「あなたの光に、わたしたちは光を見る」

及川 信

       詩編 36編 1節〜13節
36:1 【指揮者によって。主の僕の詩。ダビデの詩。】
36:2 神に逆らう者に罪が語りかけるのが
わたしの心の奥に聞こえる。
彼の前に、神への恐れはない。
36:3 自分の目に自分を偽っているから
自分の悪を認めることも
それを憎むこともできない。
36:4 彼の口が語ることは悪事、欺き。
決して目覚めようとも、善を行おうともしない。
36:5 床の上でも悪事を謀り
常にその身を不正な道に置き
悪を退けようとしない。
36:6 主よ、あなたの慈しみは天に
あなたの真実は大空に満ちている。
36:7 恵みの御業は神の山々のよう
あなたの裁きは大いなる深淵。
主よ、あなたは人をも獣をも救われる。
36:8 神よ、慈しみはいかに貴いことか。
あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ
36:9 あなたの家に滴る恵みに潤い
あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
36:10 命の泉はあなたにあり
あなたの光に、わたしたちは光を見る。
36:11 あなたを知る人の上に
慈しみが常にありますように。
心のまっすぐな人の上に
恵みの御業が常にありますように。
36:12 神に逆らう者の手が
わたしを追い立てることを許さず
驕る者の足が
わたしに迫ることを許さないでください。
36:13 悪事を働く者は必ず倒れる。
彼らは打ち倒され
再び立ち上がることはない。

 この世を生きるとは、様々なものを見聞きしながら生きることです。見たくないものを見ることもあり、聞きたくないことを聞くことでもある。楽しい経験もするし、辛い経験もする。人生を支えるよき思い出がある場合もあれば、思い出したくもない惨めな出来事もある。また、恥ずべきことをしてしまうこともある。将来への恐れや不安もある。それは誰にとっても同じことなのではないかと思います。そして、それらの経験が「見る」とか「聞く」ことに強い影響を与えると思います。もちろん、表面的には同じことを経験していても、そこに何を見、何を聞きとるかは人によってそれぞれです。

 聞こえる

 今お読みしたように、『新共同訳聖書』では、36編の書き出しは「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる」となっています。でも、『口語訳聖書』では「とがは悪しき者にむかい、その心のうちに言う」です。
 私はいくつかの翻訳を読み比べてみましたが、『新共同訳聖書』の訳は思いきった意訳のような気もします。今日はこの訳を生かしていきたいと思います。
 原文には「聞こえる」とか「語りかける」という動詞はありません。神様の託宣(お告げ)を意味する言葉が使われているのです。それは神に逆らう者にとって罪の語りかけは神の託宣のように重い言葉であることを表しているでしょう。罪の語りかけを心の内で聞いてしまうと、その言葉自体が人の心の中で力を発揮していく。そして、その人間の感覚を麻痺させていく。そういうことがあります。巷でも「悪魔の囁き」という言葉があります。
 罪の語りかけ、悪魔の囁きに心を支配される時、その人の目は何もかもがそれまでとは違ったものに見えてくるのです。アダムとエバは、蛇に語りかけられて善悪の知識の木の実を食べました。そのことによって、それまで恥ずかしいものとして見てこなかった裸を恥ずべきものとして見るようになり、いちじくの葉っぱを腰に巻くようになったのです。

