「死を越えて導かれる主」

及川 信

       詩編 48編 2節〜 15節
48:2 大いなる主、限りなく賛美される主。
わたしたちの神の都にある聖なる山は
48:3 高く美しく、全地の喜び。
北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。
48:4 その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。
48:5 見よ、王たちは時を定め、共に進んで来た。
48:6 彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った。
48:7 そのとき彼らを捕えたおののきは
産みの苦しみをする女のもだえ
48:8 東風に砕かれるタルシシュの船。
48:9 聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た
万軍の主の都、わたしたちの神の都で。
神はこの都をとこしえに固く立てられる。〔セラ
48:10 神よ、神殿にあってわたしたちは
あなたの慈しみを思い描く。
48:11 神よ、賛美は御名と共に地の果てに及ぶ。
右の御手には正しさが溢れている。
48:12 あなたの裁きのゆえに
シオンの山は喜び祝い
ユダのおとめらは喜び躍る。
48:13 シオンの周りをひと巡りして見よ。
塔の数をかぞえ
48:14 城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。
後の代に語り伝えよ
48:15 この神は世々限りなくわたしたちの神
死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。

 召天者記念礼拝

 キリスト教会では11月の第一主日を「聖徒の日」(永眠者記念日)と呼び、地上の生を終えて天の御国に召された方たちのことを記念する日としています。私たちキリスト者にとって、死は永遠に眠ることではなく復活に向けて天に召されることですから、中渋谷教会では「召天者記念礼拝」と呼んでこの日の礼拝を捧げています。
 昨年の召天者記念礼拝から今日までの間に、私たちの群れの中からTMさん、FKさん、OEさん、そして先週の月曜日にKMさんを天に送りました。

 寿命

 TMさんは、3月7日にご自宅近くでトラックにはねられ、一週間生死の境をさ迷った末に召されていかれました。その間に、ほんの僅かではあっても奥様のTHさんと短い言葉を交わせたことがせめてもの慰めでした。そのTMさんの葬儀があった3月16日に、FKさんがお風呂場で意識を失って亡くなられました。ご主人はアフリカ滞在中にその知らせをお聞きになったのですから、どれほど深い衝撃を与えられたかと思います。葬儀以後、夫人が座っていた席にお座りになり礼拝を守っておられます。OEさんは5月14日、M駅近くの路上でくも膜下出血で倒れて亡くなりました。OE夫人に、昼食のうどんがおいしかったこと、また「今日は調子がよいのでYの囲碁クラブに行く」とお電話をされた直後に倒れてしまわれました。KMさんは、乳幼児の時に痛めた気管支や肺が限界に達して亡くなりました。一昨日の告別式で語った説教を印刷して二階ホールに置いてありますから、お読み頂ければと思います。
 この一年間で召された方たちは、それぞれ若い頃に主イエス・キリストに出会い、色々な経路を経て中渋谷教会に導かれ、この礼拝堂で礼拝を捧げていた方たちです。それも、召される直前までです。KMさんは63歳ですし他の方たちも皆70代ですから、ご本人はもちろんご家族も私たちもこんなことになるとは誰も思っていません。来週の礼拝も御一緒できると思っていました。しかし、人は全く思いもかけない形でこの世の命の終わりを迎えることがあります。
 そういう現実を前にして、私は主イエスの言葉を新たに心に刻む思いです。主イエスは弟子たちに向って、「何を食べようかとか何を着ようかと思い悩むな。いくら悩んでも寿命を延ばすことなど出来ない」とおっしゃった上でこう続けられました。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。」(マタイ6:33〜34)

 主イエスは「天の父である神に全幅の信頼を置き、今日一日、神の国と義を求めて生きなさい」とおっしゃっているのです。「神様の愛を信じ、神様を愛し隣人を愛して今日を生きなさい。そうすれば、父はあなたがたを義とし神の国に迎え入れてくださる。あなたがたの命にとって決定的に大切なのは、そのことだ。」そうおっしゃっていると思います。

