「全地に君臨される偉大な王」

及川 信

       詩編 47編 1節〜 10節
47:1 【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】
47:2 すべての民よ、手を打ち鳴らせ。
神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
47:3 主はいと高き神、畏るべき方
全地に君臨される偉大な王。
47:4 諸国の民を我らに従わせると宣言し
国々を我らの足もとに置かれた。
47:5 我らのために嗣業を選び
愛するヤコブの誇りとされた。
47:6 神は歓呼の中を上られる。
主は角笛の響きと共に上られる。
47:7 歌え、神に向かって歌え。
歌え、我らの王に向かって歌え。
47:8 神は、全地の王
ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。
47:9 神は諸国の上に王として君臨される。
神は聖なる王座に着いておられる。
47:10 諸国の民から自由な人々が集められ
アブラハムの神の民となる。
地の盾となる人々は神のもの。
神は大いにあがめられる。

 詩の構造

 アドヴェント第二週となりました。主イエスのご降誕を待ち望むこの季節に、先週の詩編46編に続いて47編を読みます。前回は、どんな時も私たちと共にいます主がこの地を圧倒し、全世界の国々に崇められるお方であるという御言を聴きました。今日も、「主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」、「神は大いにあがめられる」という御言に聴いていくことになります。この二つの詩編は内容的には似ています。46編は作者の信仰告白とか宣言と言って良いでしょうが、47編はその信仰に基づきつつ、すべての民に賛美を促す詩となっています。
 詩の構造は2節から5節と7節から10節がそれぞれ賛美の促しであり、6節が前半と後半を繋ぐ節です。そこには「神が歓呼の中を上られる」とあります。明示されてはいませんが、何処に上るかと言えば、46編で強調されていた「神の都」エルサレムでしょう。その都に、神が勝利者である王として凱旋入場される。その様が賛美されているのだと思います。

 普遍と特殊

 この詩で目立つのは、「すべての民」「諸国の民」「全地」という普遍的な言葉です。作者は、すべての国々のすべての人々に向って主を讃え、崇めよと促しているのです。彼の信仰では、イスラエルの神、主(ヤハウェ)こそが「全地に君臨される偉大な王」だからです。
 しかし、その王は「我らのために嗣業を選び、愛するヤコブの誇りとされた」方であり、その神によって「諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる」という出来事が起こると、彼は言います。ヤコブはアブラハムの子孫で、神に選ばれた民イスラエルのことであり、ユダヤ人と呼ばれることになった人々のことです。これは、先ほどの「普遍」という言葉に対しては「特殊」あるいは「個別」と言うべき人々のことです。神の選びの民ユダヤ人の王という特殊にして個別的な王が、「すべての民」「諸国の民」「全地」の普遍的な王である。そういうことが言われていることになります。それは一体どういうことなのか。あまりにも荒唐無稽な、夢想と言ってもよいことなのではないか。そういう思いがします。

 「太陽に灼かれて」

 先日、旧ソ連のスターリンの大粛清と対独戦争が始まる時代を描く三部作の完結編である『遥かなる勝利へ』という映画を観ました。スターリンは、自分の地位にとって脅威となるかもしれない者たちを、秘密警察を使って次々と検挙し強制収容所に送ったり処刑したりしました。死刑にされた人だけでも数十万人という単位ですが、正確なことは分からないのです。一昨日にこの国の国会で強行採決された秘密保護法ではありませんが、独裁者に限らず、国家は自分たちに都合の悪い事実は闇に葬るのが常ですから、正確なことは分からないのです。私たちの国も、強制連行や従軍慰安婦、毒ガス兵器の使用や人体実験などの記録は抹殺してきたでしょう。どこの国も記録がないから事実もないと言い張ります。しかし、神様の前に隠せることはないし、秘密など持ちようもないのです。そして、私たちは意識していようといまいと神様の前で生きているのです。
 その映画の第一部は、もう二十年も前に作られた『太陽に灼かれて』というものです。私は観た記憶があるようなないようなでしたので、今回DVDで観ました。その映画の終わり近くに出てくる場面は、複雑な気持ちにさせられるものです。
 映画の冒頭から、実際には存在しないらしい土地の名をあげてそこに行きたいと言うと、どの人からも敵対的に追い返されるトラック運転手がしばしば脈絡なく登場するのです。多分、その運転手はこの地上に理想郷を求め続ける人間を暗示しているのだと思います。しかし、最後にはその運転手が秘密警察によって撃ち殺されて、遺体がトラックの荷台に放置されてしまうのです。映画の冒頭から、スターリンを讃えるための気球を兵士たちが作っているのですけれど、トラックの運転手が殺されると同時にスターリンの笑顔が描かれた巨大な布をぶら下げた気球が音もなく空に上がっていくのです。そのスターリンの笑顔と荷台に放置されたトラック運転手の無残な姿がコントラストになって描かれます。そして、運転手を殺すことを命じた秘密警察の上官が、そのスターリンの巨大な笑顔に向って、シニカルな笑みを浮かべつつ敬礼する。そういう場面があります。
 つくづく恐ろしい場面です。一人の人間とか国家が神格化され偶像化される時、人は人を人とも思わなくなるものです。虫けらのように殺すようになるのです。戦時中の私たちの国もその点で例外ではなかったはずです。そして、それは戦争が始まるずっと前から準備されていたことです。今もその準備の時であるに違いありません。

