「栄光と力を主に帰せよ」

及川 信

       詩編 29編 1節〜11節
29:1 【賛歌。ダビデの詩。】
神の子らよ、主に帰せよ
栄光と力を主に帰せよ
29:2 御名の栄光を主に帰せよ。
聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。
29:3 主の御声は水の上に響く。
栄光の神の雷鳴はとどろく。
主は大水の上にいます。
29:4 主の御声は力をもって響き
主の御声は輝きをもって響く。
29:5 主の御声は杉の木を砕き
主はレバノンの杉の木を砕き
29:6 レバノンを子牛のように
シルヨンを野牛の子のように躍らせる。
29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。
29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ
主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。
29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ
月満ちぬうちに子を産ませる。
神殿のものみなは唱える
「栄光あれ」と。
29:10 主は洪水の上に御座をおく。
とこしえの王として、主は御座をおく。
29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。
主が民を祝福して平和をお与えになるように。

 アッバ、父よ

 先週、私たちは「アッバ、父よ」という言葉を巡って御言葉に聴きました。イエス様は神様を当時のユダヤ人の言葉で「アッバ」、「お父さん」と呼んで祈りました。幼子が愛する親を呼ぶように、「アッバ」「お父さん」と呼ぶ。そこには、神様の力強い愛に対する絶対的信頼があります。イエス様は、神様が自分を愛してくださることを心から感謝し、喜んでおられる。その喜びが「アッバ」という言葉を読むたびに私の心に伝わってきます。イエス様は、神様を「アッバ」と呼ぶ時に嬉しくて仕方ない。悲しい時、困った時、感謝したい時、賛美したい時、様々な時にイエス様は天を見上げ両手を広げ「アッバ」と呼んだ。そこにイエス様の喜びがあると思う。そして、そのように呼ばれる時、神様も嬉しかったでしょう。

 現実と理想

 親に愛されている幼子は、親を見つけると実に嬉しそうに手を振って「お父さん」とか「お母さん」と呼びます。自分がここにいることを知らせたいのです。その時の子どもの心にある喜びと親の喜びは深いものです。しかし、人間は不完全なものですから、すべての人がこの喜びを味わっているわけではありません。親の誰もが自分の子を十分に愛せるわけではありませんし、愛し方が間違っている場合もあります。子もまた親の不器用な愛を受け止めきれずに傷つくこともあります。不幸にして幼い頃に死に別れたり、生き別れをしてしまうこともある。私たちが体験している現実の多くは理想とは程遠いものです。私たちの多くは心の奥深くに傷を持っていたり、悲しみを抱えていたりします。ある意味ではそれが当然のことだとも思うのです。

 旅

 私たち人間は生まれた時から自分の命の源、創造主を尋ね求める旅を始めます。自分は何者であるのかを捜し始めるのです。そして、肉親の親を超えた「アッバ」「お父さん」に出会うまで魂の放浪を続ける。そういう存在だと思います。少なくとも、私自身はそうでした。
 若い頃は何をしていても心の奥底では「こんなことは空しいことだ」と思っていました。それはやっていることが空しいのではなく、やっている自分の存在が空虚だからです。「人は、その空虚感を埋めるため、あるいは忘れるために何かをしているのであって、その何かをしている自分や何かそのものに意味を感じているわけではない。そして、空虚感を忘れることが上手かったり、誤魔化すのが上手かったりする人ほどこの世では成功する。しかし、それも空しいことだ。」そう思っていました。
 私は傍目から見れば遊び人に見えたでしょうし、実際そういう生活をしていましたけれど、内面的には随分困っていました。最後は下宿の部屋に引き篭もりましたから、傍目から見ても困っているのだろうと見えたでしょう。でも、その時本当に困らなければ、今神様を「アッバ、父よ」と呼ぶ喜びを知ることもなかったように思います。その時代に途方に暮れたことは私にとっては必要なことであり、その時は多いに困るべき「時」であったのだと思います。