 命が躍動する時

 私たちは「自分の命が躍動している」と分かる時があります。魂が活き活きとしていると言っても良いかもしれません。好きでたまらないことをしている時、好きでたまらない人と一緒にいる時、私たちはその躍動を感じます。私たちキリスト者は、それに加えてもう一つ、命の躍動を感じる時があると思います。それは、聖霊に満たされて主イエス・キリストと父なる神様を賛美している時です。この礼拝の時、私たちの心は躍動します。生きていること、それも正しく生きていることを実感し、この世では味わえない幸福を感じるからです。それは、私たちが神様を愛しており、神様と共に生きることが私たちにとって最上の幸せであり、その幸せの中で最も大きなものが神様を賛美することだからです。
 何度も引用しますが、詩編102編19節にはこうあります。

後の世代のために
このことは書き記されねばならない。
「主を賛美するために民は創造された。」
(詩編102編19節)

 創造の目的に適って生きることが出来る喜び。それは私たちにとって無くてならぬものだと思います。その無くてならぬものがこの礼拝の中には詰まっています。
 私たちの肉体の命を養うのは食物であり水です。それが私たちに必要なことを神様はご存知です。しかし、私たち人間は肉体だけで生きているのではありません。魂があります。魂があるから自死することもあるのです。動物は自ら死を選ぶことはありません。その人間の魂を養うのは神様の言葉であり、神様が送ってくださる聖霊です。聖書においては、御言はパンに譬えられ、水は聖霊に譬えられます。聖霊の注ぎを受けつつ聖書の御言を読む時に、それは私たちの魂を生かしてくれる命の糧になります。だから、私たちが何よりもまず求めるべきは聖霊と御言なのです。
 どうしてかと言うと、聖霊と御言が私たち人間の実態を教えてくれるからです。私たちがいかに創造の目的から外れてしまっているかを知らせてくれます。私たちが迷子であることを教えてくれるし、深く病んでいることを教えてくれるし、すっかり汚れてしまっていることも教えてくれます。そのことを知ることは決して心地好いことではありません。でも、そのことを知らねば、ずっと迷ったままですし、病は進行し続けますし、清められることもありません。
 この世の中を生きているだけでは、私たちは自分たちの実態を知ることは出来ません。人と比較してみたところで、それは所詮人との比較に過ぎませんし、薄暗がりの中で見ているので、よく見えないのです。そして、聞こえてくるのは人の声ばかりです。
 しかし、神様の御前に立ち、その光にさらされつつ御言を聞く時、私たちは自分の実態を見ることになります。それは神様の栄光を見、神様の声を聞くからです。神様がどれ程深く私たちを愛してくださり、赦してくださり、そして招いてくださっているかを知るからです。その愛と赦しの中で私たちは自分の罪の実態を知るのです。神様の愛と赦しの中で、私たちは既に差し出されている救いを受け取ることが出来る。信じることが出来る。その時、私たちの命は躍動し、魂は喜びで満たされ、口からは賛美の声が出てきます。
 この一年の間に天に召されていったTMさん、FKさん、OEさん、そしてKMさんは、その命の躍動を知らされていた人たちです。そして、神様を賛美する喜びを知っていた人たちです。恵みによって、地上の生ある時に知らされた人たちです。今日もこうして主を礼拝している私たちもそうです。

 主を賛美する喜び

 今日与えられている詩編48編には、主なる神様を賛美する喜びが溢れています。

大いなる主、限りなく賛美される主。
わたしたちの神の都にある聖なる山は
高く美しく、全地の喜び。
北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都。
その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される。

 ここには主なる神様への賛美があります。そして、その賛美が「聖なる山」「北の果ての山」「シオンの山」と結びついています。すべてイスラエルの都であるエルサレムのことであり、特にその神殿のことを指している言葉です。神殿は、主なる神様を賛美する礼拝を捧げるところです。
 「その城郭に、砦の塔に、神は御自らを示される」とは、エルサレムが盤石であること、つまり、いかなる敵の攻撃にも耐え、撥ねのける都であると言っているのです。なぜ盤石であるかと言えば、神がエレサレムに自らを示されるからです。
 エルサレム、それは天然の要害とも言われる岩山の上に造られた都です。周囲は城壁で囲まれ、要所には見張りの塔が建てられており、その城壁の中には神殿がある。そのすべてに神の臨在があり力が満ちている。作者はそのエルサレムを「神の都」と呼び、そこにご自身を示す神を「大いなる主、限りなく賛美される主」と言って褒め称えているのです。

