「主よ、あなただけは」

及川 信

       詩編 22編 13節〜22節
22:13 雄牛が群がってわたしを囲み
バシャンの猛牛がわたしに迫る。
22:14 餌食を前にした獅子のようにうなり
牙をむいてわたしに襲いかかる者がいる。
22:15 わたしは水となって注ぎ出され
骨はことごとくはずれ
心は胸の中で蝋のように溶ける。
22:16 口は渇いて素焼きのかけらとなり
舌は上顎にはり付く。
あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。
22:17 犬どもがわたしを取り囲み
さいなむ者が群がってわたしを囲み
獅子のようにわたしの手足を砕く。
22:18 骨が数えられる程になったわたしのからだを
彼らはさらしものにして眺め
22:19 わたしの着物を分け
衣を取ろうとしてくじを引く。
22:20 主よ、あなただけは
わたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ
今すぐにわたしを助けてください。
22:21 わたしの魂を剣から救い出し
わたしの身を犬どもから救い出してください。
22:22 獅子の口、雄牛の角からわたしを救い
わたしに答えてください。

 私たちは今、イエス・キリストの十字架への道行きを覚える受難節を生きています。三月は、イエス様が十字架上で叫ばれた言葉「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」に始まる詩編22編を読み続けています。今日で三回目になります。

 理由が分からない苦難

 この詩編の特色の一つは、苦難の理由が分からないということです。自分の罪、あるいは過失によって苦しむ。そういうことが私たちにはあります。それはそれで、大変な苦しみである場合があります。しかし、少なくともこの詩人にはそういう罪の自覚がない。彼は幼い頃から信仰の家庭に育ち、ただ主だけを「わたしの神」としてすがってきたのです。不信仰の罪がない。それなのに、彼は今、激しい苦難に襲われており、その様を見て人々が容赦なく責め立ててくるのです。苦難の具体的内容は分かりません。重い病気なのか、災害にあったのか、彼を嫌う者たちの謀略にはめられて窮地に陥ったのか。それは分かりません。
 しかし、激しい苦難に陥る彼を見て
「主に頼んで救ってもらうがよい。
主が愛しておられるなら
助けてくださるだろう。」
 と嘲る人々がいる。その嘲りの中で、彼は「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥」と感じざるを得ない。人間としての尊厳が踏みにじられて、生きる意味も生きていく希望も奪い取られる。そういう苦しみの中で、彼は叫びます。

「わたしを遠く離れないでください
苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。」

 被災地 TMさん FKさん

 先週語りましたように、私は五日から七日にかけて石巻山城町教会と福島教会の皆様との交わりの時を持ち、被災地の今の様子を少しだけ見ながら帰って来ました。突然襲ってきた災害によって命を失った人たち、家族、親族、友人など愛する人々の命を失った人たち、故郷での生活を奪われ、仕事を奪われ、平凡で幸せな家庭生活を奪われた人たち、今もなお放射能汚染の恐怖の中で生きている人たち。苦難の中でなんとか望みをもって生きていこうとする人たち。苦難が与えられたことをむしろ感謝する人たち。様々な人がいます。
 私は何のためにこういう苦難があり、なぜあの人々がその苦難を味わい、なぜ私ではないのかを考えざるを得ません。その「なぜ」という問いそのものが無意味なものかもしれませんし、その問いに対する答えはないのかもしれません。少なくとも一般的な答え、誰にでも妥当するような答えはない。個人個人がその人にとっての答えを見いだしていく他にないのだろうと思います。直接的な被災をしていない私は、私ではなくあの人たちが被災して今も大きな苦難の中にあるのはなぜかを考える立場だし、その方たちとどういう交わりを持つことが出来るのかを考える立場なのだと思います。
 そういうことを考えつつ帰ってきた七日(木)の晩、三日の礼拝も共に捧げたTMさんが交通事故に遭い、頭蓋骨骨折と脳挫傷という重篤な状態であることをH夫人から知らされました。青信号で交差点を渡っていたのに、右折してきたトラックにはねられてしまったのです。翌日、H夫人に伴われて救急治療室にお訪ねした時の痛ましいお姿を見て、どうしてこういうことが起こるのか、なぜTMさんなのかと思わざるを得ませんでした。
 TMさんは、事故の二日後にはご家族と言葉を交わすことが少し出来て、徐々に回復していかれるのではないかと思われました。しかし、実際には脳内出血が止まらず、十四日の午前三時過ぎに息を引き取られたのです。昨日、この礼拝堂でご葬儀を致しました。多くの方がご参列くださったことを感謝します。
 しかし、昨日の朝、葬儀の準備と礼拝説教の準備をしている時、FKさんのご長女からお電話があり、FKさんが零時頃ご自宅の浴槽内で亡くなったことを知らされました。とても疲れておられた様で、入浴中に意識がなくなったようです。ご主人は今、アフリカのタンザニアにおりどんなに早くても今日の晩か明日の晩にならないと帰国できないそうです。昨日、TMさんの火葬が終わってから、Y市の葬祭センターに行き、納棺式をした後、ご遺族と相談して葬儀は、二十日(水)の午後一時半に決めさせていただきました。FKさんとは十三日の水耀会(婦人会)で一緒に聖書の学びをしましたばかりですから、なんと言ったらよいか分かりません。

