「清く砕かれた心を」

及川 信

       詩編 51編 1節〜 21節
51:3 神よ、わたしを憐れんでください/御慈しみをもって。深い御憐れみをもって/背きの罪をぬぐってください。
51:4 わたしの咎をことごとく洗い/罪から清めてください。
51:5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
51:6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し/御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく/あなたの裁きに誤りはありません。
51:7 わたしは咎のうちに産み落とされ/母がわたしを身ごもったときも/わたしは罪のうちにあったのです。
51:8 あなたは秘儀ではなくまことを望み/秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
51:9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。
51:10 喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
51:11 わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。
51:12 神よ、わたしの内に清い心を創造し/新しく確かな霊を授けてください。
51:13 御前からわたしを退けず/あなたの聖なる霊を取り上げないでください。
51:14 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ/自由の霊によって支えてください。
51:15 わたしはあなたの道を教えます/あなたに背いている者に/罪人が御もとに立ち帰るように。
51:16 神よ、わたしの救いの神よ/流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
51:17 主よ、わたしの唇を開いてください/この口はあなたの賛美を歌います。
51:18 もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。
51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。
51:20 御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。
51:21 そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。

 憐れんでください

 先月の第一主日礼拝は新年礼拝でした。その礼拝において、私たちは詩編51編の前半の御言を聴きました。今日は後半です。
 詩編51編は「神よ、わたしを憐れんでください」という祈りの言葉で始まります。ひたすらに罪の赦しを乞い求めるのです。この言葉はラテン語ではキリエ エレイソンであり、ミサ曲の冒頭の言葉です。
 私たちが聖なる神様の前に出る。「主よ、神よ」と呼ぶ。その礼拝において私が真っ先に湧き起こる思いは、やはり恐れです。世の罪にまみれ、心の中にも罪が居座っている。それなのに、こんな場に呼び出されてしまった。内も外も汚れた人間が、聖にして清い神の前に引っ張り出されてしまった。そういう身の置き所のない居心地の悪さを感じます。
 その一方で、この礼拝の中にこそ自分の本来の生きる場がある。ここでこそ、深呼吸ができる。深く心の底からの思いを吐き出し、また心の底に神様の霊と言葉を吸いこむことができる。深呼吸ができる。息がつける。そういう安堵感とか解放感も感じるのです。

 キリスト者

 神の御前に出ることの怖さと、神の御前にいることができる安心と喜び。そういう二つの思いを抱えつつ、私たちはここにいます。それは、「私たちが」ではなく、「神様が」私たちを御前に呼び出してくださっているからです。そのことの故に、私たちは今この礼拝堂にいるのです。その事実を知る時、私たちは「神よ、わたしを憐れんでください……背きの罪をぬぐってください」と祈ることから始めるしかありません。そして、このように祈れること自体が救いなのです。祈るとは、神様が憐れみ深いお方であることを知り、悔いし砕けた心で罪の赦しを求める者を憐れんでくださることを信じている者がすることです。その信仰は、神様が送ってくださる聖霊によって与えられたのです。信仰が与えられていること自体が救いであり、私たちはその救いを感謝し、神様を賛美し、救い主であるイエス・キリストを証するのです。罪の赦しを与えられるとは自分が新しくされることであり、それはキリストの者とされたということです。そして、キリスト者とは喜びと感謝に満ちて賛美と証に生きる者なのです。

 罪を知る

 詩編51編の作者は、人の世に生きているだけでは知り様もないことを知っています。人の世に生きているだけでは、「罪」は分かりません。国会の論戦や、国連を場とした近隣諸国からの日本の首相の思想や行動に対する批判と応答を見ながら感じることですけれど、人の世においては強い者が正義なのです。力を持った者が、力を背景に自分の正義を振りかざすのです。そして、歴史を書き換えていく。そういうことが世界中で繰り返されて来ましたし、今も繰り返されています。世界の勢力図、力関係が変わろうとしているからでしょう。国の中でも政権が変われば日本史や国語の教科書は書き換えられます。敗戦直後に教科書に墨を塗った記憶のある方も大勢いらっしゃると思います。
 人の世では強い者の正義がまかり通っていきます。そして、自分たちの新しい時代を切り開こうとします。でも、自分たちが罪に支配された惨めな奴隷であることが分からなければ、それを認めることができなければ、そして罪の赦しを神様に求めることができなければ、人間は変わらず、そのやることなすことも変わりません。そこに新しいものなどないのです。

