「主よ、わたしの祈りを聞いてください」

及川 信

       詩編 39編 1節〜14節
39:1 【指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩。】
39:2 わたしは言いました。
「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。
神に逆らう者が目の前にいる。
わたしの口にくつわをはめておこう。」
39:3 わたしは口を閉ざして沈黙し
あまりに黙していたので苦しみがつのり
39:4 心は内に熱し、呻いて火と燃えた。
わたしは舌を動かして話し始めた。
39:5 「教えてください、主よ、わたしの行く末を
わたしの生涯はどれ程のものか
いかにわたしがはかないものか、悟るように。」
39:6 御覧ください、与えられたこの生涯は
僅か、手の幅ほどのもの。
御前には、この人生も無に等しいのです。
ああ、人は確かに立っているようでも
すべて空しいもの。
39:7 ああ、人はただ影のように移ろうもの。
ああ、人は空しくあくせくし
だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。
39:8 主よ、それなら
何に望みをかけたらよいのでしょう。
わたしはあなたを待ち望みます。
39:9 あなたに背いたすべての罪からわたしを救い
神を知らぬ者というそしりを
受けないようにしてください。
39:10 わたしは黙し、口を開きません。
あなたが計らってくださるでしょう。
39:11 わたしをさいなむその御手を放してください。
御手に撃たれてわたしは衰え果てました。
39:12 あなたに罪を責められ、懲らしめられて
人の欲望など虫けらのようについえます。
ああ、人は皆、空しい。
39:13 主よ、わたしの祈りを聞き
助けを求める叫びに耳を傾けてください。
わたしの涙に沈黙していないでください。
わたしは御もとに身を寄せる者
先祖と同じ宿り人。
39:14 あなたの目をわたしからそらせ
立ち直らせてください
わたしが去り、失われる前に。

 鳥獣花木図屏風

 先日、NHKの番組で江戸末期の画家である伊藤若冲(じゃくちゅう)の展覧会が東日本大震災の被災地で開催されていることを知りました。
 若冲の絵は独特の色彩感覚と筆致による独創的な画風なので、ひと目見ただけでも忘れられないものです。その中でも「鳥獣花木図屏風」と言う大きな屏風絵は圧巻です。左側の屏風には何種類もの鳥たちが地上や空に群がっています。日本にはいないであろう孔雀やペリカンみたいな鳥もいます。右側の屏風の中央には大きな白い象が正面を向いて立っています。また、トラ、豹、駱駝など若冲が自分の目で見た訳ではないであろう動物と、リスやムササビなどの小動物が所狭しと描かれています。
 その展覧会は、長年若冲の絵を収集してきたアメリカ人の絵画収集家が開催したものです。彼は震災から三週間後に被災地を訪れたそうです。夫人が日本人なのです。その夫妻が被災地を訪れた時、そこに見たものは、何もかもがごちゃごちゃになった瓦礫の山でした。その中で多くの人々が命を落としたのです。しかし、その土地に一本の梅の木が残っていて、その枝に小さなピンクの花を咲かせていたそうです。その花を見た時、彼らは死で覆われた大地に命を感じ、生命の躍動に満ちている若冲の絵を一人でも多くの人に見て貰い、生きていく希望と力を持って欲しいと願ったというのです。
 私は番組の中でその絵を見た瞬間は、エデンの園をイメージしました。でも、次の瞬間にイザヤ書11章に記されている預言を思い起こしました。
 イザヤは語ります。いつの日か神に立てられたメシアが世界を統治する時が来る。
その時「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」と。そのメシアの世界を、彼は動物のイメージを使って語ります。

「狼は小羊と共に宿り
豹は子山羊と共に伏す。
子牛は若獅子と共に育ち
小さい子供がそれらを導く。
(中略)
獅子も牛もひとしく干し草を食らう。」

 終わりを見つめる目

 イザヤの目の前には凄まじい弱肉強食の人間世界があるのです。大国は世界の覇権を目指して小国を食い物にします。多くの血が流れます。小国の中でも権力闘争が繰り返され、社会的弱者は常に辛酸を嘗め続けている。正義は行われず、不公平と不正が横行している。神の民イスラエルですら、主なる神への信仰を捨てて右往左往している。
 そういう世界の現実の中で、イザヤはいつの日か実現する神の支配の完成を見つめます。神が与えてくださった幻を見つめて、確信をもって語るのです。

