「神はこの地を裁かれる」

及川 信

       詩編 58編
58:2 しかし、お前たちは正しく語り
公平な裁きを行っているというのか
人の子らよ。
58:3 いや、お前たちはこの地で
不正に満ちた心をもってふるまい
お前たちの手は不法を量り売りしている。
58:4 神に逆らう者は
母の胎にあるときから汚らわしく
欺いて語る者は
母の腹にあるときから迷いに陥っている。
58:5 蛇の毒にも似た毒を持ち
耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで
58:6 蛇使いの声にも
巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない。
58:7 神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。
主が獅子の牙を折ってくださるように。
58:8 彼らは水のように捨てられ、流れ去るがよい。
神の矢に射られて衰え果て
58:9 なめくじのように溶け
太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。
58:10 鍋が柴の炎に焼けるよりも速く
生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。
58:11 神に従う人はこの報復を見て喜び
神に逆らう者の血で足を洗うであろう。
58:12 人は言う。
「神に従う人は必ず実を結ぶ。
神はいます。
神はこの地を裁かれる。」

 「大いなる沈黙へ」

 先日、「大いなる沈黙へ」という映画を観ました。昨日の青年会の一日修養会では、その映画を観て感想を述べ合うことがプログラムの一つでした。フランスのアルプス山脈に建つグランド・シャルトルーズ修道院の生活を、撮影したドキュメンタリー映画です。その修道院は、戒律が最も厳しく外部社会とは全く隔絶していることで有名な修道院だそうです。2時間49分の間、ミサの讃美歌以外に言葉や音楽はなくナレーションもありません。淡々と修道院の中の生活の場面が出てきます。修道士たちに会話が許されるのは、日曜日のミサの後の散歩時に限られているそうです。
 最後に、盲目の修道士が少しの間、語る場面が出てきます。彼は、「この世には神を思う思いがない。ここではひたすら神を思うのだ」と言っていました。彼が願っていることは自分の魂が浄化され、死して後に神の御前に立つこと、神の国に入れられることです。ただただそのことを願って、祈りの日々を送っているのです。

 主はおられなかった

 その映画の冒頭と最後に、列王記上19章の言葉が字幕で映されます。それは、こういう言葉です。

 「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」(列王記上19:11〜12)

 字幕では、「ささやく声」は「さざめき」だったように思います。今、柴田安子神学生が恵比寿の聖徒教会で夏季伝道実習をしており、先週、生まれて初めての礼拝説教をし、今も説教をしているはずです。30年以上も前に、私も信徒が四名しかいない信州の佐久教会で、生まれて初めて説教をさせて頂きました。その時に語ったのが、今お読みした言葉です。それは、説教者として生きる私にとって忘れ得ぬ体験です。
 列王記上19章には、預言者エリヤのことが記されています。彼は、紀元前9世紀のアハブ王の時代に活躍した預言者です。アハブは、経済的繁栄をもたらす一方で、外国の王女イゼベルを妻に迎え、異教の神バアル宗教を導入し、主の預言者たちを迫害した王です。そういう意味で、最も強く主の怒りをかった王なのです。エリヤはアハブ王に激しく抵抗して、一時的にはバアルの預言者に戦って勝利したこともありますが、そのことで、イゼベルの怒りを買い、エリヤの命が狙われることになります。
 エリヤは非常に恐れて、イスラエルの信仰的故郷とも言うべきホレブ(シナイ)山に逃亡します。その途中で、心身共に疲れ切った彼は、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と主に願うのです。悪と腐敗に満ちたこの世に生きることに、すっかり疲れたのです。一人で抵抗し、主の力を得て一時の勝利を収めることがあっても、世の権力者の力には到底かなわないことを痛感したのです。彼らは、必ず神ならぬものを神として崇めさせることで、自分たちの支配を強化します。
 私たちの国にもかつて「現人神」というものがいたし、今も「英霊」がいるようです。こういうものは、なかなかなくなりません。支配者たちは自己の支配を正統化する神話を必要とするからです。
 この箇所で説教をした時の私は、まだ24歳の青年神学生でした。見た目には若々しい青年だったと思いますが、人間の歴史に関してはかなり疲れ切っていました。列王記に出てくる「風」「地震」「火」は自然現象だけではなく、社会現象とか歴史的事件のことだと思います。旱魃がある度に貧しい者が債務奴隷に陥ったり、餓死したりしたでしょう。自然現象はしばしば社会現象を伴います。戦争があり、クーデターがあり、人々が血を流していました。人間の歴史においては、そういう出来事が延々と繰り返されているのです。
 「風」「地震」「火」の中に、「主はおられなかった」とあります。この世の現実の中に「神の裁き」、「神の統治」を見ることができなかったということです。もし、この地上に神の裁きがないとすれば、生きていく希望を見いだすことができるのか。それが、エリヤの問題だったと思いますし、青年であった私にとっても切実な問題でしたし、その点は今もまったく変わりありません。
 エリヤが経験した現実は、すべては支配者のなすがままであり、支配者に刃向う者は抹殺されるというものです。そこに「主はおられなかった」。エリヤがシナイ山の洞窟で改めて確認させられた現実は、そういうものです。

