「栄光を全地に輝かせてください」

及川 信

       詩編 57編
57:2 憐れんでください
神よ、わたしを憐れんでください。
わたしの魂はあなたを避けどころとし
災いの過ぎ去るまで
あなたの翼の陰を避けどころとします。
57:3 いと高き神を呼びます
わたしのために何事も成し遂げてくださる神を。
57:4 天から遣わしてください
神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。
わたしを踏みにじる者の嘲りから
わたしを救ってください。
57:5 わたしの魂は獅子の中に
火を吐く人の子らの中に伏しています。
彼らの歯は槍のように、矢のように
舌は剣のように、鋭いのです。
57:6 神よ、天の上に高くいまし
栄光を全地に輝かせてください。
57:7 わたしの魂は屈み込んでいました。
彼らはわたしの足もとに網を仕掛け
わたしの前に落とし穴を掘りましたが
その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。
57:8 わたしは心を確かにします。
神よ、わたしは心を確かにして
あなたに賛美の歌をうたいます。
57:9 目覚めよ、わたしの誉れよ
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
わたしは曙を呼び覚まそう。
57:10 主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し
国々の中でほめ歌をうたいます。
57:11 あなたの慈しみは大きく、天に満ち
あなたのまことは大きく、雲を覆います。
57:12 神よ、天の上に高くいまし
栄光を全地に輝かせてください。

 憐れんでください、神よ

 詩編56編に続く57編も、「憐れんでください、神よ」という言葉から始まります。56編の作者と同じく、彼もまた獰猛な獅子のような敵に囲まれ、攻撃をしかけられたり、罠をしかけられたりしているのです。彼を助けてくれる者がこの世にはいないのです。だから、彼は「憐れんでください、神よ、わたしを憐れんでください」と叫ぶのです。叫ぶことが出来る、と言った方が良いかもしれません。叫ぶ相手がいるのです。その点では、幸いです。
 怖い目にあっている幼子が、全身全霊を傾けて親を呼んで泣いている姿は気の毒ですが、きっと親が助けに来てくれると信じることができるならば、幸いでしょう。そういう親がいない子は、泣くことすらできません。涙を流すことなく、心を閉ざして、すべてを諦めていくしかありません。
 私たちは誰でも、人間の親を越えた存在としての神様に出会わない限り、一種の空虚感を抱えているものだと思います。命の創造主である神様との交わりを持たない間は、最も深い意味で、人は孤児であり迷子なのです。

 いと高き神を呼びます

 57編の作者は、当初、神様の翼の陰を避けどころとして隠れていました。そこに居続けることが出来るなら、安心のはずです。でも、原因はよく分からないのだけれど、何かの拍子にその翼の陰から出てしまっていることがあります。人混みの中で、一瞬の隙に小さな子が迷子になることがあるように。
 作者も、気が付いたら、歯が槍のようで舌が剣のような人の子らに囲まれてしまっている自分に気付き、慌てて地べたに伏して、気付かれないようにしたのだと思います。
 そういう中で、彼は必死になって「いと高き神」を呼びます。その神は、彼にとっては「わたしのために何事も成し遂げてくださる神」なのです。幼い子どもにとって、自分を愛してくれる親はそういう存在でしょう。生きるために必要なことは、何もかも親がやってくれる。そのことによって、幼子は生きているのですから、その子にとっては、親の愛がすべてです。彼にとっては、「いと高き神」がそういう親のような存在なのです。

 目を天に向ける

 彼は、その神に願います。

「天から遣わしてください
神よ、遣わしてください、慈しみとまことを。
わたしを踏みにじる者の嘲りから
わたしを救ってください。」

 彼は、攻撃する者たちに対する報復を求めるのではなく、攻撃からの救いを求めています。神から遣わされる「慈しみとまこと」による救いを求めるのです。
 そして、さらに懇願します。

