「主よ、憐れんでください」

及川 信

       詩編 30編 1節〜13節
30:1 【賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。】
30:2 主よ、あなたをあがめます。
あなたは敵を喜ばせることなく
わたしを引き上げてくださいました。
30:3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを
あなたは癒してくださいました。
30:4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ
墓穴に下ることを免れさせ
わたしに命を得させてくださいました。
30:5 主の慈しみに生きる人々よ
主に賛美の歌をうたい
聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
30:6 ひととき、お怒りになっても 命を得させることを御旨としてくださる。
泣きながら夜を過ごす人にも
喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
30:7 平穏なときには、申しました
「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
30:8 主よ、あなたが御旨によって
砦の山に立たせてくださったからです。
しかし、御顔を隠されると
わたしはたちまち恐怖に陥りました。
30:9 主よ、わたしはあなたを呼びます。
主に憐れみを乞います。
30:10 わたしが死んで墓に下ることに
何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ
あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
30:11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。
主よ、わたしの助けとなってください。
30:12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え
粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
30:13 わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することのないようにしてくださいました。
わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます。

 壮大な祈りの世界

 詩編30編を読んでいて気がつくことは、上下の動きが激しいということです。「引き上げる」(2節、4節)という言葉が繰り返されますが、それは「墓穴」とか「陰府」「下る」(4節、10節)ことがあるからです。上下の動きは感情の動きとも連動します。「泣きながら夜を過ごす人」「喜びの歌と共に朝を迎え」(6節)、「嘆き」「踊りに変え」られ(12節)、服喪や悲嘆の装いである「粗布」が喜びの「帯」に変る(12節)。死の「恐怖に陥る」(8節)こともありますが、「感謝をささげる」は三度、「主に賛美の歌をうたう(ほめ歌う)」(5節、13節)は二度出て来ます。なぜ、彼がこれほどに感謝と賛美を主にささげるのかと言うと、主の御旨が「命を得させてくださる」ことを知ったからです。「命を得させる」も二度出て来ます(4節、6節)。主に「憐れみを乞う」者を主は見捨てられない。そのことを知った彼は、「主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく、わたしを引き上げてくださいました」と歌うのです。
 「陰府」「墓」から引き上げられ、死から生へと引き上げられ、「平穏」から「恐怖」に叩き落されることもある。しかし、最後は嘆きから喜びに満ちた感謝と賛美へと転換していく。この詩の中では、時間も現在と過去、そしてとこしえの未来にまで一瞬で飛び移るのです。また、「わたしの神、主よ」と呼びかけていたと思ったら、「主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたえ」と礼拝者に呼びかけたりする。
 わずか13節の祈りあるいは賛美ですけれど、そこには天上、地上、陰府があり、過去、現在、未来があり、死があり生があり、悲嘆があり喜びがあり、後悔があり感謝があり、切実な願いがあり確信があります。そして、一人だと思ったら共に礼拝を捧げる者たちがいる。
 この詩を読みながら、私も激しく揺さぶられる経験をしました。過去の暗い経験を思い起こして後悔や嘆きを深めましたし、にも拘らず今こうして主を賛美する礼拝者の群れの中に生かされ、御言葉を取り次ぐ立場に立たされている。そこに、底知れない愛から出てくる神様の裁きと赦しがあることを思わされ、感謝と同時に恐れも深めました。御言葉は人間の現実をあぶり出し、また神様の現実を垣間見せ、過去と現在を見つめさせながら、はるかな未来を、また天を仰ぎ望ませる。そういう壮大なものであることを、今更ながらに思います。

