「万軍の主はわたしたちと共にいます」

及川 信

       詩編 46編 1節〜 12節
46:1 【指揮者に合わせて。コラの子の詩。アラモト調。歌。】
46:2 神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
46:3 わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
46:4 海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。
46:5 大河とその流れは、神の都に喜びを与える
いと高き神のいます聖所に。
46:6 神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
46:7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は溶け去る。
46:8 万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
46:9 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
46:10 地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
46:11 「力を捨てよ、知れ
わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」
46:12 万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

 10月には詩編42・43編を読み、11月は48編を読みました。その日は召天者記念礼拝でしたから、神は「死を越えて、わたしたちを導いて行かれる」という言葉で終わる48編が相応しいと思ったからです。
 今日からイエス・キリストのご降誕を待つアドヴェントが始まります。私は46編と47編がその季節にも相応しいと思いましたので、今日は46編、来週は47編をご一緒に読んでまいりたいと思います。

 自然界の変動

 私たちは毎日、緊張した日々を送っていると思います。いつもある種の怯えとか恐怖を感じているのです。普段はあまり意識をしていないのですが、そのことに気づく時があります。
 たとえば、二日前の深夜に震度3の地震が関東地方にありました。少し長く続きました。以前だったら、「あ、地震だ」と思っただけです。でも、東日本大震災を経験した後である今は、地震の度にあの日のことを思い出します。そして、「この地震はさらに強くなるのではないか。震源地はどこか、津波の可能性はあるのか」と瞬時に考えますし、「家族は今どこにいるか」と考えたりします。NHKも即座に地震速報を出すようになりました。
 地殻変動に伴う大地震はいつか必ずやって来るのです。もう一度、どこかの原発で事故が起きれば、この国は衰退の一途を辿って行くしかないとも思います。
 遠い海の中でのことですから「へ〜〜」と思うだけのことでしたけれど、二週間ほど前には小笠原諸島近くの海で噴火が起こり、溶岩が小さな島となっている映像を見ました。もし、あのような噴火がどこかの火山で起これば、それは山の形を変えるだけでなく、周辺地域に甚大な被害をもたらします。富士山だって三百年前の宝永の時代に大噴火した山ですし、いつか必ず噴火すると言われています。でも、私たちは、どう備えたらよいか分からないし、自分が生きている間はそういうことは起こらないだろうと高を括っているしかないようにも思います。
 とにかく、大地も海も実は安定したものではなく、私たちの目には見えない所で活発に活動し、変動しているのです。時にそれが地震や津波、噴火という形になる。その時、私たちはまったく無力にその力に呑み込まれていくしかない小さな存在です。

 人間社会の変動

 変動は自然界においてだけ起こっているわけではありません。人間社会も刻一刻と変動しています。良くも悪くもです。最近の私たちの国の動向は、政府の権力を強化する傾向が強まっています。「初めに人ありき」ではなく、「初めに国家ありき」と考える政治家たちが多くの国民の支持を受けて政権を持っているのですから当然の成り行きです。私と同年代の「戦争を知らない子どもたち」が、戦前と同じく政府の権限を強め、政府の秘密を守る方向に舵を取っています。それは国民を監視することを意味するでしょう。私たちは戦前の日本社会と同じように「君が代」を直立不動で歌わせられた上に、自由にものを言えない「口を利けなくする悪霊」の支配に覆われていくのかもしれません。公立学校の教育現場では、既にそういう思想弾圧が始まっています。
 私は、子どもたちの世代、さらに孫の世代に思想信条言論の自由を残すことは世代的使命だと思いますし、戦争をしない国であり続けるために努力することは信仰的使命だと思います。しかし、そういうことも自由に言えない雰囲気が内外に広がりつつあるように思います。
 日本国内だけでなく世界の情勢も刻々と変化しています。東アジア一帯における国同士の力関係が変化し、二〜三十年前には考えられなかったことですが、今では国境線をめぐって日本周辺の空や海で緊張が高まっています。東南アジアの海域においても同様の問題が起こっています。
 そういうことは、何千年も前から人間の歴史の中で繰り返されて来たことです。かつて私たちの国も天皇制の下で韓国、台湾を植民地とし、満州に傀儡国家を作りました。国境線を勝手に広げていったのです。西欧の列強国は、ずっと前から世界各地で武力を背景に植民地獲得競争をして領土拡大に励んでいました。
 この後、東アジアがどういう地域になっていくのかは誰も分かりません。その変動の過程の中で戦争が再び起きないことを願いますが、完全に安心できる状況ではないと思います。それぞれの国の政治家と国民が賢明であればよいのですが、不安を感じざるを得ない状況でしょう。

