「私を洗ってください」

及川 信

       詩編 51編 1節〜 11
51:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。 51:2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
51:3 神よ、わたしを憐れんでください
御慈しみをもって。
深い御憐れみをもって
背きの罪をぬぐってください。 51:4 わたしの咎をことごとく洗い
罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。
わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
御目に悪事と見られることをしました。
あなたの言われることは正しく
あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ
母がわたしを身ごもったときも
わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み
秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください
あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
51:11 わたしの罪に御顔を向けず
咎をことごとくぬぐってください。

 二つの暦

 2014年最初の礼拝を捧げています。この日の礼拝はしばしば「新年礼拝」と呼ばれます。そういう意味では、先週の礼拝は歳末礼拝となります。
 私は2011年の1月から月の第一主日には詩編を読むことにしており、今日で4年目に入ります。長い詩を一回で読むことは無理ですから、今日は51編の前半をご一緒に読むことにしました。この詩編は「七つの悔い改めの詩編」と呼ばれるものの一つで、「神よ、わたしを憐れんでください」という願いで始まります。ラテン語ではキリエ エレイソンです。カトリック教会のミサ曲は「キリエ エレイソン」と歌うことで始まります。礼拝は、神様の憐れみを乞い求めることから始まるのです。そういう意味で、今年最初の礼拝で詩編五一編を読むことは相応しいと思いました。
 歳末や新年という暦を大切にしながらも、私たちキリスト者は教会の暦によっても生きています。プロテスタント教会の中でも私たちが属する改革派教会は、カトリックやギリシャ正教ほどに教会暦を重んじる訳ではありません。しかし、忘れている訳でもなく、週報の一番上には教会暦の主日名が記されています。ご覧いただければ分かりますように、今日の礼拝は降誕節第二主日の礼拝です。まだまだ、クリスマスシーズンなのです。だから外壁に飾ったリースも会堂内のキャンドルもまだ残しているのです。後片付けが面倒だからという理由でそのままにしてあるわけではありません。(笑)公現日まで、そのまま飾っておく習慣があるのです。そして、明日の1月6日が「公現日」です。東の国からやって来た学者たちが、「ユダヤ人の王」としてお生まれになった方の前にひれ伏して礼拝したことを記念する日です。マタイ福音書は、イエス様のことを「自分の民を罪から救う」「インマヌエル」(我らと共にいます神)と証言します。その方を異邦人がひれ伏して拝むことを通して、イエス様が世界の人々の王であることが公に現されたと教会は受け止めているのです。栄光が現されたということで、栄光祭(エピファニー)と呼ばれることもあります。
 その栄光に満ちた王とは、権力で人々を支配する王ではありません。十字架の死と復活を通して、神様から天地を貫く権能を授けられた王です。罪と死に支配されていたすべての人間を罪から救い出し、永遠の神の国に招いてくださる王なのです。だから、この方の前にひれ伏し礼拝することは、「神よ、わたしを憐れんでください」と祈ることから始まるのです。それは、「罪からの救い」を求めて祈ること以外のものではありません。

 わたしを憐れんでください

 「神よ、わたしを憐れんでください」という祈りの言葉は、詩編の中に何度も出てくる言葉です。

「主よ、憐れんでください。わたしは苦しんでいます。(中略)罪のゆえに力はうせ、骨は衰えていきます。」(31:10〜11)
「主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯したわたしを癒してください。」(41:5)

 いずれも、罪の赦しを求めている祈りです。
 51編では「憐れんでください」に続いて「御慈しみをもって」「御憐れみをもって」とあります。詩編25編にもこうあります。

「主よ思い起こしてください。あなたのとこしえの憐れみと慈しみを。わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず、慈しみ深く、御恵みのために、主よ、わたしを御心に留めてください。」(25:6〜7)

