「いかに幸いなことでしょう」

及川 信

       詩編 32編 1節〜11節
32:1 【ダビデの詩。マスキール。】
いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
32:2 いかに幸いなことでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
32:3 わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
32:4 御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。
32:5 わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。
32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆
あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。
大水が溢れ流れるときにも
その人に及ぶことは決してありません。
32:7 あなたはわたしの隠れが。
苦難から守ってくださる方。
救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。

32:8 わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。 それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。
そのようなものをあなたに近づけるな。

32:10 神に逆らう者は悩みが多く
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。
すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。

 のどかな土曜日の午後

 五月末の土曜日の午後、翌日は宮ア先生が説教をしてくださる日だったので、私と妻は日本聾話学校の運動会の見学に行きました。妻は見学しているうちに燃えてきたようで綱引きに参加しましたが、私は日曜日に体調が万全でないと困るので、わざと「運動はしませんよ」という意志を示すために白っぽい洋服を着て、見学に徹しました。その運動会は予想通り楽しく感動的なものでした。
 昼は聾話学校のすぐ近くの原っぱでおにぎりを食べました。渋谷に住んでいると土の上を歩くことは出来ませんし、まして土の上に座ったり寝転んだりすることなど到底出来ません。せっかく自然豊かな野津田まで行くのだから、土の上に座って木々や空を見ながらゆったりした気分を味わいたいと願ったのです。天気もよく、何種類もの鳥たちの囀りを楽しむことも出来て、気持ちが安らぎました。また、原っぱの反対側の木陰では小さな子どもが二人いる家族が弁当を食べていて、その平和な情景にも心が和みました。

 信頼する

 詩編32編10節に、こういう言葉があります。

「神に逆らう者は悩みが多く
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。」

 「信頼する」
と訳されたヘブライ語は、確信を持つ、安心していられる、安全を感じる、という意味があるようです。詩編の中では何度も「主に信頼する」「主に依り頼む」と出てきます。22編にも三度出てきますが、その三回目はこういうものです。

「わたしを母の胎から取り出し
 その乳房にゆだねてくださったのはあなたです。」

 この乳房に「ゆだねる」「信頼する」と同じ言葉なのです。乳児にとって最も安心できる場所、安全な場所、それは母の乳房、母の胸の中です。そこで乳児は生きる糧を受け取ります。それは肉体を養う母乳を受け取るだけではなく、母の愛を受け取っているのです。そして、心から安心する。また、ここは安全である、と深く思う。
 ある学者は「信頼する」とは、人が大地の上に大の字になって横たわる様から生まれた言葉だと説明していました。その説明を読んだ時に、先週の土曜日のことを思い出したのです。その日、私は土の上に横たわることはしませんでしたが、汚れてもよい服を着ていれば、大の字になって眠りたい気分でした。
 アダムとは、土から造られた人という意味です。そのアダムとしての人間にとって、大地は帰るべき故郷でもあります。コンクリートに囲まれて生活をしていると、時折無性に土と木のある所に行きたくなります。そして、大地は神様がお造りになったのですから、大地の上に大の字になって寝そべる時、人は神様の大きな愛の御手に抱かれる感覚を持つと思います。そして、深く安心する。自分が生きる場所はここだと確認する。「主に信頼する者は慈しみに囲まれる」とは、そういう感覚を言っているのではないかと思いました。

 喜び

 もしそうなら、その感覚を味わう人々の心は喜びに満たされ、その喜びは賛美となって溢れ出てくるのは必然です。

「神に従う人よ、主によって喜び踊れ。
 すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。」

 この言葉は、神様の愛の御手に抱かれた喜び、慈しみに囲まれた喜び、踊りだしたくなる喜びを表しています。「神に従う人」とか「心の正しい人」と聞くと、以前からずっと道徳的倫理的に正しく生きてきた人という意味に思えます。でも、ここでは「主に信頼し」、主の「慈しみに囲まれる」経験をしている人のことです。それはどういう人なのか。それが今日の詩編32編の問題だと思います。

 幸と不幸

いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
いかに幸いなことでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。

