「主をたたえよ」
41:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】 41:2 いかに幸いなことでしょう 弱いものに思いやりのある人は。 災いのふりかかるとき 主はその人を逃れさせてくださいます。 41:3 主よ、その人を守って命を得させ この地で幸せにしてください。 貪欲な敵に引き渡さないでください。 41:4 主よ、その人が病の床にあるとき、支え 力を失って伏すとき、立ち直らせてください。 41:5 わたしは申します。 「主よ、憐れんでください。 あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」 41:6 敵はわたしを苦しめようとして言います。 「早く死んでその名も消えうせるがよい。」 41:7 見舞いに来れば、むなしいことを言いますが 心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。 41:8 わたしを憎む者は皆、集まってささやき わたしに災いを謀っています。 41:9 「呪いに取りつかれて床に就いた。 二度と起き上がれまい。」 41:10 わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします。 41:11 主よ、どうかわたしを憐れみ 再びわたしを起き上がらせてください。 そうしてくだされば 彼らを見返すことができます。 41:12 そしてわたしは知るでしょう わたしはあなたの御旨にかなうのだと 敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。 41:13 どうか、無垢なわたしを支え とこしえに、御前に立たせてください。 41:14 主をたたえよ、イスラエルの神を 世々とこしえに。 アーメン、アーメン。 いかに幸いなことでしょう 「いかに幸いなことでしょう」とこの詩編は始まります。この言葉を聞けば、私たちはなによりも詩編1編を思い起こします。そこには、主の教えを愛し口ずさむ者たちの「幸い」が記されていました。 私たちは、2011年1月2日から原則月に一回詩編を少し飛ばしながら読み続けており、今日で35回目となりました。今日の41編に、1編と同じように「いかに幸いなことでしょう〜〜〜の人は」と出てくるのは偶然ではないと思います。全部で150編の詩が編纂されている詩編の中で41編が一つの区切りであることは明らかです。1編と41編は「幸いなことか」という言葉で一つの枠を作っています。 これまで表題についてほとんど触れては来ませんでしたが、詩編41編には「ダビデの詩」とあります。これは、3編から続いてきたものです。次の42編は「コラの詩」とあって49編まで続きます。ですから、41編は一連の「ダビデの詩」の締め括りの詩なのです。その最後には「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン」とあります。それは区切りとなっている72編や89編の最後にも出てくる言葉です。私たちの礼拝の最後が父・子・聖霊なる三位一体の神様をたたえる「頌栄」で終わるように、区切りとなる詩には「主をたたえよ、とこしえに、アーメン、アーメン」という言葉があるのです。そして、最後の150編は、最初から最後まで「ハレルヤ」「主を賛美せよ」「息ある者はこぞって、主を賛美せよ」という言葉で満ち溢れているのです。 苦しみ 私は、2年半余り皆さんと共に詩編を読んで来ました。その間に何人もの方のご葬儀をさせて頂き、病院にお見舞いに伺いました。また高齢者施設にお訪ねしたりしてきました。家族を失った嘆き、悲しみがあり、癒されぬ病の苦しみがあります。また、老いの苦しみもある。 しかし、嘆き、悲しみ、苦しみは通常の生活の中にもあります。重荷と言う他にない仕事を負わされていたり、職場や家庭における人間関係の不和だとか、「敵」と呼ぶ他にない人々からの攻撃にさらされていたり、罪を犯してしまって自分自身が悲しくて仕方なかったり、公権力との対決を強いられたり、経済的に困窮したり、進むべき道が見えなかったり、挫折してしまったり、裏切られてしまったり、裏切ってしまったり、赦せなかったり、赦されなかったり。神様にも見捨てられたと思わざるを得なかったり、自分が神様を見捨てていたり。 孤独 何気ない顔をして生きていたとしても、心の内に人に言えない悩みや悲しみを抱えていることはいくらでもあります。心を開ける相手に対して悩みや悲しみが止めどもなく溢れ出てくることがあります。そして、もし誰かに対してその心の内を吐露することが出来るならば、それは幸いなことです。