「自分を滅ぼすものを力と頼む愚」

及川 信

       詩編 52編 3節〜 11節
52:3 力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。
神の慈しみの絶えることはないが
52:4 お前の考えることは破滅をもたらす。
舌は刃物のように鋭く、人を欺く。
52:5 お前は善よりも悪を
正しい言葉よりもうそを好み
52:6 人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。
52:7 神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。
お前を天幕から引き抜き
命ある者の地から根こそぎにされる。
52:8 これを見て、神に従う人は神を畏れる。
彼らはこの男を笑って言う。
52:9 「見よ、この男は神を力と頼まず
自分の莫大な富に依り頼み
自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」
52:10 わたしは生い茂るオリーブの木。
神の家にとどまります。
世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。
52:11 あなたが計らってくださいますから
とこしえに、感謝をささげます。
御名に望みをおきます
あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い
あなたの御名に。

 預言者

 先週、私たちはルカ福音書におけるイエス様の言葉を聴きました。預言者はいつも迫害を受け、時には殺されてしまう。そういう言葉がありました。そこでイエス様がおっしゃる「預言者」はとても広い意味でしたけれど、預言者が人の罪を指摘し、悔い改めを求める人間であることは変わりありません。そういう預言者が人々から好かれるはずもありません。特に王や貴族、また不正な取引をしつつ巨万の富を蓄えている商人たちにしてみれば、一刻も早く抹殺しなければならない危険な存在であることはいつの時代でも変わりありません。

 アモス

 アモスという預言者がいます。彼は羊飼いだったのに、ある時突然神の召しを受けて預言者にされてしまった気の毒な人です。(預言者は皆、気の毒な人ですけれど。)彼はあくどい商人たちに向けてこう言います。

このことを聞け。貧しい者を踏みつけ
苦しむ農民を押さえつける者たちよ。
お前たちは言う。「新月祭はいつ終わるのか、穀物を売りたいものだ。安息日はいつ終わるのか、麦を売り尽くしたいものだ。エファ升は小さくし、分銅は重くし、偽りの天秤を使ってごまかそう。弱い者を金で、貧しい者を靴一足の値で買い取ろう。また、くず麦を売ろう。」
主はヤコブの誇りにかけて誓われる。
「わたしは、彼らが行ったすべてのことを
いつまでも忘れない。」
(アモス8:4〜7)

 穀物や貨幣の重さを量る秤を自分たちの都合のよいものに作り替えてしまえば、不正な利益をあげることが出来ます。彼らの不正の故に極貧に落ち、借金を返済できない農民は「靴一足」の値で自分を売って奴隷になるしかありません。買った者はその何倍もの値段で他の者に売る。そういう人身売買が、神の民イスラエルの中で公然と行われていたのです。主は「彼らが行ったすべてのことを、いつまでも忘れない」とおっしゃいます。

 欺く舌

 私は、来週の3月11日に仙台で東日本大震災三周年記念礼拝に出席した後に、石巻山城町教会と福島教会の聖研祈祷会で奨励をさせていただくことになっています。昨年も、この時期に両教会を訪ねさせて頂きました。送りだしてくださる皆さまに、心から感謝致します。
 昨年は、なるべく海岸線を走るようにして車で行きました。福島第一原発が近づくに従って、人が住んでいない家が多くなりました。人々は、もうそこに住むことが出来ないのです。周囲の田畑には汚染土を入れた大きな黒い袋が無数に置かれていました。あれから一年経って、どれだけの袋が山積みされているか分かりません。でも、今も放射能汚染が続いているとすれば、それは空しいことのように思います。あの地で、田畑が耕されることはないと思います。
 「原発で作りだされる電気は安全で廉価でクリーンなものであり、原発を誘致すれば雇用が増え、補助金もあり、良いことだらけだ」という政治家たちの宣伝文句を信じて原発を誘致した人々の思いは、どんなものなのでしょうか。もちろん、同じ地域に住んでいた人であっても賛成、反対の立場は様々です。しかし、その立場とは無関係に強制避難と自主避難を余儀なくされている人々がいます。今、私たちの国は、政治家が選挙に利用することはあっても、その人たちの現実とは無関係に動いているように思います。
 昨年は、汚染地域の入り口の通行止めになっている場所まで行きましたが、その場所でマイクロバスとすれ違いました。バスには、白い防護服に身を包んだ作業員の方が乗っていました。危険な現場に向かう人の多くは流れ者の作業員であり、何らかの意味で生活に逼迫した人たちでしょう。誰も好き好んでそういう現場に行くはずもありません。そして、昔も今も、そういう人たちを調達して現場に送る組織に闇社会に属するものがあることは公然の秘密だと言われます。作業員の方たちに被曝線量の正確なデータが知らされないまま、働かされるということも既に起こっています。
 昔から東北の貧しい地域の人々は都会で出稼ぎをしなければならず、危険な労働をしてきました。豊かさの陰にはいつでもそういう人々がいます。繁栄のために必要だから、意図的にそういう人々を作り出していると言うべきかもしれません。オリンピック開催に伴う大規模な工事や中渋谷教会も組み込まれている再開発事業も、今言ったことと無関係ではないはずです。人材、資材などがこちらに流れることで被災地に悪影響が出ないことを願うばかりです。

