「地の果て、来るべき代まで」

及川 信

       詩編 22編 2節〜3節, 23節〜32節
わたしの神よ、わたしの神よ
なぜわたしをお見捨てになるのか。
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず
呻きも言葉も聞いてくださらないのか。
わたしの神よ
昼は、呼び求めても答えてくださらない。
夜も、黙ることをお許しにならない。

わたしは兄弟たちに御名を語り伝え
集会の中であなたを賛美します。
主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。
ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。
イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
主は貧しい人の苦しみを
決して侮らず、さげすまれません。
御顔を隠すことなく
助けを求める叫びを聞いてくださいます。
それゆえ、わたしは大いなる集会で
あなたに賛美をささげ
神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。
貧しい人は食べて満ち足り
主を尋ね求める人は主を賛美します。
いつまでも健やかな命が与えられますように。
地の果てまで
すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められます。
命に溢れてこの地に住む者はことごとく
主にひれ伏し
塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。
わたしの魂は必ず命を得
子孫は神に仕え
主のことを来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう。

 私たちにとっての三月

 今年の3月は、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という嘆き、あるいは祈りで始まる詩編22編を三回続けて読んできました。今日で最後となります。そして、今日からの一週間は、主イエスが「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と呻きつつ息を引き取られたことを覚える受難週であり、さらに復活を祝うイースターに向けての一週間です。
 二年前の3月11日以来、私たち日本人にとって3月は特別な月になったと思います。被災地に生きる人々にとっては、神に見捨てられたと思ってもおかしくない出来事が起こり、多くの方が今もなお苦しい現実の中を生きておられるからです。また、中渋谷教会にとって今年の3月は、直前まで礼拝を共にしていたTMさんとFKさんが思いもかけない形で立て続けに亡くなり、驚きと悲しみに襲われた月でもあります。

 多様にして多層な救い

 詩編22編には「助け」とか「救い」という言葉が何度も出てきます。原語のヘブライ語では六つの異なる言葉が使われています。つまり、「助け」とか「救い」と言ってもそれは一つではなく、多様性があり幾重にも重なる層があるということです。具体的な困窮状態から助け出されることだけが救いではありません。自分が今置かれている現実に神様が顔を向けて見てくださること、その叫びに耳を傾けて聞いてくださること、そこに既に救いがある、それこそが助けだ。そういうことでもあるのです。そういう多様にして多層な「助け」「救い」に対する希求を、私たちは心の中に同時に抱くことがあります。
 これまでの三回は、嘆きと救いを求める叫びを読んできました。今日は一転して感謝と賛美です。詩編に出てくる詩においては、嘆きがいきなり感謝や賛美に変ることがあります。その転換点に何があったのかは具体的にはよく分かりません。病が治ったとか、敵が滅ぼされた。そういうことがあったと考えることも出来ます。ここでも何か具体的な出来事があったのかもしれません。
 しかし、そういう具体的な転換がなくても、人は救われ、助けられることがあります。最近、深夜のテレビコマーシャルの時間に「ひとりで抱え込まないで、とにかく悩みを聞かせてよ」といじめにあっている子どもたちに対する呼びかけがあります。政府による広報活動ですが、二十四時間対応で電話相談に応じてくれるそうです。
 何かの拍子に突然いじめの対象になり、人権とか尊厳を徹底的に傷つけられ、親にも教師にも言えず独りで悩みを抱え込むことがあります。そういう時、誰か一人でも心の内の悲しみを聞いてくれる人がいる。置かれている状況の過酷さを理解してくれる人がいる。共に悲しんだり、怒ったりしてくれる人がいる。それはまさに大きな助け、救いです。聞いてくれるだけでいい、現状を見てくれていればいい。そして、時折、言葉をかけて欲しい。そのことで状況が好転したり改善したりしなくても、新たな力を得て立ち上がることができる。そして、少しずつ具体的状況が変ってくる。そういう救いもあります。

 翻訳

 礼拝の中で説教をする時、私は基本的には『新共同訳聖書』の翻訳に従って読むことにしています。でも、特に詩編の場合にそういうことが多いのですが、注解書によって翻訳は様々なのです。時には意味が全く違う訳であることもあります。そうなってしまう原因は色々あります。私は二箇所だけ、『新共同訳聖書』とは違う訳を採用したいと思います。それは22節と25節ですが、22節は「わたしに答えてください」ではなく、「わたしに答えてくださいました」、25節の「助けを求める叫びを聞いてくださいます」は「聞いてくださいました」と完了形の訳を採用しようと思います。