自分の心の奥底にある深い悩みや悲しみを溢れ出させることが出来るとは、その溢れ出てくるものを聞いてくれ、受け止めてくれる存在がいるということだからです。分かち合ってくれる存在がいるからです。その時、人は悩みや悲しみを抱えながらであっても新たに立ち上がることが出来る。生きていくことが出来るでしょう。 しかし、そういう存在がいない、見い出すことが出来ない時、人は孤独に陥っていきます。その孤独に陥る時、人はその悩みや悲しみの故にではなく、その孤独の故に絶望していくでしょう。そして、その絶望は精神的な死をもたらすでしょう。おもしろおかしく生きているように見える人が実は孤独の中で死んでいる。そういうことだってあります。 詩編には、そういうものが満ち溢れています。一つ一つの詩の背景にある具体的状況は様々です。祈りや賛美の詩が生まれた場所も様々です。明らかに神殿の礼拝の中で生まれたものもありますし、病床で生まれたものもあるし、ごく普通の生活をしている人々の心の呻きや悲しみが吐露されていることもある。病気の人もいれば、健康な人もいるし、敵に囲まれている人もいるし、夜空を埋め尽くす星を見て圧倒されている人もいる。感謝に満たされている人もいるし、悲しみに満たされている人もいる。それぞれの人が、主にその心の内を吐露したり、訴えているのです。 賛美 そういう詩の数々を読み進めて来て、今、一つの区切りに来ました。その終わりに内から溢れ出てくるような賛美がある。 「主をたたえよ、イスラエルの神を 世々とこしえに。 アーメン、アーメン。」 そして 「ハレルヤ」(主を賛美せよ) で詩編は終わる。 なんと幸いなことかと思います。 皆さんも、様々な苦しみや悩み、悲しみを抱えて生きておられます。不安や恐れを心の内に秘めていたり、怒りを秘めていたりするでしょう。すべてを諦めてしまうこともある。でも、どん底まで落ちていく時に、自分の上にではなく下に主がおられることに出会うことがある。次第に暗くなっていきついに闇に覆われてしまった時に、初めて自分の足もとの蝋燭の光が見えてくることがある。「ああ、行き止まりだ。この先に道はない」と思わざるを得ない場所まで来た時に初めて藪の中に小さな獣道のような道が見えてくる。そういう時、私たちは「ああ、主はここにいたんですね。実は、私と共に歩んでくださっていたんですね、実はここで待っていてくださっていたんですね、実は闇が深まるまでじっとそこで輝いてくださっていたんですね。私は知りませんでした。ここまで来なければ分かりませんでした。ここまで闇が深まらなければ見えませんでした。すべてはこのことのためだったんですね。分かりました。分かりました。有難うございます。すべての悲しみ、苦しみ、痛み、悩みは、あなたが知らないことではなく、あなたが共にしてくださっていたことを、だからこそ私は耐えることが出来たことを、今知りました。そして、あなたは私たちの先を見ておられる。私たちには先がある。未来がある。希望がある。そのことを、私は今、ここで知りました。主よ、あなたをたたえます。アーメン、アーメン」と賛美することが出来るのではないか。 41編は一つの区切りです。その区切りの詩が「いかに幸いなことでしょう」に始まり、「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン」で終わることに、私は深い慰めを受けます。詩編はまだ続きます。人生も続きます。これからの人生は、42編にあるように「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める」という呻きに満ちたものかもしれません。主をたたえることが出来ないような苦しみが満ちているかもしれません。でも、きっとまたいつか、溢れる感謝をもって「主をたたえよ、アーメン」と言える日が来るし、最後は「ハレルヤ」と言いつつ天に向かっていくことが出来るに違いない。どんな苦しみも悲しみも、その「ハレルヤ」、主への賛美に向かっている、救いへと向かっているのだ。 詩編は、全体としてそういうことを私たちに語りかけているように思えて来ました。若い頃はそれほど感銘を受けなかったものですけれど、今は詩編を読むとは何と素晴らしいことだろうと思います。それは、罪深い人生を生きながら、神様の憐れみを受けて、こうして今日も皆さんと共に神様の御前に立ち、礼拝を捧げることが出来る幸いを深く実感出来るからだと思います。 41編の構造 詩編41編は、重い病に罹ったことがある人の祈りであることは間違いないでしょう。しかし、それが現在のことなのか過去のことなのかに始まり、詩の成立過程についても学者の見解はまちまちです。 