 詩の解釈

 私はこれまで詩編の表題について語ることはしてきませんでしたが、今日は少し触れておこうと思います。
 30編には「賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。」とあります。ユダヤ人の歴史は苦難に満ちたものですが、紀元前十世紀のソロモン王の時代が最盛期だと思います。彼は壮大な神殿を建てました。しかし、その神殿も紀元前六世紀にバビロンによって完全に破壊されました。ユダ王国は滅亡し、多くの民がバビロンに捕囚をされたのです。それから約七十年後、バビロンを滅ぼしたペルシャの政策によってユダヤ人は故郷に帰ることを許され、帰還民は様々な困難を乗り越えて第二神殿を再建したのです。その時に、この詩は読まれたのではないかと推測されます。
 さらに時代が下った紀元前二世紀、今度はギリシア人国家であるシリアの厳しい弾圧を受けることになりました。それはシリアの王が異教の偶像をエルサレム神殿に安置して礼拝することを強要するに至りました。しかし、さすがにそれはユダヤ人にとっては受け入れ難いことでしたから、彼らは反乱を起こし多くの犠牲者を出しながらもエルサレム神殿を奪還し、偶像によって汚された神殿を清めて新たに奉献をしたのです。その時、詩編30編が読まれたという記録があるそうです。
 そういう苦難の歴史を背景にして読むと、「死」「陰府」「墓穴」はバビロン捕囚やギリシア人の過酷な弾圧を意味していると考えることが出来ます。どん底の状態から引き上げてくださった神様、神殿で再び礼拝出来るようにしてくださった神様を賛美する民族の歌と理解することが出来るのです。事実、そういう理解のもとで読まれてきた歴史があります。その場合、「あなたは敵を喜ばせなかった」「敵」とは、バビロン人とかギリシア人ということになります。しかし、その解釈は偏狭な民族主義とかナショナリズムを生み出す可能性があります。
 それに対して、この詩を個人の祈り、賛美として理解する解釈があります。瀕死の病を経験した人が、主に助けを求めて癒された経験を歌っているというものです。「あなたは癒してくださいました」という言葉を素直に病の癒しと受け取るのです。「陰府」とか「墓穴」に下るとは病によって死ぬことです。その場合、「敵」は自分が死ぬことで喜ぶ人々ということになり、「命を得させる」も健康な体の回復という意味になります。それが素直な読み方であることは確かです。しかし、そうなると健康が第一となり、死がすべての終わりということになってしまいます。果たして、そうなのだろうか。
 ある人は、こう言っています。
 「陰府は、必ずしも死後にのみあるとは限らない。神のないところ、それは陰府である。真の喜びもなく、また真の悲しみもない。塵を吸うような味のない、ものうい人生は、死後でなくとも、この地上でも経験するのである。」(浅野順一『詩編研究』)私は、この解釈に賛同します。戦争体験も大病の体験もない私のような者にとって、最も深刻な「敵」は罪とか誘惑者としての悪魔です。そして、「陰府」「墓穴」は罪や悪魔に負けて落ちた闇です。そういう「墓穴」に落ちる。そして、罪という敵が「自分が勝った」と言って喜ぶ。そういうことを、人は誰でも経験すると思います。
 そういう愚かな罪人に対して、神様はお怒りになります。有り難いことです。見捨てられていないからです。そして、その怒りを通して私に対する神様の御旨はあくまでも「命を得させること」、生かすことであることを私なりに味わい知ってきました。今この礼拝堂に集められている多くの方が、それぞれの経験の中で同じ思いをお持ちだと思います。己が罪に泣きながら過ごす夜が何日も、何週間も、あるいは何年も続いたとしても、「わたしの神、主よ」「憐れんでください」と祈ることが出来るなら、主は「喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」ことを味わい知る。それが、私たちの信仰生活だと思います。

 「平穏」の中にあるもの

 しかし、その信仰生活もまた山あり谷ありです。山の頂に立つこともあれば、谷のどん底に落ちることもある。

平穏なときには、申しました
「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
主よ、あなたが御旨によって
砦の山に立たせてくださったからです。
しかし、御顔を隠されると
わたしはたちまち恐怖に陥りました。

