「我らを助け、敵からお救いください」

及川 信

       詩編 60編
60:3 神よ、あなたは我らを突き放し
怒って我らを散らされた。
どうか我らを立ち帰らせてください。
60:4 あなたは大地を揺るがせ、打ち砕かれた。
どうか砕かれたところを癒してください
大地は動揺しています。
60:5 あなたは御自分の民に辛苦を思い知らせ
よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた。
60:6 あなたを畏れる人に対してそれを警告とし
真理を前にして
その警告を受け入れるようにされた。
60:7 あなたの愛する人々が助け出されるように
右の御手でお救いください。
それを我らへの答えとしてください。
60:8 神は聖所から宣言された。
「わたしは喜び勇んでシケムを分配しよう。
スコトの野を測量しよう。
60:9 ギレアドはわたしのもの
マナセもわたしのもの
エフライムはわたしの頭の兜
ユダはわたしの采配
60:10 モアブはわたしのたらい。
エドムにわたしの履物を投げ
ペリシテにわたしの叫びを響かせよう。」
60:11 包囲された町に
誰がわたしを導いてくれるのか。
エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。
60:12 神よ、あなたは我らを突き放されたのか。
神よ、あなたは
我らと共に出陣してくださらないのか。
60:13 どうか我らを助け、敵からお救いください。
人間の与える救いはむなしいものです。
60:14 神と共に我らは力を振るいます。
神が敵を踏みにじってくださいます。


 自然災害の記憶

 今年の夏は記録的な暑さだけでなく、豪雨による土砂災害を各地にもたらしました。広島の土砂災害の報道番組で、安佐南区のかつての地名が話題になっていました。かつてその地は「蛇落地悪谷(じゃらくじあしだに)」と呼ばれていたそうです。「蛇が落ちてくる地で悪い谷」という意味です。大量の土砂が猛スピードで蛇行しながら流れ落ちてきて、集落が壊滅的な打撃を受けたことがあるのでしょう。先人は、その事実を地名に残して、その地には家を建てないように伝えていたのだと思います。
 東北地方の町や村の高台には、大津波の被害を伝える石碑が約二百個もあるそうですが、宮古市の姉吉地区には、なんと海抜六十メートルの位置に「ここより下に家を建てるな・・幾歳経るとも用心あれ」と書かれた石碑があるそうです。この地域は、明治と昭和の大津波で壊滅的な打撃を受けたので、以後はこの石碑よりも海沿いには建てず、先の震災においても津波による住宅被害は一軒もなく、犠牲者も出なかったそうです。先人の犠牲の上に立った警告を守り、自然の猛威に対する人間の無力さを謙虚に認めた結果、人命を救うことが出来たのです。
 その他の多くの地域では、石碑の存在は忘れられ、防潮堤などによって津波を防げると過信し、結果として多くの人々の命が失われてしまいました。
 人間が自分たちの力を過信し、過去の悲劇を忘却することが、どれほど愚かしく、恐ろしいことであるかを思わされます。