「その日が来れば
エッサイの根は
すべての民の旗印として立てられ
国々はそれを求めて集う。
そのとどまるところは栄光に輝く。」

 すべての国々が十字架の御旗の下にひれ伏し、神様の栄光を称える日が来る。私たちキリスト者は、この預言をそういう終末を預言したものとして受け止めます。強い者も弱い者もすべての人々がキリストの主権の下にひれ伏す。罪を赦して頂いたことを神様に感謝して互いに赦し合い、愛し合う平和が確立される。そのことにおいて神の栄光が称えられる。神の御名が聖別される。そういう日が来る。必ず来る。その終わりの日をしっかりと見つめる。それが神様と出会った者、神様を信じる者の姿だと思います。
 伊藤若冲の最後の作品は一匹の鷲が力強く飛ぶ姿を描いた絵です。彼は、その絵を火事によって家屋敷も何もかも失った後に描いたと言われます。八十歳を越えていたようです。その彼が描く鷲の目は鋭く、遠くの一点を見つめています。何千里も先にある何かを一筋に見つめている。そのことにおいて揺らがない。そういう強靭な意志を感じさせるものです。
 絵画収集家は、「この目は若冲の目だ」と言っていました。来るべき何かを見つめている目だと。イザヤもそういう目で、神がもたらす終わりの日を見つめ、そして語ったのだと思います。

 沈黙

 今日は詩編39編を読みます。この詩は実に難しいと言うか面白いと言うか、今まで読んできた詩にはないものを感じました。この作者の置かれている具体的状況は例によってよく分かりません。瀕死の病に罹っていると推測されることもありますけれど確言はできません。ただ、彼が死を目前にしており、彼の周りには「神に逆らう者」とか「神を知らぬ者」がいて彼の言動を注視している。隙あらば彼を嘲り、また神を嘲る機会を狙っている。そういう状況であることは明らかです。だから彼は、「舌で過ちを犯さぬように、わたしの口にくつわをはめておこう」と言うのです。
 9節に出てくる「神を知らぬ者」とは「神などない」(詩編14:1)と思っている者たちのことです。自分が神様に対して不満をもっていることをそういう者たちに知られようものなら、「それみたことか。神などないのだ」と嘲られてしまうことは明らかです。だから彼は沈黙を選びます。でも、沈黙を続けるうちに「苦しみがつのり、心は内に熱し、呻いて火と燃え」てきて抑え難くなりました。ついに彼は「舌を動かして話し始め」ました。

 情熱と空虚

 地中奥深くに溜まったマグマが爆発するように、彼の複雑な思いがその口からほとばしり出てきます。

「教えてください、主よ、わたしの行く末を
わたしの生涯はどれ程のものか
いかにわたしがはかないものか、悟るように。
(中略)
ああ、人は確かに立っているようでも
すべて空しいもの。
ああ、人はただ影のように移ろうもの。
ああ、人は空しくあくせくし
だれの手に渡るとも知らずに積み上げる。」

 この詩の一つの特色は、作者である「わたし」だけでなく「人」が頻出することです。これまで読んできた詩の多くは「わたし」のこと、つまり自分と神様との関係だけが問題でした。この詩も基本トーンは同じです。でも、その「わたし」にかぶさるようにして「人」が出て来るのですが、そのすべてが「空しい」という言葉とセットなのです。
 この祈りには、火のように燃える熱さと同時に白けた空しさが漂っています。自分のことを言っているのか、人間全般のことを言っているのかよく分からないという面もあります。「空しい」と言いつつ「わたしはあなたを待ち望みます」と言い、「わたしの祈りを聞いてください」と熱烈に言ったかと思うと、「あなたの目をわたしからそらせてください」という投げやりな言葉がでてくる。せめて死ぬ前には放っておいてくれと言うのです。
 非常に分かりにくい人だと思います。求めながら拒絶する。構ってもらいたいのに放っておいてくれと言う。生きたいのだけれど、死にたい。近くにいると面倒くさい人です。でも、こういう人は、自分でも自分を持て余して困っているものです。

 絶望と希望

 彼は人間の生涯の短さ、儚さ、空しさを嘆きます。地上でやることは何もかも影のようなものであって意味がないと。 そんな人生なら早く終わりが来て欲しいと願う。
 でも、そう思う時にこそ希望を求めるのが人間でもあるでしょう。

