「神の言葉を賛美します」
56:2 神よ、わたしを憐れんでください。 わたしは人に踏みにじられています。 戦いを挑む者が絶えることなくわたしを虐げ 56:3 陥れようとする者が 絶えることなくわたしを踏みにじります。 高くいます方よ 多くの者がわたしに戦いを挑みます。 56:4 恐れをいだくとき わたしはあなたに依り頼みます。 56:5 神の御言葉を賛美します。 神に依り頼めば恐れはありません。 肉にすぎない者が わたしに何をなしえましょう。 56:6 わたしの言葉はいつも苦痛となります。 人々はわたしに対して災いを謀り 56:7 待ち構えて争いを起こし 命を奪おうとして後をうかがいます。 56:8 彼らの逃れ場は偶像にすぎません。 神よ、怒りを発し 諸国の民を屈服させてください。 56:9 あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。 あなたの記録に それが載っているではありませんか。 あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。 56:10 神を呼べば、敵は必ず退き 神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。 56:11 神の御言葉を賛美します。 主の御言葉を賛美します。 56:12 神に依り頼めば恐れはありません。 人間がわたしに何をなしえましょう。 56:13 神よ、あなたに誓ったとおり 感謝の献げ物をささげます。 56:14 あなたは死からわたしの魂を救い 突き落とされようとしたわたしの足を救い 命の光の中に 神の御前を歩かせてくださいます。 敵 神よ、わたしを憐れんでください。 わたしは人に踏みにじられています。 作者は、そう叫びます。これまでも、詩編の中に何度か出てきた叫びです。 呼び求めるわたしに答えてください。 (中略) 憐れんで、祈りを聞いてください。(詩編4:2) 主よ、憐れんでください。 わたしは嘆き悲しんでいます。 (中略) わたしの魂は恐れおののいています。 (中略) 主よ、立ち帰り わたしの魂を助け出してください。(詩編6:3〜5) これらの祈りは、いずれも非常な窮地に立たされた人の叫びです。詩編の場合、作者が生きている具体的な状況は分からないことが多いのです。分からない所は、読者の想像力に任されているとも言えます。 「敵」と言っても、人間のことである場合もあるし、病魔のこともあります。人々によって社会的な窮地や生命の危機に追い込まれていることもあれば、瀕死の病の中で苦しんでいる場合もあるのです。そのことを突き詰めていくと、本当の敵は人や病ではなく、死の恐怖である場合があります。あるいは、そういう恐怖を心に抱かせる悪魔とかサタンをこそ敵と言うべき場合もあります。これらのものは、線を引いて分けることができるものではなく、混然一体のものなのです。 恐れ 依り頼む 人間 56編では、「わたしは人に踏みにじられています」と言っているのですから、作者にとって当面の敵が「人」であることは確実です。その人、あるいは人々が、絶えず彼を「虐げ」、「災いを謀り」「待ち構えて争いを起こし、命を奪おうとして後をうかがう」のです。 職場の中で厳しい出世争いをしていたりすると、同僚から足を引っ張られたり、裏切られたりすることもあるでしょう。時には、争いに負けて職場内での立場を失うこともあると思います。そういうことは、人間の集団においてはしばしばあることだと思います。今日の友が明日の敵であることは、よくあるのです。 彼が、どのような攻撃を受けているかは分かりません。でも、彼が、「恐れ」を感じていることは分かります。「神に依り頼めば恐れはありません」と、彼は言っています。恐れを抱くからこう言っているのです。この言葉は、「神の言葉を賛美します」と共に、12節でもう一回出てきます。「恐れる」と「依り頼む」は、セットの言葉です。神に依り頼まない限り、人は敵に襲われる時には恐れに支配されてしまうのです。 もう一つ、5節と12節で繰り返される言葉があります。それは「肉にすぎない者が、わたしに何をなしえましょう」と「人間がわたしに何をなしえましょう」です。 こういう言葉を繰り返すのは、彼には非常な恐れがあるからです。肉に過ぎない人間を恐れてしまうからこそ、彼は「人間が自分に何をなしえると言うのか、恐れることはない。神に依り頼め」と、一生懸命に自分に言い聞かせているのだと思います。