 この言葉をどう解釈するか、それが大きな意味を持つと思います。
 「平穏」と訳された言葉(シャルワー)は、安楽とか繁栄という意味を持っています。時には、神様との「平和」を表わすシャロームと並んで用いられることもあります。
 でも、エレミヤ書では、神様がユダの王に向かって怒る場面でこの言葉が使われています。

「お前が栄えていたころ、わたしが何か言うと
お前は、『聞きたくない』と言った。
これが、お前の若い時からの態度であった。
お前はわたしの声に聞き従ったことはない。」
(エレミヤ22:21)

 「栄えていたころ」が、「平穏なとき」と同じシャルワーです。エゼキエル書でも、ほぼ同じ意味で使われています。
 つまり、「平穏なとき」とは自分の知恵によって繁栄を手にし傲慢になっている。神の言葉に聞き従わない。そういう時でもあるのです。
 その「平穏なとき」も、主が「砦の山に立たせてくださった」ことで与えられたのです。しかし、それは後になって分かったことであり、その時は何を言われても「聞きたくない」と思っていたのです。今の平穏、富は自分の才覚によって得たものであり、神とは関係がないと思い、愚かにも「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と言っていたのです。原語では「申しました」の前に、わざわざ「わたしは」(アニー)という主語が書かれています。「かつてわたしはこれほど傲慢で愚かなことを言っていたのです」という恥を認めているからでしょう。

 愚かな者

 人間は本当に愚かな存在だと思います。過ちを繰り返すからです。また、人の振りを見て我が振りを直すこともしない。自分はあの人ほど愚かではないと思い、今の自分はかつての自分ほど愚かではないと思うのです。最近、この国は原発技術を外国に輸出することにしたようですが、一体どういうことなのだろうかと思います。私にはよく分かりません。
 また、今は憲法に関する論議が盛んです。その議論を読んだり聞いたりしつつ、「いずれまたこの国は戦争をする国になるのだろう」と暗澹たる気持ちになります。すべては経済的な価値判断に基づくことのように、私には思えます。経済で支える命だけが命なのです。その命を大事にしようと思っていることは分かります。しかし、大事にしようと言いつつ、軽視しているように私には思えます。そして、「人はパンだけで生きるものではない」という真実が一顧だにされていないように思います。
 「箴言」にこういう言葉があります。

「犬が自分の吐いたものに戻るように
愚かな者は自分の愚かさを繰り返す。
自分を賢者と思い込んでいる者を見たか。
彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる。」
(箴言26:11〜12)

 国の為政者とは「自分を賢者だと思い込んでいる者」でしょう。そういう人たちを選ぶ私たちも同様だと思います。でも、箴言によれば、賢者であることを自認している人々に導かれることは「愚かな者」に導かれるよりも希望が持てない現実だということになります。自分は賢者だと思っている者は、自分の考えを支持する意見以外は「聞きたくない」と言うものです。そして、経済的繁栄と政治的力を取り戻せばこの国は「とこしえに揺らぐことがない」と言います。私たち庶民も本質的には同じことを考えていると思います。株価が上がったり、軍事力が向上すれば人間の価値も上がると思い込む。でも、パンだけで生きるものではない「人」としては、自ら「墓穴」を掘り、自ら「陰府」に下っている。私は、そう思います。

 御顔を隠す

「しかし、御顔を隠されると
わたしはたちまち恐怖に陥りました。」

 神様が「御顔を隠す」とは、神様の裁きを表わします。申命記では、神様がイスラエルの罪に対して怒り、彼らを「捨てる」という文章の中に出てきます。
 自分たちの力で自分たちにとっての平穏を築き、それがとこしえに続く、千代に八千代に続くなどと思う時、神様の怒りが燃えるのです。その結果、平穏な時は終わりを告げます。神様の御顔を尋ね求めることのないままに人間がつくったものは、あのバベルの塔のように必ず崩壊していくのです。「とこしえに揺らぐことがない」と言えるものはありません。人がその崩壊の中に神の怒りを感じ取ることが出来るなら、その人は「恐怖に陥る」ほかにありません。

