「涸れた谷に鹿が水を求めるように」

及川 信

       詩編 42編 2節〜 43編 5節
42:2 涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める。
42:3 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て/神の御顔を仰ぐことができるのか。
42:4 昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う/「お前の神はどこにいる」と。
42:5 わたしは魂を注ぎ出し、思い起こす/喜び歌い感謝をささげる声の中を/祭りに集う人の群れと共に進み/神の家に入り、ひれ伏したことを。
42:6 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。
42:7 わたしの神よ。わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
42:8 あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて/深淵は深淵に呼ばわり/砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。
42:9 昼、主は命じて慈しみをわたしに送り/夜、主の歌がわたしと共にある/わたしの命の神への祈りが。
42:10 わたしの岩、わたしの神に言おう。「なぜ、わたしをお忘れになったのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ歩くのか。」
42:11 わたしを苦しめる者はわたしの骨を砕き/絶え間なく嘲って言う/「お前の神はどこにいる」と。
42:12 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

43:1 神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください。あなたの慈しみを知らぬ民、欺く者/よこしまな者から救ってください。
43:2 あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。なぜ、わたしは敵に虐げられ/嘆きつつ行き来するのか。
43:3 あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き/聖なる山、あなたのいますところに/わたしを伴ってくれるでしょう。
43:4 神の祭壇にわたしは近づき/わたしの神を喜び祝い/琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ。
43:5 なぜうなだれるのか、わたしの魂よ/なぜ呻くのか。神を待ち望め。わたしはなお、告白しよう/「御顔こそ、わたしの救い」と。わたしの神よ。

 涸れた谷の鹿

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

 一度読んだら忘れることが出来ない言葉だと思います。私は、涸れた谷に水を求めてさ迷う鹿の姿をこの目で見たことがあるわけではありません。でも、干上がった川床に鼻を擦りつけながら水を捜す鹿の姿を思い浮かべることは出来ます。そして、心の深みで共感し、心を分かち合える仲間を見つけたような気持ちになります。
地上に生きる生物にとって水は必須のものです。水がなければ地上に生命はないと言っても過言ではないでしょう。全地が砂漠になれば、生物は死に絶えるほかありません。だからこそ、鹿は必死になって水を求めるのです。生きていくために。

 わたしの魂

 その鹿と同じように、「神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く」と作者は言います。人間も鹿も水を必要としている同じ生物です。しかし、人間には「わたしの魂」と言うべきものがあります。これは他の生物にはありません。魂が生きていなければ、生物として生きていたとしても人間として生きてはいないのです。
 ある人は、魂のことを「より良く生きようとする個々人の根源的な意志の働きである」と言っていました。より良く生きようとする意志が人間の根底にあることはよく分かります。その根源的な意志を、「渇き」と言い換えてもよいと思います。私たち人間は誰もがより良く生きようと思っています。そのために、命の水を求めてさ迷い続けていると言ってもよいでしょう。

 良い人生?

 もちろん、この世が教える「良い人生」はあります。経済的に豊かな生活をすることが「良い人生」だと考える人は多いでしょう。そういう生活をするためには一生懸命に勉強し、それなりの学校に行くことが必要だということになります。趣味を楽しむ人生が良い人生だと思う人もいる。あるいは、貧しくとも趣味などなくとも、愛する家族と共に生きることが良い人生だと思う人もいる。様々な「良い人生」がこの世にはあると思います。でも、そのいずれのものも人間存在の根源にある魂の渇きを癒すことが出来るものであるとは思えません。
 今挙げた例は、本人や家族が病気もせず事故にも遭わず、いつまでも若くて健康であればという条件付きのものだからです。しかし、私たちは必ず老いていきますし、病になったり思いがけない事故に遭ったり、家族に異変があったりします。それによって仕事を辞めざるを得なかったり、趣味どころではなくなったりします。愛する伴侶に先立たれて孤独になる場合もあります。私たちの人生は、私たちの願い通りになるわけではないのです。勝手に設けている条件は、一瞬にして崩壊することはいくらでもあります。