 神格化された王

 古代の帝国においては、王は何らかの意味で神格化された存在でした。「神の化身」とか「神の子」という形で神格化されることで、その支配が絶対化されたのです。そして、支配地域の各地に王の像が建てられていました。王は法の支配の上にあり、王の託宣は神の言葉のような力をもったのです。王にそういう力がないのであれば、広大な地域に住む諸々の民を統治することは出来ません。その帝国ごとに拝まれている神あるいは神々は、王の権力を絶対化するために存在するのです。そして、その王の下には虫けらのような価値しか持たない人々が無数にいます。神格化された人間の下には非人間化された人間がいるものです。

 神が王

 しかし、この詩編47編には、地上に生きる人間としての王は登場しません。聖書の中に神格化された王は登場しないのです。神様が王だからです。だから、神様だけが賛美の対象なのです。そのことで何が起こるかと言うと、地上の王が絶対化されず相対化されるということです。
 聖書に記される神の民イスラエルの歴史は、アブラハムに始まります。それが家族の物語になり、民の歴史になり、王国の歴史になっていくのです。しかし、イスラエルにおいては、王は神が選び立てたものです。神様は、王に対して無条件に支配権を授けはしません。王は神の御心に従って生きる僕なのです。もし、王が神に背けば裁かれます。王は、法の上に君臨するのではなく、神の法である律法の下に存在するのです。「すべての民」が、その神の支配の中に生きる。そして、神を王として崇め賛美する。それが「神の愛するヤコブ」であり、「アブラハムの神の民」の姿なのです。
 神の選びの民であるイスラエルにおいては、如何なる意味でも人間を神格化することはあり得ません。身も心も捧げることを民に要求する独裁者は存在しません。献身して崇拝すべき皇帝とか総統とか書記とか天皇陛下とか、そういう存在はいない。すべての民が手を打ち鳴らし、ほめ歌を歌うべきお方は目に見えない神しかいないのです。天地をお造りになり、価値なき小さな者を目の瞳のように愛し、ご自身の御言によって歩みを導いてくださる神、ただこの方を王として崇め、賛美を捧げる。それが神の民イスラエル、アブラハムの子、ヤコブの姿なのです。

 主が全世界の王

 しかし、47編ではそのイスラエルの神(アブラハムの神)が「イスラエルの神」に留まらず、「全地に君臨される偉大な王」「諸国の上に王として君臨される」方であると言われています。通常なら、一つの国の守護神とか一つの民族の民族神に過ぎない主(ヤハウェ)という神が、全世界の民の神であると宣言されているのです。
 これもまた不思議な言葉です。イスラエルがアッシリアとかバビロンとかペルシャのような大帝国であったのならまだ分かります。しかし、イスラエルはエジプトとメソポタミアの大帝国の狭間でいつも右往左往する小国に過ぎず、ソロモン時代でさえ大国とは言えない存在でした。その国の王など、エジプトやメソポタミアの大帝国の王から見れば大した存在ではありません。
 しかし、そのイスラエルの民の一人が、自分たちの神、主こそ全地の王、諸国民の王であると言っている。それは誰が聞いても笑止の沙汰です。しかし、作者は大真面目に言っているのです。負け惜しみで言っている訳でもない。目には見えないかもしれないけれど、今既に事実であり、いつの日か必ず目に見える事実になっていくことを確信しつつ「主はいと高き神、・・・全地に君臨される偉大な王」と言っている。この一見すると荒唐無稽な、また笑止の沙汰にも見えるこの詩が、ただの負け惜しみや夢想ではないからこそ「聖書」と呼ばれる書物、神の言葉と言われる書物の中に入っているのだと、私は思います。