 詩編46編が描く世界

 随分長い前置きを語っているように思われるかもしれませんが、詩編46編を読みながら考えたことを語っているので、私としては最初から詩編の世界に入っているつもりなのです。

わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。

 地球の歴史は、地が姿を変え続けているものです。ヒマラヤ山脈や日本の北アルプスの頂は、かつては海底でした。現在の五大陸はその昔はほぼ一つの大陸でした。2年前の地震で、宮城県の海岸は1メートル前後東に移動しました。そういうことが何万回も起これば、日本列島も形が変わります。
 私たち人間は、そういう地球の上で無力な人間として生きているのです。一回の地震や津波や噴火で、全財産を失うこともあるし命を失うこともある。だから天変地異は社会変動と同じく私たち人間にとっては非常な恐怖です。それはいつの時代の人間にとっても変わりありません。

 避けどころ 砦

 しかし、この詩の作者はこう語り始めます。

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない

 原文では、「わたしたちは決して恐れない」の前には「それゆえに」という言葉があります。
 「避けどころ」は、避難所であり安全な場所です。それは、避難する場所が神様という「砦」だからです。自然からの攻撃も人間からの攻撃も、この砦の中に逃げ込めば避けることができる。滅ぼされないで済む。作者はそう言います。
 46編で目を引くことは、作者が個人の信仰告白として言っているのではなく、同じ信仰を生きる仲間と共に告白しているということです。「神はわたしたちの避けどころ」「わたしたちの砦」。「苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」お方だと。
 神様とは人間にとってこういう方だという一般論を語っているのではありません。もちろん、ここで「神」と呼ばれている神は、全人類にとっての神様です。でも、そういう天地の創造主であり歴史を導いておられる神様が、「わたしたちの避けどころ」「わたしたちの砦」であると言っている。同じ信仰をもった仲間と共にそのように告白できること自体が大きな助けなのです。

 宗教改革者ルター

 この詩は宗教改革者のルターが愛唱した詩で、この詩を基に彼は有名な「神はわが櫓」(「讃美歌」267番)という讃美歌を作りました。ある本にはこう書いてありました。

「この第46編は、いわゆるルターの詩編として余りにも有名である。彼は気分の重い、心に不安を感ずる時、親友のメランヒトンと共に、しばしばこの詩編を愛唱したということである。・・・ただルターだけでなく、真剣に神を信じキリストに依り頼んだ、いかに多くの聖徒達が、この詩編によってはげまされ、力を与えられたことであろうか。」(浅野順一 『詩編研究』創文社)

 私は、ルターと親友のメランヒトンが並んで座って、必死になって詩編46編を一緒に暗唱する情景を思い浮かべて、心打たれる思いです。ルターの人生は戦いの人生です。不安と恐れの連続だったと思うのです。
 ある時、彼は神聖ローマ帝国の議会に呼ばれ、国王の前で「人は行いによってではなく信仰によって義と認められる」という教えを撤回するように迫られました。しかし、彼はこう答えたと伝えられています。

「聖書の御言葉と明白な理性によって確信させられるのでない限り、また、私が引用した聖句によって納得させられない限り、そして私の良心が神の御言葉に捕えられている限り、私は、何も撤回することはできませんし、撤回しようとも思いません。なぜなら、キリスト者が、自らの良心に逆らって行動することは、正しくありませんし、危険だからです。」
「我ここに立つ。他になせることなし。神よ、助けたまえ。アーメン」