この言葉は、最終的に、もう一つ深い次元の言葉になると思いますが、それは後に触れます。 嘆き 涙 彼の敵は、偶像崇拝者です。神ならぬ者を神として崇めているのです。だから、イスラエルにおいては神の怒りによって屈服させられるべき者たちです。彼の呼びかけに応えて神様が出てきてくだされば、必ず退けられるべき者たちです。しかし、少なくとも今は、神が出てきて彼らを屈服させてはいない。そういう厳しい現実の中で、彼は嘆きます。 あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。 あなたの記録に それが載っているではありませんか。 あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。 人には、誰にも見せられない涙を流す時があるし、神様しか受けとめてくれない悲しみや苦しみがあります。そこには、深い孤独があります。けれども、その孤独の中でしか知り様もない神の憐れみがある。それも事実でしょう。 「神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません」とは、その「憐れみ」を知っている者が口にできる言葉だと思います。神様が、自分の嘆きを聞き、記録してくださっている。そして、自分の涙をその革袋に蓄えてくださる。恐れ、悲しみ、嘆きの中で流す涙を覚えていてくださる。顧みてくださる。そのことを確信するが故に、願う。大いなる恐れを抱きつつ祈る。そこにある深い孤独と、神様との交わりの深さを思います。 弱肉強食の世界 神よ、わたしを憐れんでください。 多くの者がわたしに戦いを挑みます。 恐れをいだくとき わたしはあなたに依り頼みます。 繰り返しますが、彼は人を恐れているのです。自分よりも強い者たちが、徒党を組んで自分に対して「戦いを挑み」「踏みにじる」のです。絶えず「災いを謀り」「命を奪おうとして後をうかがう」のです。安心して眠ることもできないでしょう。敵の力の方が圧倒的に強いのですから、恐れるのは当然です。 先日、エネルギー問題を扱うテレビ番組を見ました。私たちの国では少子高齢化が深刻な問題ですが、地球規模では人口の爆発的増加が深刻な問題です。その人口増加は、食糧問題とエネルギー問題を引き起こします。各国にとっての大問題は、食料の確保とエネルギー資源の確保です。だから、原発の建設が世界各地で進んでいます。多くの人口を抱えた大国は、食料と資源を求めて隣の小国の領土や領海を奪うための圧力をかけています。力に任せた横暴が、国家レベルでも国内の集団レベルでもまかり通ってしまうのです。弱い者は、暴力に屈するしかない現実がいつもあります。そういう現実を見ると、私たち人間は、恒久的な平和を作り出す能力がないと言わざるを得ないと思います。 世にあって、恐るべきは力を持った人たちです。そういう人々に弱者が踏みにじられていく恐怖。それは抑え難いものです。 恐れてはならない 先月読み続けたルカ福音書12章で、主イエスはそういう恐れを心に抱き始めた弟子たちに向って、「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」とおっしゃっていました。恐れるべきは、「殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方」なのです。神です。この神は、一羽では値段もつかない雀一羽さえ、「お忘れになるようなことはない」。その神に覚えられていることを忘れるな、この神にこそ依り頼め、と主イエスはおっしゃいました。 弟子たちは、イエス様がこの世の何者も恐れないことに恐れを抱いたのです。時の権力者に向って、「あなたたちは不幸だ。愚かだ」と断言するイエス様の姿を見て恐れたのです。そう断言するイエス様に対して、むき出しの敵意をもって迫って来る権力者たちの姿を見ても恐れた。また、その騒ぎを聞きつけて集まって来る群衆の姿を見て、恐怖を覚えたのです。このままイエス様に従っていけば、自分たちも権力者や群衆に踏みにじられてしまうのではないか、と恐れた。それは人間であれば誰もが心に抱く恐れであって、何も恥ずべきことではないでしょう。 そういう弟子たちに、イエス様は「友人であるあなたがたに言っておく。恐れるな」とおっしゃった。「神を恐れよ」と。それは、「神に依り頼め」という意味です。「肉に過ぎない人間は、肉の命を殺すことができるだけだ。しかし、あなたがたの父である神は、死後に地獄に投げ込む権威も、御国に招き入れる権威もお持ちなのだ」。イエス様は、そうおっしゃる。