 見える

 罪の語りかけを聞き入れてしまう時、それまで善だと見えていたことが悪に見えるようになり、汚れたことだと見えていたものが美しいことに見えてきたり、刹那的なものが永遠なものに見えたりするのです。
 イエス様はしばしば「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。「聞き方に注意しなさい」とも言われる。同じ言葉を耳で聞いても同じことを聞いている訳ではないのです。また、イエス様は「体のともし火は目である。目が澄んでいればあなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。消えれば、その暗さはどれほどであろう」ともおっしゃいました。目が濁る時、善悪も美醜も刹那と永遠も逆転してしまうのです。それは、闇の中で見ているからであり、真実は何も見えていないからです。
 蛇はエバに「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と語りかけました。目が開け、神のようになる。それが人間にとっては殺し文句です。「善悪を知る知識」とは王が持つ知識として使われることがあります。王として生きる。何も恐れることなく全能者のように生きる。人々を意のままに支配する。誰しもが心の奥底にそういう願望を秘めているものです。聞いたり見たりすることによってその願望がくすぐられ、その願望に従う時人は真に恐れるべきものを恐れなくなります。そして、神に似せて造られた人間としての本来の姿を失っていく。心の奥底にあるもう一つの願望、神を恐れ神を賛美しつつ生きたいという根源的な願望の実現を自ら破壊してしまうのです。

彼の前に、神への恐れはない。
自分の目に自分を偽っているから
自分の悪を認めることも
それを憎むこともできない。

 「彼の前に、神への恐れはない」
とは「彼の目の前には、神への恐れがない」が直訳です。罪の語りかけを心で聞いてしまった人間の目には、自分が「神のように善悪を知るもの」に見える。だから「自分の悪を認めることも、それを憎むこともできない」のです。悪が善に見えるのだから当然です。「自分の目に自分を偽って」いればそう見える。だから罪は見えず、それを憎むことも出来ず、悔い改めることも出来ない。その刹那は幸せな気分でいられるでしょうが、いつの日か「必ず倒れる」ことになりますから、それはやはり不幸なことではないでしょうか?

 経験に基づく警告

 作者は、悪事を働く者は打ち倒され「再び立ち上がることはない」と言っています。しかし、普遍的な原理として言っているのではなく、警告として言っているのだと思います。「自分の目に自分を偽っている」限り、必ずそうなると言っているのです。つまり、罪の語りかけではなく、神の語りかけを聞くようになれば自分の姿が見える。自分が悪に染まってしまっていることが見え、その悪を憎むことが出来るようになる。そういう願いがこの言葉には込められているように思うのです。
 なぜそう思うかと言うと、彼自身がかつて「神に逆らう者」であり、罪の語りかけを聞き、神への恐れを持たず、自分の目に自分を偽って生きた経験があると思うからです。
「蛇の道はへび」という言葉があります。蛇がどのように考えどのように行動するかは蛇が知っているのです。それと同じで、罪が語りかけてくる言葉に心を奪われた者が何を考え何をするかは、同じ経験をした者でないと分からない。そういう面があると思います。

神に逆らう者に罪が語りかけるのが
わたしの心の奥に聞こえる。

 罪が語りかける姿が見えたり、その声が聞こえるのは、かつて同じ経験をした者において起こることです。しかし、それだけではない。同じ穴のむじなというだけでは、このように見えたり聞こえたりはしないでしょう。その暗い穴、闇の中から抜け出して光の前に立っていなければ、このように見えたり聞こえたりすることはないのです。