 変わることのない人間の罪

 聖書を読んでいて思うことの一つは、人間の罪の強さです。あるいは、人間の愚かさの変わりなさです。最近の国の内外のニュースを見ても嘆息をつくしかない思いがします。皆さんも同様なのではないでしょうか。
 次回ご一緒に読むことになるであろう詩編53編には、こうあります。

神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。
人々は腐敗している。
忌むべき行いをする。
善を行う者はいない。
(詩編53:2)

 この詩が紀元前何世紀に作られたものかは知りませんが、パウロはローマの信徒への手紙の中でこの詩編を引用しています。パウロが生きた時代の人間の現実として、です。私が今、説教の中で引用する時も、パウロと同じ立場で引用するのです。今も「人々は腐敗している。忌むべき行いをする」と。その事実は、二千年以上少しも変わることなく存在しています。

 人間は変わり得る

 しかし、詩編52編では、悪事を誇る「力のある者」と神の慈しみに依り頼む「神に従う人」の対比があります。すべての人が腐敗している訳ではない。
 先天的に、そして生涯変わることなく「神に従う人」もいないし、一貫して悪事を誇る「力ある者」もいないのです。人はいつでも、どちらにでもなれるのです。「神などいない」と言って悪を行ってきた人が悔い改めて神に従う人になる場合もあるし、信仰に生きていた人が「神などいない」と言い始めることだってある。52編を読む時は、そのことを覚えておかないといけないと思います。もちろん、私たちは神に従う者になりたいという願いをもって読むのだし、神に従う人が書いたこの言葉から、神様の今日の語りかけを聴き取っていくのです。

 英雄たち  人

力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。
神の慈しみの絶えることはないが
お前の考えることは破滅をもたらす。
舌は刃物のように鋭く、人を欺く。
お前は善よりも悪を
正しい言葉よりもうそを好み
人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。

 「力ある者よ」
と訳された言葉は、他のところでは「勇士」とか「英雄」と訳されたりします。最初に出てくるのはノアの洪水物語が始まる創世記 6章 4節です。そこでは、「大昔の名高い英雄たち」として出てきます。「英雄たち」とはこの世の権力者たちのことであり、彼らの横暴が世に満ちている現状が暗示されています。
 でも、続きはこうです。

主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。(創世記6:5〜6)

 聖書は、「名高い英雄たち」の罪を厳しく指摘します。でも、その直後では「人の悪」と言って、その罪を特定の身分や階級の人々の特色とはしません。誰でもその立場に立てば、同じことをし得るからでしょう。そのことを覚えておくことは大事なことだと思います。

