「わたしは虫けら、人間の屑」

及川 信

       詩編 22編 1節〜12節
22:1 【指揮者によって。「暁の雌鹿」に合わせて。賛歌。ダビデの詩。】
22:2 わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
22:3 わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。
22:4 だがあなたは、聖所にいまし
イスラエルの賛美を受ける方。
22:5 わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
依り頼んで、救われて来た。
22:6 助けを求めてあなたに叫び、救い出され
あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。
22:7 わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。
22:8 わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い
唇を突き出し、頭を振る。
22:9 「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」
22:10 わたしを母の胎から取り出し
その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。
22:11 母がわたしをみごもったときから
わたしはあなたにすがってきました。
母の胎にあるときから、あなたはわたしの神。
22:12 わたしを遠く離れないでください
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。

 理由の分からない苦難

 先週から四回連続の予定で詩編22編を読み始め、今日は二回目です。
 なぜか分からないけれど、神様が苦難を与えてくる。そして、その苦難の中で神様に助けを求めても、神様は「遠く離れて」おり、救ってくださらない。助けてくださらない。そういう苦しみがここにはあります。
 先週、私は石巻山城町教会と福島教会の皆さんとの交わりの時を持ち、木曜日の夕方に帰宅しました。その日の晩、毎週礼拝を共にしてきたTMさんが車にはねられ、頭を強く打って予断を許さない状態であることをH夫人(教会員)から知らされました。翌日の夕方、集中治療室におられるTMさんとお会いしました。幸いなことに意識はあり、「及川です」と言うと薄目を開けて「あー、あー」と反応してくださいました。皆様の祈りに加えていただきたいと思います。

 救い 助け

 詩編22編には、「救い」とか「助け」という言葉が何度も出てきます。原語を調べてみると、いくつもの異なる言葉が使われていました。2節の「なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず」の「救う」はイェシュアーという言葉で、英訳ではしばしば「ヘルプ」と訳されています。この言葉はイエス様に通じる言葉です。イエスとは「主は救い」を意味する名前なのです。5節後半の「依り頼んで、救われて来た」はパーラトで、9節にも出てきます。「困難な状況から解放する」という感じかなと思います。9節の「主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう」の「助ける」は、ナーツァルで、危険な状況にいる人を手でつかんで強引に引っ張り出すという感じのようです。21節の「わたしの魂を剣から救い出してください」が同じ言葉です。12節や20節に出てくる「助ける」はアーザルです。危険からの救助という意味でしょう。
 「助ける」とか「救う」と一言で言っても、そこには様々な意味があります。災害や事故や病気に見舞われた時に命が助かる、救われるということだけが「助け」とか「救い」の意味ではないでしょう。私たちはいつか必ず皆死ぬのですから。そして、死んだらすべてが終わりということではないのですから。

 誰か私たちを助けてよ

 先週私は、福島県の四人の女子高生たちが作った演劇の話をしました。今日の午後の西南支区主催の「3・11を覚える礼拝」においても、そのことを中心に短く語ります。その演劇の中では、放射能汚染に脅かされている一人の女子高生が心無い誹謗中傷によって自ら命を断ってしまうのです。しかし、その女の子が劇の最後に登場して大人たちの無責任さを痛烈に批判し、「ねー、ねー、誰か私たちを助けてよ」と叫んで顔を覆ってうずくまる。そこで舞台は真っ暗になり、劇は終わります。
 「ねー、ねー、誰か私たちを助けてよ」というこの叫びを一体誰が聞けるのか、誰が答えることができるのか、誰が助けることが出来るのか、「助ける」とはどういうことなのか。その問題をずっと考えています。原発事故から二年を経て、福島県からは十五万人もの人々が各地に避難し、各地で非常に辛い生活をしている場合が多いし、残っている人々は今も不安と恐怖、怒りと悲しみの中にいる。特に未来を壊された若い方たちの怒りと悲しみは深いのです。