 確信

 この詩の作者は、主に向かって「主よ、あなただけはわたしを遠く離れないでください。わたしの力の神よ、今すぐにわたしを助け出してください」「獅子の口、雄牛の角からわたしを救ってください」と叫び続けてきました。それが22節の後半で突然、「あなたはわたしに答えてくださいました」と告白するのです。そして、25節では、「主は、助けを求める叫びを聞いてくださいました」と言う。  22節の「答えてくださいました」と25節の「聞いてくださいました」は、意味は基本的に同じだと思います。そして、これらは2節3節の「呻きも言葉も聞いてくださらないのか」「昼は、呼び求めても答えてくださらない」に対応していることは明らかです。彼は聞いて欲しいのです。叫びに対して答えて欲しいのです。神様が自分の言葉に耳を傾け、顔を向けて「聞いているよ。分かっているよ。」と言って欲しい。神様がちゃんと分かってくれさえすれば、神様はご自分の時に従って必ずご自身の業をなしてくださる。その御業の中に自分を委ねればいい。そういう確信が彼にはある。

 地の果てまでの賛美

 そして、神様が彼の叫びを聞き、また答えてくださったことを確信できた時に、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中で賛美します」「大いなる集会で、あなたに賛美をささげます」と叫ぶようになったのです。そして、その賛美と伝道(語り伝え)は、彼個人に留まるものではなくなります。

「地の果てまで
すべての人が主を認め、御もとに立ち帰り
国々の民が御前にひれ伏しますように。
王権は主にあり、主は国々を治められます。
命に溢れてこの地に住む者はことごとく
主にひれ伏します。」

 神に見捨てられたと思わざるを得ない絶望的状況の中で、作者はそれでも主を「わたしの神」として信じ、縋り、助けを求めて叫んできました。今、その叫びが聞かれた、答えていただいた。そのことが分かった時、喜びが溢れてきました。そして、自分が信じている主なる神は、全地の造り主であり、すべての人をお造りになった方であることを再認識することができたのです。そして、地の果てまですべての人がこの造り主のもとに立ち帰り、主の御前にひれ伏す喜びを知ることが出来るようにと願い、必ずそうなると確信するのです。地の果てまでを治める王は、創造主なる神だからです。
 目に見える現実としてはそれぞれの国に王がいたとしても、地をお造りになり、すべての人をお造りになった創造主こそが、その内実において王であり主権者です。すべての人間がそのことを認め、主に立ち帰り、その御前にひれ伏す時、その人々に救いが与えられ、そこに喜びに満ちた賛美が湧き起こると彼は確信するようになるのです。

 陰府における賛美

 さらに彼はこう言います。

「塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。」

 ここで彼は旧約聖書の常識から言えば、とんでもないことを言っているのです。この言葉は16節の「あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる」に対応しています。「塵の中に打ち捨てられる」とは「死の中に打ち捨てられる」ことであり、それは滅びを意味します。神様との愛の交わりから完全に断たれること、神様がいない死の世界、陰府の世界に捨てられることです。そこは空虚な無の世界です。そこに捨てられればすべてが終わりです。詩編6編には、「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません」(6節)とあります。それが旧約聖書における死の基本的認識だと思います。
 しかし、主なる神に叫びを聞かれ、答えていただいた時、彼は主の支配、つまり主の愛による支配が及ぶ範囲は「地の果て」に留まらない、死者の世界である陰府にまで及ぶのだと確信させられたのでしょう。そして、そこでも人は神様の御前に身を屈めること、つまり礼拝を捧げることができる。賛美することが出来る。そのことを知らされたのでしょう。ここに記されている希望は、旧約聖書においては極めて例外的なことです。

 来るべき代に

 さらに彼は、
「子孫は神に仕え
主のことを来るべき代に語り伝え
成し遂げてくださった恵みの御業を
民の末に告げ知らせるでしょう」
とまで言うことになります。
 先程までは、「地の果て」とか「塵に下る」と空間的な広がりを言っていました。しかし、ここでは時間的な広がりが語られています。「来るべき代」「民の末」にまで主の支配は続き、伝道が継続されると言っている。主を礼拝し、その礼拝において主が「成し遂げてくださった恵みの御業」を語り伝え、告げ知らす人々は「地の果て」「陰府」にまで広がり、さらに「子孫」たちは世の終わりまで神を礼拝しつつ、主の恵みの御業を語り伝える。空間も時間も越えて主の支配が広がり、生死の境も越えて、主の「御もとに立ち帰る」者たちは、「主の御前にひれ伏し」つつ「主のことを語り伝え」「恵みの御業を民の末に告げ知らせる」賛美に生きるようになる、と言うのです。これが、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫び続けた人が行き着いた信仰です。ここに私たちの希望があります。