神を恐れ、一羽の雀さえお忘れにならない神に依り頼む時、人は人への恐れから解放される。そういうことだと思います。 今日も明日も、その次の日も ペトロを初めとする弟子たちは、「恐れるな」というイエス様の言葉を聞いています。聞いた時は、心の中で「その通りだ」と思ったかもしれません。しかし、その後、彼らは人への恐れから解放されたのかと言えば、そんなことはありません。 イエス様は、神のみを恐れ、神に依り頼みつつエルサレムに向われました。ある時、ヘロデ王がイエス様を殺そうとしていると知らされます。イエス様は、知らせてくれた人にこうおっしゃいました。 「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、あり得ないからだ。」(ルカ13:32〜33) 他人事のように聞けば、「なんと格好よい言葉だろうか」とほれぼれします。でも、こんなことをおっしゃる方に、日々従って歩むことは勘弁して欲しいです。「今日も明日も、その次の日も自分の道を進む。」それはエルサレムでの死、十字架の処刑死に向って前進することなのです。そういう道を進む人物と共に生きる。それは、あまりに危険なことではないでしょうか。 でも、彼らは従い続けました。そこには、彼らの意志があります。意志がなければ、そんなことはできません。でも、もっと深い所で、神様の意志があると思います。彼らを選んだ神の意志がある。彼らに憐れみを知らせようとする意志がある。だから、彼らは従った。そう思います。私たちが今、キリスト者として生きているとは、そういうことだと思うのです。 主イエスの言葉 ペトロの言葉 イエス様は、ついにエルサレムに入りました。そして、弟子たちと最後の晩餐の時を過ごしました。その晩餐の後の、主イエスとシモン・ペトロはこういう対話をしました。 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」 「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22:31〜34抜粋) この後、イエス様はユダの裏切りによって祭司長や群衆に捕えられます。イエス様は、彼らにこうおっしゃいます。 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」(ルカ22:52〜53) ペトロは、夜陰に身を隠すようにして、イエス様が連れて行かれた大祭司の屋敷の中庭に入り込みました。人々は、焚火にあたりながらイエス様逮捕に関して話していたでしょう。焚火の光に照らされてペトロの顔が見えた時、ある女中がペトロをじっと見つめてこう言いました。 「この人も一緒にいました。」 彼は否定します。 「わたしはあの人を知らない。」 少し経ってから、ほかの人もペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、彼は「いや、そうではない」と否定します。さっさとその場を離れれば良いのに、彼は何故かその場にい続けます。彼の意志なのか、神の意志なのか。 一時間ほど経つと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張ります。ペトロは「あなたの言うことは分からない」と言ったのですが、言い終わらないうちに、突然鶏が鳴き、「主は振り向いてペトロを見つめられた」とあります。 ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。 ペトロの涙 彼は、人を恐れたのです。その場で、「わたしもあの人の仲間です」と言えば、そこにいる人々は祭司長らに向って大声で「ここにあの男の弟子がいます。飛んで火にいる虫みたいにこの庭に入ってきました」と言うでしょう。そして、彼も逮捕されたでしょう。処刑まではされないと思いますが、厳しい取り調べを受けて鞭打ちの刑くらいは受けたかもしれません。それだって、肉が裂けるような鞭打ちですから、恐るべきことです。 彼は、人を恐れました。しかし、彼に勝ったのはサタンです。神に自由を与えられたサタンが、ペトロに恐怖を与え、彼はサタンのふるいに掛けられて信仰から落ちて行ったのです。その時、彼は外に出て、激しく泣きました。夜の闇の中で、とめどなく涙を流し続けたのです。イエス様の言葉を思い出し、振り向いて自分を見つめたイエス様の眼差しを思いながら。その涙は、地に落ちたでしょう。人は誰も、その涙を見ていたわけではありません。