 なぜ悪事を誇るのか

 「なぜ悪事を誇るのか」とありますが、それはその人が自分のしていることを悪事だと思っていないからでしょう。
 大国に押し潰されそうな弱小国が富国強兵策をとることは、ある意味、当然の成り行きでそれを悪事だと思う人は多くないと思います。しかし、その政策を強力に推し進めるためには中央集権化するしかありません。そのためによく使われる手段は権力者を神格化し、国民を臣民とした忠君愛国体制を作ることです。その裏で、人はすべて平等であることを教える宗教や思想を弾圧することが必要になります。
 国が経済的に豊かになり、軍事的にも強くなることが善であるとすれば、その善を達成するための犠牲も善となるし、その価値観に疑義を唱える者は悪とされるのは当然の成り行きです。
 だから、預言者は常に弾圧され殺されてきたと、主イエスはおっしゃるのです。神の国は、富国強兵とは全く相容れないものだからです。しかし、残念ながら、いわゆるキリスト教国の人々も、そのことを全く理解していないことが多いのです。彼らも自らの力で神の力を現そうとする。現せると思っている。それは悪事を誇ることであり、人を破滅に落とすことだと思います。

 審判預言

 詩編52編には、そういう現実に対する審判預言の響きがあると学者は言いますが、その通りだと思います。
 彼は、大胆にも「力ある者たち」に向ってこう告げるのですから。

神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。
お前を天幕から引き抜き
命ある者の地から根こそぎにされる。

 これは明らかに審判の預言です。神以外のものを恐れない人間の言葉です。それは、数年後には必ずそうなるという「予言」ではなく、警告であり悔い改めの招きです。アモスは王侯貴族や商人たちの不正を責め、国が滅びることを告げましたが、それは変わることなき運命を告げたのではありません。責められた人間が、罪を悔い改めれば回避できることだったのです。アモスも、それを願っているのです。しかし、現実には悔い改めは起こらず、結局、北王国イスラエルはアッシリアによって滅ぼされていくことになります。南王国ユダも、エレミヤなどの預言者から繰り返し悔い改めを呼びかけられましたけれど、王も庶民も耳をかさず、彼を迫害し、結局バビロンに滅ぼされることになりました。
 けれども、審判預言は審判をしたい神の思いの表れではなく、悔い改めて欲しいという神の願いの表れであることを、私たちは覚えておくべきだと思います。

 笑いの目的

 続く 8節 9節も、その線上の言葉として読んで良いのではないかと思います。

これを見て、神に従う人は神を畏れる。
彼らはこの男を笑って言う。
「見よ、この男は神を力と頼まず
自分の莫大な富に依り頼み
自分を滅ぼすものを力と頼んでいた。」

 自分が「力ある者」「勇士」「英雄」と思っている者は、笑われることが何よりも嫌なものです。そういう人々は、人々から畏れられること、畏敬の念をもって見られることを好みます。冒頭の「力ある者よ」という呼びかけも、彼らがそのように呼ばれたがっていることを皮肉ったものかもしれません。莫大な富に依り頼む愚かさを、シニカルに暴いているような感じがします。でも、その目的は、冷笑しながら彼らを断罪することではなく、自分を滅ぼすものを力と頼む愚かさに気付かせることです。

 ルカ福音書における富

 私たち人間は、古代から今に至るまで「富」を求め、「富に依り頼む」ことを止めません。もちろん、富は必要です。聖書においても、富は神様の祝福として描かれます。富そのものが問題ではありません。「富に依り頼む」ことが愚かだと言っているのです。
 私たちが何年も読み続けているルカ福音書は、他の福音書に比べて、富に依り頼むことの愚かさを語る福音書だと思います。そして、御国においてはこの世の上下関係が逆転することを語り、私たちキリスト者は信仰において既に御国に生かされつつあることを、イエス様が何度もお語りになるのです。  12章13節以下で、イエス様は「愚かな金持ちのたとえ」を話されます。いくら財産を溜めこんでも、明日死ねばその財産は誰のものになるのかとおっしゃった上で、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならなければ」意味はないとおっしゃいます。その先には、有名な「何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。ただ、神の国を求めなさい」という言葉があります。ルカ福音書の場合は、その先に「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」という言葉が続きます。絶えず眼差しが天に向けられていくのです。
 16章には、ある金持ちと極貧の中に死んだラザロという人の譬話があります。ラザロは全身ができものだらけなのです。それだけでも惨めなのですけれど、彼は金持ちの家の門前に横たわり、その食卓の残飯を食べたいと願っていました。でも、その願いはかなえられず、犬にできものをなめられるという悲惨な人生を送って死ぬのです。その後、金持ちも死ぬ。金持ちは陰府でさいなまれる日々を送ります。目を上げると、ラザロがアブラハムと共に宴席に付いているのが見えるのです。彼はびっくりして、アブラハムに理由を尋ねます。アブラハムは、地上の秩序と天上では逆になると答えます。金持ちは、それでは地上にラザロを遣わして、地上に残っている兄弟たちに「こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。・・・・死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」と願います。でもアブラハムは、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と答えるのです。聖書に記されている神の言葉を聞いて悔い改めるか否か、富に依り頼む生き方を止めるか否か、そこに人間の救いは掛かっているのです。
 イエス様の譬話も、語られている現実がそのまま起こると考える必要はありません。語られている目に見える現実と、語られているリアリティは別です。
 これらの譬話を通して、イエス様は神こそが依り頼むべき方であるとお語りになっています。この世でどれ程の権勢を誇ろうとも、また莫大な富を誇り、その富に依り頼んでも、そのこと自体が自らを滅ぼすことになる。そのことに気づかない。神様がモーセを通して律法を与えても自分に都合のよい解釈をし、預言者を通して語りかけても聴く耳をもたず、むしろ耳を塞ぎ、預言者を迫害する。そして、ついにイエス様を抹殺しようとする。その様にして、自らを滅ぼしていく。その様を見て激しく心を騒がせ、悲しむイエス様の心があるのです。そのリアリティに触れなければなりません。