 罪を自覚した者が縋るのは、主の「憐れみ」「慈しみ」なのです。それ以外にはありません。自分の正しさを少しも主張できない者は、ひたすらに詫びるしかないし、赦しを乞うしかないのです。憐れみと慈しみに縋るしかない。
 このように縋る姿は、一見すると非常に惨めなものです。ひれ伏して詫び、赦しを乞う。こんな惨めなことはありません。だから、私たちはこの惨めさを嫌い、ひれ伏さず、詫びもせず、赦しを乞うこともしません。
 侵略した側の国が公式に謝罪し、その謝罪が受け入れられ、両者の和解が成立し、新しい友好関係が結ばれることは世界史の中で滅多にありません。詫びることは屈辱なのです。相手だって過去に遡れば、あるいは粗を探せばいくらでも落ち度はあり過失もあるのです。だから、自分だけがひれ伏して詫びるなんてことは出来ない。そう思うのです。そして、一旦詫びたらその後どんな要求をされるか分からないから詫びない。そういうこともあるでしょう。日本が近隣諸国との間に持っている緊張関係は、それぞれの国が隣接する国々との間に持っているものです。
 一対一の人間関係においても同様です。私たちは心から詫びることが出来ない。詫びるのに何年も何年も掛かることがあります。なかなか真実の和解が出来ない。新しい関係を始められない。常に傷を内に抱え、腹に一物を抱えているので、何かの拍子に血が吹き出てきたり、怒りが爆発したりする。多くの人がそういう経験をしていると思います。実は、それこそが惨めな状態なのです。詫びることが惨めなのではなく、詫びないことが惨めなのです。でも、私たちはその惨めさから抜け切ることがなかなかできません。

 お天道様が見ている?

 どうしてそうなるのか。その原因は何なのか。そのことを考える時に意識しなければならないことは、自分が誰の前に生きていると思っているかだと思います。誰の面前で生きているかと思っているかです。
 今でも言うかもしれませんが、私の子どもの頃は、「誰も見ていなくても、お天道様が見ているんだからね」とよく言われていたように思います。太陽が神格化されて、絶えず人を見ている神となっているわけです。その神の前に生きていることを忘れるなということでしょう。しかし、現代人は太陽が物体であると知っていますから、実際には人間の良心を語っているのだと思います。「あなただって良心というものがあるだろう。あるのであれば、良心に恥じることはしないはずだ。」そういうことを言っているのだと思います。
 しかし、良心は実に曖昧にして不安定なものです。また弱い場合もあります。「良心に恥じること」は、人によって違い、同じ人でも時と場合によっても違うのです。人間にとって「良心」は本当に大切なものです。しかし、それは人間に対峙するものではないと思います。

 あなたに罪を犯した

 51編の作者も、自分の良心に照らして恥を感じていることは間違いありません。しかし、良心の呵責に苦しんでいるだけではないでしょう。彼は、こう言っているのですから。

「わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。」

 ここで「あなた」と呼びかけられている神様は、人間の良心と同格扱いされるような「お天道様」とは違います。あくまでも人間の外で生きておられるお方です。言葉をもって語りかけてくる神様なのですから、お天道様とは違うし、偶像とも違います。それらのものは、結局、人間の願望や欲望の投影に過ぎません。しかし、聖書の神様は、お天道様も大地もそこに生きる者すべてのものをお造りになり、ご自身の像にかたどって造られた人間には言葉をもって語りかけて来られる方です。
 このお方の前に生きていることを自覚する。このお方は目に見える行為はもちろんのこと、目に見えない心の内もご存知である。人に対して犯したことも、その本質においてこの神様に対して犯した罪である。そのことが真実に分かった時にのみ、人は自分の罪を知り、砕かれ、「憐れみ」と「慈しみ」を求めて神様に縋ることが出来るのです。
 神様に縋る。これは惨めな姿と言えばそうかもしれません。罪を犯したのだし、その罪が自分にも明らかになったのですから惨めです。でも、罪を犯しつつもそうとは知らず、そうと知っても知らぬ顔をする惨めさに比べれば、はるかに高貴な姿です。

