「見よ、神はわたしを助けてくださる」
54:3 神よ、御名によってわたしを救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください。 54:4 神よ、わたしの祈りを聞き この口にのぼる願いに耳を傾けてください。 54:5 異邦の者がわたしに逆らって立ち 暴虐な者がわたしの命をねらっています。 彼らは自分の前に神を置こうとしないのです。 54:6 見よ、神はわたしを助けてくださる。 主はわたしの魂を支えてくださる。 54:7 わたしを陥れようとする者に災いを報い あなたのまことに従って 彼らを絶やしてください。 54:8 主よ、わたしは自ら進んでいけにえをささげ 恵み深いあなたの御名に感謝します。 54:9 主は苦難から常に救い出してくださいます。 わたしの目が敵を支配しますように。 恐ろしい人間 神よ、御名によってわたしを救い 力強い御業によって、わたしを裁いてください。 出だしを読むだけで、この詩の作者あるいは祈り手の切迫した状況が身に迫ってきます。彼は今、彼の命を狙う者たちに囲まれているのです。「異邦の者」とか「暴虐な者」とか言われますが、彼らは「自分の前に神を置こうとしない」者たちです。 53編の冒頭にはこうありました。 神を知らぬ者は心に言う 「神などない」と。 人々は腐敗している。 忌むべき行いをする。 善を行う者はいない。 「自分の前に神を置こうとしない」と「『神などない』と心に言う」は、内容的には同じことでしょう。それは、結局、自分が神になることであり、生殺与奪の権は自分にあると妄想することです。人を殺すも生かすも自分次第だと思い込み、その確信に従って生きる。そのように自己を神格化した人間ほど恐ろしいものはありません。 恐るべき現実 通常であれば、人を殺すことは裁かれるべき犯罪です。でも、異常な状況の中では肯定され、むしろ評価されることでもあります。戦場とは、まさにそういう場でしょう。「敵」と見做せば、兵士であると民間人であるとを問わず、殺してよい存在となるのですから。 また、独裁政権が支配する国家の中では、独裁者側に少しでも抵抗する者は悪人としてのレッテルを張られて逮捕され、拷問され、処刑されます。それが合法的なことであり、また黙認されることでもあるのです。そのレッテルは「共産主義者」であったり、「ブルジョア」であったり「テロリスト」であったりします。「親日派」と言われると立場が危うくなる国もあるし、由緒ある神社にお参りしないと「愛国心がない」と言われて、断罪されることになりかねない国もあります。 何が善で何が悪か、何が正しくて何が間違っているかを、自己を神格化する人々が決めて、国民を裁き始める時どれほど恐ろしいことが起こるかは、世界中の人々が経験しているはずです。しかし、私たち人間は、今もって経験から学ぶことがないかのようです。 神の御名 54編の作者が置かれている具体的状況は、例によって分かりません。でも、彼が、神の「御名」による救いを懇願していることは明らかです。神の「御名」は、8節にも出てきて、この詩の枠になっています。「御名」は、主なる神ご自身のことでもあります。でも、「主は苦難から常に救い出してくださいます」(9節)の「主」と訳された言葉は、原文では「それ」であり、直前に出てくる「あなたの御名」のことです。つまり、「御名」とは、主なる神様の地上における働きを表すと言った方がよいかもしれません。主の「御名」が、「力強い救いの御業」をなすのです。その「御名」による救いを求めて、彼は「わたしの祈りを聞き、この口にのぼる願いに耳を傾けてください」と叫んでいる。傲岸不遜な者たち)、暴虐な者たち、神を自分の前に置かない恐るべき者たちが、彼の命を狙いつつ、彼を取り囲んでいるからです。 想像するだけでも 私は、幸いにして、こんな経験をしたことがありませんから、それがどれ程の恐怖であるかは想像するしかありません。あらぬ容疑をかけられて逮捕され、「お前を殺すも生かすも俺たち次第なんだぞ」と凄む男たちに囲まれて、逃げようもない。