 慈しみ

 しかし、彼においてそれはどのようにして起こったのか。

主よ、あなたの慈しみは天に
あなたの真実は大空に満ちている。
恵みの御業は神の山々のよう
あなたの裁きは大いなる深淵。
主よ、あなたは人をも獣をも救われる。

 「慈しみ」
(ヘセド)という言葉が6節から11節までに三度も出て来ます。原文ではすべて「あなたの慈しみ」です。
 主よ、あなたの慈しみは天に満ちています。神よ、あなたの慈しみはいかに貴いことでしょう。あなたを知り、礼拝を捧げる人の上にあなたの慈しみが常にありますように。
 彼は、この「慈しみ」に触れることが出来たのです。そのことで、彼は暗い穴から出ることが出来、再び立ち上がることが出来たのです。ここには、「慈しみ」以外にも神の「真実」(エメト)とか「恵みの業」(正義・ツェダカー)、また「裁き」(ミシュパート)という旧約聖書の中で非常に重要な言葉が並んで出て来ます。神様がイスラエルの民に与えてくださる慈しみは真実なものであり、恵み(正義)に満ちており、それに基づく裁きは人間が捉えることが出来ないほど高く深い。そのことが賛美されているのです。
 しかしそれは、この世の現実から逃避して、空想世界の中で恍惚感に浸っている訳ではありません。その耳は今でも罪の語りかけの声を聞き、その目は神に逆らう者たちの姿を見ているのです。そして、12節にあるように「神に逆らう者の手が」自分を追い立て、「驕る者の足が」自分に迫って来るという恐れをこの時も深刻に感じているのです。かつて彼はその手に捕まったことがあるからです。だから、守ってください、と祈っている。
 この地上に生きている限り、神に逆らう者、驕る者はいつも襲いかかってきますし、私たちがそういう者になる可能性はいつだってあります。宗教改革者のルターは「神のいる所には悪魔もいる」と言ったそうですが、それは確かなことでしょう。神がいるから悪魔もいる。逆から言えば、悪魔がいる所には神がいるということでもある。罪が生きて働く所には神の慈しみも生きて働く。そういうことです。光は暗闇の中でこそ輝くのであって、闇がなければ光もありません。そして、ヨハネ福音書の1章5節にあるように、闇は光を捉えることは出来ません。光に勝つことは出来ないのです。しかし、闇はある。それが現実です。

 あなたの

神よ、(あなたの)慈しみはいかに貴いことか。
あなたの翼の陰に人の子らは身を寄せ
あなたの家に滴る恵みに潤い
あなたの甘美な流れに渇きを癒す。
命の泉はあなたにあり
あなたの光に、わたしたちは光を見る。

 「あなたの」「あなたの」と続きます。「あなた」とは目の前にいる相手に語りかける時に使う言葉でしょう。彼の目の前に主がおられる。神がおられる。慈しみの眼差しをもった主がおられる。そのお方を目の前にして、彼は賛美している。感謝しているのです。「あなたの家」つまり神殿で礼拝しているのです。
 かつて罪の語りかけに耳を傾け、悪を悪とも思わずに生きていた自分が、今は主の「慈しみ」、「真実」に基づく「恵みの業」によって「裁かれ」、「救って」頂いたことを感謝し、神の御名を賛美しているのです。

 「人」を救う慈しみ

 彼は、「主よ、あなたは人をも獣をも救われる」と言いました。ここに「人」(アダム)が出て来ます。また、8節には「人の子ら」とあります。「人」「人の子ら」も人間のことです。すべての人間のことなのです。つまり、その人間の中に「神に逆らう者」も入っているのです。「慈しみ」、「真実」、「恵みの業」、「裁き」とは、「神に逆らう者」たちの罪を赦して救うものなのです。神様は悪人が滅びることを喜ばないのです。神に逆らう者が神の御前に立ち帰って生きることを喜ばれる。帰って来た者は誰であれ、神様は親鳥がその翼の陰に雛をかくまうようにして守り、ご自分の家に招き入れ、恵みを滴らせ、甘美な流れによって渇きを癒してくださるのです。
 作者自身が渇いた経験があり、その渇きを癒された経験があるが故に、今、神に逆らいつつ深く渇いている者たちを招いているのです。この神の家に帰ってこい、と。
 彼は言います。

あなたの家に滴る恵みに潤い
あなたの甘美な流れに渇きを癒す。

 この季節は二階ホールに冷水が用意されています。皆さんは厳しい暑さの中、坂道を登ってやって来られるのですから、一杯の水を飲んでから礼拝堂にお入りになることをお勧めします。水分の不足は熱中症をもたらします。自覚として喉が渇いていなくても、水分が不足していることがある。それが危険なのです。水は、私たちが生きていく上で欠かすことが出来ないものです。
 しかし、ここで「あなたの家に滴る恵み」とか「あなたの甘美な流れ」と言われるものが水でないことは言うまでもありません。それでは、なんでしょうか?