 御言葉の実現

 水曜日にご葬儀をしたFKさんは、五十年前に洗礼を受けた時もその後も、「死後のことが分からないから自分は中途半端なクリスチャンだ」と思っておられました。そして、「使徒信条」は小さな声でしか唱えられないとおっしゃっていました。
 私は「使徒信条」の中の「罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」という言葉がFKさんにはよく分からなかったのだろうと推測して、葬儀説教の中でその点について少し語りました。今日は、もう少し拡大してみたいと思います。
 これはFKさんに限った話ではなく多くのクリスチャンにとって同様だと思いますけれど、私たちはイエス様の十字架の死まではなんとなく辿ることが出来るのです。イエス様の地上の歩みにおける苦難や喜びなどを感じ取ることが出来る。でも、その後のことは闇の中の手探り状態だったり、雲を掴むような感じだったりするのではないでしょうか。
 「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり。かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」という信仰箇条については、実際よく分かっているわけではありません。それは当然です。目で見て確認するという意味で「分かる」はずもないことなのですから。
 しかし、確かにそうなのだけれど、私たちは毎週の礼拝の中で使徒信条を唱和します。紀元一世紀から二世紀にかけて、古代ローマ教会でその原型が生み出されてきた信仰告白を、二十一世紀の今、世界中の教会で礼拝毎に唱和しているのです。そこで信じ告白されていることは、「主が成し遂げてくださった恵みの御業」以外の何ものでもありません。
 主イエスが十字架の死を経て陰府にくだり、三日目に甦り、天に挙げられ、神の右に坐し給うとは、主イエスに授けられた王権は天地を貫き、さらに陰府にまで及ぶことを告げています。そして「かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審き給わん」とは、世の終わりに神の国が完成することを告げているのです。主に立ち帰り、御前にひれ伏す者たちは、その御国で身体の復活を与えられ、神様との愛の交わりの中に生かされる。永久(とこしえ)まで主を賛美しつつ生きることが出来る。
 私たちキリスト者はそのことを信じ、また希望しているのです。そういう信仰と希望が代々に亘って宣べ伝えられ、地の果てまで広がり、その信仰と希望に生きる人が今も生きており、これからも生きていく。それは私たちが現に目で見ている事実ですし、これからも見ていくことになる事実です。私たち自身がそういう人間であり、それは22編に出てくる「子孫」であり「民の末」として生きているということです。
 私たちをそのような者として生かしてくださるのは、神様の愛です。ご自身の愛する独り子を十字架に磔にし、その死から甦らせ、私たち復活させて、永久に生かしてくださる神様の愛。聖霊において生き、キリストの体なる教会において働き給う神の愛が与えられているから、私たちは今日も喜びをもって主の御前にひれ伏す礼拝を捧げているのです。その愛なくして、私たちキリスト者の存在を説明することは出来ません。

 愛は滅びない

 先週の月曜日、私は日本聾話学校の卒業式に出席させていただきました。毎年出席しているわけではありませんが、今年は聾話学校においても一つの区切りの年であることを知らされていたので出席したのです。いつも深く心を揺さぶられる卒業式です。それは単なる儀式ではなく、「ひかり、ひかり」という讃美歌に始まり、「世をこぞりて天の神をほめたたえよ」という頌栄で終わる礼拝でもあります。
 日本聾話学校は生まれつき聴覚に障碍をもった子どもたちが集う学校です。手話ではなく、補聴器の助けを借りつつ口話でコミュニケーションを取ることを目指すという特色もありますが、なによりもキリスト教信仰を土台とした教育をする学校です。だから、中渋谷教会も顔の見える連帯と支援をさせていただいているのです。
 自分の子どもの耳に障碍があることを知った時の親の困惑、不安、悲しみは想像するに余りあります。どれだけの涙が流されたか分かりません。子ども自身も、成長するに連れて自分が他の子どもたちとは違うことを気付かされ、茫然とすることがあったはずです。教職員の方たちは、その親子の不安や悲しみを全身で受け止めつつ教育をしています。可能性は空の極みを越えるのだという確信をもってです。その確信を支えるのは、神様の愛です。
 日本聾話学校の応接室には、「愛は決して滅びない」と英語で書かれた額が飾られています。だから、卒業式の中でも、「神様が一人ひとりを愛していることを決して忘れないで欲しい」と何度も語られます。

