「大いに恐れるがよい」

及川 信

       詩編 53編, ローマの信徒への手紙3章9〜12節,21〜26節
53:2 神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。
53:3 神は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
53:4 だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。
53:5 悪を行う者は知っているはずではないか/パンを食らうかのようにわたしの民を食らい/神を呼び求めることをしない者よ。
53:6 それゆえにこそ、大いに恐れるがよい/かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を/神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。 53:7 どうか、イスラエルの救いが/シオンから起こるように。神が御自分の民、捕われ人を連れ帰られるとき/ヤコブは喜び躍り/イスラエルは喜び祝うであろう。

3:9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。3:10 次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。
3:11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。
3:12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」

3:21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 お天道様は見ている

 私が小さかった頃は、大人が子どもをしつける時に、「お天道様は見ているんだよ」とよく言ったものです。人は見ていなくても、お天道様は見ている。つまり、神様は見ている。だから悪いことをしてはいけないということです。私は、含蓄のある言葉だと思います。「お天道様などいない」と思い、「お天道様が見ている」なんて嘘っぱちだと思えば、あるいは分かってしまえば、恐れるものは人だけになります。それも警察とか検察とかいう、悪事を犯した人間を捕まえて、裁く人だけということになりかねません。警察が見ていなければ、また警察に見つからなければ、何をやっても良い。そういうことになる。それが極端に突き進むと、まさに神をも恐れぬ所業をすることになる。実際、そういうことは幾らでもあります。
 また、国が戦争を始めれば、「人を殺すことは悪だからしたくない」と言って徴兵を拒否すれば罪人として逮捕されて裁かれます。正義と悪は国が決めるのです。しかし、その正義と悪は、戦争に勝ったり負けたりすることで、あっけなく逆転します。その程度の基準で、人が人を裁くことがあるのです。恐ろしく、また愚かしく、まさに神をも恐れぬ所業だと思います。
 神をも恐れぬ所業ということで言えば、恨みとか欲望のゆえに、ある人を長期間監禁し奴隷的に扱い、役に立たなくなると殺してしまうという恐るべき犯罪が時たま起こります。監禁された人は、恐怖と絶望で精神がズタズタに傷つけられていきます。そういう傷を与えた者の罪は重いのです。同じ人間を支配し、征服し、凌辱する罪は重い。さらに殺してしまえば、それはとてつもなく重い罪になります。その罪に対する刑罰は重いし、そうであるべきでしょう。