 戦争の記憶

今年の夏は戦後六十九年で、来年は七十年の節目の年となります。その間も、世界各地では戦争がありましたし、今も、ウクライナや中東で紛争があり、アフリカのいくつかの国では内戦が続いており、多くの子どもたちを初めとする市民が無残な犠牲になっています。戦争遂行の責任者はいつの時代も「正義は我々にある」と主張して譲りません。しかし、そこで行われていることは民間人の虐殺、強盗、暴行です。そして、富の奪い合いです。国の中で個人がやれば「犯罪」になることを、国が国民を洗脳したり強制してやると「正義と平和のための戦い」になるのですから、こんなおかしなことはありません。
最近も、戦犯とされた人たちを「昭和殉難者」として慰霊する法要に、戦犯とされた人たちは「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」というメッセージを首相が送ったと報道されていました。思想・信条は自由が保証されていることは大事なことですし、現首相のような考え方があること自体は不思議でもありません。私も、戦勝国による裁判が普遍的な正義に基づくものであったとは思いません。自分たちの国の政治家や軍人の残虐非道な行為を裁かないのであれば、それはやはり一面的な裁きでしょう。この世においては、常に勝った者にとっての正義に基づいて裁きや統治がなされますから、それを不当だと思う人がいるのも当然です。でも、あの無謀な戦争を始め、あそこまで長引かせ、多くの日本人と外国人を死に至らしめる結果をもたらしたことに責任がある人々を「自らの魂を賭して祖国の礎となられた」とする考え方も、一面的で不当なものだと、私は思います。そこには、戦争によって命を落としていった庶民の痛切な無念さや、家族を失った庶民の悲しみや怒りに対する想像力が欠如しており、自分に対する過信と忘却があると、私は思います。また、戦争を英雄的な行為として美化する思想があり、その思想に従って、着々と戦争が出来る国造りに励んでいるように私には見えます。そういう政治家を選んでいるのは日本の国民ですから、私のような見方をする人間はこの国では極めて少ないということでしょう。それは肌身に感じます。

 現人神とイスラエルの神

先ほど読んだ詩編六十編は、敗戦体験の中で捧げられた祈りだと思います。ある戦いに敗れたのに、新たな敵の脅威にさらされている人間の祈りでしょう。11節の「エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか」は、そのことを表わしていると思います。
そういう状況の中で、作者はこう祈り始めます。

「神よ、あなたは我らを突き放し
怒って我らを散らされた。
どうか我らを立ち帰らせてください。」

 戦争の時は、どこの国だってそれぞれの神に戦勝祈願をします。古代においては特にそうです。戦争はお互いの神と神の戦いという側面を持っており、勝った方の神が強いのだし、ご利益があるから乗り変えるということになるのです。戦時中の日本は、現人神が統帥権を持った「神国日本」でした。そういう場合の「神」は、あくまでも自国民の利益、特に権力者の利益のために存在しますから、自国民のことを批判したり、責任を追及したりはしません。現人神にしろ何にしろ国家の守護神は、人間が自分たちにとって都合のよい神として作り上げたものなのですから、そうなるのは当然です。他者性を持たないのです。所謂「キリスト教国」における神も、しばしばナショナリズムに取り込まれてしまいます。「キリストのために戦うのだ」と言ってしまえば、殺人だって略奪だって正義のためになっていくのです。そういう意味で、宗教ほど危険でおぞましいものはないと思います。「宗教は麻薬だ」とも言われますが、人間の過信と忘却を強めていく宗教は人間を内部から崩壊させていく麻薬だと、私も思います。国家そのものを神格化する宗教は、その中でも最も危険なものでしょうけれど、国家はそういう宗教を取り締まることはしません。自分が神なのですから、自分を取り締まるはずもありません。
 しかし、この詩の作者が信じている神は、ご自身が選んだイスラエルの民を「突き放し」「怒って」「散らす」神です。イスラエルの神である主は、イスラエルの民が作り出した神ではありません。神が先に存在し、ご自身の御心を教え、その御心を世界に広めるために最も小さな存在であった民を選んだのです。ですから、主なる神は、如何なる意味でも、イスラエルの願望とか欲望の道具にはなり得ず、同質のものにはなり様がないのです。イスラエルが御心に背けば、神はイスラエルに対して怒りを発し、「突き放し」「散らし」ます。「突き放す」は、「見放す」「見捨てる」「退ける」とも訳される言葉ですし、「散らす」は「粉々にする」という意味です。
作者は、そういう神の凄まじい怒りに直面し、慄き、「立ち帰らせてください」と、赦しを願っています。彼にとって、神の怒りは、「大地を揺るがせ、打ち砕く」ほど強いものであり、神の怒りによって突き放され、散らされたままであるならば、それは神の民としての彼らの存在の基盤がなくなることを意味するからです。