 この宣言によって、ルターは教会から破門され、絶えず命の危険にさらされることになりました。そうなることは、彼だって十分に予測できたはずです。でも、彼は「他になせることなし」と言い、「神よ、助けたまえ」と祈りつつ福音主義的信仰を語り続けました。彼に始まる宗教改革は、まさにヨーロッパ全土を揺るがす地殻変動を引き起こし、世界史に与えた影響は計り知れません。彼がいなければ、今私たちがプロテスタント信仰に基づく礼拝を捧げるということもないのですから。
 ルターが危険に満ちた改革運動を継続できたのは、彼が神の助けを信じることができたからです。しかし、その「助け」は、命を助けてくれるという助けではありません。
 「神はわが櫓」の4節で、彼はこう歌っています。

「暗きの力の  よし防ぐとも
主の御言こそ  進みにすすめ
わが命も わが宝も とらばとりね
神の国は なお我にあり」

 「わが宝」と訳されていますが、ルターの原詩では「わが妻も子も」です。自分の妻と子の命は自分の命と並んで最も大切なものです。他の何を奪われてもこれを奪われることだけは避けたい。そういうものです。しかし、それすら奪われることがあるとしても、私はここに立つ。私の避けどころ、砦である神の国の中に立つ。神の国が、私の中に既に来ているから、私は「決して恐れない」。主の御言と共に前進していく。そう宣言しているのです。それは、神様が、最愛の独り子の十字架の死と復活を通して人間を支配している「暗きの力」に勝利してくださった。そのことを彼が信じているからです。

 そこにいます神

 46編の作者はこう言います。

神は・・・苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。

 「そこにいます」
。これが大事だと思います。神様が天から見守ってくださっているのではない。少なくともそれだけではなく、自分たちが苦難を受けている時、自分たちと共にその場にいてくださる。彼は、そのことが分かるのです。
 46編には「います」と訳された言葉がいくつかありますけれど2節の場合は、「発見する」「見出す」の受身形なので、ある学者は「神は窮境の助け主、ご自身を確かに現される方」と訳しました。神を信じる者たちが苦難に遭う時、その苦難の中に神は臨在し、「ここに私がいる」と知らせてくださる方なのです。その神様を見い出すことができる時、人はそのことで助けられます。
 その「助け」とは、死の時に共にいてくださることでもあると思います。「それが助けになるのか。死から救い出してくれて初めて助けと言うのではないか」と人は言うかもしれません。しかし、彼はたとえ自分たちが海の水に呑み込まれてしまっても、神が共にいますなら、神は助けであり、避けどころであり砦であると信じているのだと思います。

 「万軍の主はわたしたちと共にいます。」

 生きる時も死ぬ時も共にいてくださる。ご自身を確かに現してくださる。そのことこそが信仰者にとっては助けなのです。すべての恐れから解放してくれる助けは、死を突き抜けた神様の臨在を信じるところにあるのです。「わが命も わが宝(妻子)も とらばとりね」とは、そういう信仰です。
 絶えず敵対勢力との戦いを強いられていたルターとメランヒトンが、この詩編46編を共に暗唱し、その都度新たな力を得て立ち上がり、鷲のように翼を張って空に舞い上がる姿が見えるようです。御言は、信じる者にそういう力を与えるのです。

 民は騒ぎ 国々は揺らぐ

 7節では、自然界の現象ではなく人間社会の現象が語られています。

すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。

 現代の世界の国々も同じです。作者は自然界で起こる現象に使った「揺らぐ」とか「騒ぐ」という言葉を国々に対しても使っています。その国々は、10節にありますように、弓と槍と盾をもって戦争を繰り返している世界中の国々のことです。この詩に何度も出てくる信仰者である「わたしたち」も、その国の中を生きているのです。自然界の一部であるのと同じように、「わたしたち」はそれらの国の一員です。
 ルターも同様です。日本という国の中に生きているキリスト者である私たちも同じです。その国における義務や責任があります。それを、政府の言いなりになることだと理解するか、政府のおかしなことは批判することだと理解することかは個人の判断に委ねられています。
 しかし、ルターは「わが命も わが宝(妻子)も、とらばとりね、神の国は、なお我にあり」と歌いました。本当の国籍は天にあるということです。地上の国々は興亡を繰り返します。戦争に負けて滅亡することもあります。その時には多くの人々が命を落とします。はかなく消えていくのです。
 しかし、神の国は揺るぎません。その国に生きる者も同様です。すべての民が騒ぎ、国々が揺らぐことがあっても、天地を貫いて打ち建てられている神の国は揺るぐことがないのです。そして、ルターは、自分がその揺るぐことなき神の国の中に生かされていることを確信しています。そして、いかなる敵にも勝利される万軍の主が自分たちと共にいてくださることを確信している。