 人間による裁き

 しかし、最近、一家皆殺しを疑われた人が、48年間も死刑囚として拘置所の独房に拘禁され続けるということが起こりました。その犯罪は、物的証拠が乏しくて、通常なら有罪にできないものだったようです。しかし、検察は容疑者を連日深夜に及ぶ取り調べを密室で続け、「自分がやりました」と自白させたと言われています。裁判所に提出された証拠も検察側がねつ造したのではないかと、今は疑われています。そもそも、六百点にも上る証拠が、これまで検察によって開示されてこなかったことに驚きました。その中には、被告が無罪であることを暗示するものがあったのに、いやそうであるが故に、それらのものは裁判所に提出されなかったのです。現在の日本の司法制度では、何を証拠として提出するかは検察の判断に委ねられているのだそうです。
 本来、裁判は、検察側と弁護側とが対峙しつつ、可能な限りの証拠や証言を集めて、何が事実であるかを究明する場であるはずだし、あるべきだと思います。そこで明らかになった事実に基づいて、裁判長から判決が言い渡されなければならないはずです。しかし、元最高裁の判事だった方によれば、実際には検察側のストーリーに従って証拠が出され、証言者が集められ、二審三審では既に提出されている証拠や証言記録を吟味するだけなので、再審請求がなされても棄却されることが多いし、審議されたとしても一審判決が覆ることは滅多にないのだそうです。覆ると報道されるほど珍しいのです。
 もし、容疑者の逮捕が誤認逮捕であり、起訴が不当であり、そこに提出された証拠が捏造であり、その証拠に基づいて出された死刑判決が誤審であり、無実の人が48年間も死刑の執行に怯えつつ独房に拘束されたのだとすれば、誰が責任を取り、誰が罰を受けるのでしょうか。警察官も検察官も裁判官も、誰もその恐るべき事実に対して責任を取る必要はないのです。
 不当逮捕、不当拘禁が犯罪でないのであれば、仕事の実績をあげるために疑わしき者を犯人に仕立て上げ、有罪判決を勝ち取って裁判を終わらせようという気持ちが働くと思います。もし、そういう動機で犯罪者が仕立て上げられ、さらに死刑囚が仕立て上げられるのであれば、それはまさに神をも恐れぬ所業、悪行だと、私は思います。しかし、そのことに関わった人は、すべて公務を執行したのですから法によって裁かれることはありません。法の番人の側に立つ人が法に従って仕事をしたのですから。
 反対に、誤認逮捕とか誤審が犯罪と見做されて裁かれることになると、今度はそのことを恐れる心理が働いて、逮捕すべき人物、起訴すべき人物を逮捕したり起訴することをためらい、判決を出すことも恐ろしくてできないという結果をもたらしかねません。それはそれで、悪人が巷に跋扈することになりかねません。
 人を悪人、罪人として裁くことは、これほどに難しく、厳しいことなのです。裁くことは、神の業の代行だからです。しかし、私たちは神ではありません。すべてを見て知っている訳ではありません。時代によって変わる法の下に生きている相対的な存在に過ぎないのです。しかし、そのことを深く意識している人は少ないと思います。裁く側は、公権力に守られた安全地帯におり、極めて限られた証拠や証言に基づいて判決を下すことに慣れてしまっていると思います。
 どんな仕事でも熟練することは必要です。でも、慣れることは腐敗をもたらします。私たち牧師も、説教することに慣れたらお終いだと思いますし、信徒も、説教を聞くことに慣れることは腐敗の始まりです。人間関係も慣れ合うことは堕落の始まりでしょう。
 それにしても、容疑者が無実であった場合、その人を48年間もの長きにわたって拘禁することは取り返しのつかない犯罪だと思います。これまでも冤罪で死刑判決を受けてしまった人もいるし、無実を証明できないまま、顔を見たこともない法務大臣の判断で処刑されてしまった人は何人もいるのでしょう。その場合、真犯人はどこかにいるわけです。その人は、自分の身代りに他人が裁かれ、長期間拘禁され、ついに死刑になったことを知る時にどういう思いになるのでしょうか。安堵するのでしょうか。大いに恐れるべきではないでしょうか。すべてのことを、神様は見ているのです。そして、最終的には神様が正しい審判をされるのです。その事実を思う時、私たちは誰だって心に恐れを抱かざるを得ないのではないでしょうか。

 神を知らぬ者

 詩編53編は、僅かな字句の違いを除けば14編と全く同じ詩編です。14編を読んだのは二年以上前ですから、心新たに御言葉に聴いてまいりたいと思います。

神を知らぬ者は心に言う
「神などない」と。
人々は腐敗している。
忌むべき行いをする。
善を行う者はいない。

 「神を知らぬ者」
は、原語ではナーバールと言います。ナーバールには「愚か者」という意味があります。しかし、この世における「愚か者」と聖書の中の「愚か者」とは全く違います。
 先週、私たちはルカ福音書のイエス様の譬話を読みました。金持ちの農民が、大豊作の年に大きな倉を立てて穀物を貯蔵し、当分は楽に暮らせることを喜ぶという譬話です。豊作の時に無駄使いをせずに貯蓄をすることは、愚かなことではなく、むしろ賢明なことです。でも、神様は、その金持ちに向って「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」とおっしゃる。イエス様にしてみれば、神様との関係を抜きに生きることは、世間的にはどれほど賢くとも愚か者のすることなのです。

 主を畏れる知恵

 愚か者とは、知恵がない者のことです。聖書の中で評価される知恵とか知識も、この世で評価されるものとは全く違います。旧約聖書に「箴言」という書物があります。文学類型としては、ヨブ記やコヘレトの言葉などと共に知恵文学に入ります。その箴言の1章7節に、こういう言葉があるのです。