 神の慈しみ

 詩編52編で語られている「神の慈しみ」は、そのリアリティを暗示する言葉だと思います。

わたしは生い茂るオリーブの木。
神の家にとどまります。
世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。
あなたが計らってくださいますから
とこしえに、感謝をささげます。
御名に望みをおきます
あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い
あなたの御名に。

 「オリーブの木」
は豊さとか平和とか、神様の祝福の徴のように思います。詩編1編には流れの辺に植えられて、そこに立ち続ける木は、時が来れば豊かに葉を茂らせる様が描かれていました。それは神の言葉を聞き続け、日々口ずさむようにして生きている人に与えられる救いの象徴です。
 「神の家」は神殿のことであり、私たちにとってはこの礼拝堂のことです。この礼拝堂にとどまるとは、これからもずっと神様を礼拝し続けて生きることです。世々限りなく神の慈しみにのみ依り頼みつつ生きていきます、と告白しているのです。

 あなたがなしてくださったから

 新共同訳聖書では、「あなたが計らってくださいますから、とこしえに、感謝をささげます」となっています。直訳では「あなたがなしてくださったから」です。彼のために善きことをこれからもしてくださるからというのではなく、既に「なしてくださったから」です。何をなしてくださったのかは明示されません。
 この詩の中に限定して考えるとすれば、それは 7節のことを指すと考える他にないように思いますし、注解書の解釈も概ねそういうものです。神様が悪事を誇る者たちを、命ある者の地から根こそぎにされた。その裁きの様を見て、神に従うわたしは神を畏れつつ、神を力と頼まなかった者たちを笑い、これからも神の慈しみに依り頼むことを誓い、神に感謝(賛美)を捧げ続ける。そういう信仰を告白している。そう考えるのです。
 そうかもしれません。先ほども言いましたように、アモスやエレミヤの審判預言は、それを語らせた神様の願い、また語った預言者の願いとは裏腹に、やはり実現していったのです。王たちも民衆も悔い改めなかったからです。その裁きを神様のなさったこととして見て、神を畏れ、また賛美する。そういうことは現実にあると思います。
 一時期は莫大な富を誇っていた者があっけなく転落する。そういうことは、今の世でもあります。その現実の中に神様の審判を見て、自分はこれからも富に依り頼まず信仰に生きようと決意する。それは、神様に喜ばれることだと思います。

 異なる現実

 しかし、それとは異なる現実もある。むしろ正反対の現実もあるように思います。つまり、人を破滅に落とす言葉を語る者、欺く舌を好み、悪事を誇る力ある者たちは、世の終わりまで根こそぎにされることはない。「神などない」と嘯く彼らこそが、神に従う者を笑いつつ、「見よ、この男は神を力と頼んでいた。それなのに、神の助けを受けることなく自ら滅んでいく」と言う。そういう現実こそが、この世の現実なのではないか。
 そんなことを思いながら詩編52編を読み返してみると、主イエスの十字架の場面が思い浮かんできました。そこにはこうあります。