でも、神様は見ていたでしょう。そして、その涙をご自身が持つ革袋に溜めてくださったのだと思います。「神よ、憐れんでください」という嘆きは、この時、ペトロの嘆きとなったと思います。 マタイ受難曲 J.S. バッハの宗教曲の中に「マタイ受難曲」があります。多くの方がご存知の曲です。私も青年時代から何度も聴き続けてきた曲です。その曲では、マタイ福音書の受難物語を丹念に追いつつ、時折、アリアが入ります。その中でも、ペトロが主イエスを三度否んだ直後のアリアは、痛切極まりないものです。私が、最も深く心を揺さぶられるアリアです。ペトロは若い頃から、私には他人には思えない人ですから。 その哀切なメロディに乗せて歌われる詞は、こういうものです。 「憐れみたまえ、わが神よ したたり落つるわが涙のゆえに。 こを見たまえ、心も目も 汝の御前にいたく泣くなり。 憐れみたまえ、憐れみたまえ。」 自分でも信じ難い罪を犯した時、自分でも信じ難い罪を犯したと自分で気づく時、人は崩れます。崩れて泣くか、居直るしかないのです。誰も自分を愛してはくれない、憐れんではくれないと思う人間は居直ります。そうせざるを得ないのです。そのようにして崩れて行きます。 でも、こんな自分であることをご存知の上で愛してくださる方がいることを知っている人間は、居直ることはできません。泣き崩れながら縋るしかない。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言ってくださる方と、その言葉に。「憐れみたまえ、わが神よ、わが主よ」と、涙を流しながら祈るしかないのです。 真の人 真の神 詩編56編の作者が、涙を流しながら「憐れみたまえ」と祈る時、それは、単に「敵の攻撃から救い出してください」と祈っている訳ではないでしょう。苦境からの救出だけを願って祈っているのではない。彼は、その最も深い所で、人を恐れてしまう自分、神に依り頼めない自分の魂を救ってください、と願っているのです。「人への恐怖に慄き、信仰から落ちてしまうわが身を憐れんでください。赦してください。力を与えてください」と、祈っているのだと、思います。 その時、彼の心を支えているのは、既に聴いたことがある神の言葉です。聖書の神は、なんとなくどこかに存在する神ではないし、八百万の神でもないし、万世一系の現人神でもありません。目に見えず、しかし、言葉をもって語りかけてくる神です。彼は、これまでの礼拝経験の中で、幾度も神の言葉を読み、また聴いたことがあるのです。あるいは見たことがある。私たちも同じです。 ペトロにとっては、イエス様の言葉が主なる神の言葉です。「人を恐れるな」という言葉、「神を恐れよ」という言葉、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」という言葉が、彼にとっての神の言葉です。 この後、イエス様は十字架に磔にされます。その十字架の上で、こう祈られる。 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 (ルカ23:34) イエス様の言葉は、そのどれをとっても不思議な言葉です。しかし、この言葉は本当に不思議です。 キリスト教信仰の核心には、「イエス・キリストは真の人であり、真の神であることを信じる」というものがあります。真の人にして真の神の言葉は、人の言葉でありつつ神の言葉です。こういう言葉を語る方、語れる方は他にいません。 イエス様こそ、嘆き悲しむお方です。涙を流されるお方なのです。幾度も敵に襲われ、最後は殺されてしまう定めを人として引き受けた方です。愛する弟子に接吻によって裏切られ、他の弟子たちは逃げ隠れし、ペトロが「わたしはあの人を知らない」と言っているのをすぐ近くで見る。そういう悲しみに満ちた人生を生きられた方です。その人生において、イエス様は荒野で独り神に祈られました。そして、十字架の上で、自分が何をしているか知らぬままに自己絶対化をしているすべての罪人たちの罪が、赦されるように祈られるのです。 「父よ、彼らをお赦しください。」この祈りの言葉を読みながら、人としてのイエス様の涙が、神様の革袋に溜められている様が見えるように思います。同時に、私たちの涙、人を恐れ、サタンに振いにかけられ、信仰から落ちてしまう私たちの悲しみの涙を受け入れてくれるのは、神であるイエス様の革袋以外にはないことを思います。人の悲しみをすべて経験しつつ、人の罪のすべてが赦される道を開くために十字架に掛かる救い主がここにはおられるのです。 