 神を畏れる者の洞察

しかし、彼は慄きつつも怒りの中に神の愛があることを信じています。そのことの故に、神の怒りの理由や目的を洞察して行くのです。訳も分からず怯えて、「どうかお怒りを収めてください」と懇願しているわけではありません。

あなたはご自分の民に辛苦を思い知らせ
よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませられた。
あなたを畏れる人に対してそれを警告とし
真理を前にして
その警告を受け入れるようにされた。


 二度「辛苦」と出てきますけれど、原文は違う言葉です。「辛苦を思い知らせ」は、耐え難い苦しみを味わわせることで、「よろめき倒れるほど、辛苦の酒を飲ませる」とは、悪酔いして倒れるほど酒を飲まされることで、神から与えられる裁きを象徴する言葉なのです。戦いに敗れて倒れているのに、まだエドムという敵を面前にしてどうすることもできない状態を、神の審判として受け止めているのです。
六節は翻訳も解釈も多様で困りますが、今日は『新共同訳聖書』の翻訳に表れている解釈を受け入れておこうと思います。彼は、この敗戦を審判として受け止めた上で、そこには神の真理に基づく警告があると解釈するのです。彼は、自分を突き放し、散らされる神を、自分の神として畏れ敬います。そこが、人間の願望と一体化した国家神道とかナショナリズムに毒された宗教との決定的な違いです。
神を畏れる作者は、神の怒りの中に警告を読み取り、自分が陥っていた過信の罪を知らされたのです。だから、彼はひたすら神に懇願するのです。「助け出されるように」「お救いください」と。神が、自分たちの罪を赦してくださるなら、神様は救ってくださる。そう確信して「それを我らへの答えとしてください」と言うのです。

 神託  神の敵

8節から10節までは、神殿で与えられた神様の神託です。ざっくりと言ってしまえば、ダビデ王時代にあった領土の回復と、絶えずイスラエルを脅かすモアブとかエドムとかペリシテという周辺諸民族を制圧することが言われています。これは神の宣言ですから、それを実現するのは神ご自身です。神を利用した人間がすることではありません。
だから、彼はこう言うのです。

包囲された町に 誰がわたしを導いてくれるのか。
エドムに、誰がわたしを先導してくれるのか。
神よ、あなたは我らを突き放されたのか。
神よ、あなたは
我らと共に出陣してくださらないのか。


 いきなり出てくる「わたし」が誰なのか、色々と推測されますが、特定は難しいでしょう。でも、戦争の指揮をとったものであることは間違いないでしょう。王かもしれないし、将軍かもしれません。彼は、その戦争に負け、多くの人が死んだのです。そういう意味では、戦犯と言って良いかもしれません。しかし、今、彼は新たな敵に直面しているのです。敗戦の痛手を負っている自分たちに追い討ちをかけようとする敵がいる。神が先導してくだされば戦闘に勝利をすることを、彼は確信しています。だから、神が共に出陣してくださらなければ、出陣しないと心に決めたのです。敵の脅威が間近に迫っていても、戦力を整えたり作戦を立てず、神に祈る。もし、神がこれからも自分たちを突き放し、散らすことを望まれるのであれば、そうなる。しかし、神様が悔い改めと信仰を受け入れてくださるなら、彼は自分のためにではなく、神のために神と共に戦うと言っています。

  どうか我らを助け、敵からお救いください。
人間の与える救いはむなしいものです。
神と共に我らは力を振るいます。
神が敵を踏みにじってくださいます。


 人間は、自分の力で自分自身を救うことはできません。それは、長い歴史の中で既に明らかになったことだと思います。しかし、手痛い経験をしても、それを忘れ、自分を過信する。それが人間だとも言えます。
広島の原爆公園の石碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と記されています。毎年、その石碑の前で総理大臣は平和を構築することを誓いますが、それはあくまでも武力によって築かれる平和であり、その意味では「これからも過ちを繰り返します」と誓っていることになると、私は思います。世界中の多くの人々が同じように考えているのです。しかし、そこで考えられている「平和」は、自分たちの利益のことであって、他人の、まして敵の利益のことではありません。私たちは、その「平和」を自分で作ろうとして、実はどんどん神の敵となり、神との平和を破壊しているのだと、私は思います。