 「父よ」と呼べる喜び

 なぜ、神様を「お父さん」と呼ぶことがそれほど喜ばしいのかと言うと、その「お父さん」がとてつもなく強い愛で私たち一人ひとりを愛してくださっていることが分かるからです。呼べば呼ぶほど分かってくる。そして、神様の愛よりも強いものなどないと確信できる。だから嬉しいのです。呼んだだけで嬉しい。
 自分を愛してくれる人、また自分が愛する人の名前であれば、口にしただけで心が浮き立ちます。それと同じように、私たちキリスト者にとって神様を「父よ」と呼ぶことは嬉しいことだし、そのように呼ぶことができるように導いてくださったイエス様の名を口にすることも喜ばしいことです。「父よ」と呼ぶこと自体が、父への賛美であり、イエス・キリストに対する感謝でもある。その賛美と感謝を捧げる時、私たちの心の中には平和があり、そして次第に力が溢れてくるのです。

 賛美

 今日与えられている詩編29編は、一見して分かるように主なる神様に対する賛美の詩です。「神の子らよ、主に帰せよ、栄光と力を主に帰せよ」という賛美への呼びかけに始まります。3節以降の賛美する理由を語る言葉も主への賛美に満ちています。そして、最後は「主が民に力を与え」「祝福して平和を与えて」くださるようにとの祈りで終わっています。
 私はこの賛美の詩を読みつつ、賛美を捧げた人々の心に溢れていた喜びを感じましたし、深い祈りの世界への招きを感じました。そして、「主の祈り」の言葉が心に浮かんできました。

 主の祈り

 「主の祈り」は、イエス様が弟子たちに教えてくださった祈りです。キリスト教会は二千年に亘って礼拝の中で祈り続けてきました。その祈りは、「天にましますわれらの父よ」という呼びかけで始まります。ルカ福音書では、単純に「父よ」と呼びかけています。そして、「御名を崇めさせたまえ」という祈りが続きます。詩編29編に出てくる「栄光と力を主に帰せよ」「聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」「神殿のものはみな唱える『栄光あれ』と」とは、「御名を崇める」ことの具体的な内容です。
 続いて、神の国が到来すること、御心が行われることが祈られます。それはイエス・キリストの父なる神様だけがこの罪深い世に救いをもたらし、ご自身の支配を完成する方であることを確信しているということです。確信して祈るのです。疑っていては祈れません。そして、この世を生きていく上での必要な糧を求める祈りが続き、神の支配の中核としての「罪の赦し」が祈り求められます。罪を赦したまえ、と。最後に、「国と、力と、栄えとは、限りなくなんじのものなればなり、アーメン」という賛美、礼拝の中では「頌栄」と呼ばれる賛美で終わる。
 この「主の祈り」の中核にあるのは「罪の赦し」です。それは、死に対する神様の勝利でもあります。「神様の力、その栄光はついに罪と死に対する勝利として現れ、その勝利は永久に続く」と確信しつつ賛美しているのです。そういう賛美をささげる相手がいる。また賛美ができる。それこそが、私たちの究極的な喜びなのだと思います。この祈りを捧げることが出来る時、私たちは29編の最後にあるように、力が与えられ、平和が与えられる。神様の祝福の中に置かれるからです。

 神の子ら

 以上のことを踏まえた上で、本文に入って行きたいと思います。

神の子らよ、主に帰せよ
栄光と力を主に帰せよ
御名の栄光を主に帰せよ。
聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。