「神よ、天の上に高くいまし
栄光を全地に輝かせてください。」

 彼の眼差しは、天の上に向けられていくのです。周囲の状況に目を向けるのではなく、天に向け、そこに輝く栄光を見ようとするのです。そして、その栄光の輝きを全地に及ぼして欲しいと願う。この願いは、「主の祈り」の、「御名をあがめさせたまえ、御国を来らせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と同じだと思います。そういう祈りを捧げる中で、彼は「自分の魂は、火を吐く人の子らが仕掛ける網や落とし穴を恐れて屈み込んでいたけれど、その中に落ち込んだのは彼ら自身である」ことを知らされていきました。
 「策士、策に溺れる」という現実は、しばしば見られることです。私たち自身も経験があると思います。自分は賢いと思ってやったことが、自分を窮地に追いつめる。自分にとって善かれと思ってやったことが、悪しき結果をもたらす。そういう経験は、誰しもがすることだと思います。

 心を確かにします

 彼を攻撃する者たちが自ら仕掛けた網に掛かり、穴に落ちる様を彼自身がその目で見たわけではないと思います。「必ずそうなる」と確信できたのではないかと思います。  何故なら、彼はこう言っているからです。

「わたしは心を確かにします。
神よ、わたしは心を確かにして
あなたに賛美の歌をうたいます。
目覚めよ、わたしの誉れよ
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
わたしは曙を呼び覚まそう。」

 「曙を呼び覚まそう」
と言っているのですから、まだ夜なのです。太陽はまだ現れていない。救いの時はまだ来ていない。今はまだ闇の中にあったとしても、「心を確かに」して曙を呼び覚ますために「賛美の歌をうたう」と言っているのです。
 「確かにする」は、ギリシア語訳ではエトイモスという言葉で、ルカ福音書では、主人がいつ帰って来てもよいように備えをしている僕の話の後に出てきました。主イエスは、「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」と、おっしゃったのです。「用意する」がエトイモスです。
 最後の審判がいつ訪れるかは、私たち人間には分かりません。しかし、必ず来ます。死の時がいつ何時か分からずとも、必ず来るのと同じことです。私たちは、その時に向っているのであって、いつでも備えていなければいけないのです。いつ審判の日が来てもよいように、いつ死の時が来てもよいように。しかし、それは財産を残しておこうとか、そういうレベルのものであるはずがありません。
 57編の作者にとって、その備えとは、「心を確かにして」「賛美の歌をうたう」ことでした。今はまだ夜中でも、必ずやって来る曙に備えて「賛美の歌をうたう」ことなのです。諸国民の中で、神に感謝し、国々の中でほめ歌をうたうことです。火を吐く人の子らの中に伏している時も、網の罠や落とし穴の前で屈み込んでいる時も、天に満ちる神の慈しみと、雲を覆う神のまことを賛美するのです。
 彼は、「いと高き神」を呼び続け、天から「慈しみとまこと」「遣わして」くださるように願うことを通して、今がまだ闇に覆われた時であっても、神を賛美すべきことを知らされていったのだと思います。そこに、彼に与えられた「救い」があるのだと思います。

 慈しみとまこと

 その「救い」とは何であるかを考える上で、3節と4節の言葉は重要です。そこに出て来る言葉が新約聖書ではどのように使われているかを見ていくことを通して、天高くいます神の「栄光」がどのように全地に輝くのかを知らされたいと思いますし、私たちもまた「曙を呼び覚ます」ための賛美を捧げたいと願います。
 最初に、「慈しみとまこと」という言葉に注目したいと思います。翻訳上の面倒なことは色々ありますが、今日は慈しみと憐れみと恵みは、基本的に同じ意味として理解しておきたいと思います。また「まこと」(エメット・ギリシアではアレーセイア)は真実な愛、変わることのない愛のことですけれど、「慈しみとまこと」と重ねて書かれる場合、人間の不真実さがどうであれ、神様は変わることなく愛してくださる。恵みを与えてくださる。罪を赦す真実の愛を貫いてくださる。そういう意味になります。
 「まこと」は、新約聖書の特にヨハネ福音書では「真理」と訳され、このように使われます。

 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(ヨハネ1:14)