 罪悪を言い表そうとする苦悩

 自分の罪が分かる。神に知られていることが分かる。それは口でサラッと言えるようなことではありません。大きな痛みを伴うことです。心身が痛むのです。あるいは消耗し、憔悴するのです。
 詩編38編には、こういう言葉があります。

主よ、怒ってわたしを責めないでください。
憤って懲らしめないでください。
(中略)
わたしの肉にはまともなところもありません
あなたが激しく憤られたからです。
骨にも安らぎがありません
わたしが過ちを犯したからです。
(中略)
負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます
わたしが愚かな行いをしたからです。
(中略)
わたしは自分の罪悪を言い表そうとして
犯した過ちのゆえに苦悩しています。
(詩編38編2節〜19節抜粋)

 罪を犯したことを知るとは、こういうことです。肉も骨も痛むのです。現代でも、病や障碍を罪の結果だと考える人がいて、お祓いを受けたりする場合があります。旧約時代もイエス様の時代も、人々は病や障碍は罪の結果だと考えました。そこで、罪の赦しを求めて犠牲を捧げる祭儀が必要になるのですが、その点は、次回にします。
 38編の作者の場合も、何らかの病を身に帯びており、そのことを彼自身が罪に対する神様の裁きだと受け止めていたのでしょう。しかし、その苦しみの根幹にあるのは、肉体の苦しみではなく、「自分の罪悪を言い表そう」とする苦悩です。そのことが出来るまで肉も骨も痛み、衰えるのです。神様によって罪が赦されるまで、あるいは赦されたと確信できるまで、その苦悩は続きます。

 罪に対する無力

 51編の作者も「あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように」と言っています。すべてをご存知の神様が、骨を砕くような痛みを与えつつ罪を犯したことを彼に知らせているのです。その痛みを通して、彼はついに自分の罪を知り「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」と告白するに至ったのだと思います。
 そうであるが故に、彼はただひたすらに罪の赦しを乞い求めます。「罪をぬぐってください」「咎をことごとく洗い、罪から清めてください」「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください。わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」と。ここで彼は、全面的に神様に依存しています。「私もこういう償いをしますからお赦しください」とは言いません。彼にとっては、罪から救われるために自分が出来ることはなにもないのです。
 彼は、「わたしは咎のうちに産み落とされ、母が身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」と言います。これは「原罪」の根拠にされたり、性の交わりは罪であることの根拠にされたりもしますが、私はそうは思えません。罪の力に対する人間の無力を表しているのだと思います。罪の支配に陥った人間は、ただひたすらに主なる神に赦しを乞い、救いを求める他にない。自分の力では何も出来ない。そのことの表現だと思うのです。
 汚れた水の中で体を洗っても、汚れが落ちるはずもありません。そして、私たちはその水(この世)から自力で脱出することはできません。ヒソプとは清めの儀式に用いた植物です。ここでは神ご自身によって綺麗な水で洗い清めてもらうことを願っているのです。しかし、洗ってもらうためには、裸にならなければなりません。生まれたばかりの赤ん坊が裸で親に洗われるように、神様の前に裸になって洗って頂くしかない。何も隠さずに身をさらさねばなりません。聖霊の注ぎの中で水の洗礼を受けるとはそういうことです。裸を隠さない。汚れも傷も隠さない。神様の前にすべてをさらけ出し、清めて頂くのです。そのような洗礼を受けた者が聖餐の食卓に与るのです。それは、新たに犯してしまった罪を主の前で見つめ、告白し、悔い改め、主の赦しを頂くことです。そこに、私たちの喜びと賛美があります。