 神の罰ではない

 本人の罪や過失が原因ではない苦難があり、何故かその苦難を身に帯びる人がいる。もちろん、いつ誰が「その人」になるかは分かりません。イエス様は、生まれながらの盲人を見て、誰の罪が原因でこの人はこういう障碍を負ったのかと弟子に問われた時、「罪が原因ではない、ただ神の御業が現れるためだ」とおっしゃいました。また、権力者に虐殺された人々がいることを知らされた時、「その人々が他の人々よりも罪深い者だったからそういう目に遭ったわけではない」とおっしゃった。さらに、突然倒れてきた塔の下敷きになって死んでしまった人々に関しても、「他の人たちより罪深かったから死んだのではない」とおっしゃったのです。
 三日の説教で賀川豊彦という人の言葉を紹介しました。賀川は、大正時代から昭和の半ばまでキリスト教界に留まらず社会の中にも大きな足跡を残した人です。彼は、関東大震災の現実を目の当たりにした後、「義人の苦難」が主題であるとしばしば言われるヨブ記について記した文書を書きました。その中で「苦痛の反面には喜悦、歓喜にまで伸び上がる力がある」と言っています。
 ヨブは、神に従うという点では完全な人であるのに激しい苦難を経験した人物として描かれています。彼の友人たちは、ヨブに強く同情したのですが、ヨブに与えられた苦難は彼に何らかの罪があったからであると主張するようになります。
 しかし、ヨブは自分に与えられた苦難は罪に対する「神罰ではない。又自分の欠点の為でもない」と断固主張し、罪と苦難の因果関係を否定するのです。そして、苦難の意味を探求する。そのことを賀川は高く評価します。
 私たちは苦難の原因、災害や事故の原因に人間の罪を見ようとします。見なければならない例はいくらでもあります。人間の傲慢が引き起こす人災や事故はたくさんあるのですから。しかし、その人災や事故に見舞われる人に罪がないこともいくらでもあります。もちろん、それは他の人と比べてより大きな罪、神から罰せられるべき罪がないという意味です。
 ヨブは神の前でも罪がない「完全人」であると賀川豊彦は解釈しているかもしれません。しかし、たとえ「完全人」であったとしても災害は襲ってくる、病気になることもある。事故に遭うこともある。そして、最後は死ぬ。しかし、それは神罰ではないと、賀川は言います。
 その一方で神に背く罪を犯し、神罰が下っても当然だと思われるのに、病気にもならず、事故にも遭わず、災害にも遭わず、むしろこの世的には安穏にまた裕福に生きている人々もいる。その問題をどう考えるのか。激しい苦難を経験する者と、そうでない者がいる。その現実の中で神様は何をなさっており、またなさっていないのか。そして、何をすることを私たち人間に求めておられるのか。
 詩編22編の作者は、今、「雄牛」とか「獅子」とか「犬」と呼ぶほかにない残酷な人々から責め立てられ、「骨が数えられる程になったわたしのからだを、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」と呻かざるを得ませんでした。彼はもう死んだも同然の扱いを受けているのです。「着物を分けてくじを引く」とは、イエス様の十字架の下でローマの兵隊がやったことです。処刑されて死ぬ人間の衣は処刑執行人のものになるのです。そのためのくじ引きを、まだ死んではいない人間の前ですることは最大の侮辱です。虫けら以下、死人として扱うということだからです。
 こういう苦しみを味わわねばならぬ理由が彼の中にはない。このような罰を神様から受けなければならない理由がない。だとするならば、それは神からの罰ではない。しかし、それでは何なのだ。それが問題になります。
 詩編22編を読み始めた時から実はその問いがずっと続いており、その間に被災地の現実を少し見聞きしたり、TMさんの事故死やFKさんの死を知らされたりすることを通して、その問いは深まっていきます。もちろん、一週間二週間考えて分かるようなことではないし、一生分からないことかもしれません。
 でも、この問いは究極的にはイエス様の十字架の意味を問うことです。あそこで何が起こっていたのか、神様は何をなさっていたのかを問うことですし、あの十字架の苦しみと自分の関係を問うことです。信じるとは、その問いを持ち続けるということかもしれません。ヨブもまた、神様に問い続けた人です。