 「いかに幸いなことでしょう〜〜の者は」が繰り返されています。詩編1編も、これと同じ言葉から始まっていました。「幸いなるかな」と訳されることもあります。イエス様の山上の説教もこの言葉から始まります。
 私たちは、どういう時に幸いを感じるのでしょうか?仕事や趣味に没頭している時とか、愛する人と一緒にいる時とか、人々から賞賛されている時とか、もっと卑近なことで言えば好物を食べている時とか色々あるでしょう。それは、「幸せ」「幸い」という言葉を聞いた時に思い浮かべるイメージが様々ですから当然です。しかし、この詩編32編が言っている「幸い」はそういうものとは全く異質なものであることは明らかです。
 「いかに不幸なことでしょう〜〜の者は」「いかに苦しいことでしょう〜〜の者は」「いかに悲しいことでしょう〜〜の者は」と言ってみると、事柄の本質に迫りやすいかもしれません。仕事がない、お金がない、友人がいない、愛し合う人がいない。そういう状態を、私たちは不幸であると考えると思います。そして、今言ったような目に見える具体的な現実はしばしば「喜びがない」、「望みがない」「孤独感」とか「絶望」という内面的な現実を生み出すからです。順序が逆である場合もあります。いずれにしろ、外面的な現実と内面的な現実の間には確かな連動があります。外面的に厳しい状況になると内面的に悲しくなる。内面が悲しくなるから外面もそれに伴ってしまう。そういうことがあるだろうと思う。私たちはしばしば外面を取り繕って生きており、それはある面で必要なことです。しかし、内面と外面を完全に分離することはできません。いくら取り繕っても内なるものは外に現れてきます。
 内面が罪に支配されれば、それは何らかの行為になって現れてきます。悪意や憎しみ、嫉妬や欲望に襲われ、抵抗空しく負けてしまい、支配されてしまえば、それは何らかの行動になって現れます。でも、私たちはその内面の思いを隠します。自分自身にも隠すことがあります。人にはもちろん何も言いません。沈黙し続けます。自分で罪を「覆い」、「黙し続け」「隠す」のです。
 自分の心の思いや密かな行動が人には知られない方が良いからです。しかし、その「良い」と思っていることが、本当に「良い」ことなのかは分かりません。心の中にある罪の思いとその現れである行動を隠し続けることは、ひと時も心が晴れないことを意味します。心のある部分では「ラッキー」と思って喜んでいるでしょう。でも、そうである限り、人は同じことを繰り返します。しかし、心の他の部分では、「こんなことをしていたらいつか破滅する」という恐怖を抱えてもいるのです。人間の心は複雑です。
 犯罪者は逃げ隠れしつつも、心のどこかで「早く見つけ出して捕まえて欲しい」と思っている場合があるでしょう。自分のやったことを隠して生きている限り、その問題から解放されることはないからです。生きている限りいつでも不安と恐怖を心に抱え続けることになります。そういう日々の中で、次第に内部から「朽ち果て」、「衰え果て」ていかざるを得ません。誰からも赦されることがない罪を内に抱えつつ生きるとは、そういうことです。それこそが、「いかに幸いなことでしょう」と言われる状態とは正反対の状態なのではないか、と思います。

 誕生、そして成長?堕罪?

 罪が赦されるためには、罪を告白しなければなりません。しかし、私たちは誰だって信頼できない相手には何も言わないものです。良いことであれ悪いことであれ、信頼していない相手には本当のことは言いません、心の奥底にあることは言わない。まして、罪など告白しません。しかし、罪を内に抱えながら誰にも何も言わずに生きることは、ひたすら内部から「朽ち果て」、「衰え果てる」ことを意味します。それは苦しいものです。神を知らぬ時であっても、人は良心の呵責は感じています。人とはそういうものなのです。誰だって神に似せて造られ、神の命の息を吹き入れられることから生き始めたのですから。神の心をまったく知らないということはないのです。しかし、乳児が次第に母の乳房から離れていくように、私たちもまた神から離れていくものです。そして、心の奥底にある思いを告白する相手、心から信頼する相手から離れ、自己を喪失していくのです。