一つの問題は、冒頭に出てくる「幸いな人」とは詩の作者のことなのか、それとも別人なのかです。作者のことだとしたら、4節の「主よ、その人が病の床にある時、支え」と出てくる「その人」が誰なのか分からなくなります。また、最後の14節は最初からあったものなのか、第一部のダビデの詩を締め括るために後から付け加えられたのかという問題もあります。冒頭の2節3節も、一編との枠をつけるために付加された可能性が指摘されることもあります。 私は、成立過程が何段階かあったとしても一つの詩として読む立場を取りたいと思います。そして、過去の病の体験を通して主への賛美に至った人が、過去を振り返りつつ捧げた賛美としてこの詩を解釈したいと思います。ですから、5節から13節までは過去のことを語っていると受け止めます。5節の罪の告白も6節の敵の言葉なども皆、過去に言ったり言われたりしたこととして受け止めます。実際「わたしは申します」と訳されている言葉は、「わたしは申しました」と訳されることの多い言葉です。その上で、彼は罪の自責の念と病で弱っていた時の自分を思いやってくれた者たちのことを幸いな者として祝福しつつ、幸多かれと願っている。そして、すべての者が主を賛美するようにと呼びかけているのだと解釈しようと思います。 敵意 裏切り 昔も今も、重い病に罹りそれが治らないと「自分は何か悪いことをしたのか」と考える場合があります。聖書を読んでいても、そのような因果応報的思想があったことが分かります。病や障害は罪が原因であり、その罪に対する神様の裁きなのだと考えるのです。 彼自身がそう考えていたかどうかは分かりません。でも、彼の敵たちは、彼のことを見て「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい」と言っており、それまで彼が「信頼していた仲間」、彼の「パンを食べる者が威張って」彼のことを足げにしているのです。つまり、神に裁かれ見捨てられた罪人として見ている。それまで「仲間」だった者たちですらそう見ているのですから、敵であった者たちは「見舞いに来ればむなしいことを言い」ますが、一旦部屋から出れば「早く死んでその名も消えうせるがよい」と口にしているのです。そういう現実が病に罹っている彼を更に苦しめていることは事実でしょう。 憐れむ 癒す しかし、より深い問題は多分そういうことではないと思います。彼の究極的な問題は罪の赦しです。それは病とか敵の誹謗中傷と関係はしますけれど、次元が異なる問題です。病がどうであろうと敵がどうであろうと、神様が自分の罪を赦してくださるかどうか、それがあらゆるものの根源なのです。 彼は、心の底から神様に向ってこう叫びます。 「主よ、憐れんでください。 あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」 「癒す」はもちろん病の治癒のことを意味します。しかし、もっと広く深い意味があります。「憐れむ」と並んで使われる場合は尚更です。たとえば、詩編6編は必ずしも病を背景として考える必要はなく敵の攻撃にさらされ追い詰められている状況から生まれたものだと思いますが、こういう言葉から始まります。 主よ、怒ってわたしを責めないでください 憤って懲らしめないでください。 主よ、憐れんでください わたしは嘆き悲しんでいます。 主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ わたしの魂は恐れおののいています。 主よ、いつまでなのでしょう。(詩編6:2〜4) 具体的状況が何であれ、彼の魂が恐れおののいているのは主の怒りであり懲らしめなのです。病の重さだとか、敵の攻撃の激しさも大きな苦しみです。でも、根本的にはそういう問題ではない。罪に対する主の怒り、懲らしめです。だから、この詩の作者は「憐れんでください。癒してください」と懇願している。主に罪を赦して頂けないという苦しみは心を痛めつけ、それは骨にも及ぶことだからです。 しかし、あなた 主よ 「主よ、憐れんでください。 あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」 これは痛切な言葉です。読んでいても苦しくなるような言葉です。「わたしを癒してください」は「わたしの魂を癒してください」が直訳です。彼は魂がボロボロになっているのです。深く傷ついているのです。主に対して罪を犯してしまったからです。そのことに気づいてしまったからです。そして、その罪に対して、主がまだ赦しを与えてくださっていることを確信できないのです。