主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

 主を畏れること、それが知恵の初めです。その畏れなくしてすることは、人からはどれ程賢く見えるものであっても、神様からは愚かに見えるのです。つまり、自分にとって損であり、身を滅ぼすことなのです。詩編53編の言葉で言えば、知恵がない行いは「腐敗」であり、「忌むべき」ものであり、「善」ではありません。
 最近、アメリカの奴隷制度や今なお残る黒人差別に関するいくつかの映画が上映されています。アフリカから動物狩りのようにして捕えられ、連れて来られた人々は、主に南部の綿花畑で酷使されました。農場主にとって、奴隷は金を払って買い取った財産であり所有物なのです。だから、何をしても良い。女性を暴行しても裁かれないし、ちょっとした口ごたえをした者を裸にして木に縛り付けて鞭を打っても裁かれないし、逃亡を図った奴隷を森の中で首つりにして殺しても何の問題もありません。ある農場主は、気に入らないことをした女性を裸にして、その背中をズタズタに切り裂くように鞭を打ちながら「自分の玩具を弄ぶことほど楽しいことはない」と言って憚りません。そして、彼がやっていることは、当時の法律では正しいことなのです。法律は、支配者がその支配を強化し、自分たちの地位を安泰にするために制定されることもあるのです。
 皮肉なことに、そういう恐るべきことをする白人たちは例外なくクリスチャンです。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とおっしゃる主イエスを信じ、従っていることを自負する人々なのです。そして、自分たちは文明人だと思っている。日曜日には、奴隷たちを集めて家庭礼拝をして、聖書を教えるのです。ある農場主は、その礼拝の中で、「民は主に従うべきだ」という聖書の言葉を読み聞かせます。でも、その時の「主」とは農場主である自分のことなのです。民は奴隷であって、自分は入らない。最後に「これは聖書が命じていることだ」と言ってニヤリと笑って説教を終えます。そういう家庭礼拝が至る所で神の名によって捧げられていたことは事実でしょう。実に暗澹たる気持ちになります。
 アフリカから未開人として連れて来られた黒人は、当時の白人が愛すべき隣人ではないのです。黒人は、そういう白人たちによって聖書の言葉を聞かされ、深い絶望の淵から神を呼び求め、救いを求める黒人霊歌を生み出し、それがゴスペルという讃美歌になっていったのです。そして、マルティン・ルーサー・キング牧師のような人が生まれてくるのです。暴力に対して暴力を使わず、憎しみに対して憎しみで応答せず、信仰と希望と愛をもって対抗する人間は、人間扱いされない苦しみの中を生き続けた人々なのです。神様のなさる業の不思議を思います。

 神などない

神を知らぬ者は、心に言う
「神などない」と。

 これは、「神は自分だ」ということです。自分が神になる。自分がお天道様になる。そんなことはあり得ないのだけれど、あり得ることと錯覚する。誤解する。そういうことは、実はよくあることです。それが罪の手口だからです。
 元来、神を知らぬ人たちがそう思うことは驚くに値しません。しかし、聖書は神の民であるイスラエルに向けて書かれているのです。イスラエルとは、神と出会い、神を畏れ、神を礼拝し、神に従うべき民です。しかし、その民が、今や神を知らぬ「愚か者」になっている。だから、その人々のすることは「腐敗」と呼ばれ、「忌むべきこと」と呼ばれるのです。そして、自分では「善」をしているつもりで凄まじい悪行をしている。神を知っていると思っている者がそういうことをする時、その腐敗はより凄まじいものになります。だから、私たちキリスト者は恐れざるを得ません。神の名を語りながら、自分の欲望や願望の実現を正当化してしまうことが、私たちにはあるからです。そういう罪は、私たちキリスト者しか犯せないのです。

 見渡す神

神は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。
皆ともに、汚れている。
善を行う者はいない。ひとりもいない。

 神様の眼差し、また心を思うと胸が痛みます。ここに出てくる「見渡す」という言葉は、暴虐が満ち溢れているソドムの町を神が見渡す時に使われる言葉です。イスラエルの父祖であるアブラハムは、その町に十人の正しい者がいれば、その十人のためにソドムへの裁きを思い留まって欲しいと、神様に祈ります。神様は、アブラハムの願いを聞き入れます。でも、ソドムにはその十人がいませんでした。それを知って神様は、その町を滅ぼされました。そこに大きな悲しみがあります。
 しかし、アブラハムの信仰の故に、彼の親族であるロトとその娘たちは助け出されます。その後、アブラハムは神に願った高台の上から、滅ぼされたソドムの町を見渡す。その場面にも「見渡す」という言葉が出てきます。
 この時のアブラハムの心中も、考えれば考えるほど痛切なものです。神様にしても、滅ぼすことを願っている訳ではありません。しかし、人間がその錯覚によって暴虐と悪行の限りを尽くして自滅する様を、神様は黙って見ている訳ではないのです。それは、ノアの洪水物語を見ても分かります。心に思い計ることがいつも悪であるのに、悔い改めを拒み続ける者たちを、神様は裁きます。しかし、ノアの時は彼の家族を救い出し、新しい時代を生きる者としてくださいました。神の裁きの中にはいつも救済があります。滅ぼすことが目的ではないからです。