 『デッドマンウォーキング』

 もう十五年以上も前のことですが、『デッドマンウォーキング』という映画を観ました。デッドマンウォーキングとは死刑囚が処刑場に向かって歩く姿を指す言葉のようですが、死刑制度の是非についても考えさせられる映画でした。
 主人公はある女性を強姦した上で殺した容疑で死刑を宣告されている青年です。ある時から、一人の修道女が彼の精神的カウンセラーとして相談相手になります。当初はお互いに心を開くことが出来ず、男も「自分は殺していない」と彼女に言うのです。しかし、修道女でもあるカウンセラーは彼に同情しつつ寄り添い、死刑を回避させるために懸命な活動を開始します。その姿を見て、彼の心が本当に少しずつではあるのですが、開かれていき、彼が実際に何をしてしまったかが明らかになっていくのです。
 映画では、彼が語るのではなくモノクロ映像に語らせるという手法がとられています。面談の度に少しずつ明らかになっていくことは、彼が泣き叫ぶ女性を森の中で強姦し、殺したということです。その恐ろしく残忍な行為を告白することがどれ程苦しいことかが痛切に迫ってきます。しかし、そのことを告白できないことがどれほど苦しいことであるかも思い知らされます。
 恐るべき罪を告白する苦しみは、彼が一人の修道女と出会ったことを通して味わうことになった苦しみです。それは自分の罪と向き合う苦しみです。その苦しみは、赦し難き罪を犯した自分を一人の人間として愛し、憐れみ、慈しんでくれる存在と出会わなければ味わうことはない苦しみです。自分を極悪人として断罪する人々の憎しみと軽蔑に囲まれている時には、人は貝の様に口を閉ざし、心を閉ざすだけです。それはそれで耐え難く苦しいことです。それは自分に対しても罪を隠し、その罪を抱え続けることなので内部から腐敗していく苦しみを味わいます。しかし、愛される時、慈しみを受ける時、人はそれまで隠していた罪を見つめ始め、心を開くという苦しみを味わい始めます。それまで経験したことのない苦しみを味わうのです。その苦しみは、内部から朽ち果て、衰え果てていく苦しみとは全く異質なものです。死の中から新しい命が誕生する時の産みの苦しみだからです。

 慈しみに生きる人

「あなたの慈しみに生きる人は皆
 あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。」

 「あなたの慈しみに生きる人」
は原文では一語で「敬虔な者」という意味です。でも、ここではずっと前から神を信じ敬ってきた人という意味ではないと思います。罪を隠し、黙し続けてきた経験を経て、今、主なる神様に新たに出会い、主の慈しみを知らされて、その慈しみに身を委ねた人という意味だと思います。何故なら、彼はその直前にこう言っているからです。

わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。
わたしは言いました
「主にわたしの背きを告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。

 「あなた」
という言葉が二度出てきます。特に二度目の「そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」「あなた」は原文では強調された書き方がなされています。「あなた」を意味するアッターという言葉がわざわざ書かれているのです。
 この「あなた」(アッター)と出会えるか否か、そこに私たちの人生はかかっていると私は思います。この「あなた」と出会えるとき、「あなたを見いだしうる間」「祈る」ことが出来るからです。信仰者とは祈る人のことです。信仰がない時、私たちは祈ることは出来ません。祈ることが出来ないということは、神様との命の交わりをすることが出来ないということですから、同じ人であっても、それは全く違う人間です。
 その祈りの中で、自分の罪を神に隠すことなく告白することが出来る。それはとてつもなく苦しいことです。でも、そこにしか「あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」という現実を知る喜びはありません。そして、「いかに幸いなことでしょう」と我が身の幸いを感謝することもないのです。

 慈しみに囲まれる

 この詩の作者は、その冒頭で客観的に「幸いな人々」のことを語っているのではありません。なによりも自分のことを語っているのです。そして、それは自分が出会った、いや自分と出会ってくださった主のことを語っている。罪を黙し続け、隠し続けてきた彼と慈しみをもって出会ってくださり、彼の罪を赦し、覆い、前科として数えることをなさらない主のことを語っているのです。
 彼にとって主は「わたしの隠れ家」です。この主に信頼する時、母を信頼する乳児のように全身全霊を委ねる時、一切の罪を告白する時、この主こそが「救いの喜びをもって、わたしを囲んでくださる方」であることを知るのです。この方しかいないことを知るのです。そして、「慈しみに囲まれる」喜びを経験するのです。死の「大水」が襲いかかってくることがあっても、どんな「苦難」があっても、何も恐れる必要はありません。

 語りかけてくる神

 主なる神様は、私たちに向かって語りかけてこられる方です。8節9節は、主の言葉です。

「わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
分別のない馬やらばのようにふるまうな。」

 神様が私たちの上に目を注いでくださる。これは「心に欺き」がある人間にとっては恐ろしいことですが、「主に信頼」し、「神に従う者」にとっては心強いことです。しかし、実は「心に欺き」がある人間にとっても有り難いことなのです。神に見捨てられればすべてが終わりだからです。
 私たちには絶えず悪しき者の誘惑が襲い掛かってきます。そして、私たちは弱く、愚かです。しばしば「分別のない馬やらばのように」なってしまいます。自分でも何をしているか分からぬままに、神の御前から隠れる罪を犯してしまうのです。しかし、そういう私たちの上に神様は目を注ぎ、目覚めさせ、行くべき道を教え、勧めを与えようとしてくださる。聖書を読む、礼拝するとは、そういう経験です。