裁く権利は彼らが持っており、最初から有罪が決まっている。拷問を受けながら、やってもいないことの自白を強要され、自白すれば「やっぱりな。お前が自分で罪を認めたんだから」と言われて処刑される。自白しなくても、殺される。 彼が、そういう状況に置かれているとすれば、それは想像するだけで体が震えるほど恐ろしいことです。どこの国でも、そのような密室の裁判とか拷問が行われてきたし、今も私たちには見えない所で行われています。しかし、神様は、そのすべてを見ておられるのです。 神に叫ばなければ・・ 作者は、神を神とも思わぬ者たちに裁かれる恐怖の中で、すべてを見ておられる神様に向って「力強い御業によって、わたしを裁いてください」と叫びます。神を恐れぬ者たちの裁きにさらされながら、神の御名を呼びつつ、神の裁きを求める。それは必死の叫びです。 迫害者たちの嘲りや罵声を受けながら叫んでいるのかもしれません。あるいは、ここに記されている言葉は、すべて心の中での叫びであり、実際に声に出されてはいないのかもしれません。罵声を浴びせられ、脅迫されながら、歯を食いしばって心で祈っている。そういうことかもしれません。その祈りをしないでは、彼は絶望的な状況の中で自分を保つことは出来ないと思います。この世の人間による裁きがすべてなら、生きることはあまりに空しいことだからです。 信頼の告白 そういう叫びをあげながら、彼は「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」という確信、信頼の告白、あるいは証言をします。それは、神様が自分の祈りを聞いてくださったことを実感できたからでしょう。具体的には、彼はまだ暴虐な者たちに取り囲まれているのです。そこから救い出されたわけではない。でも、必ず救われると確信を与えられ、その確信を「自分の前に神を置こうとしない」人々の前でも堂々と表明したのだと思います。 単なる復讐心? その上で、彼は、「わたしを陥れようとする者に災いを報い、あなたのまことに従って、彼らを絶やしてください」と神に願うのです。「報いる」と訳された言葉は、「返す」とも訳されますが、「帰れ、かの悪はわが敵対者らに。あなたのまことにより彼らをほろぼして下さい」と訳している人もいました。「帰れ、かの悪は、わたしの敵に」とか「かの悪を彼が(主が)敵たちに返すであろう」と訳されることもあります。 今、自分に向けられている暴虐の行為が彼ら自身に帰ること、つまり、彼らが同じ目に遭って滅ぼされることを願っているのです。そこに、神の「まこと」に従った裁きがあるはずだ、と彼は言います。 その神の「まこと」に従った裁きがあることを信じて、自分は「いけにえ」を捧げて感謝することを約束し、神に救い出された暁には、敵を支配できるとの確信を表明して、この祈りは終わります。 この詩は、既に救い出された作者が過去を振り返って書いたものだと言う人もいます。そうであるかもしれません。でも、私は苦難のさなかで救いを確信し、勝利を確信している祈りとして読みたいと思います。 また、ある旧約聖書の学者は、この詩は敵に対する復讐心に満ちており、神をそのために利用する思いが見える。そこに旧約聖書の限界がある、と言っています。そうかもしれません。しかし、新約の時代を生きている私たちが、その限界を突破した新約聖書の愛と赦しの中に身も心もどっぷりと浸かっているとは、到底思えません。 「アクト・オブ・キリング」 先日、なんとも恐るべきドキュメンタリー映画を観ました。新聞の映画評などでご存知の方もいると思いますが、「アクト・オブ・キリング」(殺人という行為)という映画です。こんなことが実際にあるのかと俄かには信じ難い内容でした。 インドネシアでは1960年代にクーデターによる軍事独裁政権が誕生しました。米ソの冷戦体制の中でベトナム戦争真っ盛りの時代です。その当時のインドネシアでは、「共産主義者」というレッテルを張られれば、即逮捕され、拷問を伴う尋問をされた上で虐殺されたそうです。その実行者は軍や警察ではなく、驚くべきことにプレマン(フリーマン)と呼ばれる街のヤクザなのです。