 大いに恐れるがよい

 この詩編53編は、論理的に考えると訳が分からなくなる面がありますけれど、「神を呼び求めることをしない者」とは、「神などない」と心に思う者のことです。そういう者にとって、弱い立場の人々は自分の食物と同じなのです。食べたいだけ食べて、飽きれば捨てるだけです。人間をそのように扱う。そこに神への恐れなど微塵もありません。しかし、そのこと自体が恐るべきことです。

それゆえにこそ、大いに恐れるがよい かつて、恐れたこともなかった者よ。

 これは作者の言葉ですけれど、神の言葉だと言ってもよいでしょう。なぜ恐れなければならないのかと言えば、神が、そういう者の「骨をまき散らし」、「退けられる」からです。人間の世界では君臨していても、神の前からは退けられてしまうのです。こんなに恐ろしいことはありません。
 「退けられる」(マーアス)とは軽蔑する、嫌悪する、拒絶するという意味を持つ言葉です。そのギリシア語訳であるエクスオーデノーという言葉が新約聖書に一回だけ出てきます。それはマルコによる福音書9章12節です。
 イエス様が十字架の死と復活を預言された後、弟子たちは、最後の審判に関してイエス様に質問するのです。ユダヤ人は、終わりの日にかつての大預言者エリヤが審判者として到来すると信じており、律法学者もそう言っていたからです。最後の審判で、神様に受け入れられるか退けられるかは、人間にとって最大の問題ですから。
 その点に関して弟子たちが質問すると、イエス様はこうお答えになりました。

 「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」(マルコ9:12〜13)

 「人の子」とは、イエス様ご自身のことです。イエス様は、ご自身の先駆者であるバプテスマのヨハネが最後の審判の前に到来するエリヤであった、と暗におっしゃっているのです。彼は、すべての人々に悔い改めを求めました。善を行う者が一人もいないからです。だから悔い改めを求めたのです。当然のことながら、ユダヤ人の宗教的権力者たちは彼を嫌います。自分では善を行い、正しいことを行っていると思っているからです。また王も彼を嫌って、結局、彼を惨殺しました。裁判で裁いたのではなく、酒の席の余興としてヨハネの首を切らせたのです。恐るべきことですが、自分が神である人間はこういうことをするものです。  ヨハネに続く形で神の国の宣教を始めたイエス様は、「人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてある」とおっしゃいます。この「辱めを受ける」が、「神は彼らを退けられ」「退ける」と同じ言葉です。イエス様は、この世において退けられ、辱めを受けるのです。神を恐れぬ悪行の故に神から拒絶される人々に対する言葉が、イエス様の苦難に関して使われることの意味は深いと思います。

 神への畏れがない

 今日は、新約聖書のローマの信徒への手紙3章の言葉を読みました。そこでパウロは、詩編14編(53編)を引用しています。ユダヤ人は、自分たちは神の民であり、神に従って善を行っており、ギリシア人を初めとする異邦人は道に迷っている罪人だと見做していました。しかし、パウロは、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」と言った上で、詩編を引用するのです。「正しい者はいない。一人もいない」と。それは恐るべき断言です。容赦なき断言です。けれど、それが神様から見た現実なのだと、パウロは言います。もちろん、その時彼自身がその現実と無関係だと思っているはずもありません。だから、彼は畏れている。
 今日は飛ばしましたが、18節で彼は、「彼らの目には神への畏れがない」という詩編(36:2)の言葉を引用しています。神への畏れがない人間は、誰も彼も迷子なのです。何が正しいのかも分からず、自分の目先の利益を求めて生きるだけの惨めな存在なのです。しかし、私たちの目が見るべきは神様なのです。その神様が、私たちをどのように御覧になり、何をしてくださっているか。そのことをちゃんと見なければなりません。さらに、その神様から見た自分の姿を見なければいけない。

 神の義

 パウロは言います。

 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。

 「義」
とは「正しさ」です。イエス・キリストを信じる者はすべて、何らの差別もなく、神の義を与えられると言うのです。これがキリスト教信仰の核心です。
 私たちは皆、神の目から見れば罪人です。裁かれるべき罪人なのです。この世においては人を裁く立場にある者も、神の前では裁かれるべき人間です。そのことを忘れる時、私たちは平気で人を裁きます。私たちは人を裁くことが大好きなのです。神への畏れがないからです。自分が神だからです。
 しかし、そういう私たちの罪を償うために、神様は愛する独り子であるイエス・キリストを「罪を償う供え物」としてくださったのです。罪なき者を罪人として裁くことは、正しい裁きではありません。しかし、そこに神の義が現れており、その義を信じる者を神は義とされるとパウロは言います。

 正しい裁き?