 命の泉

命の泉はあなたにあり
あなたの光に、わたしたちは光を見る。

 この言葉を読むとヨハネ福音書を思い出す方が多いと思います。ヨハネ福音書では、「水」や「光」は非常に印象深い使われ方をしています。
 先月の特別伝道礼拝では、ヨハネ福音書4章をお読みしました。そこには愛に渇いたサマリアの女とイエス様の出会いが記されています。井戸の近くに座って飲む水を求めていたはずのイエス様が、井戸の水を汲みに来た女にこうおっしゃるのです。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」

 これまでに五人の男との結婚生活に破れ、今は別の男と同棲している女は、愛の潤いを求めつつ求めれば求めるほど渇くのです。そういうことは誰にだってあることです。「あっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ」という言葉を信じて惨めな思いをしたことがあるし、飲めば飲むほど渇きを増す水は世の中の至る所にあり、その水を飲むように誘う声は至る所から聞こえてくるのです。
 しかし、永遠の命に至る水を与えてくれるのは御翼の陰である「あなたの家」だけなのです。
 イエス様は、ご自分の体を神の家、神殿に譬えられましたが、この女と出会ってから暫く後に神殿の境内でこう叫ばれました。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 ヨハネは、この「川となって流れ出る水」は、イエス様を信じる人々に与えられる聖霊のことであると言います。
 ヨハネ福音書において、その聖霊は、イエス様の十字架の死から三日目の日曜日に弟子たちに与えられるのです。

 平和があるように

 その時の「弟子たち」とは皆、生ける屍です。イエス様が逮捕される時、「最後まで一緒です。あなたのためなら死にます」と言っていたのに命が惜しくて逃げたからです。そのようにしてイエス様を裏切り、また自分自身を裏切ってしまった。こっちの水は甘いぞと思って逃げたのだけれど、そこにはこれ以上ないほど苦い水が待っていたのです。命を得ようとして命を失ってしまったのです。完全に倒れてしまったのです。そういう彼らが閉じこもった部屋は死が支配している墓の象徴です。
 しかし、その部屋に復活されたイエス様が現れ、彼らの真ん中に立って「あなたがたに平和がある(ように)」「シャローム、神があなたがたと共にいる」と宣言してくださったのです。「そう言って、手とわき腹をお見せになった。」通常なら、それは「お前たち、よくもわたしを裏切ったな」と脅すようなことでしょう。しかし、イエス様の場合、手についた生々しい釘の跡、わき腹についた槍の刺し傷は、彼らの罪が赦されたことの徴なのです。彼らの罪をすべてイエス様が身に帯びて、代わりに裁きを受けてくださった愛の徴なのです。だから、彼らは「主を見て喜んだ」とあるのです。
 私がこの箇所を初めて自分で読んだのは、洗礼を受ける直前の頃です。その時の驚きは忘れません。自分たちが裏切ってしまったイエス様、その結果、たった独りで十字架に磔にされて死んでしまったイエス様が目の前に現れた時に、彼らが恐怖のどん底に落ちるのではなく、「喜んだ」とは一体どういうことなのだろうと思ったのです。そんなことがあり得るのか、と。
 そしてそれは、「あなたのためなら命を捨てます」と言いつつ、その舌の根も乾かぬうちに「わたしはあの人を知らない」と言って逃げた者に対して「あなたに平和があるように」、「神はあなたと共にいます」と語りかける人が本当にいるのかという問いでもあります。
 しかし、こういう人が本当にいるのかという問いは、頭の中で突き詰めていって解答を得ることが出来る問いではありません。罪の語りかけを聞き入れて倒れてしまった経験と、そういう自分の目の前に現れて手とわき腹を見せながら「あなたに平和があるように」と語りかけてくる方と出会う以外にはないことなのです。そうではないでしょうか?
 この点について誰にでも理解できるように説明したり、説得したりすることは不可能ですし、そんなことはすべきことでもないように思います。私はただ証をする以外にはないのです。罪の語りかけを聞いたことがある、と。そして、イエス・キリストを通して神の語りかけを聞いたことがある、と。自分が闇の中に閉じ込められていた時、その闇の中に輝く光を見た、と。そして、倒れていた私が、今こうして立たせて頂いている、と。