 ただ一つの慰め

 中渋谷教会の入門講座で読むものは、宗教改革期に書かれた『ハイデルベルグ信仰問答』です。その冒頭の問いはこういうものです。

問一 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。

 若い時も老いた時もでもなく、健やかな時も病める時もでもなく、富める時も貧しい時もでもない。そういう目に見える条件は一切省いて、生きるにも死ぬにもただ一つの慰めとなるものは何か。これさえあれば安心して生きていけるもの、そして安心して死ねるもの、それは何かを問うているのです。この問いに対する答えを求めて、私たちはさ迷う。そのことが人生であり、また人生の意義だろうと思います。

 『そして父となる』

 最近話題になっている映画に『そして父となる』があります。これから御覧になる方がいるかもしれませんけれど、筋は大体ご想像の通りですから、少し話します。
 この映画には二組の夫婦が登場します。その夫婦の間に生まれた男の子が、病院で取り違えられていたことが六年後に発覚するのです。その二組は何もかもが対極にある夫婦です。一方は、都心の大企業で出世街道をひた走るビジネスマンの夫と専業主婦の夫婦であり、他方は田舎町にある傾きかけた電気屋を営む夫とパン屋でパートをしている妻の夫婦です。前者は高級高層マンションに住み、一人息子を受験させ、習い事もさせ、しつけも厳しい。妻は長男を産んだ病院がある町の庶民的な家庭に生まれた人で、エリート意識に満ちた夫の教育方針についていけない思いを持ってもいます。小学校受験の面接で「夏の思い出は?」と面接官に聞かれた息子は、「お父さんとキャンプに行って凧あげをしたことです」と答えます。でも、それは塾の先生が教えた答えであって、夏休みに家族でキャンプなどしたことはないのです。息子は塾で教えられた通りに言っただけです。
 他方、田舎町の夫婦はその後二人の子どもにも恵まれ、楽しく幸せな生活をしています。親子が一緒に風呂に入り、父親は子どもと一緒に転げ回って遊ぶ人です。しかし、いかんせん貧しいものだから、病院からの慰謝料を少しでも高く取るためにどうしたらよいかを常に考えている面もある。一方は金はあるけれど愛に欠けた面があり、他方は愛はあるけれど金がない。
 そういう両極端の夫婦が決断しなければならないことは、六年もの間我が子と思って育てて来た子どもを交換するかどうかです。それは、親子の絆を血に求めるのか、これまで注いできた愛情に求めるのかという問題でもあります。その問題の解答を捜すことは、人間にとって最も必要なものは何なのか、それがなければ人間として生きていけないものを捜すことです。
 エリート街道をひた走ってきた父親にとって、この事が深刻な問いとなります。実は、彼には、妻にも言ってこなかったし、自分自身にも封印してきた暗く悲しい過去の体験があるのです。彼は、いやがおうにもその体験と向き合い、人間が根源的に必要としているものが何であるかを考えさせられていくことになります。

 子どもにとっての親

 子どもにとって親の愛情は必須のものです。その場合の「子ども」とは、年齢的な意味で幼いことを意味しません。親の愛はいつまでも必要なのです。親の愛を確信できない人は、何歳になってもその確信を求めます。親が死んだ後でも、親が自分を愛してくれたという痕跡を求めて、自分が生まれた時のこととか、記憶にないほど小さかった頃のことを親戚に尋ねたりします。自分が愛されて生まれたこと、愛された時があったことを確認し、確信したい。子にとっては親が命の源ですから、その親の愛を求め確信したいと願うことはあまりにも当然のことです。その愛の中にこそ、真の平安、揺るぐことのない慰めがあるからです。その愛の中にこそ自分の存在根拠があり、生きていく希望があるからです。
 しかし、親もまた人の子であるに過ぎず、愛の源などではありません。その親自身が、親の愛を求めたのにそれを得ることが出来なかった一人の傷ついた人間である場合もあります。だから、自分の子どもを愛したくてもどう愛したらよいか分からない。愛したくても愛せない。時には自分と同じ悲しい思いを味わわせたい。そう思ってしまうこともある。幼い頃に親が亡くなってしまうことも含めて、両親の愛を十分に受けて育つ例の方が実は少ないのではないかとも思います。

 あなたの内に憩うまで

 これまでの説教の中で、私が何度か引用してきた言葉の一つにアウグスティヌスの言葉があります。キリスト教信仰の形成に大きな足跡を残した人ですが、彼はこう言っています。

「偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その知恵ははかりしれない。
 しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとします。それは、おのが死の性を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが『たかぶる者をしりぞけたもう』ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です。
 (中略)
 喜んで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなた は私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなた のうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」(『告白』山田晶訳)

 彼は、様々な遍歴を経た上でイエス・キリストと出会い、神の内に憩い、そこで初めて平安を得ることが出来たのです。その時、彼の心には喜びが溢れ、命の創造主である神様を賛美する言葉が口からほとばしるように出てきたのでしょう。そのように賛美を捧げることこそが神様に命を与えられた被造物の一つの分だと、彼は言います。  創造主である神様を賛美するために人は造られた。詩編には、そういう言葉もあります。自分の命が誰に創造され、それは何のためであるか。それが分かるまで、人はさ迷い続けるものだと思います。その切実度は人によって違います。愛に対する渇きの度合いが強ければ、まだ出会ったことのない神を求める度合いも強まります。そして、渇きが激しいものであるならば、その渇きを癒すものは真実な愛でなければならないでしょう。まやかしの愛では喜びは与えられず、むしろ渇きを増す他にないからです。

 御顔をこそわたしの救い

涸れた谷に鹿が水を求めるように
神よ、わたしの魂はあなたを求める。
神に、命の神に、わたしの魂は渇く。

 彼の渇きは激しいのです。その彼が続けてこう言います。

いつ御前に出て
神の御顔を仰ぐことができるのか。

 彼にとって、神は「命の神」です。自分の命の源である神なのです。ただこの方の御顔を拝する。その胸に抱かれる。そのことによってしか彼の激しい渇きは癒されない。彼はそのことを知っています。
 この詩を残した人は、エルサレム神殿に仕える人であったのに何らかの理由で追放されて、今はヨルダンの地、ヘルモン山の麓にいるのではないかと考えられています。その異教の地で、「お前の神はどこにいる」と嘲られている。かつては「喜び歌い感謝をささげる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏し」ていたのに、今は神殿礼拝など望むべくもない異教の地で嘲りを受けながら生きるしかないのです。
 「お前の神はどこにいる」とは「お前は神にも見捨てられたのだ。神はお前を愛してなどいない」ということです。その声を聞きながら、心の奥底にある魂がひそかに同感してしまう。そして、うなだれてしまう。神は私を見捨てたのだと呻いてしまう。そういう現実がある。
 しかし、だからこそ彼は自分の魂に向って「神を待ち望め」と語りかけ、「わたしはなお、告白しよう。『御顔をこそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」と信仰告白をするのだと思います。

 理由の分からない苦難

 彼は今、「砕け散る波」(8節)に呑み込まれていく自分を自覚しています。これはノアの洪水を思い起こさせるような言葉です。人間の罪に対する神様の恐るべき裁きを暗示する言葉です。でも、彼自身は罪を犯した自覚はありません。少なくとも、神に捨てられなければならない罪、神に見放され、敵に虐げられ、嘆きつつ歩かねばならない罪を犯したとは思えない。しかし、そうであっても、現実に起こっていることは追放であり、嘲りと虐げの中で嘆きつつ生きることです。
 だから、彼は「なぜ、なぜ」と問いかけ続けます。「わたしの岩、わたしの神、わたしの砦」である神に、「なぜ、こんな目に遭わねばならないのですか」と。
 先日、石巻に伺った時にちょっとした立ち話で聞いたことがあります。あの大津波を経て生き残った人たちの間でしばしば口にされることは、「なぜ、あんなに善い人が死んでしまって、あんな悪い人が生き残ったのか」ということだそうです。随分辛い話ですけれど、こういう思いは私たちの多くが抱くことなのではないでしょうか。
 旧約聖書の中には『ヨブ記』という物語があります。主人公のヨブは信仰深い人であり、神様の祝福の中に経済的にも家庭的にも恵まれた生活を送っていました。しかし、ある時、彼にはまったく理由が分からない苦難に襲われたのです。その彼に対して、苦難には何らかの理由があるはずだ、神様は罪に対して裁きを下す方なのだから、あなたは何らかの罪を犯したのではないかと友人たちが問います。でもヨブは、「ある人は、死に至るまで不自由なく、安泰、平穏の一生を送り」(ヨブ記21:23)「また、ある人は死に至るまで悩み嘆き、幸せを味わうこともない」(同21:25)のはどうしてか、と逆に問います。また、「なぜ、神に逆らう者は生き永らえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか」(同21:7)と問うのです。これは友人たちに対する問いと言うよりも、神に対する問いでしょう。そして、こういう問いは私たちの誰もがその心に抱くものではないでしょうか。