「主よ、それなら、何に望みをかけたらよいのでしょう。
わたしはあなたを待ち望みます」

 と彼は言います。ここは「今、わたしは何を望むのか。わが主よ。わたしの望みはあなたにあります」と訳した方が直訳だし、分かりやすいと思います。
 死が近いと思わざるを得ない時、彼の目の前には「神に逆らう者」「神を知らぬ者」(愚か者)がおり、彼の信仰を嘲り、神を嘲ろうと狙っている。それは耐え難い苦痛です。安らかに死を迎えるなんてことは出来ません。さらに、人間は誰でもその生涯の中で罪を犯しています。恥ずべき事実があるのです。死を目前にした時にその事実を想起することもあるでしょう。そのことが彼をさらに苦しめるのです。
 彼の希望は、主にしかありません。原文ではここだけ「わが主」(アドナイ)となっています。「わたしの主、わたしを愛し、わたしと共に生き、わたしを赦し、救ってくださるわたしの主。あなたにしかわたしの望みはないのです」と彼は信じています。だから「あなたに背いたすべての罪からわたしを救ってください」と祈り、沈黙して主の計らいに身を委ねると告白するのです。
 でもその直後に「わたしをさいなむその御手を放してください。御手に撃たれてわたしは衰え果てました」と訴え、人はすべて神様にその罪を責められ、懲らしめられて滅びるだけだから「空しい」と嘆く。罪を赦して頂いているという実感がないのでしょう。だからさらに熱心に「主よ、わたしの祈りを聞いてください」と叫ぶ。罪の赦しを求めているのです。その赦しなくして生き死にすることほど空しく恐ろしいことはありませんから。
 彼はさらに祈ります。

あなたの目をわたしからそらせ
立ち直らせてください。
わたしが去り、失われる前に。

 これが祈りの結論です。自分の罪の赦しを求める人は、神様に向って「こちらを見てください」と言うのが一般的だと思います。でも、彼はそうは言わないのです。切実に赦しを求めているのだけれど、神様は赦してくださると確信が持てない。神様はこれからも罪を責め続けるのではないかと思ってもいる。だから、一瞬でもよいから目をそらしてくれと言う。でも本心はその逆なのだと思います。

 目をそらす

 「目をそらす」
という言葉は、ヨブ記の中に出てきます。ヨブは、ある日、自分では理由が分からない苦難の中に落とされます。子どもたちや財産をすべて一瞬にして失い、さらに重い皮膚病を患って、毎日陶器の破片で肌を引っ掻かないとその痒さに耐えることが出来ないという悲惨を経験するのです。彼の全身は血で滲んでいたでしょう。ヨブは、なぜ自分がこのような悲惨を味わわねばならぬのかが分からない。だから、神様にその理由を問い続けます。しかし、神様からは応答がない。そのことが彼をさらに苦しめていくことになります。
 彼は、神様が常に自分を見張っていると感じています。そして、人生の長さも何もかも神様によって決められており、人間は逆らうことが出来ないと。そういう思いの中で、彼は神様に向って「(あなたは)いつまでもわたしから目をそらされない。唾を飲み込む間すらもほうっておいてはくださらない」(ヨブ7:19)と抗議し、「なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか」(7:21)と訴え、「あなたの決定されたことを人は侵せない。御目をこのような人間からそらせてください。彼の命は絶え、傭兵のようにその日を喜ぶでしょう」(ヨブ14:5〜6)と口にするのです。ここでも39編と同じく「わたし」「人」がかぶさるように出てきます。
 一見すると、どうせ罪が赦されないならせめて神様の監視の目がない時に死にたいと言っているように見えます。しかし、その心の奥底では、やはり罪を赦して頂いて神様の御顔を拝したい。そういう強い思いが渦巻いているのではないかと思います。そういう意味でも、ヨブと詩編39編の作者はかなり似通った人のように思います。