 主の成し遂げられることを仰ぎ見よう

 ルターが信じた「神の国」は、46編では「神の都」「聖所」と表現されています。目に見える形ではイスラエルの首都であるエルサレムのことであり、そこに立つエルサレム神殿のことであり、さらに言えば「神はその中にいます」という現実なのです。神がそこにいませば、そこには礼拝が起こるのです。だから、「神の国」「神の都」とは、目に見える都とか神殿の建物のことではなく、神が臨在しているという事実であり、「わたしは神」と宣言される主を「あがめる」こと、つまり礼拝することです。その神の都は、自然界で何が起ころうが、人間社会で何が起ころうが、「揺らぐことがない」のです。
 その神が、「御声を出されると、地は溶け去る」「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう」と彼は言います。これは、「来て、見よ。主の業を」が直訳です。その見るべき業とは、主が地を圧倒し、「地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払う」ことであり、さらにこう宣言されることです。
「力を捨てよ、知れ
わたしは神。
国々にあがめられ、この地であがめられる。」

 待降節 アドヴェント

 今日からアドヴェントが始まると言いました。そのアドヴェントでしばしば読まれる聖書の言葉はイザヤ書のものです。  7章には、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエル(我らと共にいます神)と呼ぶ」という有名な言葉があります。その先の9章には、こうあります。

闇の中を歩む民は、大いなる光を見
死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。
(中略)
地を踏み鳴らした兵士の靴
血にまみれた軍服はことごとく
火に投げ込まれ、焼き尽くされた。
ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
(イザヤ9:1〜5抜粋)

 7章の「インマヌエル」と9章の「ひとりのみどりご」を、キリスト教会はイエス・キリストを預言したものと受け止めました。ここでは、そのみどりごがいつの日か「兵士の靴」「軍服」を火に投げ込んで焼き尽くすことが預言されています。46編10節と内容的には同じです。今は読みませんでしたが、このみどりごがダビデの子として王座に就く王国の「平和は絶えることがない」ことが預言されます。つまり、9章はメシアによる神の国到来の預言なのです。
 また、イザヤ書2章には、ダビデ王が神殿を建てた神の都エルサレムにすべての国々の民が集って来る「終わりの日」の様が預言されています。彼らは皆、主の教えを聞くために神殿に集まって来るのです。その時起こることはこういうことです。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
(イザヤ2:4〜5)

 ここでは、主の教えを聞き、主の光の中に歩むようになった人々が、武器を農具に造り替えることが預言されています。
 詩編46編をこれらのイザヤの預言と共にキリスト者の信仰をもって読む時、この詩は終末の出来事を預言していると解釈することもできます。インマヌエルとして生まれるみどりごによって、神の都は揺るぎないものとされ、地の果てまで戦いは止み、全地の民が神をあがめる神の国が完成する。そこに平和が実現する。そのことが確信をもって預言されている、と。

 キリストの体としての神殿

 マタイは、イエス様の誕生はイザヤのインマヌエル預言の実現だと宣言します。イエス様は「ご自分の民を罪から救う」ことによって「我々と共におられる神」として誕生された王です。
 ヨハネは、イザヤの預言に出てくる暗闇の中に輝く「光」としてのイエス様を証します。そのイエス様が神の都であるエルサレムに上られて真っ先にしたことは、商売をするための道具のようになってしまった神殿を清めることでした。祭司たちの許可を得て貨幣の両替や犠牲の動物を売っている商売人を追い出したのです。それは神殿を背景にした権威をもっている者たちを敵に回すことであり、我が身を命の危険にさらすことです。この時にイエス様の十字架刑が既に暗示されているのです。
 その場にいた権力者たちは、イエス様に詰め寄りました。

「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」(ヨハネ2:18)