 被災地訪問

 石巻山城町教会と福島教会をお訪ねするのは今回で四度目です。前回は、訪問の帰りに福島で車を借りて第一原発の北側の海岸線や避難地域に指定されている地域を走りました。そこにはもう二度と耕されることがないであろう荒れ果てた田畑と、もう二度と人が住むことがないであろう民家がたくさんありました。そして、中にいた牛たちはすべて殺されたのであろう牛舎がいくつもあり、心が痛みました。
 今回は、車でしたから行きに原発の南側の海沿いを走りました。海沿いは津波で完全に破壊されています。あの日から二年が経ちますから、家屋の瓦礫は撤去されてコンクリートの土台だけが残っている地域が多くなっていました。しかし、立ち入り禁止区域ギリギリの双葉郡楢葉地区の高台地域には住宅や店は建っていても人は住んでいないのです。田畑には大きな黒い袋が整然と並んでいます。放射能に汚染された土を入れた袋です。その場所から急な坂道を下って海岸線に行くと小さな入江があり、そこには集落があったはずですが、滅茶苦茶に破壊された家屋や耕運機などがまだ撤去されぬまま残っていました。そこだけは時が止まったような感覚を覚えます。
 自宅が破壊された方も残った方も、放射能汚染がある限り、その地には住めないのです。もう二度と住めないかもしれません。何千、何万という人々が土地と家を手放さざるを得ず、仕事を失い、家族や地域の交わりを失い、仮設住宅や県内外の見知らぬ地に避難し、苦しい生活を余儀なくされています。

 苦しみ

 そういう人々にとって「助け」とか「救い」とは何なのか。詩編22編の作者同様に、現在の苦難の原因に自分たちの罪があるわけではない人々は、突然襲われた苦難をどのように受け止め、どのようにして乗り越えていくことが出来るのか。
 ご自宅が放射能汚染地域になってしまった方たちは、福島県内に避難した場合でも様々な苦しみに遭遇するのだそうです。その中で最も辛いのは避難先の人々からの言葉です。「自分たちは税金を払っている住民だ。その税金が避難者のために使われるのは嫌だ。」「あんたらは、以前は原発の恩恵を受けて潤っていたではないか。」そういうことを言われることがあると、福島教会の方から聞きました。
 先日テレビで見たことですが、東京の公営住宅にたった独りで避難せざるを得なかった高齢の女性も、周囲の住民から同情されるよりはむしろ「ただであの住宅に住んでいるんでしょ?毎月幾ら位、補助金を貰っているの?」と言われたりしていたたまれない思いになるのです。なぜ、そんなことを言われなければならないのか、その理由は分かりません。すべてを失った苦しみを倍化させるのは人々の心無い言葉です。そういう言葉を浴びせられる苦しみは、恐ろしく深いと言わざるを得ないと思います。

 「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。」

 自分なんて生きている価値がない。生きていること自体が迷惑なのだ。人々の邪魔なんだ。そう思わざるを得ない。そういう人々が求める「助け」は何か?住宅なのか?補助金なのか?そういうものが必要であることは言うまでもありません。でも、人は、そういうものを与えられることで人として生きていけるわけではないし、真実な意味で助けられているわけでも、救い出されているわけでもないでしょう。人はパンだけで生きるものではないからです。「誰か私たちを助けてよ」という叫びは、若い人たちだけが上げているわけではありません。