 わたしの行く末  最期

 もう一つ、この作者とヨブに共通したことがあります。作者が沈黙を破って最初に発した言葉は「教えてください、主よ、わたしの行く末を」でした。「わたしの行く末」とは、「終わり」「目的」を意味するケーツという言葉の所有格でキツィーと言います。この言葉は、ここ以外ではヨブ記6章11節にしか出てきません。
 ヨブは神様に向って早く自分を「滅ぼしてください」と言いつつ、「(わたしは)なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか」と訴えます。ここは「私の最期が何なので、わが魂は日々耐えるのか」(並木浩一訳)と訳した方が良いと思います。詩編39編の作者やヨブにとって最大の問題は、「わたしの行く末」「私の最期」が何であるかを知りたいということですから。その「行く末」「最期」が価値あるものであるならば、今の苦しみを耐えることが出来るからです。しかし、それが無価値にして無意味なものであるならば忍耐する力は出てきません。
 「わたしの行く末」とか「私の最期」という言葉は、自分は終わりに向って進んでいると思っている人の口から出てくる言葉だと思います。人生も世界の歴史も退屈な円周運動を永遠に繰り返すのだと思っている人の言葉ではありません。円には初めも終わりもないのですから。
 しかし、イザヤもそうだったし詩編の作者もヨブも、世界の現実、人間の現実には絶望するしかない思いを持っている人々です。目の前で起こっていることは飽くことなき戦争と不正と不公平なのであり、荒廃した現実です。いつまで経ってもその現実は変わらない。今もそうでしょう。私たちはこの世の現実の中に明るい未来を感じることが出来るのでしょうか。この国の現実を見ても、少なくとも私は希望を感じることはできません。
 明後日の8月6日は広島に原爆が投下された日であり、9日は長崎に投下されました。日本は唯一の被爆国です。総理大臣は被爆地に行って「過ちは繰り返しませんから、安心してお眠りください」とか言うのでしょう。しかし、昨日の新聞では、世界八十カ国が賛同して署名した核兵器の非人道性を訴える共同声明に日本は署名しなかったことが報じられています。何を問題としたかと言うと、「核兵器をいかなる状況でも二度と使わないことが人類生存の利益になる」という文章です。「いかなる状況でも使わない」ことに賛同してしまうと、北朝鮮が核兵器をもって攻撃しようとして来た時のアメリカの行動に制約を与えてしまうことになるというのが、その理由だそうです。
 頭の良い人の考えることは、私には分かりません。こういう考え方は、結局、核兵器は今後も使う可能性を残しておくべきだということなのではないでしょうか。これが唯一の被爆国が世界に向けて発するメッセージなのです。また今の政府は、原爆を投下したアメリカとの集団的自衛権の発動を合憲と解釈する方向で動いていると言われ、さらに戦争を合憲とする憲法を作ろうとしています。民衆が気付かない形で静かにやることが賢いやり方だと、ナチスを例に挙げて言う人も政府にはいます。
 人間は過ちを繰り返します。それは歴史が証明しています。また、私自身の現実を見てもそれは分かります。誰だって過ちを繰り返しています。そういう自分と人間全般に対して、またそういう人間が作り出す社会や世界に対して希望を持つことは出来ません。そういう自分を抱えつつ、この世界の中を生きていかねばならない。それが私たちの現実です。希望があるとすれば、それは私たち人間にではなく「わが主」にしかないのです。「わが主」が、「すべての罪からわたしを救って」くださることにしかない。しかし、その赦しを、その救いを確信できない。そこに作者やヨブの苦しみがあり、時に私たちの苦しみがあります。

 まだ「終わり」ではない

 でも彼らは、まだ終わりではないことは知っています。自分たちは終わりを目指して生きているということを知っているのです。そして、その終わり、「行く末」をしっかりと見つめたいと願っているのです。それは次の言葉から分かります。

わたしは御もとに身を寄せる者
先祖と同じ宿り人。

 ヘブル語では、「わたし」という言葉を最大限に強調したい時に「アノキー」という言葉を使います。滅多に出てこない言葉なのですけれど、詩編39編でそのアノキーが使われているのがここです。ここに彼のアイデンティティがあるのです。そして、「あなた」を強調する「アッター」という言葉も10節後半の「あなたが計らってくださるでしょう」の中に一回だけ使われています。その点については、後に触れます。
 「身を寄せる者」とか「宿り人」とは、その土地とか国の定住者ではない人々のことです。つまり、地域住民あるいは国民としての権利とか義務を持たない人のことです。一時的な滞在者、寄留者、旅人です。それは言い換えれば、いつの日か安住できる地を求めて生きている人々であるということです。その日まで、虐げられ差別され排除されながら、それでも懸命に生きている人々のことです。そのはるか将来の一点を見つめることが出来る時、「わたしの行く末」「私の最期」を見つめることが出来る時、そしてその「行く末」「最期」が喜びに満ちたものであると確信できる時、寄留者や旅人はその希望の故に忍耐し続けることが出来るのです。39編の作者や苦難の只中にあったヨブはまだそこにまで至っていませんが、何とかしてそこに至りたいと願って祈り、訴えているのです。