 静かにささやく声

 しかし、その後にこういう言葉が続くのです。

「火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」

 その「静かにささやく声」を聞いて、エリヤは外套で顔を覆い、洞穴の入り口に立ちます。すると、主は再び彼にこう語りかけます。

「エリヤよ、ここで何をしているのか。」(列王記上19:13)

 主は、エリヤに北王国に帰り、新たに王を任命し、彼の後継者としてエリシャを任命することを命じられます。この世に絶望して、自らの死を願ったエリヤが聞いた「静かにささやく声」は、これまでの歴史を転換する言葉でした。その言葉を聞いたエリヤは、自分の命を狙う王妃が待つ、北王国に敢然と帰っていきます。死を願った人間が、一国の歴史を転換するような使命を与えられて派遣されるのです。
 青年だった私は、茫然とする思いでこの物語を読みました。こんなことがあるのか?!という思いでした。その時私は、エリヤが聞いた「静かなささやく声」を聞くことができれば、私も生きていけると思ったのです。その声を聞くことができるなら、ただ生きるのではなく、望みをもって生きていける。その望みさえあれば、疲れて倒れることがあっても、再び立ち上がることができる。そう思ったのです。だから、この箇所を人生初の説教個所に選んだのです。
 今も、礼拝の中で、「静かにささやく声」であれ、預言者アモスが聞いた「獅子がほえる」ような御声であれ、主の御声を聞くことが出来なければ、望みを持って生きていくことなどできません。死ねないから生きていく。生きているから生きているしかない、と思うだけです。

 世界の現実

 私たちを取り巻く世界の問題、また私たち自身が内に抱え持っている問題は、いつも深刻なものです。毎日毎日、心が折れるニュースを見聞きしながら、私たちは生きています。ガザ地区でも、ウクライナでも、新疆ウイグル自治区でも、多くの人々の血が流されていますが、当事者同士は血の責任を相手側に押し付けるだけです。
 国内では、設置当初から不正な金にまみれた原発の再稼働が決まっていきます。利益を受ける者たちがすべてを決めていくのです。戦争だって同じことです。戦場で死ぬのはいつも庶民です。庶民が戦争を望む訳ではないし、決定する訳ではありません。そして、庶民は戦争で利益を受けません。しかし、受ける者たちがいます。
 この世では、力がある者、強い者が正しい者なのです。強者の子として生まれた者や、弱者であったのに強者に成り上がった者は、必ず自分の「正義」を作り出しては振りかざし、結局、不正に絡め取られていきます。そのことには、ほぼ例外がありません。そういう現実は、国家権力という大きなものでなくとも、小さな職場、家庭、対人関係の中でも普通に見ることができるのですから、私たちは誰も、「自分は例外だ」とは言えないと思います。

 神に逆らう者の業

「しかし、お前たちは正しく語り
公平な裁きを行っているというのか
人の子らよ。
いや、お前たちはこの地で
不正に満ちた心をもってふるまい
お前たちの手は不法を量り売りしている。」