 石巻山城町教会で知らされたこと

 水曜日は、石巻山城町教会の聖研祈祷会で奨励をさせていただき、その後、出席された数名の方たちと交わりの時を持ちました。大変嬉しいことに、一昨年の秋、皆さんの祈りと献金で実現した井上とも子先生のチェロコンサートと伝道礼拝に来られたOさんという女性が洗礼を受ける決意をされたことをお聞きしました。その方は教会の真ん前の家で生まれ育ち今もそこにお住まいなのですが、津波でご主人を亡くされました。石巻は海と川に沿った地域一帯が津波に襲われ、火災も起きて、行方不明者を合わせると四千人近くの方が亡くなるというとてつもない悲劇を経験した町です。その中にはたくさんの園児、児童がいます。痛ましいことです。
 Oさんは、海に近い店でご主人と商売をしていた時に大地震に襲われました。揺れが収まった後に、寝たきりの母上の様子を見るために車で自宅に帰り、無事を確認してから再びご主人がいる店に向かわれたのです。しかし、途中で渋滞に巻き込まれて立ち往生してしまった。その時に海のほうから水が押し寄せてきて、周囲の方の助けを得て何とか車から脱出して塀に掴まったそうです。その時、脱出できなければ車ごとどこまで流されたか分かりません。あの日は、雪が降ってきました。Oさんが冷たい水にほぼ全身浸かったまま塀につかまって立っていると、様々なものが流れてくるのだそうです。命を落とした方の体も流れてきたそうです。
 夜になってから、ボートに乗って懸命な救助活動をしてくれた消防隊員に助けられ、その晩は消防署で夜を過ごされたそうです。全身冷たい水に浸かっていた人々の中には、低体温症で命を落としてしまった方もおられたのですが、Oさんは生き延びました。しかし、ご主人は店の中で亡くなっていたことが後日分かり、遺体安置所で確認をされた。それは傷だらけだったり、やけどだらけだったりと悲惨な状態のご遺体をいくつも見た上でのことです。そういう残酷な経験をされた方が、被災地には何人もおられます。
 Oさんは、幼い頃は教会学校のクリスマス礼拝に参加したり、当時の牧師さんに英語を習ったりしたそうです。しかし、東京の音楽学校(高校から)に入学して以来、郷里に帰った後も教会の中に足を踏み入れたことはないのです。でも、幼馴染である山城町教会の会員の女性に誘われてコンサートに来られた。そして、その翌日の伝道礼拝にも出席され、以後、毎週の礼拝を守り始められました。
 先月、長く看取ってこられた母上が亡くなり、葬儀は教会でなさったそうです。容態が悪くなった時に山城町教会を牧会している関川牧師がなんども見舞い、祈ってこられたからです。そして今、Oさんはイエス・キリストの救いを信じて洗礼を受ける決意を固められた。あの地震と津波で、まさに地獄絵図のような惨劇を経験し、ご主人を亡くし、母上を亡くし、お子さんはおられないそうですから、自分だけが地上に残された時、主イエスを信じる信仰が与えられたのです。
 消防隊員の救助によって命は助かったのですが、それですべてが解決したわけではない。「ああ、助かった。よかった」と終わったわけではない。そこから始まることがあるのです。「助け」とは、深い次元を持つ言葉だし現実だと思います。

 同信の友からの嘲笑

 詩編22編の作者は、理由が分からない苦難の中にいます。その苦しみを倍化させるのが人々の嘲笑であり、攻撃です。先程来言ってきていますように、それは日本で今起こっていることと重なります。でも、違うこともある。それは、詩編22編の作者を嘲笑し、攻撃する人々は、彼と同じ信仰を生きているはずの人々であるということです。同胞でありまた同信の友なのです。そこが違う。
 先日、私はある友人とメールのやり取りをしました。友人は都立高校の教師で、日の丸・君が代の強制問題で厳しい戦いを強いられている人です。私は、彼に「自分はそういう厳しい戦いに耐えられない。信仰を前面に出してよい現場、つまり教会での戦いは出来るが、国家権力を相手に個人の信仰をもって戦うなんて絶望的なことはできない」という趣旨のことを言いました。しかし、彼はその逆で、「自分は社会の中で思想信条の自由のために戦うことは出来る。でも、同じ信仰を与えられているはずの教会の中で無理解や批判の目にさらされることは耐え難い苦しみだ。迫害とすら感じる」と言ってきました。
 同じ国民であっても一つの思いになれないことは、苦しいことです。しかし、同じ神を信じているはずの信仰者同士が一つ思いになれないことは、さらに苦しいことです。しかし、そういうことはいくらでもあることです。

「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」

 こういう嘲笑をもって攻撃をしてくる人々は、「主」を知っている人々です。そういう人々からの嘲笑を受ける。そこに彼の苦しみがあります。

 苦難と信仰

 石巻山城町教会や福島教会の方たちが経験したこと、今も経験していることは大変な苦難です。その苦難の一つ一つを少しずつ知らせていただいて思うことの一つは、「そんな目にあって、今もなお神様は愛であると信じることが出来るのは何故ですか」という思いです。世間には、神など頼らず自分の足で立つべきだと主張する人はいくらでもいるし、そもそも存在しない神を信じている方がおかしいと言う人もいます。
 しかし、山城町教会でも福島教会でも、この震災を通して信仰を捨てた人はいないのです。神が愛だなんて嘘っぱちだ、信じていた自分が愚かだった、と思って信仰を捨てた人はいない。教会の方たちは、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と問うて来られたのです。教会の方たちにとって、あの惨劇の中でも主はなおも「わたしの神」であったのです。そう信じているのです。だから問いかけ、訴えることが出来るのだと思います。主が「わたしの神」であると信じるとは、自分は主にとって「わたしの民」であると信じるということです。