 本当の敵

 この辺りから、人間の普遍的な現実と特殊な現実が分かれていくように思います。  ある人々は、一旦崩壊しても、以後賢く生きれば何でも再建でき、再び平穏な日々を取り戻せると考えるでしょう。「敵」に負けないように様々な力を身につければ大丈夫と考える。それも一理あることです。
 しかし、私たち人間にとって本当の「敵」、喜ばせてはならない「敵」、勝利させてはならない「敵」とは何なのでしょうか?私たちを生きながらにして墓穴に落とし、陰府に下らせる「敵」とは何なのでしょうか?近隣諸国でしょうか。世界の大国でしょうか?私は違うと思います。聖書はそんな次元の話をしているのではありません。バビロンが敵だ、ギリシアが敵だということではないのです。
 パウロは、コリントの信徒に向けてこう言っています。

「キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 最後の敵として、死が滅ぼされます。」(Iコリント15:25〜26)
 そして、キリストを信じる者が死から復活する時に、
「死は勝利にのみ込まれた。
死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
(同15:54〜55)  という預言が実現するのだ、と言うのです。彼は「死のとげは罪である」とも言います。つまり、罪こそが今生きている私たちの本当の敵なのです。その罪が私たちに勝利する時、私たちは「墓穴」に下り「陰府」に下らざるを得なくなるのです。それは肉体が生きている今、既に起こる現実です。
そこに神様が「御顔を隠す」という現実があり、そのことを知る人間が「恐怖に陥る」のです。だから、恐怖に陥るのは神様を知っている人間だけです。神様を知らず、恐れることのない人間は、自分たちの知恵、その賢さによって日本や世界の平和と繁栄を取り戻すことが出来ると暢気に考えます。本当の敵が見えず、神の裁きを見ることがないからです。繁栄、平穏の中に隠されている自分の罪を見ることがないのです。それは主観的には極めて幸せな状態ですが、神様の目から見れば非常な不幸であり、まさに憐れむべき状態なのです。

 憐れんでください

 詩編の作者は、自分の傲慢の罪に気付きました。そして、恐怖に陥りました。真の平和、真の繁栄は人間が作り出せるものではないことに気付いたのです。そして、最早、自分の力で墓穴から出てくることなど出来ないことを知ったのです。自分には何の力もない、それ故に望みもない。そのことを知ったのです。自分に絶望したのです。その時、彼は声の限りに主を呼び始めました。それが出来る人は幸いです。

「主よ、わたしはあなたを呼びます。
主に憐れみを乞います。
わたしが死んで墓に下ることに
何の益があるでしょう。
塵があなたに感謝をささげ
あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
主よ、耳を傾け、憐れんでください。
主よ、わたしの助けとなってください。」

 詩編102編に「主を賛美するために民は創造された」という言葉があります。単純な言葉ですけれど、本当に深く、そして真実な言葉だと思います。
 主を賛美する、感謝を捧げる、告げ知らせる、それが被造物である私たち人間の本分です。その本分を忘れる時、捨て去る時、私たちは既に墓穴の中におり、陰府の世界で塵となっているのです。生ける屍なのです。しかし、一旦は罪に負けて墓穴に下り、陰府に下ってしまったとしても、主の憐れみを受ける時、ラザロが墓から呼び出されたように、私たちも墓穴から引き上げられ、新しい命に生かされることが出来るのです。神様は「ひととき、お怒りになっても、命を得させることを御旨としてくださる」からです。その神様に「憐れんでください」と叫び続ける。私たちにはそれしか出来ません。でも、それしか出来ない時に、主ご自身が働いてくださるのです。それしか出来ないことをする。し続ける。悔い改めとは、そういうことだと思います。

