

「あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(7:6〜7)

「主は荒れ野で彼を見いだし、獣のほえる不毛の地でこれを見つけ、これを囲い、いたわり、御自分のひとみのように守られた。」(32:10)

 神様がイスラエルを選び、宝の民とされた。ご自分の目のひとみのように守られた。そのように神様がイスラエルを選んだ理由、それは彼らの大きさ、立派さではなく、貧弱さです。貧しさです。そういう小さな者、貧しい者を神様は選び、ご自身の宝とし、ひとみのように守り、愛されたのです。
 22編の25節には「主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません」とあります。貧しい人とは切実に助けを必要としている人のことです。神様はそういう人の「助けを求める叫びを聞いてくださいます」と作者は賛美します。その賛美に至るまで、一体どれだけの昼を過ごし、夜を過ごしたかは分かりません。苦難の意味も分からず、神にも人にも見捨てられる悲しみのどん底で、しかし、彼は自分が選んだわけではない、自分を選んでくださった神様に叫び続けたのです。「わたしの神よ、わたしの神よ」と。それはどれほど悲痛な叫びであったとしても、「ねー、ねー、誰か私たちを助けてよ」という叫びとは本質的に違います。助けてくれる方を知っているか知らないかの違いは決定的です。助けられる以前と後の違いよりも大きな違いがそこにはあります。

 実を結ぶために

 この世には「誰か私を助けてよ」と心の中で叫んでいる人々が大勢います。減ったと言っても、年間二万七千人以上の人々が自ら命を絶つ国に私たちは生きているのです。一日に七十三人以上です。一時間に三人。私たちがこうして神様を礼拝している間にも三人以上の方が助けを求めつつ、誰が助けてくれるのか分からず孤独に陥り、死に呑み込まれていく。そういう中で私たちは生きており、そして助け主を知らされているのです。私たちも私たちなりの苦しみの中でその方と出合ったのです。
 今日の長老会で受洗を志願する方も、長く苦しい日々を生きてこられました。しかし、神様の選びの中で、ついに今、「わたしの神よ」と呼びかけることが出来るようになったのです。神様を「わたしの神よ」と呼ぶことが出来る。それに勝る幸いはありません。
 なぜ私たちは「わたしの神よ」と呼びかけることが出来るのか。それは罪のない神の御子イエス・キリストが、私たちと神様を遠く離れてしまう罪の贖いとして十字架の上で祈りつつ死んでくださったからです。神に見捨てられる悲しみ、誰も助けてくれない悲しみを、その身に味わいつつ死んでくださったからです。この方を通して、私たちは神の知らない悲しみも苦しみもないことを知らされたのです。そして、神様が、私たちへの愛の故に苦しみ悲しんでくださることを知らされたのです。そのすべての悲しみと苦しみをその身に帯びて「塵と死の中に打ち捨てられた」御子は、三日目の日曜日に死人の中から甦り、信じる私たちに新しい命を与えてくださる。そこに神様の愛がある。その愛で私たちは愛されている。何があってもその愛は揺らぐことがない。そのことを確信出来る時、私たちは苦難もまた「善き賜物」であると言えるでしょう。そして、そのことが言える者として、「誰か私を助けてよ」と叫ぶ人々に、十字架のイエス・キリストを証することができるでしょう。この方は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と祈りつつ死に、三日目に復活され、今も共に生きてくださるインマヌエルなのです。「この人を見よ」と証する。そのことだけが、私たちが出来る本当のことなのではないかと思います。
 イエス様は弟子たちに言われました。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと。」(ヨハネ15:16)

 だから、私たちはこの礼拝が終わったらこの世へと出かけていくのです。主が成し遂げてくださった御業を告げ知らせるためにです。そして実を結ぶためにです。
説教目次へ
礼拝案内へ