 誰に問うのか

 外面的な不遇や災厄は個々人の罪とは無関係に襲ってくるもので、その理由は私たちには分かりません。しかし、分からなくても問うのが人間です。そこで大事なのは「誰に問うか」だと思います。42、43編の作者は、神が造った「砕け散る波」に呑み込まれる経験の中で、「わたしの岩、わたしの神、わたしの砦」である神様に呼びかけるのです。「砕け散る波」を造るのが神であるならば、その波の中から救い出してくださるのも、やはりその神様だからです。神に問い、神に救いを求める他にありません。

 隠された慈しみ

 詩編42編で解釈が割れるのは9節です。

昼、主は命じて慈しみをわたしに送り
夜、主の歌がわたしと共にある
わたしの命の神への祈りが。

 これは文脈と合わない感じがします。8節の「砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く」に自然に続くのは、10節の「わたしの岩、わたしの神に言おう。『なぜ、わたしをお忘れになったのか』」だからです。そこで、ある人は「昼に、主が慈愛を命じてくだされば、夜に、かれへのうたが私と共にあるものを、わが生命の神への祈りとして」と、前半の文章を願望として解釈します。そうすれば分かりやすくなるとも思います。
 でも、分かりにくいとしても、現実には相反することが同時に起こっていることは幾らでもあります。人間だって同じです。うなだれる魂がある一方で、その魂に向って「なぜ、うなだれるのか。呻くのか。神を待ち望め」と励ます「わたし」がいるのです。そういう両極端の「自分」が一人の人間の中に存在することは珍しいことではありませんし、それが人間だとも言えるのではないでしょうか。
 神様も、激流の中に人間を叩きこみ、大波の中に人間を落としながら、実は「慈しみ」をその中に隠しておられるのかもしれません。「昼には分からないけれど、夜になったらきっと分かる。夜の闇の中で神の慈しみの光が見えるとするなら、その時、私は『命の神』への賛美を捧げることが出来る。感謝の祈りを捧げることが出来る。」人に分かるような証明は出来なくとも、彼には分かる明確な根拠をもって、彼はその確信を表明しているように思います。
 その確信を支えるのは、かつてのエルサレム神殿における礼拝体験です。礼拝において知らされた神様の「慈しみ」だと思います。

 わたしの神

 彼はその「慈しみ」に触れることを通して、神様が「わたしの神」であることを知ったのです。一続きの詩である42編と43編には六回も「わたしの神」が出てきます。彼は繰り返し「わたしの神よ」と呼びかけ、その神の顔を見ることこそが「わたしの救い」だと言うのです。「御顔こそ、わたしの救い」と。
 母親とか父親が普遍的な「親」という立場で存在していても、子どもにとっては何の意味もありません。親としての義務を果たしてくれたとしても意味はないのです。親は子にとっては自分だけの親なのであって、そうでなければならないものです。自分だけを愛してくれる親であり、その愛は揺るがない。そう信じることが出来なければ、その子の人生は揺らぎます。
 たとえ自分には訳の分からない理由で親から激しく叱られても、きっと愛してくれている。そのことを信じている。親の激しい怒りの中にもきっと慈しみがあるのだと信じることが出来る子は、親が慈しみに満ちた顔を向けてくれる時を泣きながら待つことが出来るでしょう。子が求めているのは自分の親の愛。それだけです。自分の親に抱き締めてもらえる時が来る。目と目を合わせて顔を見ることが出来る。その日、その時を待ち望み、うなだれ、呻き、嘆きつつも、ただ親の前に立ちその顔を求める。子とはそういうものです。
 この詩の作者は、自分は「命の神」から命を与えられたことを知っているのです。この神の愛の中にしか自分の命がないこと、生きる場がないことを知っています。だから、「お前の神はどこにいる」と言われ、心ひそかに頷く自分がいても、「わたしの神」はこの方以外にはいないのであり、この方の前に立ち続けるしかないのです。
 異邦の地の激流の中に、砕け散る波の中にも神はおられるのではないか。そこに「慈しみ」が隠されているのではないか。今の自分の目には見えないけれども、神がわたしを完全に忘れ、見放されたとは思えない。いや、思えるけれど、信じることは出来ない。そういう両極端の思いに引き裂かれながら、「わたしの神」の御顔を求めて、その場に立ち続ける人がここにはいる。そう思います。