 わたしの民

 「わたしの民」
という言葉は出エジプト記に頻出します。その最初は、主がイスラエルをエジプト人の手から救い出す決意をモーセに告げる言葉の中です。

「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見た」。
「追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞いた。」
「その痛みを知った。」
「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す。」
(出エジプト3:6〜8)

 これは、ヤコブたちが難民としてエジプトに下ってから四百年を経た後の言葉です。彼らは四百年間エジプトの奴隷であったわけではありません。最初は恵まれた境遇の中で遊牧民として生きていたのです。しかし、時代の変遷の中で次第に奴隷の身分に没落していきました。その苦しみの中で、主に助けを求めて叫んだのです。「あなたの子孫にこの土地を与える」というアブラハムへの約束を思い出して欲しいと叫んだのです。しかし、その声が主に届かないと思わざるを得ない期間がありました。
 しかし、彼らがアブラハムの子孫であり、主にとって「わたしの民」であることに変りはありません。だから、主は彼らの苦しみを見、その叫びを聞き、その痛みを知ってくださるのです。そして、主が決めた時に「降って行き」「救い出し」てくださる。ここでの「救い出す」はナーツァルで、困窮している者を手で掴んで強引に引っ張り出すという意味です。22編では9節と21節にでてきます。
 神様は人間の思い通り、あるいは期待通りに動かれる方ではありません。また、人間をご自分の思い通りに動かす方でもない。私たちはいくらでも背くことが出来ますし、事実背いています。神様は、ご自身の言葉で人間に語りかけ、人間の決断を求める方です。応答を求めるのです。信仰を求めると言ってもよいでしょう。モーセは、イスラエルの指導者に立てられることに対して激しく抵抗しましたが、結局、彼自身が受け入れたのです。神様は彼を通してイスラエルに語りかけました。イスラエルの民は幾度も不信の罪に陥りました。しかし、主に鍛えられ、練り清められ、主を「わたしの神」として依り頼み、縋りつく時に、救い出され、助けられてきたのです。そして、主に感謝を捧げ、賛美を捧げてきたのです。

 想起

 22編の作者は、主が遠く離れてしまい、自分は見捨てられたと思わざるを得ない時、何度もイスラエルの出自を思い返し、自分自身の出自を思い返すことで信仰に踏み止まったのだと思います。
 1節から12節までを読んでみると、彼は嘆きの後に先祖のことを思い返し、また自分が産まれた時のことを思い返していることが分かります。

「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み
依り頼んで、救われて来た。
助けを求めてあなたに叫び、救い出され
あなたに依り頼んで、裏切られたことはない。」

 ここで彼が想起していることは、なによりも出エジプトという救済の出来事でしょう。苦難の中で主に叫び、そして救い出され、神の民とされてきた先祖を思い起こすことが彼の支えなのです。自分もまた、この理由の分からない苦難の中で、主を「わたしの神」と信じて叫び続けよう。その信頼は決して裏切られることはないはずだ。彼はそう信じて叫び続けたに違いありません。
 しかし、それでも主が「答えてくださらない」時があったのです。そういう時の中で、彼は自分の存在の価値を見失っていきます。

「わたしは虫けら、とても人とはいえない。
人間の屑、民の恥。」

 その後、彼は自分自身の誕生の時を想起します。

「わたしを母の胎から取り出し
その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。」

 自分に命を与えてくださったのは神様ではないか。生まれてからずっと、私はあなたにすがってきたではないですか。いや、母の胎にあるときから、あなたは私の神なのです。私にはあなたしかいないのです。だから、私を遠く離れないでください。助けてください。彼は叫び続けます。この後、22節までその叫びは続くのです。
 先週も言いましたように、このように主に叫ぶのは彼が主を信頼しているから、主にのみすがっているからに他なりません。主だけが「わたしの神」であり、主にとって自分は「わたしの民」であることを確信しているのです。だから、主は必ずや自分の苦しみを見、その叫びを聞き、その痛みを知ってくださる。そう確信しているのです。神に選ばれた者とはそういう者です。自分が神を選んだのではなく、神に選ばれて信仰を与えられた者の信仰はなくなりません。それは神が与えた信仰だからです。そして、私たちはその選びの中に置かれています。