だからもう「二度と起き上がれまい」と言われるような重篤な病床の上で、見舞いに来る人々の空々しい言葉を聞きつつ、彼は再び叫びます。 「主よ、どうかわたしを憐れみ 再びわたしを起き上がらせてください。 そうしてくだされば 彼らを見返すことができます。」 原文では「しかし、あなた主よ」が正確な訳だと思います。より切実な思いをもって主の足もとにひれ伏し、その足首に抱きつくようにして、「わたしはあなたに罪を犯しました。だからどうぞあなたが赦してください。そうでなければ、わたしは二度と起き上がることが出来ないのです。主よ、どうぞわたしを憐れんでください。敵が言うように、あなたがわたしを呪っているなんてことは信じられません」と懇願しているのです。 その情景を想像し、また彼の心の中を想像すると胸が痛みます。でも、今回初めて感じたことですが、この情景は何と爽やかなものなのだろう思いましたし、この人は何と幸いなことだろうと思ったのです。羨ましくも感じました。こんなに真実に罪を自覚し、そしてこんなに一途に赦しを乞い求めることが出来るのは、彼が主の愛を信じているからです。主だけが与えてくださる愛を信じている。 子どもが何かの過ちを犯すと親は叱ります。それでも子どもはすぐに謝らないことがあります。ふてくされることもある。そして、親が「それなら勝手にしなさい。わたしはもうあなたのことを知らない」と言って、その場から離れて行ってしまうことがある。それは一見すると、厳しく叱られるよりもマシです。でも、暫くすると、実はその放置こそ厳しい処罰であることを知り始めます。そして、そこまで行かないと自分が何をしてしまったか、どれほど深く親を傷つけてしまったか、そして自分自身を貶めてしまったかが分からないことがあります。 また、他人のものを盗むことは、親のものを盗んでどこかに売り払ったわけではないのですから行為としては親に対して罪を犯したことにはなりません。でも、それは子どもを心から愛している親に対して罪を犯したことなのです。他人に対して罪を犯したことは当然ですが、その最も深いレベルにおいて自分を心から愛してくれる親に対して犯したことです。そのことに気づくまでに時間が掛かることがあります。 しかし、気付いた時、最早その顔を見ることさえ許されない親にのみ縋る。足もとにひれ伏し、赦しを乞う。自分には親の愛しか縋るものがないことを知り、縋る。それは本当に惨めで悲しいことです。でも、それが出来る時、そこに既に救いがあるのです。親がその子を愛しているからです。 彼はそのことを知っているのです。だから、彼は祈る。泣きながら親の赦しを懇願する子どものように祈るのです。このように祈ることが出来れば、もうそれでよいとさえ思います。 御旨にかなう その祈りはこう続きます。 「そしてわたしは知るでしょう。 わたしはあなたの御旨にかなうのだと 敵がわたしに対して勝ち誇ることはないと。 どうか無垢なわたしを支え とこしえに、御前に立たせてください。」 「御旨にかなう」と訳された言葉は、他の所では「愛する」とか「喜びとする」と訳される言葉です。 人間の親は不完全な場合が多く、子どもが自分の期待に添わないと叱ったり、嫌ったり、ひどい場合は虐待したりすることがあります。でも、自分の子どもであるが故に子を愛する親は、子どもに能力があり成績がよいから愛するのではありません。そして、その愛の故に、子の過ちを赦し罪を赦します。それは謝る前から実は赦しているのです。でも謝るのを待っている。そして、子どもが親の愛を信頼し、縋って来ることを喜ぶのです。それこそ親の思いにかなっていることなのです。 子どもがいつも清く正しく美しく生きることではなく、失敗したり挫折したり過ちを犯してもそのことに気づき、赦しを乞う。そのことが「御旨にかなう」ことであり、そのことが「無垢」ということだと思います。主はそういう者を憐れみ、癒し、必ず起き上がらせてくださるのです。 御前に立つ 彼の願い、魂の奥底からの願いは主によって罪が赦され「とこしえに、御前に立つ」ことです。「御前に立つ」とは神様の顔の前に立つことです。それは神様を礼拝することなのです。それは罪の赦しの中で初めて可能なことです。再び立ち上がって主の御顔を拝して礼拝したい。そのことを通して、主が憐れみ深いお方であること、主が病や傷をそして罪を癒してくださる方であること、主は決して人を呪ったりしないことを敵たちに知らせたい。彼が望んでいることはそういうことです。彼が敵を「見返す」とはそういうことなのです。浅はかな復讐をして溜飲を下げることではありません。 すべての者が憐れみと癒しの神である主をたたえる。「アーメン、アーメン」と言って主をたたえる。世々とこしえに、主の憐れみの勝利をたたえる。