 「言」は、イエス様のことです。神の「独り子」として天地創造の時から生きておられた方が人間となって、この世界に生きられた。そこに神の「栄光」が現れている。その「栄光」「恵み(慈しみ・憐れみ)と真理(まこと)」に満ちていた、とヨハネは言います。
 また、ルカ福音書の1章には、五回もエレオス(憐れみ・慈しみ)が出てきます。つまり、イエス・キリストが人として誕生されたことに神様の尽きることのない憐れみ、慈しみが現れているのだと、ルカは告げているのです。
 詩編57編の作者は、「神よ、遣わしてください、慈しみとまことを」と言って、「慈しみとまこと」を擬人化しています。「慈しみとまこと」を、神から遣わされる使者のように描写しているのです。ヨハネ福音書は、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と言います。
 つまり、イエス様こそ神の「慈しみとまこと」を体現する方なのです。この方を信じる者が永遠の命を得る、つまり救われる。それが、新約聖書のメッセージです。しかし、その「救い」とはどういう救いなのか。

 救ってください

 「わたしを踏みにじる者の嘲りから、わたしを救ってください」と言った後に、彼は、「わたしは心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます」と言うことになります。目に見える状況としては闇に覆われている時に、救いを確信して賛美したのだと思います。だとするならば、その「救い」とは、危機的状況からの救出ではないことになります。少なくとも、その意味だけではあり得ません。
 私たちが、「踏みにじる者の嘲りから、わたしを救ってください」という言葉を読んで思い起こすのは、主イエスの十字架の場面ではないでしょうか。議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら自分を救うがよい」と嘲りました。兵士たちは「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言い、隣の十字架に磔にされた犯罪人の一人は、「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵ったのです。
 彼らはすべて、「救い」を具体的な状況として捉えています。奇跡的な方法で十字架から降りて生き永らえる。それが、彼らが考える「救い」なのです。そして、自分で自分を救うことが、彼らの救いなのです。
 しかし、十字架から降りて生き永らえることが、イエス様の求める「救い」なのか、また神様が人間に与える「救い」なのかと言えば、そんなことはありません。槍のような歯と剣のような舌を持つ人々に囲まれながら、主イエスはこう祈られたでしょう。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)

 この「彼ら」とは、「自分を救ってみろ」と罵り、嘲る者たちのことでもあります。もちろん、主イエスを裏切ったユダや、三度も主イエスを否んだペトロを初めとする弟子たちのことでもあるし、「自分が何をしているか知らない」という意味で、すべての人間のことです。「救い」とは、危機的状況から脱出することだと考え、その救いを求めて奔走する愚かな人間のことです。私たちは富だとか地位だとか健康だとか、そういうものを人間の幸福の絶対条件に考え、それらのものを追い求めつつ、自ら張った網に掛かったり、自ら掘った穴に落ちることがしばしばある愚かな者たちです。国家同士でそれをすれば、戦争になります。そういうことを繰り返す私たちは愚か者です。そのことを認めるしかありません。
 問題は、網に掛かってしまったり、深い穴の底に落ちてしまった時に、「神よ、憐れんでください」と叫ぶことができるかどうかです。そこに私たちの救いが掛かっているのです。

 「慈しみとまこと」としての主イエス

 もう一人の犯罪者は、イエス様を罵る犯罪者をたしなめました。自分たちは犯した罪の当然の報いを受けているのだ。「しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言った上で、「イエスよ、あなたの御国においでになる時には、わたしを思い出してください」と懇願しました。
 彼は、十字架から降ろされるという「救い」は求めませんでした。この世で犯した罪に対する罰は、受けなければならないのです。でも、人間の裁きとは別に、神様の裁きにおいて赦されるのであれば、赦されたいと願っているのです。自己保身のためにイエス様を十字架に磔にした上に、「自分を救え」と罵り嘲る者たちの罪が赦されるようにと十字架の上で祈る。そのイエス様の姿を見た時、彼は神に遣わされた「慈しみとまこと」そのものを見て、「慈しみとまこと」そのものである方に縋ったのだと思います。
 その彼に主イエスは、こうおっしゃいました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」(ルカ23:43)