 58編の作者は、こう語り出します。彼もまた、今から二千数百年も前に、この世の支配者の本質を嫌というほど見させられ、疲れ切る思いの中で、不正に満ちた支配者、権力者を告発しているのです。
 作者は、彼らを「神に逆らう者」と言います。その後の叙述を見れば、「邪悪な者」と言っても良いでしょう。その悪の根源は、神への反逆です。「自分が神だ」と思い込むのです。そこに、邪悪の本質があるのです。その邪悪の根深さは、彼らが母の胎にある時からである、と言わざるを得ない程に深い。
 彼らの邪悪は、毒蛇の毒のように人を殺すものです。しかし、毒蛇でも蛇使いの呪文に従う場合があります。でも、彼らは最早何者の声も聞かない。内なる欲望の声のみに従い、その暴走を誰も止められないのです。いわゆる「愛国者」とか、「原理主義者」とはそういうものでしょう。そういう「愛国者」が国のリーダーであることは、怖いことです。自分の願望と正義の区別がつかないからです。自分が願っていることはすべて正義だと思い込んでいる。「母の腹にあるときから迷いに陥っている」とは、そういうことでしょう。
 7節から10節にある言葉は、読んでいてたじろぐ思いもしますが、痛快でもあります。詩編作者の凄い所は、愛国者や原理主義者のように、敵に対する憎しみに基づく報復を正当化し、自分たちの手で実行しないことです。愛国者や原理主義者は、「神は偉大なり、敵に死を!」と叫んで、実行に移すことがしばしばあります。それは、神の名を語りながら、自己を神格化していることに他ならないと思います。つまり、「迷いに陥っている」。

 「神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。主が獅子の牙を折ってくださるように」
と、作者は願います。「裁き」「報復」を主に任せるのです。具体的には、自然災害とか外敵の侵入とか、病とかによって支配者の権力が無力化されるか、命を落とすことが願われているのだと思います。
 「獅子」は、しばしば支配者に例えられます。エゼキエルは、イスラエルの王族たちを「獅子」に例えてこう言っています。

その子獅子は若獅子に成長し
獲物を取ることを覚え
人々を餌食とした。
(エゼキエル19:3)

 王族に生まれた者は、ほぼ例外なく成長すると人々を獲物とし、餌食とすることを覚えるものです。往々にして帝王学とは、そういうものでしょう。こういう獅子に対する神様の裁きの言葉が、この後に続きます。
 私たちの国でも、政治家たちの賄賂とか公金の不正使用は日常的に行われていますが、極めて規模が小さいと言えます。世界には、権力を持った政治家や官僚と闇社会の人間の区別がつかないような国々が至る所にあります。そこには、巨悪と言うべき支配があります。そういう恐るべき支配者に弾圧され搾取されている人々が、暴力による反抗の道を選ばないとすれば、「彼らの口から歯を抜き去り」、「牙を折ってくださるように」と、神様に願う以外にはないでしょう。さもなくば、すべてに絶望するしかありません。
 作者は、邪悪な者たちが「水のように捨てられ、衰え果て、なめくじのように溶け」「太陽を仰ぐことなく」死ぬ「流産の子」となることを願い、「生きながら」にして神の「怒りの炎に巻き込まれる」ことを願います。でも、願いどおりになどならないのです。それは、神の自由に属することだからです。
 「風」、「地震」、「火」の中に主がおられない。その御姿を見ることができない。主の正義の業を見ることができないとすれば、エリヤでなくとも「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と、願いたくなるでしょう。現実を直視し、神の正義を求める人こそが疲れ果て、自らの死を願わざるを得ない。そういう深刻な矛盾があります。「長いものに巻かれろ」ということであれば、そんなことにはなりません。しかし、それは聖書においては人が生きる姿ではありません。私たちは「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)と言われているのですから。

 神に従う人

 神の正義を求める人々を、作者は「神に従う人」と言います。「正しい人」とも訳される言葉です。詩編一編によれば、それは「神に逆らう者の計らいに従って歩まず、(中略)主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」です。そういう人は、「流れのほとりに植えられた木」のように、「ときが巡り来れば実を結ぶ」のです。
 主の教えを愛し、従う歩みが結実するのは未来のことなのです。今ではありません。58編12節の「神に従う人は必ず実を結ぶ」も同じことを語っています。
 そのことを踏まえた上で、最後の部分に入りたいと思います。