それが彼の望みです。その望みをかなえてくださいと祈っているのです。そして、その祈りは御心にかない、彼はすべての人々に向って主の憐れみと癒しを告げ知らせるべく、「主をたたえよ」と声を大にしているのだと思います。 平和があるように 10節に、 「わたしの信頼していた仲間 わたしのパンを食べる者が 威張ってわたしを足げにします」 とあります。 この言葉は、ユダの裏切りを暗示したものとして解釈されて来ました。主イエスは最後の晩餐の時に食卓を共にしている者たちの中の一人がご自分を裏切ると予告し、その者の不幸を嘆かれました。そして、ヨハネ福音書によれば、イエス様はその時、ユダにパン切れを与えたのです。その後、同じく食卓を共にしていたペトロの離反を予告しました。 ユダは裏切り、ペトロは離反しました。ユダはそういう自分を赦すことが出来ず、また赦されることを信じることが出来ずに自ら命を断ってしまいました。ペトロは泣きました。泣いて隠れ家に隠れていたのです。赦しを乞い求めたくても、主イエスは死んでしまったからです。求めようにも求めることが出来ないからです。彼は自分で自分を赦すことも出来ず、しかも、赦されることもなく、他の弟子たちと共に隠れ家にうずくまっていました。そこには仲間がいますが一人ひとりは徹底的に孤独です。そこにあるのは絶望です。 そういう弟子たちの隠れ家、真っ暗な墓のような部屋に主イエスの方が現れてくださいました。彼らの裏切りと離反の罪を憐れみ、癒しようのない深い悲しみの傷を癒すためにです。主イエスは、彼らの真ん中に立ち、十字架の傷跡が残る掌を見せて、「平和があるように」と宣言してくださいました。「あなたがたの罪の赦しのために、わたしは十字架に掛かって死に、今復活した。神はあなたがたを赦し、共に生きてくださる。だからシャローム(平和)なのだ」と宣言してくださったのです。さらに命の息としての聖霊を吹きかけてくださったのです。土で造られたアダムに息を吹きかけて生きる者としてくださったように、罪に支配されて生ける屍になってしまった彼らに新しい命を与えるためにです。 主をたたえよ そのことのために、主イエスは十字架に掛かって死んでくださったのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫び、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈り、「(わたしは)渇く」と呻き、「成し遂げられた」とおっしゃりながら、その霊を父の御手に委ねられたのです。 そこに神様の憐れみ、癒しの究極の姿があります。主に罪を犯してしまい、そのことに気づき立ち上がることさえ出来なくなった時、泣きながらうずくまっていることしか出来ない時、何をしているかも分からぬままに罪を犯してしまう罪人の罪の赦しの御業を成し遂げられた主イエスが現れてくださる。この主イエスに出会う。この主イエスを信じる。その憐れみと癒しに与る。ただ、その時にのみ、私たちは主の御顔を拝して礼拝出来るのです。主の命の息を吸い込みつつ新たに起き上がり、罪の赦しの福音を証して生きることが出来るのです。 「主をたたえよ。世々とこしえに。アーメン、アーメン」と。 主の死を告げ知らせる 私たちはこれから主の食卓を囲みます。主に罪を犯してしまった私たちに対して与えられる、主の憐れみと癒しの印であるパンとぶどう酒を頂きます。そのことを通して、主が罪人である私たちを呪っているのではなく、祝福してくださっていることを確認し感謝と賛美を捧げるのです。パウロはこの聖餐の食卓に与ることをこう言います。 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」 主の御顔を拝することが出来ず、ただうずくまって泣いているしかなかった者が、主の死を通して表された憐れみと癒しを告げ知らせるために立たされるのです。絶望の中に死んでいた者が希望と喜びをもって立ち上がらされるのです。そして、主の愛を告げ知らせるのです。そのことが出来るのは、ただ十字架の死から甦られた主イエス・キリストだけです。この方の御顔をとこしえに拝し、「ハレルヤ、アーメン」と賛美する。それが、私たちが命を与えられた理由だし、今生きている理由だし、死を迎える時の希望です。 私たちの今の現実がいかに惨めで、悲しく、苦しく、悩み多きものであったとしても、主をどこにも見い出せないとしても、闇が深まればそこに光が見えてくるのだし、行き止まりまで行けば小さな細き道が見えてくるのです。そして、「ハレルヤ、アーメン」と言える日が来るのです。その主の憐れみと癒しを信じて、今日からの歩みを始めたいと願います。 |