 北の果ての山

 「北の果ての山」という言葉には隠された意味が込められているようです。エルサレムは地理的な意味では北の果てでも何でもないからです。しかし、古代の神話の中で「北の果ての山」とは「神々が集う山」の象徴であるらしいのです。
 イザヤ書の中にもこういう言葉があります。

かつて、お前は心に思った。
「わたしは天に上り
王座を神の星よりも高く据え
神々の集う北の果ての山に座し
雲の頂に登って
いと高き者のようになろう」と。
しかし、お前は陰府に落とされた
墓穴の底に。
      (イザヤ14:13〜15)

 ここに出てくる「お前」とは、紀元前六世紀に大帝国を築いたバビロンの王のことです。その王は人間であるのに、「神々の集う北の果ての山に」王座を据えて、そこに座ろうと夢想した。つまり、いと高き神のようになろうと夢想したのです。権力者の欲望は限りないものです。しかし、すべての権力者あるいは王朝の末路が悲惨なものであることは歴史が証明しています。でも、権力を求め、世界の覇権を求める個人や国家が次から次へと登場することも事実です。私たち人間は経験から学ぶことが少ないものです。
 詩編48編を残した人は、イザヤの言葉を意識していたかもしれません。もしそうであるなら、彼は、「その山に座するのは神々ではない。まして地上の王であるはずもない。その山に座するのはただ一人、大いなる主であり、その方こそが『力ある王』である」と宣言していることになります。

 歴史的事実

 しかし、現実には、エルサレムを首都とするイスラエル王国やその後のユダ王国が大国になったことは一度もないのです。「力ある王」が王座を据えるエルサレムが「全地」を支配する神の国の都となり、全地の民が神様を賛美するなんてことは歴史の中で一回もない。それなのに彼は、「大いなる主、限りなく賛美される主」と歌い始め、「神の都」「全地の喜び」であると高らかに賛美する。それは一体どういうことか。
 5節6節には、周辺国の王たちが軍勢を引き連れて攻め上ってきた時に、「彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った」とあります。具体的な出来事としてこんなことがあったわけではありません。この詩編48編が出来る前か出来た後かは分かりませんが、エルサレムはバビロン軍によって陥落させられたのです。それが歴史的な事実です。エルサレムは神聖不可侵な都でも永遠の都でもなく、他の国の都と同じく崩壊する都なのです。それが歴史的な事実です。
 それでは、エルサレムを攻めるためにやってきた王たちは何を見たのか。あるいは、この詩の作者は何を見て、こういうことを言っているのか。それが問題となるでしょう。

 聞く 見る

 彼はこう言います。

聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た。
万軍の主の都、わたしたちの神の都で。

 彼は何を聞き、何を見たのでしょうか?

神はこの都をとこしえに固く立てられる。

 彼はこのことを聞いており、見たのです。でも、先ほども言いましたように、この地上の王国も都も永遠不変のものではありません。エルサレムも例外ではありません。そのことを作者も知っているはずです。そういうことを知らないで、熱狂的な愛国主義者として、あるいは狂信的な信仰者として「神はこの都をとこしえに固く立てられる」と絶叫しているわけではないのです。では、彼が聞き、また見た神の都の様は何なのか。

 慈しみを思い描く

神よ、神殿にあってわたしたちは
あなたの慈しみを思い描く。

 「神殿にあって」
とは、「神殿で礼拝しながら」ということです。その礼拝の中で、彼が「思い描く」ことは神様の「慈しみ」です。「慈しみ」とは真実の愛のことです。真実の愛とは変わることのない愛です。相手がどうなってしまおうと愛し続ける愛。たとえ裏切られても愛することを止めない。永遠の愛。その愛が主なる神にはある。その愛で自分は愛されている。その恵みの事実を新たに確信し、確認し、感謝し、賛美する。それが礼拝です。そこに命が躍動する喜びがあるのです。
 私たちは聖霊に満たされた礼拝の中でこそ、神への賛美が「地の果てに及ぶ」ことを確信することが出来るのです。その信仰において、詩編48編の作者は主を賛美する喜びが「全地の喜び」になる様を見ることが出来たのだと思います。