 苦難と歓喜

 賀川豊彦は、「苦痛の反面には喜悦、歓喜にまで伸び上がる力がある」と言いました。実際、22編の後半は圧倒的な歓喜と賛美があります。来週そこに入ることに恐れと期待の両方を感じていますけれど、その歓喜や賛美は神様によって「塵と死の中に打ち捨てられた」と言わざるを得ない苦しみを通して与えられたものです。その絶望的な苦しみを経ないでは与えられない歓喜と賛美がある。そういうことでしょう。

 なぜ、わたしたちではなく、あなたが?

 この問題を考えている時に一つの詩を思い出しました。神谷美恵子という方が、ハンセン病患者の療養所である長島愛生園に十二日間滞在した時にうけた衝撃を書いたものです。29歳の時のことです。神谷さんは、後に精神科医となり若き日に訪れた長島愛生園で働くことになります。当時は、ハンセン病ではなく「らい病」と呼ばれていました。伝染力は弱いのですが顔や四肢など目に見える部分が変形する特徴があるもので、人々から非常に恐れられ、患者は厳しい差別を受けてきました。まさに虫けら、屑、恥として扱われたのです。その病に罹った人がいると分かれば、家族はその地に住むことは困難でした。ですから、患者は極秘のうちに「療養所」と呼ばれる隔離施設に移され、本名を隠し、家族との連絡も絶ち、さらに男女共に避妊手術を受けることを求められたのです。つまり、命を継承することが許されず、患者同士が結婚して妊娠すれば強制的に中絶させられたのです。そういうとてつもない苦しみを経験している人々がいる。
 若き神谷美恵子は、その悲惨な現実を間近で見た時にこういう詩を残しました。

 らいの人に(当時の呼び名です)

光うしないたるまなこうつろに
肢(あし)うしないたるからだになわれて
診察台(だい)の上にどさりとのせられた人よ
私はあなたの前にこうべをたれる

あなたはだまっている
かすかにほほえんでいる
ああ しかし その沈黙は ほほえみは
長い戦いの後にかちとられたものだ

運命とすれすれに生きているあなたよ
のがれようとて放さぬその鉄の手に
朝も昼も夜もつかまえられて
十年、二十年、と生きてきたあなたよ

なぜ私たちではなくてあなたが?
あなたは代わって下さったのだ
代わって人としてあらゆるものを奪われ
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ。