実現する言葉 イエス様の言葉、イエス様の言葉だけが実現します。真の神の言葉だからです。人としてお生まれになったイエス様の言葉は、神の言葉なのです。だから、実現する。イエス様が祈られたから、「罪の赦し」は実現します。信じる者において実現するのです。 また、イエス様の存在そのものが「神の言」なのです。神はイエス様の存在、その業と言葉のすべてを通して私たちに語りかけてこられるからです。 私たちは、旧約時代の詩編の言葉を最終的にはイエス・キリストに対する信仰を通して受け止めます。そうである場合、「神の御言葉を賛美します」とは、「主イエスの言葉を賛美します」となりますし、「主イエスを賛美します」ということにもなります。主イエスが神の御言葉そのものだからです。この方に依り頼む時にのみ、私たちは人への恐れから解放され、具体的状況が何であれ、「今日も明日も、次の日も」、主の業に励むことができるのです。 魂の救い 56編の作者はこう祈ります。 神よ、あなたに誓ったとおり 感謝の献げ物をささげます。 あなたは死からわたしの魂を救い 突き落とされようとしたわたしの足を救い 命の光の中に 神の御前を歩かせてくださいます。 なぜ「感謝の献げ物をささげる」のかと言えば、神様が死から「魂を救い」、地獄にまで突き落とされそうだった「足を救い」、「命の光の中に、神の御前を歩かせてくださる」からです。 この時、彼の状況が好転していた訳ではないと思います。彼を踏みにじろうとして絶えず隙をうかがっている敵は、今もいる。退いた訳ではない。でも、彼は神の言葉を思い起こし、その言葉の真実に立つことができたのです。そして、自分で自分を励ますためではなく、心からの信仰告白として、「わたしは神に依り頼みます。肉に過ぎない人が、わたしに何をなしえましょう。わたしを救ってくださるのはあなたです」と告白できたのです。当初は自己を励ます言葉であったものが、今は、喜びに満ちた確信の言葉になっていると思います。それは、読み手の理解の深まりによって生じる二重性かもしれません。 今は闇が・・ 主イエスは逮捕された時、「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振っている」とおっしゃいました。たしかにそうなのです。その「今」は、現代にも続く「今」です。今も尚、闇が力を振っています。それは事実です。でも、更に深い事実がある。私たちは、その事実に目を向けるべく選ばれた神の民です。 その「事実」とは、ヨハネ福音書の最初に記されている事実です。 初めに言があった。 言は神と共にあった。 言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 (中略) 言の内に命があった。 命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。 暗闇は光を理解しなかった。(ヨハネ1:1〜5) この「言」、それは主イエスのことです。人の肉をとった「独り子である神」のことです。この方こそ「神の言」であり、命であり、光です。この光が、既に闇の世に来ている。暗闇の中に輝いている。この時の「今」から、現代の「今」まで。 私たちキリスト者は、その事実を毎週の礼拝の中で見るのだし、知るのだし、信じるのです。ただその時にのみ、私たちの魂は死から救われ、突き落とされようとした足が救われ、命の光の中に神の御前に歩かせて頂けるのです。そのすべてに、神様の憐れみがあります。私たちの罪を独り子なる神の十字架の死のゆえに赦し、復活を通して新しい命を与えてくださる憐れみがある。 聖餐 私たちは、これから聖餐に与ります。私たちの罪の赦しのために、そして新しい命に生かすために、十字架の上に裂かれた主の体の徴としてのパン、流された主の血潮の徴としてのぶどう酒を頂きます。この聖餐式の中で語られる言葉と行為のすべてが、神様の憐れみに満ちた「言」なのです。聖霊の注ぎを受ける者は、その「言」を見、また聴くことができます。罪を犯してしまう私たちは、その憐れみを求めて、今日もこの聖餐に与るのです。悔い改めと信仰をもってこの聖餐に与る時、私たちの魂は救われ、人への恐れから解放されます。一羽の雀を忘れないどころか、その雀のために命を捧げてくださる主を賛美し、証する歩みを始めることができるのです。 この闇の世にあって、「命の光」を見つつ、「神の御前を歩く」ことができる。そのことに勝る幸いはありません。このような幸いを与えてくださった神に、自分自身を感謝の献げ物として捧げて歩む者となりたいと願います。 |