 この詩の背景には、聖書の宗教から言えば異教的な世界があると言われます。つまり、自然を神と崇めたり、神々が自然と戦ったりする多神教があると言われるのです。3節に「雷鳴はとどろく」とありますが、日本語の「雷」も元来は「神鳴り」であって、雷の神様が怒る時に稲妻を落とすとか、悪いことをしている子どもの臍をとっちゃうとか伝えられています。鬼の姿をした風神と雷神が雲に乗って向き合っている俵屋宗達の屏風絵は誰もが写真では見たことがあると思います。
 古代イスラエル人は、カナン人と呼ばれていた人々が住んでいるカナンの地に後から入って行った人々です。そのカナン人はもちろん多神教の信仰を生きており、彼らが信仰している神の一つがバアル(主人、夫)という神で、そのバアルは嵐の神、雷の神として崇められていました。嵐の中に鳴り響く雷鳴は私たち日本人には怒りの声としか思えません。しかし、乾燥したカナンの地の人々にとって嵐は乾季の終わりを告げるものであり、恵みの雨をもたらすものです。だから、バアルは「豊穣の神」として崇められたのです。そのバアルには下位の神々がいます。バアルに仕える神々です。カナンの人々は、そういう神々を「神の子ら」と呼んだそうです。
 ですから、この詩は元来、嵐の神バアルを賛美するカナン人の詩であったのに、後から入ってきたイスラエルが自分たちの神「主」(ヤハウェ)を賛美する詩に作り変えたのだと学者は言います。私もそうだと思います。だからこそ、何度も何度も「主の御声は水の上に響く」「主の御声は力をもって響き」と出てきて、「主」こそ崇めるべき栄光と力の神であることを強調しているのだと思います。

 神の子らの変化

 荒野を放浪した上でカナンの地に入ってきたイスラエルの民は、先住民のカナン人の影響を受けました。エジプトの奴隷状態から解放し、荒野の旅を導いてくれた神である「主」(ヤハウェ)よりも農耕の神「バアル」を「わが主」として崇めるようになった人々も多かったのです。「郷に入れば郷に倣え」とは、ある意味で賢明な生き方であるに違いありません。しかし、そのことで命の源である主なる神への信仰を失うのであれば、元も子もないことになります。目先の利益、目に見える現実だけに捕われて生きる時、人間は創造主である神様との交わりを失い命を失っていきます。その状態を聖書では「罪」と言います。だから、罪の結果は死なのです。罪に捕われる時、人は生きながらにして既に死んでいる。空虚な存在になっているのです。
 そのような罪人になってしまったイスラエルの人々に対して、また唯一の神である「主」をまだ知らないカナンの人々に対して、ある人が語りかけている、あるいは呼びかけているのがこの詩編29編だと思います。その場合、「神の子ら」とは、バアルよりも位の低い神々の意味ではなくなります。天上で唯一の神を賛美する存在、天使たちのような存在なのです。イスラエルの信仰においては、神は唯一であり他の神々は存在しませんから。
 つまり、「神の子らよ、主に帰せよ」と「神殿のものみなは唱える、『栄光あれ』と」は、天上で主なる神の栄光が称えられているように、地上の神殿に集う者は皆、「栄光あれ」と神を称える。賛美する。天上の存在も地上の存在も声を限りに主を賛美する。そこにこそ、神に造られた被造物の本来のあり方がある。そう告げているのだと思います。

 賛美するために創造された

 私が大好きな言葉ですけれど、詩編102編にはこういう言葉があります。

後の世代のために
このことは書き記されねばならない。
「主を賛美するために民は創造された。」

 親に愛されている子が大きな声で親を呼ぶこと自体が喜びに満ちた賛美であるように、神に造られた被造物である人間は創造主である主を呼んで賛美するときに、その本来の姿を生きているのです。そこに喜びがあるのです。
 詩の冒頭で「主に帰せよ」と繰り返され、「ひれ伏せ」と言われているのは、「創造主の許に立ち帰れ。自分の本来の姿に立ち帰れ。そこに喜びがある。そこに命がある」という招きでしょう。

 主の支配領域

 3節から10節までは、その創造主である主の栄光と力がどのようなものかを告げる部分です。レバノン、シルヨン、カデシュとはイスラエルの北と南の地名ですから、主の支配は自分たちが住む全地域を覆っていることを告げています。そして、「杉の木」は大地に生える植物で、「子牛」「雌鹿」などは、大地に生きる動物です。主はその両方を支配し生かしていると告げているのです。さらに、その支配は「大水」「洪水」にも及びます。