 終末論的信仰

 私たちキリスト者の信仰は「終末論的信仰」だと言われることがあります。自分の<「行く末」、「最期」を見つめて生きることが信仰だという意味です。老いた鷲がはるか遠くの一点を見据えながら力強く飛び続けるように、私たちもはるかな一点、世の終わりを見つめて生きるのです。その「終わり」とは、イザヤの言葉で言えば、「水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」日です。十字架の御旗の下にすべての民がひれ伏して、神の栄光が輝く日です。聖書に預言されているこの日をしっかりと見つめることが出来る時、初めて私たちは耐え難きこの世界を希望をもって生きていくことが出来るのではないでしょうか。そして、神様から託された使命を果たして生きていくことが出来るのだと思います。

 旅人 仮住まいの者の責任と使命

 詩編39編で「身を寄せる者」とか「宿り人」と訳されている言葉は、新約聖書の中では「旅人」とか「仮住まいの者」と訳されています。
 ペトロの手紙一にはこうあります。

 愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい。また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。(Iペトロ2:11〜12)

 ここで見つめられている「訪れの日」とは、終末のメシア到来の日のことです。キリストの主権が天地に確立される日です。それが、キリスト者が見据えるべき「行く末」「最期」です。信仰によって罪の赦しに与った者は、「訪れの日」に神の御顔を拝して御名を崇めることが出来るのです。その日に向って私たちは旅を続けているのです。その生き方は「旅の恥はかき捨て」というものではあり得ません。信仰を与えられる前よりもさらに深くこの世の現実を見つめ、責任を感じ、正義と公平のために戦いながら生きるのです。イエス・キリストが戦ったように、愛と赦しをもって戦うのです。信仰に生きることは世捨て人になることではないし、自分の救いのことだけを考えて生きることでもありません。今は「神などない」と言っている人々が「訪れの日に神をあがめるようになる」ために生きることなのです。

 確信と確認

 ヘブライ人への手紙11章は、印象的な書き出しです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」

 本当に深く、味わいつくすことが出来ない言葉です。論理的には矛盾していますが、これが信仰の現実なのです。
 その後、手紙の著者はノアとかアブラハムという旧約聖書の人物を紹介しつつこう言います。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」
「彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」

   この手紙の著者はもちろん、地上を生きている人間です。死んで天に故郷があることをその目で見て確認した上で地上に帰って来たわけではありません。でも彼は「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認」してこう語っているのです。彼が確信し、確認しているのはイザヤが見た終末の世界、ペトロが言う「訪れの日」の現実です。その現実を「天の故郷」、神の「都」と彼は言います。彼は古の信仰者と共に彼もまた天の故郷、都に招き入れられることを確信し、確認しつつ神様を賛美している。その栄光を称えているのです。
 私たちも39編の作者や苦難の只中にいたヨブのように希望を失い、空しさに打ちのめされることがありますし、信じ切れないこともあります。しかし、私たちの希望はわが主イエス・キリストにしかない。それはもうはっきりした事実なのです。私たち人間にはないのですから。
 新約聖書の終わりはヨハネの黙示録です。そのヨハネの黙示録の最後の言葉はこういうものです。

わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。

以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。

 「アーメン、主イエスよ、来てください。」
私たちは、初めであり終わりである主イエスの訪れの日をまっすぐに見つめながら歩むことが出来る。どんな困難があっても、絶望的な状況になったとしても、新しい天と地を完成してくださるイエス・キリストが終わりの日に来てくださる。この約束を信じることが出来る。だからどんなことがあっても、希望を持って生きることが出来る。鷲のように翼を張って飛ぶことが出来る。そして、それだけではありません。神様に与えられた使命を生きることが出来るのです。なんという幸いでしょうか。神様に感謝します。
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