 アダムとエバ

 そこで思い起こすのがアダムとエバです。彼らは私たちの代表、あるいは私たちそのものです。彼らは神に造られ、命の息を吹き入れられ、自由を与えられ、信頼されていました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という戒めは、神様の愛と信頼の表れだと思います。
 しかし、彼らはその愛と信頼を裏切って善悪の知識の木から食べました。その時、彼らはいちじくの葉をつづり合わせて腰を覆い隠しました。最早互いの前に裸でいることは出来なくなったのです。本心を隠すようになったと言ってもよいかもしれません。そして、神様が登場した時、彼らは「主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」ました。全身を隠したのです。
 ある学者はこう言っていました。

「人が自分で自分の罪を隠そうとすれば、神がその罪を『覆う』ことはない。罪とは人が隠すことであり、赦しとは神が隠すことである。だから、罪の告白は一大転換である。自己閉鎖から自己(筆者による付加)開示への転換である。」

 神様は隠れているアダムの上に目を注ぎ、目覚めさせるべく、語りかけます。行くべき道を教えるために。

「(あなたは)どこにいるのか。」

 そして、エバにも語りかける。

「(あなたは)何ということをしたのか。」

 善悪の知識を得ようとして、逆に分別のない馬やらばのようになってしまった彼らを、神様はなおも慈しみ、目覚めさせ、勧めを与えようとしてくださるのです。しかし、アダムもエバも、自分の罪を正面から見つめようとはしません。女のせいにし、蛇のせいにし、そして実は神のせいにする。女など造るからいけない、蛇など造るからいけない、と。彼らは、あくまでも己が罪に対しては黙し続けます。神のようになりたいと思った、神は邪魔だと思った。その思いは隠し続けます。それ故に、彼らは「いかに幸いなことでしょう」と自らの幸いを感謝し、神様の慈しみに囲まれる喜びをもって賛美することはできません。神様が、人と出会おうとしてくださっていても、人が心を閉ざしている限り、隠している限り、人は神様と出会うことは出来ないのです。出会うことは恐ろしいことでもあります。

 悔い改めを待ってくださる神

 結局、彼らはエデンの園から追放されました。しかし、その時、神様は皮の衣を作って彼らに着せてくださいました。エデンの園の外での生活は厳しいものです。裸では生きていけません。そのエデンの東で彼らが経験する出来事は悲惨なことです。自分たちの長男カインが弟のアベルを殺すという出来事なのです。
 カインもまた神の愛と信頼を裏切る思いを心に抱きました。そして、神様がその心の中にある残忍な思いを告白するように促したにもかかわらず、彼は顔を伏せて黙し続けました。そして、自分よりも恵まれていると思った弟を殺してしまったのです。かつては自分の方が恵まれていた時には、そのことを何とも思っていなかったのにです。
 息子カインが、やはり息子であるアベルを殺したことを知ったアダムとエバの嘆きはとてつもなく深いものです。しかし、カインを愛し、彼を目覚めさせ、行くべき道を教えようとされたのに、「罪が門口まで来ている。お前はその罪を支配しなければならない」と語りかけたのに、黙し続けてアベルを殺したカインの姿を見た神様の嘆きは、アダムやエバの嘆きと比較にならぬほど深いのです。
 しかし、それにもかかわらず、神様はカインを死刑にはしませんでした。彼をその地から追放はされましたが、彼の命は守りました。神様が望むのは人の死ではないのです。神様は罪人の死を望まない。神様は罪人が生きることを望む。人が人として生きることを望む。神様に似せて造られた者として、神様の命の息を吹き入れられた者として生きることをお望みになるのです。自分がどこにいるのか分からなくなってしまった者、何をしてしまったのかも分からない者たちが、目覚めて、進むべき道を見出すことを神様は望んでくださる。そして、そのことのために悔い改めを促しつつ待ってくださるのです。