 夢

 その愛に応えるように、子どもたちが門出の言葉としてそれぞれの夢を語ります。電車の運転手になりたい、ハンバーガー屋さんになりたい、幼稚園の先生になりたい、プロ野球の選手になりたい、ダンサーになりたい、と。いずれも人の声や音を聴くことが大事な仕事だと思います。だから、私は子どもたちの夢を聞きながら、胸が潰れそうになります。これまでだって何度も夢を壊されてきただろうに、これからもまた何度も壊されるだろうと想像してしまうからです。
 初等部の生徒たちが全員で「夢の世界を」という歌を歌いました。そこで繰り返される言葉はこういうものです。

「さあ、でかけよう 思い出のあふれる道をかけぬけ
さあ、語り合おう 素晴らしい僕らの夢の世界を」

 体全体でリズムを取りながら、少し聞きづらい発音で、でも屈託の無い大きな声で、「さあ、語り合おう 素晴らしい僕らの夢の世界を」と歌う姿は、様々な意味で心を打ちます。
 ここで歌われていることは、通常の意味で「夢と希望をもって生きていこう」ということでしょう。それは大事なことです。どんなに困難なことがあっても夢や希望を失ってはならないからです。しかし、「助け」「救い」が多様にして多層であるように、「夢」や「希望」という言葉もひとつの意味だけを持っているわけではありません。通常考えられているよりもはるかに深く大きな意味を持つ場合があります。
 私は、聾話学校で育ちまた旅立つ子どもたちだけでなく、地の果てまでのすべての人、民の末に至るまでのすべての人が持つべき「夢」があるのだと思いました。
 私は卒業式に列席しながら、詩編22編を初めとするいくつもの聖書の言葉を思い出していました。そして、どんなに絶望的な状況であっても「わたしの神よ、わたしの神よ」と叫び続け、神様の助けを求め続ける者は、いつの日か地の果てまでもいや陰府の世界にまで広がる神様の愛の支配を夢見ることが出来るのだと思わされたのです。その夢は、私たちが抱く夢ではなく、神様が与えてくださる夢、神様がイエス様の十字架の死と復活を通して「成し遂げてくださった恵みの御業」を信じることによって与えられる夢です。
 ヨエルという終末の裁きを語った預言者は、神様が聖霊を注がれる時に、「老人は夢を見、若者は幻を見る」と預言しました。そして、ペンテコステの日、主イエスの弟子たちに聖霊が注がれた時、ペトロはヨエルの預言を引用しつつこう語りました。

「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。(中略)あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

 かつて、三度も「あの人のことは知らない」と主イエスを否んだペトロは、この時、詩編22編に出てくる「主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げてくださった恵みの御業を、民の末に告げ知らせる」「子孫」となったのです。かつて死を恐れて主イエスを裏切ったペトロは、この時、死を越えた御国の完成をはるかに夢見る人間にされたのです。神様が彼を愛しているからです。

 天上 地上 地下における賛美

 もう一つだけ、卒業式の時に思い起こした聖書の言葉を読ませていただきます。それは「恵みの御業」を地の果てまで宣べ伝えるために生きた使徒パウロの言葉です。彼はこういう言葉でキリストの御業を語り伝え、また告げ知らせています。

 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:6〜11)

 この言葉は一般に「キリスト賛歌」と呼ばれ、元々は礼拝の中で歌われた讃美歌であったのではないかと推測されています。その賛美で語り伝え、告げ知らせていることは、神が御子イエス・キリストにおいて成し遂げてくださった恵みの御業そのものです。
 神と等しい方であったキリストが奴隷の身分にまで自らを低くし、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と悲しみの祈りを捧げつつ十字架で死んでくださった。それは、罪と死の闇の中に落ちている私たちをなんとかして救い出そうとする神様の御心に対する徹底的な従順の姿です。そのイエス様の従順、深い嘆きと悲しみを伴う従順を経て、復活と昇天があり、「あらゆる名にまさる」「主」という名がイエス様に与えられるのです。そして、いつの日か「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」神の国が完成する。ここに、神様が私たちに与えてくださった夢がある。私たちが何度も何度も語り合うべき夢があるのです。神様の愛が決して滅びないが故に、見続けることが出来る夢がある。私たちは毎週、その夢に向かって「さあ、行きなさい」と派遣されるのです。
 この夢を打ち砕く現実は山ほどあります。私たちの内に外に夢を破壊する罪の力があるからです。しかし、私たちが「わたしの神よ、わたしの神よ」と信仰を持って祈り続け、また主の御前にひれ伏して礼拝を捧げ続けるなら、主は必ずその祈りに答え、「御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。」そして、あらゆる力に打ち勝ってくださいます。そして、私たちは勝利の主を賛美しつつ、その御業を語り伝える者とされるのです。その賛美は生きている今だけ捧げるのではなく、死して後も捧げることが出来るのです。私たちは、主を賛美するために造られた者たちであり、主は永久に生きる方だからです。
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