彼らが、政府の公認の民兵組織を作り、政府や財界の人間にとって気に入らない者たちを共産主義者に仕立て上げて密室でリンチした上に殺してきたのです。その数は、百万人を越えると言われます。 ある人権団体が、一人の映画監督に依頼して、虐殺の実態を描くドキュメンタリー映画を作ろうとしたのですが、当局が遺族たちと接触することを許さないので、取材対象者を虐殺者の側に変えざるを得なくなったそうです。もちろん、映画監督は、彼らがマイクの前で虐殺の事実を語るとは思っていませんでした。しかし、彼らは、今も政府公認の民兵であり、共産主義者を駆逐した英雄でもあったのです。現在の生活の実態は、恐喝やゆすり、また公権力が手をつけたくない地上げとか、邪魔者を消すとかいう闇の仕事です。そういうことをカメラの前でも隠すことをしません。些かも悪をしているとは思っていないからです。 彼らはカメラの前で、自分たちがどのように人々を殺し、村を焼き討ちし、略奪と暴行をしてきたかを得意になって語り始めました。映画監督がプレマンの親分格の人間に、「自分たち自身でやってきた事を再現するドキュメンタリー映画を作ったらどうだ」と持ちかけると、彼らは大喜びで映画スター気取りで自ら演じ始め、撮影もし始めました。撮影が進んでいくと、最初はひたすら得意げだった彼らにも少し変化が見えて来て、親分格の人間が、「実は自分が殺した人間の亡霊が夢に出て来て寝つけないことがあるんだ」と告白したりもするようになります。 そして、ある時、自分が拷問を受ける役を演じている場面の映像を可愛い孫たちに見せようとします。「面白い物を見せてやる。おじいちゃんがこれから苛められるぞ。よく見ておけ」と楽しそうに言って、二人の孫を膝に抱いて、最初は楽しそうに見始めるのです。でも、血糊で血まみれになった自分が拷問の果てに針金で首を絞められて殺される場面を見ながら、彼は次第に青ざめていき、その役を演じていた時に味わった恐怖を語り始めます。「目隠しをして殴られ、首を絞められつつ脅された時、俺はあらゆる尊厳を奪われ、心の底から恐怖を感じたんだ」と。その言葉を聞いて、監督は、「あなたたちに拷問をされた人たちは、もっともっと恐怖を感じたはずだ。何を言っても殺されることが明らかなのだから」と言います。親分は、そう言われた時に、「俺は罪人なのか。俺は裁きを受けるのか。そんなことはあって欲しくない。俺がやったことは悪なのか」と茫然とした顔で呻きます。 その後、映画の撮り始めの頃、「ここで何人も殺した。ここら辺りは血だらけだった」と楽しげに話しながら、どうやって人を殺したかを実演したビルの屋上にもう一度行くことになります。彼はその場に立って、もう一度自分がやったことを語るのですけれど、突然、吐き始めるのです。そして、立っていられず座り込みます。自分がやったことが何だったのか。自分がやられたらと想像しながら、真っ蒼な顔でゲーゲーと吐き続けるのです。自分がやった悪が自分に帰ってくるとはこういうことだと思いました。 善悪は誰が決める? 吐き続ける親分の姿を見ながら、私は、言葉は下品ですが「ざまあみろ」という思いを抱きつつ、身につまされる思いもしました。人は誰しも、自分が何をしているのか分からずに様々なことをやっていることがあります。悪と知りながらやっている場合もありますが、善だと思って悪をしていることもある。しかし、その善と悪は、一体誰が決めるのでしょうか。悪を善と思い込んでいれば、その時のその人にとっては善ですが、目が覚めた時に、それは取り返しのつかない悪になっているのです。 彼らは、今もインドネシアのテレビ番組に英雄として出演します。それは、政治家たちが、彼らを今も利用しているからです。映画の中でも、実際の大臣が出て来て、ある村を焼き討ちする場面の演出をします。「あまり残酷に演じてはいけない。でも、俺たちを怒らせたらどういうことになるかを思い知らせるように演じろ」と。 そのテレビ番組の中で、女性のアナウンサーが、「それだけ多くの共産主義者を殺して、彼らの遺族があなたがたに復讐しないのですか」と尋ねると、親分はこう答えていました。