 天にある大きな喜び

 今日は受付のテーブルや礼拝堂の入り口にカラーコピーを貼っておきました。それは、私が小学生だった頃に教会学校で使っていた新約聖書の表紙に描かれている絵です。五十年近く前の本ですからボロボロになっています。聖書に親しんでいる方であれば、ルカ福音書に出てくる迷子の羊の譬話の絵であることがお分かりになると思います。
 イエス様は、「自分は律法を守っているから正しい人間だ、たとえ罪を犯すことがあっても律法の規定に従って罪を償うことが出来る」と思っている人々に、こういう譬話をお語りになりました。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」(ルカ15:4〜7)

 群れから離れた一匹の羊は、常に死と隣り合わせです。肉食の獣がいますし、崖から落ちれば骨折するでしょう。羊は自分で自分の身を守ることが出来ない弱くて愚かな動物なのです。獣と戦ってくれる羊飼いがいなければ、絶えず先頭を歩いて安全な道を教えてくれる羊飼いがいなければ生きていくことが出来ない動物です。羊飼いから目を逸らして、好き勝手な方向に歩いていけばすぐに迷子になり、獣に襲われたり、崖から落ちてしまったりするだけです。そうなれば、自分で自分を救い出す術を彼らは持っていません。助けを待って「メ〜メ〜」と鳴くしかないのです。
 その弱くて愚かな一匹の羊を羊飼いは捜し求めて危険な崖を命懸けで下りてきてくれる。愚かな羊、背いた羊、自分で勝手に道に迷い、足を滑らせ、崖の下に落ちて骨を折り、身動きも出来ずに鳴いている羊を見つけ出し、「ここにいたのか。捜したぞ」と言いながら抱き上げ、肩に担いで群れの中に連れ戻してくれる。そして、友人知人を集めて、一匹の羊を見つけ出したことを喜び祝う。
 その譬話の後に、イエス様はこうおっしゃいます。

「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 羊の譬話の後に続く失われた一枚の銀貨の譬話では、「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とおっしゃいました。銀貨も見つかるために自分で動くことはできません。自分ではなにも出来ないのです。見つけてもらうまで待つしかない。

 喜び祝う声を聞かせてください

 私がなぜこの譬話の話をするかと言うと、10節前半の言葉の意味が分からず考えあぐねていた時に思い出したからです。

「喜び祝う声を聞かせてください
あなたによって砕かれたこの骨が喜び踊るように。」

 「喜び祝う声」を聞くのは明らかにこの詩の作者です。しかし、「誰の」喜び祝う声を聞くのかが分からないのです。注解書をいくつか読んでも、私にはピンと来るものがなくて困りました。でも、イエス様の譬話を思い出した時に、私たちの救いは何よりも神様の喜びなのだということに思い至りました。崖から落ちて動くこともできずに「メ〜メ〜」と鳴くだけの羊が、羊飼いに手を差し伸べられ、担がれた時にどれほど喜んだか分かりません。まさに命を救われたのですから躍り上がりたいような喜びを感じたに違いないのです。
 しかし、イエス様は言うのです。その喜びをはるかに上回る喜びが羊飼いにあり、天にあると。天使たちは、迷子の羊が見つけられて群れに連れ戻されるのを見て大喜びしている。もちろん父なる神様も喜んでおられる。一人の罪人が悔い改めるということ、自分の罪を認め、「神よ、わたしを憐れんでください」と祈ること。それは、神様にとって本当に大きな喜びなのです。常に罪人を憐れみ、慈しんでいる神様は、その祈りを待っていたのですから。
 一人の罪人が罪を悔い改めた時、天上では「喜び祝う声」が響き渡るのです。地上でその天上の喜びの声を聞いた時、悔い改めた罪人も「喜び踊る」ことが出来る。罪が赦されたことを確信して喜び踊ることが出来るのです。聖餐の食卓は、そういう天上と地上の喜びの祝いです。