 アダムは悔い改めたのか

 私は今、アダムが心底悔い改めたかどうかは分からないと思っています。少なくとも聖書には、彼が神様に罪を告白したとは書かれていません。4章の最後にある「カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授けられた」という言葉を説明文ではなくエバの告白と受け取るなら、そこに彼女の深い感謝と悔い改めを読み取ることは出来ると思います。でも、アダムはどうだったのか?彼は3章以後、沈黙したままです。それは、人類は今も、道に迷い、神に背き、隠れ、黙し続けている。そして、自らの欲望に従う喜びを生きつつ、実は「絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てる」歩みをしている。そういう現実を暗示しているような気もします。その人類には踊り上がるような喜びはない。賛美はない。裸で大地の上に大の字になって寝そべるような解放感はない。そういうことを聖書は言わんとしているかもしれないと、今は思います。

 十字架の上の悔い改め

 私たちが数年前から読み続けているルカによる福音書は、「悔い改める」ことを強調する福音書です。誰もが罪人なのです。しかし、それが誰であってもその人が主イエスの御前に悔い改めるならば、その時、主イエスはその人を赦してくださる。慈しみの愛で囲んでくださる。その福音を、何度も何度も語り続けるのがルカ福音書です。そして、人が悔い改めることが出来るのは、実は、主イエスが先に罪人を愛し、その罪が赦されるために十字架に掛かって祈ってくださっているからなのです。  私たちを慈しんで止まない神様は、ついにご自身の愛する独り子のイエス様を世に送り、すべての罪人の罪を背負わせて十字架に磔にして裁かれました。神様の「慈しみ」とは、そういうものなのです。ただ大きな愛の心で愛し、赦してくださるというものではない。人間の罪に対する裁きを、本来裁きを受けるべき方ではない方に対して貫徹する。そのことを通して与えられる慈しみ、罪の赦しなのです。そこを間違ってはならないと思います。
 その裁きの十字架の上で、主イエスはこう祈ってくださいました。私たちのためにです。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 この祈りを聞いても何も感じない人々はたくさんいましたし、今もいます。私もかつては他人事のように聞いていました。それはある意味で仕方のないことです。「時」が来ない限り、どんな言葉を聞いても心に響かないものです。また、私たちには分からない「神の選び」というものもあるでしょう。選ばれた者は、この祈りが自分のための祈りであることが否応なく分かる。そして、それが分かる時、胸を打つほかありません。「罪人のわたしをお赦しください」と。
 主イエスの十字架の左右には死刑宣告を受けて十字架に磔にされている犯罪者がいました。そのうちの一人は主イエスの祈りを聞いた後に「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵ったのです。
 しかし、もう一人の男はこう言いました。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

 そして、イエス様にこう願ったのです。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」

 彼は、自分と同じ罪を犯していないのに自分と同じ死刑に処せられているイエス様の姿を見たのです。そして、罪人の罪を赦して欲しいと父に祈っておられるイエス様の姿を見たのです。そして、その祈りの声を聴いた。その時、彼は「あなた」(アッター)と呼びかけるべき神様に出会ったのだと思います。「ここに私の神がいる」と。そして、初めて「神を恐れる」」という経験をした。このようにまでして罪人の罪を赦そうとされる神の「慈しみ」を知った時に、人は初めて神を恐れ、自分の罪と向き合い、その罪を告白し、赦しを乞うことが出来るようになるのです。赦しの前でしか、私たちは自分の罪と向き合うことは出来ません。この方と出会わない限り、それは無理なことです。そして、無理である限り、私たちはただ朽ち果て衰えていくだけです。
 犯罪者の悔い改めの言葉を聞いたその時、イエス様はこうおっしゃいました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

「そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦してくださいました」
ということが、ここでも起こっている。いやここでこそ完全な仕方で起こっているのではないでしょうか。そして、「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は」ということも、この十字架の上で現実となっているのではないでしょうか。
 礼拝は、神様の語りかけを聴く時です。「あなたはどこにいるのか」「あなたはなんということをしたのか」という語りかけを聴く時です。葉っぱで罪を隠し、木の間に全身を隠さざるを得ない私たちが、神様の慈しみの眼差しの前に立ち、その語りかけを聴く時、それが礼拝です。この時、主を信頼し、「主にわたしの背きを告白しよう」と心に思い、祈ることが出来る人は幸いです。その時、主はその人の罪と過ちを赦してくださるのですから。その人は、主の慈しみに囲まれ、大地の上に裸になって大の字になって横になることが出来ます。そして、大いなる喜びをもって主を賛美することが出来る。その賛美の声を聞く主なる神様の喜びの大きさを思います。私たちが本当の幸いを生きることが、主なる神様にとっての幸いなのです。その幸いを感謝し、主を賛美する。それが私たちの礼拝であり、私たちが生きるということなのです。
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