「復讐しないのではなく、復讐出来ないんだ。復讐しに来たら、俺たちが皆殺しにするから」と。こういう人間のことを「カインの末裔」と言うのだと思います。一緒に出演している仲間や、観客席にいる仲間たちが、親分の答えを聞くと大笑いしながら拍手をするのです。「そうだ、皆殺しだ」と言いながらです。 しかし、ヤクザがテレビの中で「皆殺しにする」と平気で言えるということは、政治家たちが今も彼らを利用し、国民に恐怖を与えることで統治しようとしていることの表れでしょう。彼らは、自分の手で人の首に針金を巻いて殺しはしません。そういうことは皆、無知な者たちにやらせるのです。 特攻で若い命を落とした若者たちに心から謝罪するのではなく、国の英雄として美化したり、英霊に祭り上げたりすることの中にも、政治家たちの意図が表れているでしょう。彼らは、帰りの燃料がない戦闘機に乗って離陸し、空しく海の藻屑になどなりませんし、人間魚雷に乗って自爆する訳ではありません。そういうことは、悪を善だと教え込んだ若者たちにやらせるのです。それは一部の政治家たちだけの特質ではなく、人間一般の性質でもあることは言うまでもありません。 何をしているのか? 自分が何をしているのか。自分がしたことは何なのか。「善だ、正義だ」と思ってやっていたことは、本当は何だったのか。それは、自分が人にしたことが、自分自身に帰って来ない限り分からないのです。同じ目に遭わないと分からない。 そういう意味では、7節の言葉は、単に復讐を願う言葉ではなく、自分を陥れようとしている暴虐な者たちに、自分がしていることは何であり、自分が何者であるかを知って欲しいと願っている言葉であるとも言えます。人はそういう経験をしないと、分からないことは事実なのですから。しかし、現実に人の首に針金を巻いたり、巻かれたり、特攻機に乗ったりすることは出来ないのですから、想像するしかありません。想像して、身の毛のよだつ思いをするしかない。それすらしなければ、私たちは何も変わることなく、延々と同じことをし続ける他にありません。自分の正義を信じて、生殺与奪の権は自分にあるかのように振舞うのです。そして、滅びに向って行く。恐ろしいことです。 彼らを絶やしてください 「あなたのまことに従って、彼らを絶やしてください」とあります。これは確かに一見すれば、単純な復讐を願う言葉です。しかし、ひょっとすると、ここに出てくる「彼ら」とは、その時の「彼ら」のことであり、その時の彼らが滅んで、新しい彼らが生まれることを願っていると解釈できるのではないか、と私は思います。 一人で千人以上も殺したプレマンの親分を裁くのは、神です。インドネシアで彼を裁く人も機関もありません。彼らの行為は政府の思いを実行に移しただけですから、裁くべき犯罪にはなりません。しかし、神様は罪を裁くお方です。神様が、今後どのように彼を裁くのかは、私には分かりません。思いがけない映画作りを通して、自分が何をしたかを知り、自分が罪人なのではないか、自分は裁かれるのではないかという恐怖に怯え始めた「彼」は、少なくともそれまでの「彼」とは違う人間です。だからと言って、殺された人の命が生き返る訳ではないし、死人が慰められるのかどうかは知りません。私たちは、生ける者と死ねる者とを裁かれる神の裁きに、すべてを委ねるしかありません。私たちは神ではないのですから。そして、神の裁きは、私たちの裁きとは違うのです。 神の正しさ エゼキエル書に、こういう御言葉があります。 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。(エゼキエル18:23) イスラエルの家は、『主の道は正しくない』と言う。イスラエルの家よ、わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。 それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。(同18:29〜32) 神様の正しさと、人の正しさは違います。