 1941年クリスマス礼拝

 中渋谷教会は、数年の前史を経て、1917年(大正6年)9月29日に創立されたので、2017年の9月に創立百年を迎えます。その翌年には、『百年史』を刊行すべく編纂委員会が準備を始めています。『百年史』は『八十年史』以降の二十年間の伝道と牧会の記録になります。しかし、八十年の略史を牧師が書くようにと編纂委員会から言われたので、昨年の夏に森明牧師時代を書き、今年は牧師としては二代目の山本茂男牧師と三代目の佐古純一郎牧師時代を書きました。森明牧師の時代は日清、日露戦争後に、日本が東アジアに侵略を始めた時代です。 昭和の幕開けと共に始まった山本牧師時代の前半は太平洋戦争に突入して行く時代です。その時代に残された記録の一つに、1941年の12月21日、クリスマス礼拝で語られた山本茂男牧師の説教があります。『百年史』にも掲載すべきだと思って、抜き書きをしました。1941年12月と言えば、日本が真珠湾攻撃をした直後のことです。国中が大きな戦果に沸き立っていたのです。そういう高揚とした雰囲気の中で、山本牧師は熱烈に語ります。

東亜民族の盟主として、唯一なる姿定勢力として、米英などの勢力から東亜民族を解放し、共栄による新秩序を建設して東亜の平和を齎し、引いては世界平和を確立するのが日本の国是である。大東亜戦争は此の日本の理想を阻害し、却って挑戦的に日本の存立を脅かし、之を屈従せしめんとした米英に対する自立自衛の戦いであり、東亜民族独立のための正義の戦いである。それは平和のための戦争である。これ誠に大いなる矛盾ではないか。然り、大いなる矛盾であるが、これが大東亜戦争の実相であり、世界歴史の現実である。

現実の世界は複雑ですし、そこには様々な矛盾があります。私たちも日本国の国民として生きているし、東アジア文化圏に生きる人間でもある。同時に、国籍を天に持つひとりのキリスト者として生きています。そのことも複雑なことだし、互いに矛盾を孕むことです。
戦時中のキリスト教会は、戦闘機を献上するために一生懸命に献金をしました。それも、キリスト者の信仰に基づいてやったことです。愛国心と信仰心が混然一体となっていたのです。嘘で塗り固めた大本営発表の情報しか手に入らないのですから、あの戦争が東亜新秩序の確立と世界平和の実現のためだと信じてしまうことも無理のない話です。西欧諸国の多くの人々も、彼らの基準から見て未開な地域を文明化し、キリスト教化するための植民地政策は、神様から見ても正しいことだと思っていたでしょう。しかし、日本でも西欧でも、庶民は、国家が流す宣伝の裏で何をしているかを知り様もなく、流される嘘を真実だと信じるしかないのでしょう。
本当のことは後から知る。それは仕方ありません。でも、後から知ったことを、どう受け止め、評価するかが問われます。敗戦を、神から与えられた警告として真摯に受け止めるか否かは、今の私たちが問われていることです。
一九四一年当時、多くの牧師や信徒たちが、知り得なかったことは沢山あります。戦後を生きている私たちは、その当時の嘘や過ちを知っているのですから、もう同じ過ちは繰り返してはならないでしょう。
そのために大切なことを、山本牧師は説教の結論で語っています。