 旧約・新約合わせて「聖書」

 先日の長老会において、転入会志願者と受洗志願者の試問を致しました。それぞれ感謝をもって承認され、今日はSYさんの入会式を執り行い、来週の礼拝ではKNさんの洗礼式を執り行います。先週、それぞれの方と式に備えて準備を致しましたが、その中では『日本基督教団信仰告白』の学びをします。これまでの入会式や洗礼式では、私が独りで『信仰告白』を朗読してきました。しかし、この『信仰告白』は礼拝に出席している中渋谷教会の会員全員で唱和すべきではないかと半年程前の長老会で話し合い、「次回の式からそのことを実行する」ことに決定したので、今日はそのように致しました。転入会する方、洗礼を受ける方と声を合わせて信仰の告白をすることは、入会式や洗礼式に相応しいと思います。
 「日本基督教団信仰告白」の最初に出てくるのは、プロテスタント教会らしく「聖書」に対する信仰告白です。

「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。」

 旧約聖書は直接的にキリストのことを証している訳ではないし、ましてマリアから生まれたイエスがキリストであることを証している訳ではありません。しかし、キリストの到来を預言している書物であり、またキリストとはどういうお方であるかを間接的に証もしています。イエス様ご自身が、ご自分のことを律法の預言の成就であるとおっしゃっているのです。
 しかし、旧約聖書の律法や預言は新約聖書の見地から見て初めて分かるものである場合があります。旧約聖書だけを読んでいても分からないことが分かってくる。そういうことがあります。旧約聖書の言葉をなんでもキリストを証するものとして強引に解釈することは戒めるべきです。でも、私たちは旧新約聖書を一つの正典として読むのですから、旧約を読まずして新約は分からず、新約を読まずして旧約は分からないという立場を取るべきだと思います。

 マタイの系図

 先週、私はキリストの降誕を待ち望むアドヴェントに、46編と47編を読むことに意味があるはずだと言いました。来週と再来週のクリスマス礼拝では、マタイによる福音書の冒頭を読むことにしています。「すべての民」「諸国の民」「全地に君臨される偉大な王」を賛美せよと言い、いつの日か「諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる」と告げる47篇の言葉を心に留めつつ、マタイ福音書の世界に入っていきたいと思います。
 マタイ福音書の冒頭の系図は、聖書を読んでやるぞと意気込むすべての者の思いを打ち砕くような所がありますけれど、こういう言葉から始まります。

アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。 (マタイ1:1)

 「系図」と訳された言葉は、出来事とか物語という意味を含みます。詩編47編にはアブラハムが出てきました。

 アブラハム

 アブラハムは、神様から選ばれた民イスラエルの先祖です。罪によって呪いに落ちたすべての人々を祝福するために、主はアブラハムを選び、「生まれ故郷」「父の家」を離れて、主が示す地に旅立つように命ぜられたのです。
 住み慣れた土地、先祖代々からの付き合いがある親族、それまでの自分を支えていたすべてのものを打ち捨てて、神が示す地に向って旅立つ。すべてを神に委ねて旅を続ける。ただその時にのみ、彼は「大いなる国民」となり、地上のすべての人々の「祝福の源」になると言われるのです。彼は、その命令に従ってメソポタミア地方から今で言うパレスチナ地方(カナンの地)に来ましたが、その地が飢饉に襲われるとエジプトに避難しましたから、当時の全世界を旅したことになります。そして、彼の子どもらも世界中に拡散していき、子孫は世界各地に住む各民族になっていきます。その中で、サラとの間に生まれた一人息子イサクとそのイサクの子ヤコブの十二人の子らがイスラエル十二部族になっていきます。

 不思議な系図

 マタイによる福音書の系図は、そのイサクの家系をまっすぐに書いているのかと言うと、そんなことはありません。この系図にはアブラハムの血筋の直系の子孫だけが入っているのではなく、当時のユダヤ人からして見ると神に捨てられている異邦人が入っているのです。そして、通常ではあり得ないことですが、男だけでなく女たちも入っています。その女たちは皆異邦人です。止むを得ない事情によって義理の父との間に子どもを産んだタマル、エリコの娼婦だったラハブ、落ち穂拾いをせざるを得ないほどの貧乏人だったルツ、ダビデとの間にソロモンを産むことになる人妻(バテシバ)がそうです。普通だったら、家系図からは消しておきたい人々が登場するのです。
 アブラハムと共に名が挙げられ、この系図の区切りとなる「ユダヤ人の王」であるダビデ王もまた姦通の罪を犯した人間として登場します。ユダヤ人と異邦人、男と女、身分の高い者と低い者、有名な者と無名な者。つまり世界中の人々がこの系図の中に入っている。そのすべての人々が、イエス・キリストの誕生に向っている。旧約の時代を生きてきた人々は皆、意識する、しないに関わらず、イエス・キリストの誕生に向っている。そういうことがここで言われているのではないかと思います。聖霊によってマリアの身に宿ったイエス様は、地上のすべての人間をその身に受け止める方としてお生まれになるのです。