神に従う人はこの報復を見て喜び
神に逆らう者の血で足を洗うであろう。
人は言う。
「神に従う人は必ず実を結ぶ。
神はいます。
神はこの地を裁かれる。」

 「神に逆らう者の血で足を洗う」
とは、この場合、神の勝利を確信し、神の勝利に与ることを望む信仰の表現なのです。自分で敵に対して血なまぐさい報復をし、敵の血を見て喜ぶのではありません。神に従う人間が見て喜ぶ「報復」とは、神がなさる報復であって自分がする報復ではないのです。自分が報復すれば、自分自身が「神に逆らう者」と同じ人間になっていくからです。しかし、私たちが報復しないとすれば、それは神が報復してくださると信じることができる時でしょう。

 神はいます

 「人は言う」とあります。この「人」とは、「神に従う人」です。「そこに主はおられない」としか思えない厳しい現実の中で、それでも「主の教えを愛し、昼も夜も口ずさみ」つつ、いつの日か実を結ぶことを信じている人です。その人は、どんなに厳しい現実の中でも、「神はいます。神はこの地を裁かれる」と、確信をもって言うのです。
 「神はいます」という言い回しは、ここと少年ダビデがペリシテ人の大男ゴリアトが戦う場面にしか出てきません。イスラエルの軍人の誰もが恐れてゴリアトとの一騎打ちに名乗り出ないのに、羊飼いの少年ダビデが「わたしが戦います」と名乗りを上げるのです。彼は武具を着ることを拒否し、羊飼いが野獣を追い払うために使う革製の石投げの道具をもってゴリアトの前に立ちます。大男のゴリアトは、目の前に立つ少年ダビデを見て嘲笑います。しかし、ダビデはこう言うのです。

「わたしは、お前を討ち、お前の首をはねる。(中略)全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。」(サムエル記上17:46〜47)

 主は、剣や槍を用いないで勝利する。武器を使わずに救いを与えてくださる。そのことを通して、全地の人間が「イスラエルに神がいますことを認める」ことになる。主は、そのために戦われるのです。

 主の裁き

 それは「裁き」に関しても言えることです。58編は冒頭の1節と末尾の12節に「裁き」(シャーパト)が出てきます。前者は「神に逆らう者」「裁き」で、後者は「神の裁き」です。前者は「不法を量り売りしている」裁き、つまり不正な富を蓄積するための裁きです。それでは、後者の神の裁きはどういう裁きか。
 エゼキエル書の28章や30章に、主が「裁きを行う」という言葉が何度も出てきます。裁きの具体的内容は一国の滅亡だったり、捕囚の地バビロンからのイスラエルの帰還だったりします。問題は、神様がそういう裁きをなさる目的です。
 主は、こう言われます。

「わたしはその中で裁きを行い
自分の聖なることを示す。
そのとき彼らは 
わたしが主であることを知るようになる。」
(エゼキエル28:22)

 武器を使わない主の「戦い」も、聖なる主の「裁き」も、「主がいます」ことを人々に知らせるためであり、イスラエルの神こそが唯一の「主」であることを知らせるためなのです。そういう裁きが貫徹されることに対する確信を表明して、作者は祈りを締め括ります。
 彼を取り巻く現実は、少しも変わっていません。不正と暴虐は、相変わらず満ち満ちているのです。でも、彼は「神はいます。神はこの地を裁かれる」と告白し、賛美している。つまり、「現実が」ではなく、「彼が」変わったのです。