 まこと 真理

 これまで、8節には触れずに来ました。原文の解釈が難しい所のようですが、『新共同訳聖書』の翻訳に従って読みたいと思います。ここに出てくる「秘儀」とか「秘術」は、現代の日本人も大好きな「おまじない」とか「お祓い」のことでしょう。そういうもので罪の汚れを清めたり、裁きを免じて貰ったりすることを、神様は決してお望みにならないと言っているのだと思います。神様は「まことを望み」、私たちに「知恵を悟らせて」くださると言うのです。
 「まこと」は、ギリシャ語訳の旧約聖書ではアレーセイアと訳されており、「知恵」はソフィアです。アレーセイアは、新約聖書ではしばしば「真理」と訳されています。そこで思い起こすのはイエス様の言葉です。
 イエス様は、十字架の死を目前にした時に、弟子たちにこうおっしゃいました。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)

 「自分の民を罪から救う」ためにお生まれくださったイエス様は、まさに天から地に降って来られた方です。地とは、先ほどの話で言えば崖の下です。罪人とは崖の下に転げ落ちて自らの力では這い上がれない人間のことです。その崖の下に転げ落ちた人間を救い出すためにイエス様は肉をとって人となり、ついに罪人の身代わりになって十字架の上に釘で打ちつけられてしまう。掌の骨が砕かれ血が流されるのです。「罪人を救う」という神様の御心をその十字架の死で「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)イエス様は、三日目の日曜日に復活させられ、天に挙げられていきます。そのようにして、崖の下に転げ落ちてしまった罪人が父なる神のもとに行く道となり、真理となり、命となってくださったのです。

 知恵

 「知恵」という言葉を聞いて思い出すのは、コリントの信徒への手紙の中に出てくるパウロの言葉です。人はこの世の知恵で神を知ることはできない、それが神の知恵に適ったことだ、とパウロは言います。そして、こう続けるのです。

そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(Iコリント1:21〜25)

 詩編51編の作者は、神様は「秘術を排して知恵を悟らせてくださる」と言いました。私たちキリスト者にとってそれは、イエス・キリストを、それも十字架につけられたイエス・キリストを悟らせてくださることに他なりません。この十字架につけられたキリストこそ、私たちを罪から救い出してくださる「神の力」「神の知恵」であると悟らせてくださるのです。そのために必要なのは信仰です。聖霊によって与えられた信仰以外のものでは、悟ることも知ることもできません。もちろん、私たちの信仰はこの世の知恵に依り頼み、知恵を誇りとする者から見れば愚かなものです。私たちもかつてはそう見ていたのですから、何ら驚くようなことではありません。しかし、「神の愚かさは人よりも賢い」ことは当然です。そのことを認めないことは惨めなことです。

 憐れみ 慈しみ

 私たちは神様の「憐れみ」「慈しみ」のゆえに、信仰を与えられた者たちです。イエス・キリストを信じる信仰を与えられた。その信仰のゆえに、自分の罪を知ることが出来ます。それは、自分が誰であるか、その真実の姿を知ることです。その信仰のゆえに、神様はイエス・キリストによって罪を赦してくださったという真理を知ることが出来ます。また、イエス・キリストの復活によって新しい命を与えてくださっていることを知ることが出来るのです。そして、信仰によって真理の道を歩くことが出来るのです。
 これから、今年最初の聖餐に与ります。これは、天上と地上の両方で喜び祝う祝祭です。私たちは、罪から救い出してくださった主イエス・キリストを賛美し、父なる神を賛美します。心からの悔い改めと感謝と信仰をもって賛美するのです。その時、天上でも天使たちが喜び祝いつつ神様を賛美しているのです。私たちは信仰によって、その天上の喜び祝う様を見、その声を聞きます。そして、罪に対する裁きによって砕かれた骨が、赦された喜びに踊るのです。神様と共に生きることが赦された喜びです。この喜びを与えてくださった神様を、この年も共々に賛美しつつ御国を目指して前進していきたいと願います。
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