 「どんな業を我々に見せることが出来るのか。その業で我々を圧倒できるのか。さあ、見せてみろ」と言ったのです。
 イエス様は、こう答えられました。

「この神殿を壊してみよ。三日で建てなおしてみせる。」 (ヨハネ2:19)

 ユダヤ人は意味が分かりません。当然です。ヨハネはこういう解説をつけています。

 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。(ヨハネ2:21〜22)

 不思議な言葉です。でも、今礼拝を捧げている私たちには体感的に分かるのではないでしょうか。
 繰り返しますけれど、ルターが「なお我にあり」と確信した「神の国」は詩編46編では「神の都」であり、イザヤ書ではシオン・エルサレムのことです。そして、それは神様を礼拝する神殿のことであり、神様の臨在のことであり、どんな時も共に生きてくださる神様を礼拝することなのです。いつでも、どんな時も、神様がご自身を現してくださる。共にいてくださる。その神様を礼拝する。それが神の国であり神の都であり神殿なのです。神様はイエス・キリストの十字架の死と三日目の復活を通して、その神殿を私たちのために造ってくださったのです。
 教会は、十字架の死から甦り、今は聖霊において生きて働き給うキリストの体です。私たちは信仰によってその体の中に組み込まれているのです。永遠の神の国の中に、決して揺らぐことのない神の都の中に迎え入れられているのです。ここに「わたしたちの避けどころ」があり、ここが「わたしたちの砦」です。何故なら、今、この礼拝において主イエス・キリストがインマヌエルとして、ご自身を現してくださっているからです。私たちの只中にいまし、私たちと共にいますからです。命の霊である聖霊を注ぎかけつつ命の御言を語りかけてくださり、そして、今日は命の食卓を用意してくださっています。

 勝利の主イエス

 自然界で何があろうと、人間社会で何があろうと、三日で建てられた神殿はこの地球上で生き続けています。その間にいくつもの国が興っては消えていきました。中には宗教の存在を認めない国家もありました。戦前は日本のキリスト教会も弾圧を受けました。しかし、いずこの国の支配も神の御業を完全に消し去ることは出来ないのです。またいかなる自然現象も神の教会を消し去ることは出来ません。神は、「苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる」からです。「万軍の主はわたしたちと共にいます」からです。そのことを信じる者が、この地上からいなくなることはないからです。神は必ず残りの者を立てるからです。
 これから与る聖餐の食卓は神の国の中心です。この食卓の主は、すべての敵の力に勝利された主イエス・キリストだからです。人間がもっている武力や権力は、主イエスの肉体を十字架に磔にして殺すことが出来ました。しかし、神様はその主イエス・キリストを復活させられました。毎週、礼拝を捧げている教会の存在が復活の証明です。主イエスはご自分を裏切った者、見捨てた者、嘲った者、殺した者の罪を赦すために復活し、天に上げられ、聖霊においてインマヌエルとなってくださいました。愛と赦しにおいて勝利をしてくださったのです。
 この方を信じる時、この方の助けを信じる時、私たちは最早自分で自分を守る必要がなくなります。武器など持つ必要がなくなるのです。そんなものに頼っていた自分を恥じるようになるのです。
 主が成し遂げられる御業、この地を圧倒される御業とは、御子の誕生と十字架の死と復活であり、聖霊降臨であり、教会の誕生です。この教会が、地の果てまで罪と死の力に愛と赦しの力で勝利をされたイエス・キリストを宣べ伝えていく。「力を捨てよ、知れ、この方こそ神、あがめられるべき方である」と。そして、いつの日か主イエス・キリストが再臨して神の国が天地に完成することを、礼拝を通して証言していくのです。
 パウロが言うように、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」日がきます。私たちはその日に向って前進していきます。そこには苦難が伴います。再び、弾圧や迫害される時もあるかもしれません。でも、「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」のです。聖書の言葉と聖餐は、そのことを私たちに確信させてくれます。
 だから、私たちは今日も喜びと感謝をもって「共に」使徒信条を告白し、「共に」主の祈りを祈りましょう。そして、「共に」主の御業に励んでまいりましょう。「万軍の主はわたしたちと共にいます」から。
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