 正しい裁きの前に立たねば

 作者は言います。

あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し
御目に悪事と見られることをしました。
あなたの言われることは正しく
あなたの裁きに誤りはありません。

 このように「あなた」と呼ぶことができる神、誤りなき裁き、正しい裁きをなすことができる方と出会わない限り、私たちは罪も悪も分からずに「あの人よりはましだ」とか「あの人に比べれば多少の非はこちらにあると言わざるを得ない」とか言っているだけです。反省とか後悔をするのがせいぜいです。
 もちろん、反省したり後悔することは大事なことです。しかし、作者が言っていることは、そんな次元のことではありません。彼は、正しい裁きをなさる神の御前に立ち、畏れ慄きつつ憐れみと慈しみに縋り、罪の赦しを必死に祈り求めているのです。これは反省というレベルではありません。

ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください
わたしが清くなるように。
わたしを洗ってください
雪よりも白くなるように。

 罪の問題は自分では解決できません。後悔し、反省し、「二度と繰り返すまい」と決意することでどうにかなるわけではありません。それは人間同士においてもそうでしょう。ある人が誰かに多大な危害や損害を与えてしまったことを反省して、「二度と繰り返すまい」と決心して「すべてが終わった」と一人で納得しても、何も解決していないのです。損害や危害を与えられた側にしてみれば、反省と後悔の上に立ってそれ相当の償いをするなり、罰を受けるなりしてもらわなければなりません。
 また、人間の後悔や反省や決意など当てにはなりません。言葉で言っていることと心で思っていることは得てして違うものだし、隠れてやっていることが言っていることと違うこともしばしばあるのですから。国のレベルでも、「英霊」を祀る神社での「不戦の誓い」だとか、利益しか求めていない和平会議における「不戦協定」などは、いつもあっけなく破られるものです。裏では軍備増強や武器供与などをしているのですから。
 そういうこの世の現実の中で何を言っても何も解決はしません。人間が新しくなっていないからです。罪の奴隷であり続けているからです。そこが変わらなければ、何も変わらないのです。罪が勝利者として君臨しているのです。

 敗北を認める

 この作者は、自分の罪は母の胎の内にあった時からのものであると言っています。これは、罪に対する敗北宣言だと思います。自分の力ではどうすることもできないのです。そのことを今は嫌というほど知っている。だから、彼は神様に頼むのです。「憐れんでください」「罪をぬぐってください」「罪を払ってください」「わたしを洗ってください」と。完全なる負けを認めた人間でないと、ここまで自分の無力をさらけ出して頼むことはできません。

 神様しかいない

 祈りの後半に入ると、その願いはさらに根源的になっていきます。これまでは、表面にこびりついた罪の汚れを拭い、払い、洗って頂くことを神様に願ってきました。でも、12節からは、彼の祈りはこういうものになります。

神よ、わたしの内に清い心を創造し
新しく確かな霊を授けてください。

 「創造する」
と訳されたバーラーは、創世記1章の天地創造物語に何度も出てくる言葉で、その主語はいつも神様です。自分の外面だけではなく、その内面の奥底にある心そのものを清い心に造り替えて頂く。確固とした信仰を生きる霊を心に授けていただく。そのこと以外に、自分が新しくされることはない。彼はそう確信して、必死に願っているのです。神様しか、罪の問題を解決してくださる方はいない。新しい自分を造り出してくださる方は、主なる神様しかいない。その確信が、この願いを生み出しているのだと思います。

 御顔

 皆さんの中にもそういう方がおられると思いますけれど、私はこの詩の中にも自分自身の姿を見いだします。説教の冒頭で、神の御前に出ることの恐れと喜びについて語りました。神様の御前には出たくない。禁断の木の実を食べた後のアダムとエバのように、葉っぱの陰に隠れていたい。そういう思いがあります。しかし、それではいつまでも陰に隠れていたいのか。いつまでも日陰者としておどおどしながら生きていたいのかと言えば、やはりそんなことはない。神様の御前で隠しごとなく生きたい。そういう願いもあるのです。
 この詩の作者は、11節では「わたしの罪に御顔を向けないでください」と願っています。怖いのです。神様に罪を見られるのが。だから顔を向けて欲しくない。でも、13節では、「御前からわたしを退けないでください」と願っている。「御顔」「御前」も原語では同じ「あなたの顔」です。
「顔」は神様の臨在を表します。神様の臨在を感じることの恐れと、その時にしか味わうことができない「御救いの喜び」を彼は知っている。だから、「御顔を向けないでください」と言いつつ「御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再びわたしに味わわせ、自由の霊によって支えてください」と続けるのです。神様の御前にしか、神様に似せて造られた人間が、真実な喜びをもって生きる場はないのです。