 正しい裁き

 11節〜12節の「右の御手には正しさが溢れている。あなたの裁きのゆえに」「慈しみ」の内容を語っていると思います。「右の御手」とは「裁き」をする手です。裁きとは善を助け、悪を挫くためにするものです。そこに「正しさ」があるのです。神様の正しさも悪を裁くものであるに違いありません。聖書の至る所にそのことは記されています。神様は悪を憎まれるのですから。
 しかし、詩編14編にはこうあります。

主は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。
皆ともに、汚れている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。
(詩編14:2〜3)

 誰も彼も背き去り、皆汚れている。善を行う者はいない。つまり、皆悪を行っている。これは神様から見た現実です。あるいは神様の御前に立ち、その光にさらされて見えてきた現実、あるいは聞こえてきた神様の声によって教えられた人間の現実、実態です。その現実を知らされた人も背き、汚れている人間の一人なのです。自分を例外者としているわけではありません。
 彼は、神様が見ている人間の現実を神殿における礼拝の中で知らされたでしょう。そして、その現実を見ている神様の心の痛みを感じたでしょう。誰も彼もが背き去って汚れてしまった人間を見ながら、誰か一人でも目覚めた人、神を求める人はいないのかと探し求める神様の心、その痛切な心を感じ、心を痛めたに違いありません。
 パウロという人が、ローマの教会に向けて書いた手紙が新約聖書に収められています。その手紙の中で「善を行う者はいない」という言葉を引用した後に、パウロはこう書いています。

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。(中略)今この時に義を示されたのは御自身が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。      (ローマ3:25〜26)

 ここに出てくる「義」は詩編48編の神の右の御手にある「正しさ」のギリシア語訳です。神様の正しさ、それは神に背き、罪を犯し、悪を行う者を義とする裁きにおいて現れる、とパウロは言うのです。これは本当に驚くべきことです。悪人を断罪するはずの神様が、悪人を義人とするというのですから。考えられないことです。しかし、そのことが起こらなければ、私たちはすべて滅びるだけなのです。救われる可能性はありません。この滅ぶべき私たちを救うために、イエス・キリストは御自身の命を十字架の上に償いの供え物として捧げてくださったのです。神様は、私たちの罪をその方に背負わせ、その方を処刑することを通して私たちの罪を赦してくださった。その恵みを信じる。イエス・キリストの十字架に「御自らを示された」神様の愛を信じる。そういう者を神様は義としてくださる。正しい者としてくださる。そこに神様の義、正しさが現れたのだと、パウロは言うのです。そして、そこに神様の「慈しみ」があるのです。変わることのない愛。永遠の愛があるのです。私たちキリスト者は、そのことを信じている者たちです。そして、この十字架はエルサレムに立てられたものです。この十字架こそが、永遠の神の都の土台となるのです。最早何者も滅ぼすことのできない都の土台となるのです。

 見よ

 詩編48編の作者は、イエス・キリストを知りません。イエス様誕生よりも数百年も前の人なのですから。しかし、神殿における礼拝を通して、彼は神の「慈しみを思い描く」のです。そこで彼に見えてきたのが神様の正しい裁きによって義とされた人々、つまり罪の赦しを与える神様の愛を信じた人々の賛美が「地の果てに及ぶ」様なのだと思います。彼は、まだ歴史の中では実現していないその様を信仰において既に見て、神様を賛美しているのです。
 13節14節に繰り返し「見よ」と出てきます。目に見える塔の数とか城郭の中にある神殿の姿だとか、そういうものを「見よ」と言っているのではありません。四節にあるように「その城郭に、砦の塔に」御自らを示される神を見よ、と言っているのです。その神が「この都をとこしえに固く立てられる姿を見よ」と言っている。それは、はるかにキリストの十字架と復活を指し示す言葉となっています。