 異郷への旅立ち

 神様が「地上のすべての人々」をどう見ているか、そして、ご自身の独り子であるイエス様を人として生まれさせる目的が何であるかは、ヨセフの夢の中に現れた天使の言葉に明らかです。

「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」  (マタイ1:20?21)

 神様から見て、「地上のすべての人々」は罪人なのです。「すべての民」「諸国の民」は罪の支配に服しているのです。罪人をその罪の支配から救い出し、命の祝福へと至らせるために、イエス様はマリアから生まれる。「アブラハムの子」として新たな「祝福の源」としてお生まれになる。
 それは天において神様と一体の交わりの中に生きておられた独り子にしてみれば、異郷の地への危険に満ちた旅立ちです。実際、イエス様は誕生後すぐにヘロデ王によって命を狙われました。

 ダビデの子

 イエス様は、「アブラハムの子」であると同時に「ダビデの子」と言われます。「ダビデの子」とはダビデの血筋を引く子孫という意味だけでなく「王」、メシアのことも意味します。だから、東方からやってきた学者たちは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と言ったのです。
 教団の信仰告白にある「旧新約聖書はキリストを証し」は、聖書はイエス様がキリストであること、メシアであること、そして全世界の王であることを証していると言っているのです。イエス様が、そういう方であることが分かれば、その方の前ですべきことはひれ伏して礼拝する、崇めること以外にはありません。心からの賛美を捧げ、その方の支配に服して、御言に従って生きる。そういう方と出会えることに勝る幸いはないのです。
 マタイ福音書によれば、ユダヤ人の王であり、救い主としてのメシアであるイエス様の御前にひれ伏して礼拝するためにやって来たのは、遠い東の国の学者たちです。神様の選びの民であるユダヤ人にしてみれば、神に見捨てられた異邦人です。ルカ福音書では、人の数にも数えられない社会の最底辺を生きていた羊飼いです。この事実もまた、詩編47編に出てくる「すべての民」「諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる」ことの実現と言って良いだろうと思います。彼らは両方とも、当時のアブラハムの民、ユダヤ人にしてみれば神に見捨てられた人たちなのです。しかし、その人たちこそが、イエス様が「ユダヤ人の王」であり、「メシア」であり、「主」であり、「救い主」であることを最初に知らされ、信じ、イエス様の前にひれ伏して賛美し、崇めた人々なのです。

 天の国は近づいた

 生まれた時から命を狙われたイエス様は、ヨハネから洗礼を受けることを通して「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神様から言われ、王に任職されました。そのイエス様の宣教の第一声は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」です。「天」は神を表し、「国」は支配を表します。イエス様が宣教することによって神様の支配が全地に広がっていくのだとおっしゃっているのです。そして、その神の支配の中に入って来るように招いておられるのです。国籍、民族、身分、性別の違いを越えて、すべての罪人を祝福し、「アブラハムの神の民」にするために招いておられるのです。自由にされた人は、その招きに応えて神の民となり、神を崇めるようになるでしょう。しかし、誰もがその自由を与えられている訳ではありません。

 王のエルサレム入城

 ユダヤ人の王であるイエス様の歩みは、それまでの誰もが知らない歩みでした。人々の上に君臨するメシアではなく、弱く貧しい人を訪ね歩き、病や悪霊によって苦しめられている人を癒し、人々を神の言葉で教え、共に食卓を囲み、共に寝る。そういう地を這いずるような歩みをされたのです。そこに王の威厳はありません。しかし、神が立てた王、神の御心に適う王はそういう王なのです。その歩みはすべてエルサレムに向ってのものでした。
 先ほど、私は詩編47編6節は前半と後半を繋ぐものであり、神が王としてエルサレムに凱旋入場する様を描いていると言いました。
 イエス様がろばに乗ってエルサレムに入場される時、群衆は「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と歓呼して迎えました。マタイは、その様を「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる。柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」というゼカリヤの預言の実現だと言います。つまり、神に立てられた王が、エルサレムに凱旋入場しているのだ、と。