 心 霊

 お気づきの通り、12節以降に頻繁に出てくる言葉は「心」であり「霊」です。確かな霊、神様の聖なる霊、自由の霊を自分の心の中に新たに授けて欲しい。その時、自分は罪赦され、新たにされた喜びに満たされることができる。すべては神様の憐れみと慈しみに掛かっている。祈り続けることを通して、彼はそのことを知っていったのでしょう。

 証に生きる

 その時、彼に何が起こるのか?

わたしはあなたの道を教えます。
あなたに背いている者に
罪人が御もとに立ち帰るように。

 「罪人が御もとに立ち帰るように」
は、しばしば「そうすれば、罪人はあなたに立ち帰るでしょう」とも訳されます。本当にその通りだ、と思います。「神よ、わたしを憐れんでください……背きの罪をぬぐってください」と切実に願った者こそが、つまり、自分ではどうすることもできない罪を知り、その罪に敗北した者こそが、神様の憐れみに縋るのです。そして、罪を清められ、確かにして聖なる自由の霊によって清い心を与えられるのです。その時、その人はただ感謝して喜ぶことに留まるわけではありません。自分と同じように罪に苦しみ、敗北している罪人に語りかけるようになるのです。神の御許に、その御顔の前に立ち帰るように、と。そこにのみ「御救いの喜び」があるのだ、と。
 罪赦されて新たにされた者は、それぞれの場で、またそれぞれのあり方で、喜びに満たされて神の憐れみを証することに献身するのです。感謝と喜びをもって賛美し始めるのです。私たちもまた、救われた喜びに生きる人々の証と賛美に導かれて礼拝に集うようになり、信仰を与えられたのではないでしょうか。

 願いから賛美へ

神よ、わたしの救いの神よ
流血の災いからわたしを救い出してください。
恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
主よ、わたしの唇を開いてください
この口はあなたの賛美を歌います。

 ミサ曲は、神の憐れみを求めるキリエ・エレイソンから始まり、神の栄光をたたえるグロリア、信仰告白であるクレドー、そして聖なる神を賛美するサンクトゥスが続きます。そして、最後に私たちの罪を取り除くために十字架に掛かってくださった神の小羊イエス・キリストを賛美するアニュス・デイ(神の小羊)に至ります。
 51編も「憐れんでください」に始まり、ここで神様の栄光を賛美しています。ある聖書学者は、15節の「あなたの道」が16節では「恵みの御業」に言い換えられていると言っていました。たしかにそうだと思います。「恵みの御業」と訳された言葉は、通常は「正義」「正しさ」と訳される言葉です。6節の「あなたの言われることは正しい」と根っこが同じなのです。口語訳聖書では「わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう」となっています。その方がよいと思います。
 「罪」に対する言葉は「正義」です。「正義」を知る時に、それも人間の力を背景とした正義ではなく神の正義である「義」を知る時、ただその時に、人間は自分の「罪」を知るのです。しかし、自分の罪を知った者が、神の義を声高らかに賛美する。それは如何にして可能なことなのでしょうか。神の義は、誤りなき裁きをもたらすものであり、罪人にとっては最も恐ろしいものです。その恐怖と賛美は、並び立つものではないはずです。最後にその問題に帰ってきます。

 エゼキエル

 詩編51編の言葉を色々と調べていると、エゼキエル書の36章に似た言葉があることが分かります。
 エゼキエルは、紀元前六世紀のバビロン捕囚時代に預言者として立てられた人物です。バビロン捕囚とは、イスラエルの民が神に背き続けた罪に対する神様の裁きとして起こったことです。ダビデ王が礎を据えたユダ王国はバビロン帝国に滅ぼされ、神殿は破壊され、多くの人々がバビロンに連れ去られたのです。通常なら、これですべてが終わります。多くの民族が、このようにして消えてなくなっていったのです。しかし、イスラエルの民は国家が亡くなって以後も、自らのアイデンティティを失うことがありませんでした。
 しかし、それは彼らの力ではありません。彼らは罪に完全に敗北し、バビロン帝国の圧倒的な文明の力に呑み込まれる他になかったのです。彼らは、エルサレム神殿で犠牲を捧げて罪の赦しを求めることもできません。神殿は破壊され、自分たちは故郷から数百キロも離れた異国の地に閉じ込められているのです。それなりの数の人々が信仰を捨ててバビロン化したでしょうし、異民族との結婚も増えていったのです。人々は、自分たちの神を忘れていき、神に忘れられていると思っていた。そして、絶望していったのです。
 そういう現実を生きる民に、主なる神様はエゼキエルを通して語りかけます。

わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。……わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。……お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。(エゼキエル36:25〜28抜粋)

 詩編51編との共通点は明らかだと思います。神様から送られる新しい霊によって清く新しい心が与えられる。一度、神に見捨てられた民が、今、神の憐れみによって再び神の民とされ、先祖に与えられた地に住むことができるようになるというのです。これは、神様の一方的な恵みです。神様の選びの確かさ、契約に基づく愛の真実と言ってよいでしょう。
 しかし、そういう罪の赦しと新しい創造を語られた後で、神様はこうおっしゃるのです。

「そのとき、お前たちは自分の悪い歩み、善くない行いを思い起こし、罪と忌まわしいことのゆえに、自分自身を嫌悪する。わたしがこれを行うのは、お前たちのためではないことを知れ、と主なる神は言われる。イスラエルの家よ、恥じるがよい。自分の歩みを恥ずかしく思え。」(同36:31〜32)

 人が、本当に自分の罪を思い起こし、直視し、その忌まわしさに思い至り、嫌悪し、恥じるのは、神様の憐れみを知った時でしょう。そう思います。「恥を知れ」と人から言われても、「お前こそ恥を知れ」と言い返したくなりますが、憐れみ深い神の御前に立たせられた時に見えてくる自分の忌まわしい行為を嫌悪し、恥じる以外にない。そういうことは確かにあります。そこにしか人間が新しくされる起点はないと思います。こういう経験をしたことのない人間が語る言葉は、どんなものであれ薄っぺらだと思います。
 神様は、イスラエルの民に恥を知らせ、その後にイスラエルの繁栄を回復させるのは「お前たちのためではないことを知れ」と言い、最後に「そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」とおっしゃるのです。イスラエルが、主なる神を知る。そのことのために、彼らの罪を知らせ、そして、赦し、繁栄を回復させる。そういうことです。

 枯れた骨の復活

 続く37章は、有名な「枯れた骨の復活」の預言が記されている箇所です。エゼキエルが見た幻(ヴィジョン)なのですが、彼がある谷の真ん中に連れて行かれると、そこには無数の白骨が散らばっていたのです。主がエゼキエルに「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と尋ねます。エゼキエルは「主なる神よ、あなたのみがご存じです」と答えます。すると、主は、骨に向ってこう預言するように彼に命じられるのです。

「見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。……そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(エゼキエル37:5〜6抜粋)

 枯れた骨は、バビロンに捕囚されたイスラエルの民のことです。彼らは、「我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる」と言っていました。
 しかし、主は言われます。

「わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(同37:12〜13)

 ここには、罪に完全に敗北し、絶望した民がいます。詩編51編の作者のように、神の憐れみに縋ることすらできない、あるいはしない民、まさに墓の中で白骨化してしまったような民がいるのです。しかし、そういう民を諦めない、見捨てない神がおられる。なんとかして生き返らせ、墓から引き上げ、新たな命に生かそうとされる神様がおられるのです。エゼキエル自身が、その神に見い出され、罪の支配に埋没し絶望している民に語りかけるように「自分の足で立て」と命ぜられた人なのです。この神を知る。そして、信じる。その時に、枯れた骨、墓に葬られた死人のようになってしまったイスラエルの民は新たな命を与えられるのです。罪を赦され、新たな清い心を与えられ、自由の霊によって生かされ、信仰と賛美を捧げる者に造り替えられるのです。それと同じことが、私たちにおいても起こるのです。