議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(ルカ23:35)

「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」 (マタイ27:42〜43)

 神に頼っていても、いや神に頼っていたからこそ、この世では悲惨な歩みが続き、最後は嘲笑の中を死んでいく。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈りつつ死んでいく。そういうことがあります。しかし、イエス様は神様に縋り続けられたのです。神様の慈しみに依り頼まれたのだし、私たち罪人に対して神の慈しみを与えてくださる方になってくださったのです。それは、復活を通して示されることですが、それもまた信じる者たちにとってのリアリティなのです。

 十字架の場面

 イエス様は、神様からの助けが来ない十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださいました。イエス様は、自分に対する助けを求めたのではなく、私たち罪人のための助け、真実の救いを求めてくださったのです。その姿を見た犯罪者の一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵りました。しかし、もう一人は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」と言いました。人は誰でも同じではないのです。
 彼は、それまでは自分の力を誇り、悪事を善事と思って誇って生きてきたのでしょう。私たち愚かな人間は、自分が何をしたかは後から分かるものです。そして、自分を滅ぼすものを力と頼んでしまったことに気づいても、既に遅いということがあります。でも、彼は幸いなことに「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願うことが出来ました。彼の願いは、「十字架から降ろしてください」ではありません。「人生をやり直させてください」でもない。処刑によって死ぬことは、罪に対する罰として受け入れる。しかし、罪人の罪が赦されることを神に乞い求めつつ自分たちと同じ十字架の上で息を引き取ろうとしておられるイエス様を見て、彼は罪の赦しを求めたのです。彼は十字架の上で悔い改めた。そして、主イエスが神の国に入る時に、自分のことを思い起こしてほしいと願ったのです。
 人から見れば、もう手遅れです。また、富に依り頼むという価値観から見れば、その願い自体が意味のないことです。
でも、イエス様はこうおっしゃいました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)

 この言葉を聞いたその時、犯罪者は既にそのことが実現した感謝と賛美に満たされたと思います。信仰とはそういうものなのです。イエス様はある所で、「神を信じなさい。……祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」とおっしゃいました。またヘブライ人への手紙には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とあります。

 信仰に生きる

 私たちの目に見える現実は、力ある者が悪事を誇り、人を破滅に落とす言葉を語る者、欺く舌を好む者が権勢を誇っているのです。今も、まことしやかに「国のために命を捨てることがいかに美しく尊いことか」という言葉が語られます。特攻隊を美化する言葉もあります。若者たちを騙して人殺しをさせ、また死なせるという醜い行為を隠蔽して美化するのです。そういう「欺き」「嘘」がこの世には満ち満ちています。そして、莫大な富に依り頼む者たちが神に従って生きる者たちを嘲笑い、また弾圧しているのです。
 でも、神様は世の初めから終わりまで罪人を慈しみ、語りかけ、悔い改めを待っていてくださいます。その神様を信じて、望みをもって礼拝し続ける者は、神様によって豊かに祝福され、御国に招き入れていただけるのです。そのことを今既に確信し、確認しつつ信仰に生きる。そのことにおいて、この世における預言者としての使命を生きる。踏みつけられても地の塩の味を失わず、闇がどれ程深くても世の光としての光を失わずに生きる。それが、私たちキリスト者に与えられた恵みであり使命なのです。そして、その使命を生きるためになくてはならないのはこの礼拝でしょう。この礼拝を通して命の御言、命の霊を与えていただかなければ、私たちはあっという間に欺きと嘘の世に埋没します。するしかないのです。
 イエス・キリストの十字架と復活を通して、神様は既にその御業をなしてくださいました。悪事を誇る者たちの赦しのためにもイエス様は十字架に掛かって死んでくださり、彼らが新しく生きることが出来るために復活してくださったのです。そこに神様の裁きがあるのです。その愛と赦しこそ神の国のリアリティなのです。神様は、これからも聖霊を通して神の国の完成に向けてその御業をなしてくださいます。
 私たちは、その御国を目指して生きる者たちであり、これから与る聖餐の食卓は御国の到来を確信し、そして確認する食卓なのです。心からの感謝と賛美をもって慈しみの食卓を祝いたいと願います。
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