 大水 洪水

 古代人は地球が丸いとか銀河系とかを知りません。でも天からは雨が降るし、地下から水が湧きますし、川の氾濫はあるし、海の波の恐ろしさも知っています。天上にも地上にも地下にも人間が制御することが出来ない水があるのです。その水が襲い掛かってくれば、人間などひとたまりもないことを彼らは知っているのです。今でも液状化現象が起きれば、その上に建っている建物は頑丈なビルであっても土台から倒れます。洪水が来れば流され、津波が来ればすべて破壊されます。だから水を支配することは人間にはできない。これは現代の私たちの実感です。
 人は水がなければ生きていけません。でも、人にとっては実は火よりも水の方がはるかに恐ろしいものです。いくつかの古代都市文明は洪水で滅びたと言われています。東北地方の太平洋沿岸地域のいくつもの集落は二年前の津波でその歴史を終えています。生き残った人々もそこには最早帰ってこられないからです。
 「主は大水の上にいます」「主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく」とは、主の絶対的な主権を宣言しているのです。主は動植物を造って地上を支配しているだけではない。世界を天地創造以前の混沌に引き戻すことができる「大水」「洪水」すらも支配下に置いている方なのだと宣言している。だからこそ賛美すべき方だ、と。

 勝利者を見極めろ

 賛美、賞賛、それはやはり勝利者にこそ捧げられるべきものです。敗者の健闘を称えることはあっても、敗者に栄光が帰せられることはありません。「栄光」は勝者にこそ帰せられるべきです。この詩は、その勝利者を見極めろと告げているのです。
 天上の「神の子ら」は言うまでもないことですが、地上に生きる者たち、特に主を礼拝するための神殿、礼拝堂に集っている者たちは皆、勝利者は主であることを認識し、主にこそ栄光と力を帰せよ、と言っている。主の御前にこそひれ伏せ。創造主にして支配者はバアルではないし、自然そのものではないし、この世における絶大な権力者でもない。富でも地位でもない。そんなものはすべて部分的一時的な力を持っているに過ぎない。私たちが栄光を帰すべきは主以外にはいない。この方を賛美する時にのみ、私たちの心は「平和」で満たされ、そして生きる喜びと共に「力」が与えられていくのだ。この詩は、そう告げているのだと思います。

 主の御声

 この詩の中で何度も繰り返される言葉は「主の御声」です。「主の御声は水の上に響く」「力をもって響き」「輝きをもって響く」「主の御声は炎を裂いて走らせる」。何度も「御声」が出てきます。声ですからもちろん響きを伴います。元来は雷鳴をバアルの声として聞いたのでしょう。それは雨季の到来を告げる声、あるいは音です。
 この詩で「主の御声」と言う場合、それもやはり音を伴うものでしょう。しかし、それだけでなく、神様の言葉、語りかけを意味していると思います。ある学者は「御声は語りかけよりも音響的だが単に音に留まるものではない。それは、聞かれ、見られ、感じられるものである」と言っています。それは正しいと思います。神は聞かれる言葉、見られる現象、心で感じ取られる霊的な言葉をもって私たちに語りかけてきます。今日だって朗読される聖書の言葉、説教の言葉、またこれから配られる聖餐のパンやぶどう酒を通して「御声」を発しているのです。聞かれ、見られ、感じられるものを通して「御声」を発し、ご自身の「栄光」をお示しになっている。聞く耳のある者は聞き、見える目のある者は見、また感じ取る心の状態にある者は感じるのです。

 独り子としての栄光

 この詩においては自然現象を通して神様の栄光が表わされていますが、旧約聖書の他の箇所では歴史的な救済の出来事を通して神様の栄光は表わされます。しかし、新約聖書において、神様の栄光は何よりも神様の独り子イエス・キリストにおいて表わされます。そのことが最も強く強調されるのはヨハネ福音書だと思います。
 ヨハネ福音書はこういう言葉で始まります。

 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 神の言としてのイエス・キリスト、神の語りかけ、神の御声としてのイエス・キリストが万物を造り、すべてのものの命であり、人間を照らす光である。「聞かれ、見られ、感じられる」方としてのイエス・キリストがここにはいると思います。
 そして、この方についてヨハネはこう言うのです。