 心と行為

 51編は、動物の犠牲が神様の御旨にかなうなら捧げるが、神様が求めているものは、「打ち砕かれた霊」「打ち砕かれ悔いる心」であると言っています。しかし、その後に、エルサレムが復興し、神殿が再建された後には、「焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に、雄牛がささげられるでしょう」と続きます。最後の20節21節は、バビロン捕囚が終わり、枯れた骨に霊が吹きこまれ、墓から引き上げられた民がエルサレムに帰還した後の希望が後の時代に付加されたのだと学者たちは考えます。18節19節と20節21節は互いに矛盾しているし、前者の深さに対して後者はあまりに形式主義だと思えるからです。現在の形の詩が出来上がっていく歴史的過程としてはたしかにそういうことだろうと思います。しかし、20節以下が付加されたことによって生じる深さもあるのではないかと思います。
 先ほど、「わたしはあなたの道を教えます」「恵みの御業(あなたの義)をこの舌は喜び歌います」と内容的には同じだと言いました。また、その時に「あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」との関連にも少し触れました。「裁き」とは、「罪」に対する裁きです。その裁き方が道なのであり、正しい裁きを罪人が喜び歌う。恐るべき裁きを喜び歌うとはどういうことなのか。互いに並び立つはずのない恐怖と賛美は、如何にして共存するのか。それが最後に残った問題です。
 互いに矛盾する「悔いし砕けた心」の献げ物と「焼き尽くす完全な献げ物」の並存も、その問題と無関係ではないように思います。よく読んでみれば、砕かれるのは10節では「骨」であり、19節では「心」です。どちらかだけではありません。心だけでも体だけでもない。外面だけでも内面だけでもない。

 犠牲の限界

 罪の解決は一人で勝手にできることではないし、それは心の問題だけではないと言いました。罪を犯した相手に対して償いをしなければ終わらないことなのです。しかし、私たちの罪の究極的な相手は神様です。その神様に対して、私たちはどういう償いができるのでしょうか。できないのです。動物の犠牲を捧げたところで、それが形ばかりのものであれば、むしろ神様の怒りを招くのだし、そもそも動物が完全に人間の罪を負えるのかも疑問です。
 だからこそ、神様は罪人に罪を知らせる。憐れみを与えることで、恥を知らせる。自己を嫌悪することを教える。そのことを通して、私たちの心を打ち砕く。

 神の義

 しかし、それだけではないのです。罪人が償えない罪をご自身が犠牲を出すことによって、償いとしてくださったのです。
 私たちは詩編にしろ、エゼキエルにしろ、その時代の中でどういう語りかけであったのかを知る必要があります。しかし、それと同時に、その語りかけが、今に生きる私たちにとってどういうものであるかを知る必要があります。詩編51編の理解は、エゼキエル書を読むことで深まります。それと同じように、旧約聖書の理解は新約聖書を読むことで深まり、旧約聖書が目指しているものが何であるかを見い出すことができるのです。
 私が51編を読んで思い起こす言葉は、パウロの言葉です。彼は、ローマの信徒への手紙3章でこう言っています。

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。   (ロマ書3:23〜25)

 罪なき神の独り子であるイエス・キリストが、罪人の罪を償う供え物として捧げられる。神様の憐れみの心は、独り子を十字架の上に捧げるという具体的な形をとるのです。詩編51編の最後に出てくる「焼き尽くす完全な献げ物」とは、「世の罪を取り除く神の小羊」としてのイエス様を、はるかに望み見ている言葉だと思います。そして、神様はこのイエス様の十字架の死を通して、断固として罪を裁く義をお示しになり、かつその裁きを通して罪人の罪を赦し、信じる者を義としてくださる愛を示してくださったのです。その義と愛、義の中に込められた愛、愛の中に貫徹されている義を知った時に、私たちの頑なな心は初めて打ち砕かれるのです。こなごなに割れていく。それまでの自分が崩壊するのです。それが、枯れた骨であり墓の中にいる人間ということです。
 私たちがこれから与る聖餐の食卓、それは私たちの罪の赦しのために裂かれた神の小羊の体と流された血に与るということです。神様が、私たちを新しく立ち上がらせるために捧げてくださった犠牲を、心からの悔い改めと感謝をもって頂くのです。そして、この「御救いの喜び」を賛美するのです。キリスト者こそ新しいイスラエルの民なのであり、教会は新しいエルサレムであり、その礼拝こそ再建された神殿なのです。

 キリスト者の姿

 神様は、今日も説教と聖餐を通して私たちの心に語りかけ、新しい聖なる霊を心に送ってくださるのです。私たちの罪の汚れを洗い清め、その心を清いものに造り替えてくださるのです。だから、私たちはこの礼拝において神の御顔を拝し、悔いし砕けた心をもって神を喜び、賛美することができる。そして、これからの一週間もまた、イエス・キリストにおいて示された神の義を証することができる。信仰をもって生きること自体が証です。そこに罪の赦しによって新しい人間に造り替えられた私たちキリスト者の姿がある。神様に感謝し、賛美せざるを得ません。
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