神様は、御自身の正しさを基準にして裁かれます。詩編54編の作者が、必死になって求めているのは、神様の正しさを基準とした裁きです。その裁きは、神様の「まこと」によってなされます。 神のまこと 真理 「まこと」と訳された言葉は、ヘブライ語ではエメトです。ギリシア語訳旧約聖書ではアレーセースで、それは「真理」と訳されることの多い言葉です。裁きとの関連で「真理」という言葉を聞いて思い起こすのは、ヨハネ福音書のピラトによるイエス様の裁判でしょう。 イエス様もまた54編の作者のように、自分では神を敬っていると思いつつ、「自分の前に神を置こうとしない」ユダヤ教の権威者に罪人として断罪され、彼らに扇動された群衆に囲まれ、処刑されようとしているのです。彼らがでっち上げた罪状は、「ユダヤ人の王」というものです。この言葉はローマ皇帝に対する反逆を意味するからです。ローマの総督ピラトは、ローマに対する反逆者は裁かざるを得ません。 彼は、イエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。イエス様はこうお答えになります。 「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ18:37) 恐れを抱いたピラトは、さらに問います。 「真理とは何か。」(同18:38) 主イエスが、何によって神の「まこと」、「真理」を証するのかと言えば、十字架の死と復活によってです。敵を暴力で滅ぼすことによってではないのです。「世の罪を取り除く神の小羊」として、罪人の代わりに御自身を「いけにえ」として捧げることにおいて、神の「真理」、「まこと」を証されるのです。神様は、その真理によって人間を裁かれます。悪人の死を喜ばない神は、悪人に悪の残虐性を見せることを通して自分たちが何をしているかを知らせます。その残虐性の極みは、罪なき者を罪人として拷問し、処刑することでしょう。神は、御自身の独り子にその残虐によって処刑されるという経験をさせる。そのことを通してしか、私たちの恐るべき罪を赦すことは出来ないのです。 でも、誤解してはなりません。神に赦されるとは、「それまでの自分」が肯定されたり、黙認されることではありません。そうではなくて、「それまでの自分」が裁かれることなのです。そして、死ぬことです。罪は徹底的に裁かれなければなりません。そのこと抜きに、聖い者として新たに生きることは出来ないからです。 その裁きを、神は罪なき神の独り子に負わせたのです。そこに「神の力強い御業」があるのです。その御業を通して、神様はわたしを「助け」「救い出して」くださるのです。 その御業、イエス・キリストという神の御名において現された御業を、悔い改めをもって信じる者は、罪に属する人から「真理に属する人」に造り替えられるのです。それは、人の世では正しくない裁きです。でも、神様にとっては、それが正しい裁きであり、そこに神様の「まこと」が現れているのです。なぜなら、人の裁きの中には、いかなる意味でも罪の赦しなどはないからです。人の裁きによって、人が救われることはありません。 道 真理 命 主イエスは、十字架の死を弟子たちに予告された後に、こうおっしゃいました。 「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6) 十字架の死と復活を通して、イエス・キリストは罪に落ちた私たちが父なる神の御許に行く道そのものになってくださったのです。 聖餐に現れる真理 私たちは、これから聖餐の食卓に与ります。この中に、神様の「まこと」があります。主イエスを十字架の死から復活させた「力強い御業」があります。悔い改めと信仰と賛美をもって与る私たちは、その目で、私たちの本当の敵である罪が、イエス・キリストによって支配されていることを見ることができるのです。このイエス・キリストこそが、父に至る唯一の道であり、父の真理を証する唯一の方であり、私たちに永遠の命を与えてくださる唯一のお方です。この方を、共に礼拝出来る幸いを心から神様に感謝します。 |