 あなたの光とまこと

 そして、彼は言うのです。

あなたの光とまことを遣わしてください。
彼らはわたしを導き
聖なる山、あなたのいますところに
わたしを伴なってくれるでしょう。

 人は、自分の力で神様に近づくことは出来ません。仲保者が必要です。それも神様に立てられ、神様に遣わされた仲保者です。その方を抜きにして私たちが神のもとに導かれることはないし、御顔を拝することは出来ないのです。ここに出てくる「光」「まこと」は擬人化された仲保者です。神様が「光」「まこと」を遣わしてくだされば、自分は神殿に行くことができる。祭壇に近づくことが出来る。そこで神を喜び祝い、賛美の礼拝を捧げることが出来る。神の内に憩いつつ。その日が来ることを切望しているのです。

   わたしは渇く

 私たちが「光」「まこと」(真理)と聞いて思い出すのはヨハネ福音書だと思います。「遣わす」もヨハネ福音書を思い出させる言葉です。ヨハネ福音書では、イエス様は神様から遣わされた方であることが何度も語られますし、「水」は一つのキーワードです。
 イエス・キリストは言であり、神であり、その言の内には命がある。その命は人間を照らす光であり、光は闇の中で輝くが、闇は光を理解しなかったと、ヨハネは語ります。そして、イエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とおっしゃいました。
 ある時、イエス様は井戸の水を汲みに来たサマリアの女と出会われました。この女は、それまでに五人の男との結婚と離婚を繰り返しつつ、真実の愛に対する渇きを深めていました。その女に、イエス様はこう語りかけたのです。

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 また、エルサレム神殿で祝われる仮庵の祭りの時に、イエス様は大声でこう言われました。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 ヨハネは、この言葉に「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている霊″について言われたのである」という注釈を付けています。水は聖霊の徴なのです。
 そのイエス様が十字架の上で呻くようにおっしゃったことは、「(わたしは)渇く」という言葉でした。そう言って息を引き取られたイエス様のわき腹を兵士の一人が槍で刺した時、「すぐ血と水とが流れ出た」とあります。ここも実に意味深な場面です。

 神の御顔

 私たちは、どこに神の御顔を見るのでしょうか。天を見上げて見るのでしょうか。そうではないのです。神様は、この十字架の主イエス・キリストを通してご自身の御顔を啓示されたのです。神様は、罪の世、暗黒の世、砂漠のように渇ききった人の世に御子イエス・キリストを遣わされたのです。そして、不条理、理不尽に満ち満ちた世にご自身の独り子を遣わされたのです。光として、真理として、ご自身に至る唯一の道として、命の水としてです。
 そのイエス様は、徹底的な渇きを経験されました。その渇きを通して神様がどれほど罪人を愛してくださっているかを示し、同時に理不尽な苦難と死を味わう人々への愛を示されたのです。イエス様は、ご自身の十字架の死によって「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ことを示してくださったのです。渇きの中に息を引き取られた十字架のイエス様に、御顔の光が現れており、真理が現れており、慈しみが現れているのです。隠された形で現されているのです。その御顔は信じる者が見ることが出来、その時、その人は初めて根源的な渇きを癒されます。この方から流れ出てくる水を飲むことが出来るからです。その時、私たちは「神を喜び祝い、琴を奏でて感謝の歌をうたう」ことが出来るのです。
 昼には分からなかった慈しみが夜になって分かることがあるのです。光は闇の中に輝き、復活の命は死の中に隠されているのですから。

 主イエス・キリストのものにされた喜び

 『ハイデルベルグ信仰問答』の問一に対する答えはこういうものです。
「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」
 これは人から教えられて身につける知識ではありません。私たち一人ひとりが、涸れた谷に水を求める鹿のように神を求め続ける中で啓示される現実なのです。
 だから、私たちは、今日も新たに「あなたの光とまことを遣わしてください」と祈り求めたいと思います。神様は必ず光と真理、永遠の命に生かす水を与えてくださいます。
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