 十字架の王

 私はイエス様のエルサレム入城は詩編47編6節の実現でもあると思います。しかし、このように歓呼の中にエルサレムに迎えられたイエス様のその後の歩みはまっすぐに十字架の死に向っていくのです。「アブラハムの神の民」であるべきユダヤ人の権力者たちは、罪に捕われた奴隷であり続け、神を冒涜する罪人として、異邦人のピラトの手を借りてイエス様を十字架に磔にするからです。
 その十字架に「罪状書き」として打ちつけられた板には、「ユダヤ人の王」と記されていました。これはユダヤ人の祭司長らとローマの総督ピラトが、イエス様を嘲るためにしたことです。しかし、皮肉なことに、彼らはそのことを通して、イエス様の本質を全世界に告げ知らせることになったのです。
 「ユダヤ人の王」。それは「普遍」に対する言葉で言えば、「特殊」であり「個別」なことです。しかし、神様は全世界の王であるメシアを「ユダヤ人の王」からお立てになると預言しておられたのです。ヨハネから洗礼を受けた時に王として任職されたイエス様は、この十字架を王座とされたのです。「すべての民」が、手を打ち鳴らして喜びの歌を捧げるべきは、十字架を王座とすることによって「自分の民を罪から救う」この王なのです。

 復活の主

 しかし、この十字架で神様の御業が終わったわけではありません。主イエスは十字架の上で神様の裁きを受けつつ、私たち罪人の罪の赦しのために祈ってくださいました。罪の赦しとは、ただ神様が心で赦し、私たちが心で受け入れて終わることではありません。罪の赦しは新しい命を与えるものです。
 神様は、十字架の上で息を引き取り、墓に葬られたイエス様を三日目の日曜日に甦らせ給いました。そのことを通して、罪の結果なる死に勝利してくださったのです。私たち人間が何をしようと決して勝つことが出来ない罪と死の力に、イエス様の十字架の死と復活を通して勝利してくださったのです。
 そのイエス様は、罪と死の力に負けて最後まで従うことが出来なかった弟子たち、「あの人のことは知らない」と言って逃げていった弟子たちに現れてくださったのです。それは毎週の私たちの礼拝体験でもあります。私たちは、毎週破れているでしょう?主を忘れ、否み、背いているでしょう?それなのに、私たちは今日もこうして礼拝を捧げることを許されています。
 その時の様子を、マタイはこう書きます。

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。」 (マタイ28:16〜17)

 ひれ伏す弟子たちに、主イエスはこう語りかけました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:18〜20)

 実現

 詩編47編は、こう始まっていました。

「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。
神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ。
主はいと高き神、畏るべき方
全地に君臨される偉大な王。」

 この言葉は、イエス様の十字架の死を経た復活を通してより高い次元で実現したのではないでしょうか。この詩においては、主は「全地に君臨される偉大な王」です。でも、主イエスは今や「天と地の一切の権能を授かっている」王なのです。地上を生きている者も死んだ者も、主イエスの御手の中にあり、その支配、守りの中に置かれているのです。神様は私たちを罪から救うために十字架にお掛かりくださったイエス様を復活させて、天地を貫く神の国の王としてお立てくださいました。「すべての民」が知るべきことはそのことです。そして、そのことを知るならば、その者は手を打ち鳴らして、喜びの賛美を捧げるほかにないのです。そして、そこに私たちが生まれて来た意味、生かされている目的がある。そして、最上の平安、最高の幸福があるのです。その平安と幸福を生きることが、罪の赦しを通して与えられた新しい命の使命です。
 主イエスは、ご自身が天地を貫く神の国の王となられたこと、その喜びを十一人の弟子たちを通してすべての民に宣べ伝えるように命じられました。新しい命を与えられたことで、その命令に従うことに献身してきた者たちが、この二千年間絶え間なく誕生し続けたことによって、私たちも主イエスを知らされ、主イエスを通してもたらされた神の国に招き入れられ、今日もこうして心からの賛美と喜びをもって神様を崇めている。アブラハムの神の民として。そして、唯一の真の王である主の民として主を礼拝しているのです。
 そして、この礼拝の後、十字架と復活の主イエスが天地に君臨される偉大な王であること、この王を信じ、愛して生きることがどれ程喜びに満ちたものであるかを「すべての民」に告げ知らせるために派遣されるのです。イエス様は、その私たちの伝道と証の歩みをどこまでも共にしてくださいます。
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