ゆるして下さい らいの人よ
浅く、かろく、生の海の面(おも)に浮かびただよい
そこはかとなく 神だの霊魂だのと
きこえはよいことばをあやつる私たちを

ことばもなくこうべたれれば
あなたはただだまっている
そしていたましくも歪められた面(かお)に
かすかなほほえみさえ浮かべている

 神谷さんは後にこの詩を「いかにもセンチメンタルで気恥ずかしい」と書いていますが、当時の療養所では、ほとんど毎日亡くなる人がいたそうです。むしろそのことが望まれていたのかもしれません。彼女が、精神科医として勤務された1965年以降でも、「盲人は二割以上、下肢を切断した人、指のない人など、何人もいる」とのことです。
 50歳を超えた神谷さんは、
「こういう人たちの前に立つとき、すわるとき、いまなお時どき、突如として心に響いてくるのはあのことばなのだ。
 なぜ私たちではなくあなたが?
 あなたは代わって下さったのだ」
 と書きます。
 彼女は、本人の罪や過失が原因ではない苦しみの問題を二十年、三十年と考え続けているのです。そして、「身代わりの苦しみ」ということを考える。ただ机上で考えるのではなく、自分の身代わりになって苦しみを受けてくれている人々と共に生き、共に苦しもうとする。「浅く、かろく、生の海の面(おも)に浮かびただよい そこはかとなく 神だと霊魂だのと きこえはよいことばをあやつる私たちを」赦してくださいと願いつつ。
 そのように頭(こうべ)をたれる神谷さんの前で、ドサッと物のように診察台の上に置かれた病の人は、黙ったままかすかな微笑をうかべている。その方の内面世界、そして、その方と神谷さんの間にある世界、それは物凄く深いものであり、一般化できるものではないと思います。その人、その人たちしか知らない。そういうものでしょう。しかし、そこに神がいる。神様だけが、御子をあの十字架に磔にした神様だけが知っている。また、あの十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエス様だけが知っている。そういう世界があるように思います。

 苦しまなかったら

 天に移されたTMさんは月刊誌「信徒の友」の愛読者であり、特に「日ごとの糧」に出てくる御言葉を三箇所読むことを日課としておられました。時折、その御言葉で分からないことがあるとメールで尋ねてくださったり、礼拝後に質問してくださったりしました。その「信徒の友」四月号の特集は「復活節・希望に生きる」というものです。
 その中に「まばたきの詩人」としてよく知られた水野源三さんの記事があります。TMさんもお読みになったでしょう。水野さんは、9歳までは元気な少年だったのです。しかし、当時流行った赤痢による高熱で重い脳性まひを患い、以後寝たきりになり、言葉も話せなくなりました。唯一残ったコミュニケーション手段は、まばたきなのです。母上が黒板に書かれている五十音のひらがなを「あ」から順に指差していき、自分が願っている文字の所に指が来るとまばたきをする。そうやって一字一字を拾うことで意思の疎通をしておられたのです。
 その水野さんと宮尾隆邦牧師が出会うことを通して、水野さんはイエス・キリストと出会って行かれました。そして、多くの短歌や詩を残していかれたのです。
 「信徒の友」に掲載されている短歌を年代順に追って詠ませて頂きます。

神様の愛知らずして病苦にまくらぬらした夜もありしか(1971年)

御心はいかにあるかと思いつつ 蛍のあわき光見ており (1973年)

死にたいと思ったことがあるかと 姪に聞かれぬ木枯らしの夜 (1980年)

 全身が麻痺し、しゃべることが出来ず寝たきりでいる水野さんに、素朴に尋ねたのでしょう。「死にたいと思ったことはないの?」と。その時、水野さんは何と答えたか、それは分かりません。声に出して語ることはできないのですし。ただ黙って静かに微笑んだのかもしれません。その微笑みの深さ、悲しみの深さは余人には知り得ないことです。
 今度は、三つの詩を読みます。

「あの日あの時に
戸の外に立ちたまう主イエス様の
御声を聞かなかったら
戸をあけなかったら
おむかえしなかったら
私は今どうなったか
悲しみのうちにあって
御救いの喜びを知らなかった」(1969年)

悲しみよ

悲しみよ 悲しみよ
本当にありがとう
お前が来なかったら
つよくなかったなら
私は今どうなったか
悲しみよ 悲しみよ
お前が私を
この世にはない大きな喜びが
変らない平安がある
主イエス様のみもとに
つれて来てくれたのだ(1969年)

苦しまなかったら

もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった
もしも多くの兄弟姉妹が
苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった
もしも主なるイエス様が
苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった(1974年)

 今日はUTさんが洗礼を受けられました。試問会でUTさんが語られた信仰告白は、その場にいた私たちを圧倒しました。神様の深い憐れみと導きの事実を知らされたからです。UTさんにお許しを頂いて、その一部をご紹介したいと思います。
 UTさんのご両親は、なかなか子どもが生まれないということで郷里に居辛くなり、逃げるようにして遠い東北の地に行かれたそうです。UTさんは、その後のことをこうお書きになっています。