 彼が、十字架から降ろされる訳ではありません。主イエスも同じです。主イエスは彼と共に、そして彼のために、十字架の上で死にます。彼の罪が赦され、彼を楽園に生かすためにです。主イエスは、そのような「救い」を与えるために、神から遣わされたのです。「慈しみとまこと」そのものとして。

 成し遂げられた

 詩編57編の作者が祈り、また賛美する「いと高き神」は、「わたしのために何事も成し遂げてくださる神」です。「成し遂げる」の原語は、「終わりをもたらす」という意味で、場合によっては「絶えてしまう」ことを意味します。詩編12編は「主よ、お救いください。主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から、信仰のある人は消え去りました」と始まりますが、「絶える」「成し遂げる」と同じ言葉です。
 ヨハネ福音書によれば、主イエスは十字架の上で「成し遂げられた」とおっしゃった後に息を引き取られたのです。主イエスは、罪人の罪を背負い、罪人の身代わりになって地上の命を絶たれたのです。でも、そのようにして、信じる者に永遠の命を与えるという神の「栄光」を地上に輝かせたのです。

 栄光を現す

 ヨハネ福音書17章で、主イエスは「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と、祈られました。
 神から遣わされた「慈しみとまこと」そのものであるイエス様が、神様から与えられた業を「成し遂げて」現してくださった「栄光」とは、すべての人間に罪の赦しを与え、信じる者に永遠の命を与える愛です。独り子をさえ惜しまずに罪人に与える神様の愛なのです。「慈しみ」「まこと」も憐れみも、すべてこの愛に収斂されていくのです。この「愛」にこそ、神様の「栄光」が現れているのですが、それは十字架からイエス様を降ろす所に現れる栄光ではなく、十字架の死を通して与えられる赦しの愛、その愛を通して現れる栄光です。
 私たちは、主イエスを信じる信仰において、既にその命を生き始めているのだし、教会はパラダイスを先取りした信仰共同体なのです。つまり、全地に神の栄光を現すために存在し、また遣わされているのです。

 聖餐

 私たちは、これから聖餐の食卓に招かれ、その食卓から派遣されるのです。この食卓を通して、命の言葉を頂き、命の霊を頂き、主イエスの愛の徴であるパンとぶどう酒を頂きます。信仰をもって与る時、私たちは聖餐式を通して罪の汚れを清められ、そして新たな命を与えられ、御国の世継ぎとされていることを確信させられます。そして、派遣されるのです。

「平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。」

 今の世界が明るい希望に満ちているとは誰も思わないでしょう。諸国は剣や槍を研ぎ、網を仕掛け、穴を掘っています。私たちの国もそれに対抗するために剣や槍を研がねばならないと言う人々がいます。そして、盲目的にその言葉を信じる人々も大勢います。しかし、主イエスは「剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃったし、長い人間の歴史はそのことを証明しています。しかし、飽くことなく歴史は繰り返されます。
 皆、自分の栄光を求め、自分の力で自分を救えると思っているのです。目を天に向けないので、見ているものもこの世のことだけなのです。その中での栄光、その中での救いを、栄光だと思い、救いだと思っている。だから、その栄光と救いを求める争いが止むことがない。愚かなことです。私たちは、「自分が何をしているのか知らない」愚かな罪人なのです。そのことを知らなければなりません。そして、その愚かな罪人のために十字架に掛かって死に、復活してくださり、今も聖霊を与えてくださるお方がいること、その方においてこそ神の栄光が現れており、その方を信じる所にのみ救いと呼ぶべきものがあることを知らなければならないのです。
 私たちは、神の慈しみとまことのお陰で、その信仰に導かれました。だから、私たちは賛美するのです。賛美することにおいて、神の栄光を現していくのです。どんなに闇が深まっても、決して消えることのない光である主イエス・キリストを賛美する。そこに私たちに与えられた恵みがあり、使命があります。礼拝と礼拝から始まる一週間において、その使命を果たすことができますように。主をいつも受け入れていれば、主が果たさせてくださいます。
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