 パウロの回心

 新約聖書に出てくる人物で、最も激しく変わったのはパウロでしょう。彼は、かつては熱心なユダヤ教徒としてキリスト者を憎み、迫害していた人物です。しかし、ダマスコという町のキリスト者に弾圧を加えるべく旅をしていた道中で、天からの光に照らされ、地面に倒されました。その時、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。「主よ、あなたはどなたですか」との問いに対して、主は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えられました。
 主イエスは、ご自分を迫害するサウロを赦し、あろうことかキリスト者として洗礼を授け、さらに伝道者として立てようとされるのです。ダマスコの教会のリーダーであったアナニアは、当初はそのことに納得がいきません。当然です。パウロによって多くのキリスト者が捕えられ、鞭を打たれ、殺されてきたからです。でも、主イエスが、迫害者をも赦し、新たに生かすお方であることを知らされ、その愛の深さに打たれました。そして、彼も根本的に造り替えられて、自分たちを迫害するためにやって来たパウロを「兄弟」と呼んで、洗礼を授けたのです。パウロが変えられる前に、アナニヤという一人のキリスト者が変えられたのです。そして、決して和解できようはずもない者同士が、十字架と復活の主イエスの愛によって和解し、一つの交わりに入ったのです。そこに神の裁きがあるのです。
 しかし、その時から、パウロは、ユダヤ教徒から裏切り者として命を狙われることになりました。彼を憎んだのはユダヤ人だけではありません。異教の神々の偶像を売って商売をしている人々も、宗教家たちも彼を憎むし、この世の権力者も「イエス・キリストこそ服従すべきお方である」と主張する彼を憎みます。彼は伝道に行く先々で敵に囲まれ、捕えられ、幾度も鞭打たれ、牢獄に閉じ込められ、死刑に処せられそうになります。
 そのパウロが、ローマの教会の信徒に向ってこう言うのです。

愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、 (中略)霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。(中略)あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。(中略)愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。 (ロマ書12:9〜21)

 神は、ご自身に逆らう者を敵と見做し、怒りをもって報復されます。復讐の裁きを与えるのです。そうすることで、ご自身が主であることを知らせるのです。

 神の正しい裁き

 しかし、その報復、あるいは復讐はどういうものなのか。神は、どのような裁きをなさったのか?パウロはこう言います。

「 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。(中略)今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ロマ書3:23〜26)

 ご自身の独り子であるイエス・キリスト、ただ独り罪を犯されなかったイエス・キリストを十字架に磔にし、その血によって罪人の罪を償う供え物となさる。神はそのようにして、ご自身に逆らう者たちに対する報復をなさった。悪に対して善をもって復讐されたのです。私たちは、この方の「血で足を洗う」ことになったのです。この方の血で、罪を洗い清めて頂くのです。信じ難いことですが、ここに神の正しい裁き、神の報復が現れているのです。私たちは、その「報復を見て喜ぶ」のです。この十字架の主イエスを見て、「神はいます。神はこの地を裁かれる」ことを知るからです。信じる者には、その裁き、支配が見えるからです。
 主イエスは十字架の死から三日目に復活し、天に挙げられ、聖霊を降し、この地上にご自身の体である教会を誕生させ、今も、ご自身の支配を打ち立てる御業をなさっておられます。そして、世の終わりの時にその御業を完成させてくださいます。その時、人々は、この十字架に磔にされたお方が、天地を貫く神の国の王であることを知るでしょう。私たちがこれから与る聖餐の食卓は、主の勝利の証なのです。私たちはそこで、主の勝利を祝うのです。
 主が勝利されていることを既に信じている私たちは、神の国を受け継ぎます。罪と死に対するキリストの勝利に与るのです。それが、私たちが必ず結ぶことになる「実」なのです。私たちは、その日が来ることを信じて歩まねばなりません。疲れ切って倒れても、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」と言いたくなることがあるとしても、「静かにささやく声」を聞くことさえできれば、希望をもって生きていけるのです。それは単に生きることではありません。この地上を裁く神がいますこと、終わりの日には生ける者と死ねる者とを裁く主イエスが到来して救いを完成してくださるという福音を証しながら生きることができるのです。こんな喜ばしいことはありません。

 苦労は無駄にならない

 パウロは、世の終わりの復活の希望を語った後に、こう言いました。

「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
(Tコリント15:55〜58)

 そうです。私たちは知っているはずです。この世の権力者、支配者がどれほどの力をもっていようと、罪と死に対しては全く無力であることを。救いは剣や槍によって与えられるものではないことを。私たちは既に、十字架の死と復活によって勝利された主イエス・キリストを信じているのです。そこに現れた神の復讐、神の報復を見て驚き、喜んでいるのです。だから、悪に対して悪をもって報いず、善をもって報いる主の業に励みたいと願います。私たちは、主に結ばれているのですから、その苦労は決して無駄になりません。私たちは、そのことを知っている、いや知らされているのです。
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