 この神は・・・

 そして、最後に彼は詩編102編の作者同様に、「後の代に語り伝えよ」と言った上で、こう宣言します。

「この神は世々限りなくわたしたちの神
死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」

 後の世代、自分の子どもや孫たちに、このことだけを伝えるために生き、このことを伝える死を迎えることが出来れば、それは私たちにとってはまさに本望と言うべきでしょう。そのために生きる時に、私たちの命は躍動しますし、死もまた神様の栄光を賛美するものとなるのですから。

「この神は世々限りなくわたしたちの神
死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」

 今日はこの言葉だけを胸に刻みつけて、感謝と喜びをもってお帰りになったら良いかとも思います。でも、もう少し語らせて頂きたいのです。

 信仰とは

 この最後の言葉もまた、作者が「見た」ことだと思います。

「聞いていたことをそのまま、わたしたちは見た
万軍の主の都、わたしたちの神の都で。
神はこの都をとこしえに固く立てられる。」

 私はこの言葉を読んだ時に、新約聖書のヘブル人への手紙の言葉を思い出しました。  そこにはこうあります。

 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。 (ヘブル11:1?2)

 信仰は望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである。ここに出てくる「望み」とは神の望みに根差した望み、あるいは神様が与えてくださった希望のことです。人間の欲望や願望に基づく望みではありません。神様はいつの日か必ず救いの御心を実現される。神の義を全地に満たす。そのことを確信し、まだ肉眼では見ていないことを見て確認することなのです。昔の人たちはこの信仰のゆえに神に認められたという「昔の人」の中に、詩編48編の作者も入っていることは間違いありませんが、イスラエルの先祖であるアブラハムもその一人です。
 そのアブラハムに関して、こう記されています。

「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。」(ヘブル11:10)

 アブラハムもまた「神はこの都をとこしえに固く立てられる」ことを望み、確信し、地上を生きている時すでに見て確認したのです。信仰とはそういうものです。

 信仰を抱いて死んだ

 その信仰に関して、さらにこういう言葉が続きます。学生時代に出会ってから、私が決して忘れることのない決定的な言葉です。

「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。」(ヘブル11:13〜16)

 「この人たちは皆」「皆」にTMさんもFKさんもOEさんもKMさんも入っているのだし、今日もこうして主の招きに応えて礼拝をしている私たちも入っているし、この礼拝堂には来られないけれど時を同じくして神様を礼拝している兄弟姉妹たちも入っているのです。全地に散らばっているキリスト者たちも入っている。主イエス・キリストの十字架において現れた主の「慈しみ」を信じることによって義とされたすべての人たちが入っている。私たちはその信仰の故に聖なる者、聖徒とされているのです。だから、神様は私たちの神と呼ばれることを恥となさらないのだし、私たちのためにとこしえに固く立てられた都を準備してくださっているのです。私たちはその都に迎え入れられることを望み、その望みが実現することを確信し、さらにこの礼拝の中で確認しているのです。この教会の礼拝の中に既に神の都があるからです。

 聖餐

 私たちはこれから聖餐の食卓に与ります。この食卓に与るのは、神様から信仰を与えられ、その信仰を神と会衆の前で告白し洗礼を受けたキリスト者に限られます。私たちキリスト者は、私たちの罪の赦しのために十字架の上で裂かれた主イエス・キリストの体の徴であるパンを食べ、流された血の徴であるぶどう酒を頂きつつ主の慈しみを確信し、十字架を土台とする神の都が全地を越えて天地を貫いて打ち立てられていることを確認し、主を賛美するのです。この時、私たちの命は躍動します。そして、その命は肉体の死を越えて神様との愛の交わりの中に生きる命なのです。そのことを知った時に私たちは喜び祝い、喜び踊りながら、「この神は世々限りなくわたしたちの神、死を越えて、わたしたちを導いて行かれる」と、既に天に上げられた聖徒たちと共に賛美するのです。
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