 御言葉に導かれて

 石巻山城町教会の『東日本大震災記録』をお読みになった方は、「御言葉に導かれて」という文章を覚えていらっしゃるかと思います。家の一階部分が破壊され、電気もガスも食料もない中たった独りで四日を過ごし、漸く消防隊員に救助された方の文章です。お名前を言ってもよいと思いますが、HYさんという方です。先日、お会いすることが出来ました。
 HYさんは、そういう厳しい苦難の中で御言葉に導かれ、支えられて生き抜かれました。大地震に襲われた時、隣家の奥さんは気が動転して「大声で泣き喚いて」家から飛び出てきて、芳賀さんも茫然と立ち尽くした。しかし、その瞬間に「主が与え、主が奪う。主の聖名をほめたたえよ」という御言葉が口から「自然と出てきた」そうです。その後も、家の両隣の人たちがヘリコプターで救助され、次は自分の番だと思って待っていたのにもうヘリコプターが来なかった。それは絶望的な悲しみに襲われる時だと思うのですが、「わたしの時ではなかった」し「神様の時でもなかった」と思い、「神様は必ず助けに来て下さることを信じて待っていた」そうです。まさに詩編の世界がここにあります。
 四日目の午後三時頃、ボートで救助される時は「ノアの箱舟」のことを思い起こし、避難所で飴三つ、クラッカー三枚だけの夕食を貰った時は荒れ野放浪時に天から一日ごとに降ってきたマナを思い出し、四日も食べていない自分にはちょうどよい量であり、「神様は必要な分だけを与えてくださった」と思う。避難所では様々な年齢層の人々がごっちゃまぜになり、泣き喚く幼子もいます。その時「オオカミが小ヤギと宿を共にする」(イザヤ書11章)という「御言葉が耳にささやいていました」とお書きになっています。
 HYさんにとって、聖書に書かれていることは自分の先祖が経験したことであり、だからこそ自分が経験することなのです。そして、先祖は苦難の経験、苦難から救い出された経験を通して、主に感謝し、主を賛美したのです。だからHYさんも、最後にこうお書きになっています。

「私たちは神から幸福をいただいているのだから、不幸もいただこうではないか」。神様は御言葉を通していつも一つ一つの出来事に生きて働き、私たちの生きるすべを示して下さっている事に気付かされました。災害を通して神様に覚えられ多くの事を学ぶことが出来ました。感謝しつつ御言葉に聞き従う生涯となります様見守って下さいと、祈りつつ歩みたいと思っています。」

 真実の助け 救い

 神様に助けられる、神様に救われる。それはまずは、水の中から救助される、火の中から救助されるということでしょう。しかし、それだけではない。たとえ水の中に溺れても、火に焼き尽くされても、自分が神様に覚えられていることを知る。死も共にして、復活に導いてくださる方がいることを知る。信じる。そして感謝し、賛美する。そこに主が私たちに与えようとしている助け、救いがあるのではないだろうか。
 十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれた主イエスが、どんな時も共にいてくださることを知る。それが、私たちに与えられている助け、救いなのではないか。
 主イエスは、十字架の死から三日目の日曜日に死人の中から復活し、弟子たちに現れてこうおっしゃいました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。(中略)わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18、20)

 この主イエスの言葉を信じることが出来ることこそ、真の助け、真の救いだと思います。その救いを与えられたパウロはこう言っています。

「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ一4:8〜9)

「どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。」(フィリピ1:20)

 たとえ虫けらのように死んだとしても、屑のように投げ捨てられたとしても、辱めの中に殺されたとしても、主を「わたしの神」と信じている私たちは、神様の愛する民、宝の民であり、目のひとみのように大切にされているのです。だから、私たちは嬉しいのです。だから私たちには望みがあるのです。だから、私たちは救われるのです。その救いを一人でも多くの方に証をしつつ歩む者でありたいと願います。
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