繰り返して言う。我々日本国民は今鉄石の決意を固めて、大東亜戦争に運命を賭して戦いつつある。それは東亜新秩序の確立、世界平和を招来せんためである。然し、同時に真の平和は人間の罪の克服にあることを知らねばならぬ。そして、人類の罪の克服、罪よりの人類の解放のために、神自ら、独り子イエス・キリストによって救いの道を開き給うたのだ。聖誕節は実に人類解放の歓喜の音信である。これに勝る神の大いなる思惑はない。これは万人への恩恵の賜物である。真に国を愛し、東亜の平和を建設せんとするものは、此のキリストの福音を同国民と東亜の民族にもたらすべき使命を委ねられてあることを自覚し、これがために我らも亦生涯を捧げ、身命を捧げて恩寵に応えまつらねばならない。

 私たちにとって最大の敵は、私たち自身を過信させ、すべてを忘却させ、過ちを繰り返させ、ついに滅亡に至らせる罪なのです。敵を見誤れば戦いになりません。その罪が、この世に地獄を作りだしていくのです。町を破壊し、人を殺し、子どもたちを傷つけ、その心をずたずたに引き裂き、復讐心を植え付け、復讐の連鎖を産み出す。罪に支配された人間が、そういう地獄を作り出していくのです。
 罪の力に負ける。完膚なきまでに打ちのめされる。そして、罪に支配されて神の敵となった人間は、神様に突き放され、散らされる。そういう経験を、私たちは様々な意味でして来ているはずです。しかし、本当の敵が誰だか分かっていないので、自分が負けていることも、裁かれていることも分からない。ただひたすら、正しいこと、美しいことをやっていると思っている。罪の奴隷とは、そういうことです。なんと惨めなことかと思います。この惨めさから救われないかぎり、私たちに希望はありません。

 キリスト者の使命と幸い

 最後に、詩編六〇編を新約聖書との関連で読み直したいと思います。詩編六〇編の根本的な問いは、神はご自身の選びの民イスラエルを完全に「突き放した」かどうかです。神様は罪に敗れたイスラエルを愛し、イスラエルを助け出し、救ってくださるかどうかなのです。この「突き放す」「助ける」「救う」と訳されたヘブライ語のギリシア語訳が、パウロが書いたローマの信徒への手紙11章に出てきます。
 パウロは、神が送った救い主イエス・キリストを神の民イスラエルが信じないことを心から悲しみます。そして、ローマ人を初めとする異邦人が信じている現実の中で、異邦人キリスト者に問いかけます。「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか」と。しかし、即座に「決してそうではない」と否定します。「退けられる」「突き放す」と同じ言葉です。神は、今もイスラエルを退けてはいない。「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われる」のだ、と言うのです。
そして、彼はイザヤの預言を引用します。

「救う方がシオンから来て、
ヤコブから不信心を遠ざける。
これこそ、わたしが、彼らの罪を取り除くときに、彼らと結ぶわたしの契約である。」


 「救う方」が、詩編六〇編の「助け出す」と同じ言葉です。その救いとは「罪を取り除く」救いなのです。敵対する近隣諸国の圧迫からの救いではない。この世的な、一時的な、部分的な救いではありません。人間存在そのものを新たに造り替えてくださる救いなのだし、神の国に於いて復活の栄光にあずかる救いなのです。シオン(エルサレム)で十字架に磔にされ、復活されたイエス・キリストが、世の終わりの日に再臨して、神の国を完成してくださる。その時に、完全な形で実現する救いに入れて頂ける。それが、神様が今、新しいイスラエルである私たちと結んでくださっている契約であり、神の民イスラエルにも提示してくださっている契約なのです。信仰によってこの契約を結ぶ時にのみ、私たちは神様と和解することが出来るのだし、互いに敵対している私たち人間同士も和解できるのです。
究極的な平和は私たちが作り出せるものではありません。ただ神様が送ってくださったイエス・キリストが十字架の死と復活、昇天と再臨を通して造り出し、打ち立ててくださるものなのです。私たちは、自分たちの力を過信してはならないし、過去の過ちを忘れてもいけないのです。私たちキリスト者は神様を信じ、神様の契約を忘れず、この世に於いて何を言われても、「非国民だ」と言われても「キリストの福音を同国民と東亜の民族にもたらすべき使命を委ねられて」いる者たちなのです。神の言葉を語る者が、神に敵対している世から迫害されるのは、当たり前です。イエス様だって、そうおっしゃっています。「すべての人々から褒めそやされたら気をつけろ。信仰を証するが故に迫害されるのなら、その時こそ喜べ。あなたたちは幸いだ、神の国はあなたたちのものだ」と。そして、私たちも生まれ育ったこの国を愛するからこそ、神の愛を宣べ伝えるのです。愛がないなら、何を言っても、やかましいシンバルに過ぎません。