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 この「恵みと真理とに満ちている父の独り子として栄光」とは何であるか、そのことをヨハネ福音書は語り続けます。今日の詩編29編との関連の中で一箇所だけ挙げます。
 それは、イエス様がエルサレムに入城した直後の場面です。ある出来事を通して、イエス様だけがご自分はほどなく十字架に磔にされて殺されることを直感されたのです。十字架の死とは、考え得る限り最も惨めで無残な死に方です。罪人として公開処刑されるのですから。裸にされるだけでなく、あらゆる栄誉を剥ぎ取られて殺されるのです。しかし、その恐るべき死が近いことを知ったその時、イエス様はこうおっしゃった。それは信じ難い言葉です。死ぬことを栄光とおっしゃるからです。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

 そして、続けてこうおっしゃいました。

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。 父よ、御名の栄光を現してください。」

 すると、「天から声が聞こえた」とあります。そこにいた人々のある人たちは「雷が鳴った」と思い、他の人たちは「天使が話しかけた」と思いました。しかし、その「天からの声」つまり「主の御声」は、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という神様の語りかけでした。主イエスだけはそのように聞いた、あるいは感じ取った。そして、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」とおっしゃったのです。十字架に上げられて死に、死人の中から復活して天に上げられることを通して、すべての罪人の罪を赦し、神の御前に引き寄せる。そこに神の栄光が現れる。そのために自分は「一粒の麦」として死ぬ。そうおっしゃっているのです。

 神の子となる

 元来、神様を「アッバ」と呼べるお方は罪なき神の独り子イエス・キリストしかいません。父なる神と愛において一体の交わりをしているからです。だからこの方と一体の交わりをすることを通して、私たちもまた神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るようになる。孤児(みなしご)ではなく、真実の親、命の源であり養い手である父との愛の交わりに生きることが出来るのです。その交わりに入るために必要なこと。それはイエス・キリストを「信じる」ことなのです。ただそれだけです。
 再び1章に戻りますが、ヨハネはそこでこう言っています。

 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 私たちは、誰でも生まれた時から真実の親を求めて旅をする者たちです。心の底から、「アッバ、父よ」と呼べる方を捜し求めて生きています。その旅の途上で多くの苦しみを経験し、悲しみを経験することもあります。傷つき、弱り、倒れてしまうこともあります。迷いに迷って途方に暮れることもあります。うずくまり、一歩も先に進めないこともある。崖の下に転げ落ちてしまうこともある。闇の中に閉ざされてしまうこともあります。深い孤独を経験し、死にたいと思うこともある。
 でも、そういう私たち一人ひとりに聖書は語りかけるのです。「栄光と力を主に帰せよ」と。それは、新約聖書を通して「イエス・キリストを受け入れよ」という招きとなりました。
 真の父を見失っている私たち、そのことの故に深い悲しみ、空虚感、徒労感を抱いている私たちに対して、聖書は語りかける。主の御声の一つとして。「帰って来なさい」と。「イエス・キリストを信じなさい」と。神様は、イエス・キリストを「信じる人々には神の子となる資格を与えて」くださるのです。私たちも神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るようになるのです。新たに「神によって生まれる」命を与えられるからです。

 神の勝利

 人間を滅ぼす最大の力は罪と死の力です。「大水」「洪水」はその力の象徴です。しかし、神はその独り子の十字架の死と復活を通して、「大水」「洪水」の上にいますことを現してくださいました。罪も死も、イエス・キリストを通して現された神様の愛の力には勝てません。だから、私たちはこの神を賛美する。その勝利を賛美する。その時、私たちにどれほど多くの苦難があったとしても、悲しみがあったとしても、私たちの心には平和が与えられ、力が与えられます。罪の赦し、神様との永遠の愛の交わりという祝福が与えられるからです。
 既に信仰を告白して洗礼を受けている方たちは、今日も新たに信仰と賛美を捧げて、今日も新たに神の子としての命を与えられますように。今も父を捜し求めてこの礼拝に集っている方たちには、一日でも早くイエス・キリストを信じる信仰が与えられるようにと祈ります。そして、これからも主を賛美する礼拝に集っていただきたいと願います。それは神様の願いだと信じるからです。
 最後に、29編の締め括りにある祈りを捧げたいと思います。

 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

 アーメン。
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