 罪なき者を罪人として裁くことは悪です。しかし、そこに神の義が現れている。それはどういうことかと言えば、イエス・キリストが罪なき方であるが故にこそ、罪人の罪をすべてその身に背負い、罪人の身代わりに裁かれることにおいて神の義が現れるのです。神は罪人を愛し、罪人を義とするために、罪なき独り子イエス・キリストにすべての罪を背負わせ裁かれたのです。これは信じ難い裁きです。人間の目から見れば悪です。もちろん、神様だってこんな裁きをしたくはない。しかし、罪人を、それでも愛する神様は、罪人を赦し、義とするために、イエス・キリストを罪人の罪を償う供え物としてくださったのです。そこに神の義が現れているのです。この裁きを目の当たりにする時、私たちは恐れる他にないのではないでしょうか。
 イエス様がどのような裁判を受けたかは、四つの福音書を読めば分かります。ユダヤ人の権力者たちは、最初からイエス様を有罪にすることに決めているのです。自分たちの権威、権力、地位を脅かす存在だからです。公然と自分たちを批判する存在だからです。彼らにしてみれば、到底、許し難い存在なのです。しかし、彼らは当時死刑にする権限をもっていませんでしたし、自分たちの妬みで殺したと思われたくもありませんでした。そこで彼らは、当時、自分たちを支配していたローマ帝国の総督ピラトに裁かせることにしたのです。
 ピラトは、イエス様に罪を見い出すことができません。そのことを何度も口にします。でも、ユダヤ人たちの「十字架につけろ」という叫びがどんどん大きくなっていくことに恐怖を覚えていくのです。そして、暴動を起こされるよりも、彼らの要求に応えて死刑にすることが地位安泰に繋がると判断することになります。この世の裁きには、えてしてこういう打算が入るものです。

 洗礼

 主イエスは、その裁きに身を委ねます。罪がないのに、いや罪がないからこそ、罪人の罪を背負って裁かれ、償いの犠牲としての血を十字架の上で流してくださったのです。その姿を見ることを通して、自分の罪深さを知らされる者は、恐れる他にありません。そして、そこに現された神の義の前に畏れをもってひれ伏すしかない。罪をこのようにして赦してくださる神の義を信じる者は、神によって義とされるのです。罪赦されて、新たに神様との交わりに生かされるのです。
 今日は、CS教師任職式がありました。子どもたちに信仰教育をすることは教会の使命ですから、その働きに奉仕する教師たち、子どもたちのことを祈りに覚えて頂きたいと思います。
 来週の礼拝では、KYさんの洗礼式が執行されます。それは、十字架のイエス・キリストに神の義が現れていることを信じて義とされる者が誕生する式です。教会は、福音を宣べ伝え、信じる者に洗礼を授けるために誕生したのですから、まことに喜ばしい日となります。その翌週は、主イエスの復活を祝うイースター礼拝です。

 聖餐

 私たちは、これから聖餐の食卓に与ります。この食卓を通して、イエス様が私たちのために十字架の上で肉が裂かれたこと、血を流してくださったことを想起します。私たちの罪の赦しのために、命を捧げてくださったことを想起し、記念するのです。「イエス様、ありがとうございます。私たちの命の源にはあなたの愛と義があります」と感謝するのです。それは、復活の主イエスが、今日もその命を捧げる愛で私たちを愛してくださっていることを確認して感謝しつつ賛美を捧げることです。さらに、イエス・キリストが世の終わりに再臨して御国を完成してくださることを遥かに望み見て、賛美するのです。私たちはこの食卓を厳かな雰囲気の中で囲みますけれど、その内実は、「ヤコブは喜び踊り、イスラエルは喜び祝うであろう」という喜びに溢れているのです。
 そして、神様は天から、聖餐の食卓を囲んで喜び祝う私たちを見て喜んでくださるに違いありません。信仰によって目覚めを与えられ、神を求める私たちを見て喜んでくださっているのです。神様はいつも「目覚めた人、神を求める人はいないか」と地上を見渡し、探しておられるのですから。  私たちは今日も「神の恵みにより無償で義とされた」ことを信じ、心から感謝し、喜び、賛美したいと思います。ただそのことにおいて、私たちは腐敗を避けることができ、忌むべきことではなく善を行うことが出来るのですから。そして、神様に喜んで頂けるのですから。こんな幸いなことはこの世にはないのです。
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