 聖霊を受けなさい

 イエス様は喜ぶ弟子たちにさらにこう語りかけられました。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 罪の語りかけを聞いて主イエスを裏切った者が、即座にキリストの愛の証し人にさせられる。天に満ち、深淵に至る神の「慈しみ」「真実」「恵みの業」そして「裁き」、それはこういうものです。信じ難いことなのですが、こういう愛がある。その愛で私たちは愛されている。罪に落ちた人間をご自分の十字架の死を通して赦し、新しい人間に造り替え、新たに神の子として生かそうとしてくださる。そういう愛がある。その愛で私たちは愛されている。
 だから、私たちは今日もこの礼拝堂に招かれているのです。御翼の陰に招かれ、神の家の中に招かれ、滴る恵みに潤い、甘美な流れに渇きを癒す時が与えられているのです。命の泉である主イエスから聖霊という命の水が注がれているのです。

 イエス様の招き

 愛に渇いているサマリアの女に出会ったイエス様が、神殿の境内で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と叫んでくださったイエス様が、墓場のような部屋に生ける屍としてうずくまっている弟子たちの真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださったイエス様が、今、「命の泉」として、また闇の中に輝く光として立ち、聖餐の食卓へ招いてくださっているのです。愛と赦しによって与えられる命の食卓へと招いてくださっているのです。
 この礼拝に招かれる度に知らされることは、自分がどれほど渇いているかです。そして、自分がどれほど汚れているかです。渇きは自覚しない場合があります。汚れは周囲も汚れていると少しも目立ちません。さらに闇の中では何も見えません。でも、この礼拝堂に座った時から、少しずつ自分が渇いていたことが分かり始めます。そして、前奏に始まる礼拝が進んで行くにつれて、十字架の主イエスを通して慈しみの光が礼拝堂に射し込んで来ます。その光によって自分の心や体についてしまった染みや汚れが見えて来ます。そして、自分が罪の語りかけに耳を傾け、その言葉に支配されていたかが分かって来て、恐ろしくなる。神への恐れを感じ始めます。
 そして、神様の語りかけを聞く。そのことを通して、神様が信じ難い愛で私たちを赦し、新たに生かそうとしてくださっていることを知らされる。聖書の言葉とその説き証しである説教を通して、また聖餐の食卓を通してです。すべては聖霊の注ぎの中で起こることです。
 宗教改革者のルターやカルヴァンは聖餐の食卓のことを「見える説教」と言いました。この聖餐式を通して、私たちのために十字架に掛かってくださったイエス様の姿を見る。この聖餐式を通して、復活の主イエスが今日もパンを裂いて、「取りなさい。これはわたしの体である」と言ってパンを渡し、罪の赦しの徴である杯を渡してくださるイエス様の姿を見る。そして、世の終わりに完成する御国における祝宴を見るのです。私たちは、そこに神の光を見るのです。決して闇に呑み込まれることのない命の光を見るのです。
 そして、私たちは主イエスによって遣わされて行くのです。主イエスに愛されたように人を愛するために。主イエスに赦されたように人を赦すために。主イエス・キリストを分かち合うために。
 主イエス・キリストという命の泉を信じる時、ただその時にのみ、人を生かす命の水は私たちを通して溢れていきます。愛に渇いていた者が信仰によってその渇きを癒されるからです。そして、主イエス・キリストという命の光を信じる時、ただその時にのみ、私たちは闇の中に輝く光を見ることが出来るのです。そして、今はまだ罪の語りかけを聞き、それが罪だとも分からない「人の子ら」に、命の泉、命の光を指し示すことが出来る。かつて神に逆らい、また裏切っていた者たちが、主の慈しみによって、今はキリストの愛と赦しの証し人とされる。なんという恵み、なんという幸いかと思います。
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