 神の小羊

 「主よ、憐れんでください」とは、ラテン語ではキリエ エレイソンという言葉です。ミサ曲はキリエ エレイソンを繰り返し歌うことで始まります。礼拝は、神様に向かって罪の赦しを乞い求めることからしか始めようがないのです。そして、神の栄光を称え、信仰告白や感謝を捧げる歌が続きます。その中心に、「神の小羊」としてのイエス・キリストへの賛美と感謝の歌があるのです。
 神様は、罪の赦しを乞い求めて必死に叫ぶ者を憐れみ、ご自身の独り子イエス・キリストを犠牲の小羊として送ってくださいました。その方の十字架の死による贖いと復活を通して、神様は「御顔」を私たちに向けてくださり、憐れみを与えてくださったのです。その憐れみを受けた者たちは、ひたすら主を賛美する者に造りかえられるのです。

 神をほめたたえながら、イエスに従った

 「憐れんでください」
。この言葉はルカ福音書に何度か出て来ます。今日は一つだけ引用します。
 イエス様の一行がエルサレムに程近いエリコの町に入る時、一人の盲人が道端に座って物乞いをしていました。盲人の乞食とは、当時の考え方では、彼が罪人であることの証でした。彼は、イエス様の一行が近づいてくることを知らされると、大声で「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。周囲の人が止めさせようとしても、彼は必死になって「憐れんでください」と叫び続けたのです。イエス様は、その願いを聞き入れてこう言われました。

「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」

 彼は、見えるようになりました。その後、彼はどうしたか。「ああ、やっと人並みの仕事が出来る」と喜んで家に帰ったのか?違います。

「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」

 ここにも「墓穴」から呼び出された人、「陰府」から引き上げられた人がいます。自分の中には自分を救うための何の力もないことを知り、そうであるが故に主の憐れみだけを乞い求めた人がいるのです。その結果、主に感謝を捧げ、賛美する人が新たに誕生したのです。そこに、信仰による救いの現実があります。

 魂から溢れる賛美

「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え
粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
わたしの魂があなたをほめ歌い
沈黙することのないようにしてくださいました。」

 「わたしの魂」
という言葉も4節と13節に出てくる言葉ですが、人間の最も奥深い所にあるものでしょう。そこから賛美が溢れてくる。それは主によって与えられた命が溢れてくるからです。そして、そこにのみ「とこしえ」という現実があると思います。決して終わらない現実、決して崩壊することがない神の国の現実があるのです。
 旧約聖書の中に復活はないと言われます。しかし、復活の希望はあると思います。
「わたしの神、主よ
とこしえにあなたに感謝をささげます」
 とは、その希望を語っていると私は思います。肉体はとこしえの存在ではありません。必ず滅びます。塵に帰ります。そして、塵は主に感謝をささげることは出来ません。しかし、主の憐れみを受けた者、罪の赦しを与えられた者は、神の国においてとこしえに主に賛美を捧げることができる。主を賛美するために創造された命を生きることが出来る。その希望がここにはあると思います。そして、その希望を確かなものにしてくださったのが、神の小羊イエス・キリストなのです。

 天地、生死を貫く礼拝

 最後に、ヨハネ黙示録に記されている小羊に対する賛美の言葉を読んで終わります。

「屠られた小羊は、
力、富、知恵、威力、
誉れ、栄光、そして賛美を
受けるにふさわしい方です。」
(ヨハネ黙示録5:12)

「『玉座に座っておられる方と小羊とに、
賛美、誉れ、栄光、そして権力が、
世々限りなくありますように。』
四つの生き物は、『アーメン』と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。」
(同5:13〜14)

 この賛美の礼拝は「今日も明日も、また次の日も」、とこしえに私たちを憐れんでくださる主イエス・キリストの故に捧げることができるものです。私たちがとこしえの存在だからではなく、主イエスが世々限りなく私たちを愛し、勝利を給うお方だから、私たちもとこしに感謝と賛美をささげることが出来る。そして、私たちは今、その感謝と賛美の礼拝をささげているのです。何という幸いかと思います。
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