「その後も残念ながら流産が3回続き、やっと生まれた姉は、ダウン症という発達障害を持っていました。障害児を産んだことに母は苦しみ、自殺まで考えたとのことですが、2年後に私が生まれました。偏見や差別に苦しむ母を、神はいつも見守っていて、時期をみて私に命を与え、母を救うために贈り物としたのだと思います。
 姉にとっても私が贈り物であったことは、キリスト教精神に基づく幼稚園に入園した経緯に現れています。そして私にとっても、姉の存在が重要な意味を持つことになります。
 姉が幼稚園に入園できる年齢になってから、母は、自宅から通える範囲で可能な限り探し続けました。しかし、障害児を受け入れる幼稚園は一つも見つかりませんでした。姉が不適格とされた理由とは、一人になると黙りこんでしまい、名前を呼んでも返事をしないなど、手がかかりすぎるというものでした。
 困り果てた母が最後にたどりついたのが、メソジスト派の幼稚園でした。事情を話したところ、『障害があっても気にしない』と、快く入園を認めてくれました。面談の時、私と一緒にいると姉が活発になることに気付いた園長先生は、『一年待って、弟と一緒に入園する方が良いでしょう』と提案しました。入園時期が先送りとなったものの、結果的にはこの判断は正しいものでした。姉が泣いたり騒いだりしたときには、年少組にいた私を呼んで、隣に座らせて落ち着かせたそうです。私は今でも、姉と並んで給食を食べていたことや、ぬり絵をしていたことなどを思い出します。
 この幼稚園の教育方針は、テサロニケの信徒への手紙一の結びの言葉からとられています。

「いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 どんなことにも感謝しなさい。」

 姉が障害者だったからこそ、この幼稚園で教育を受けることができ、キリスト教に出会いました。キリスト者の献身と愛情により育てられ、それを通して神とイエス・キリストの愛に包まれた日々を過ごすことができました。
 また園長先生は、教え子が信仰に目覚めた時に備えて、宗教教育としての幼稚園教育を考えていたとのことです。当時はキリスト教を意識していませんでしたが、給食前のお祈りや、クリスマス劇のことを今でも思い出すのは、まかれた種が芽を出していたということでしょう。卒園してから40年も過ぎましたが、物質文明の中に放たれた私が、神とイエス・キリストを心で感じる信仰生活に入ることを決意したのは、やはり運命だったと言えるでしょう。この幼稚園で学べたことを喜び、そして姉が障害者であったことにも感謝したいと思います。」

「それでも私は、決して強い人間ではなく、様々なことで心に傷を負った弱い存在です。小学校では姉が特殊学級にいたため、同級生からは、『あんな変なのを学校に連れてくるな』と言われ、大学や会社で働くようになってからも、暴言を吐く無神経な教授や上司に苦しめられました。
 しかし礼拝に参加し、ルカによる福音書で、幸いについてイエスが弟子たちに語った言葉に出会った時、傷つき弱った私をそのまま受け止めてくれる愛情を知り、癒されました。
『人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。』
 この言葉に出会えたことを感謝し、これからの新しい人生では、正しい者に一歩でも近づけるように、神とイエス・キリストにすべてをゆだねようという気持ちになりました。」

 私は、自分の罪で苦しむことはあっても、病や障碍で苦しんだことはなく、災害や事故で苦しんだこともありません。だから、何も分からないのです。詩編の作者の苦しみも、ハンセン病の方の苦しみも、水野さんの苦しみも、UTさんや母上や姉上の苦しみも。私には分からない。ただお話を伺って苦しみを想像するだけです。
 ただ、分かることがある。いや、信じていることがある。それはイエス様だけが、この方たちの苦しみを分かっている。実はすぐ近くにいてくださっている。一緒に苦しんでくださっている。悲しんでくださっている。一緒に「わたしの神よ、わたしの神よ」と叫んでおられる。ただこの方だけが、共に悲しみ、共に苦しみ、共に死に、そして復活へと導いてくださる。苦しみや悲しみは、そのイエス・キリストと出会うために与えられる場合がある。その時、苦しみや悲しみは喜悦となり歓喜となる。ただそのことだけは分かります。そして、信じます。

「主よ、あなただけは
わたしを遠く離れないでください。
わたしの力の神よ
今すぐにわたしを助けてください。」

 この叫びに答えることが出来るのは主イエスだけです。十字架の主イエス、復活の主イエス、昇天の主イエスが聖霊においてご自身を啓示された時、人は悲しみ、苦しみを経て、またその中にあっても、喜びと感謝と賛美に生きることが出来るのです。
 苦難は、そのために与えられることがある。主イエス・キリストを知るために与えられることがある。
 ヘブライ人への手紙にはこうあります。

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。
主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。
なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

 祈ります。
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