 共に出陣してくださる神

 先週発行された会報には、戦争体験者の奥山さんと、現代の青年である中川さんが、戦争と平和に関する文章を寄せてくださいました。
アメリカ軍の支配下にあったサイパン島で八月十五日を迎えた奥山さんは、こういう文章で最後を締めくくられました。

「日本の敗戦は既に予想されたことであったが、私は情報確認のため班長と共に、ボーイ担当責任者の居住する将校宿舎に足を運び、『日本は降伏したのですか』と尋ねた。宿舎内の庭の植木の手入れをしていたその将校は、優しく言った。『戦争は終わった。皆友達だ』。
以上、約七十年を経過した今日でも、鮮明に甦ってくる事実を記述しました。」

 この「皆友達だ」というアメリカ軍将校の言葉を実現するための人間的努力は必要です。しかし、六〇編にあるように、「人間の与える救いはむなしいものです。」敵であった者が真実の友となるために、イエス様は「救う方」として来てくださったのだし、再び来てくださるのです。そのイエス・キリストの下に立ち帰らねばなりません。お互いに軍備を増強しつつ、真実の友達になることなど出来ようはずもありません。
 中川さんは、そのイエス様について書くことで文章を締め括られました。

「イエスは、自分の腸(はらわた)が千切れるくらい隣人の痛みを自分の痛みとして『憐れんだ』方だった。今の私は、この姿に従うことから始めたい。戦争は、私の生きる社会と断絶された昔話ではない。私が生きる社会と、戦争が起きたときに生きていた人が生きた社会とはつながっている。それが実感できた今、私は平和について考え始めることができる。」

 そうです。私も戦前、戦中の日本とその中に生きる中渋谷教会の歩みを辿りつつ、戦前の日本人の歩みと現在の歩みはつながっていることを実感しました。そして、私たちは同じ過ちを繰り返してはならないと改めて思いました。そして、イエス・キリストは、その時も今も、腸が千切れるくらいの痛みをもって、惨めな罪人である私たちを憐れみ、「彼らをお赦しください。突き放さないでください。見捨てないでください。退けないでください。私が、彼らの罪が取り除かれるために、あなたの裁きを受けますから」と祈ってくださったし、今も執り成し祈ってくださっていることを思いました。
 私たちの神は、ご自身の独り子を突き放し、十字架の上でその肉を裂き、血を流すことまでして、私たちの罪を取り除く救いを与えようとしてくださっている神様です。そして、私たちはその神に選ばれ、使命を与えられているキリスト者です。
信仰に生きることは戦いです。私たちは、毎週、「平和の内に、この世へと出ていきなさい」と派遣されます。その時、神様は、「私もあなたたちと共に出陣する」と言ってくださっているのです。その神様が共にいるときにのみ、私たちは力を振るうことが出来るのです。神様が、罪という敵を踏みにじってくださるからです。
これから共にあずかる聖餐の食卓は、罪と死に対する神様の勝利を先取りしたものです。この食卓に信仰をもって与ることによって、私たちは終わりの日の御国の完成をはるかに仰ぎ望むのです。
ローマの信徒手の手紙11章は、こういう言葉で締めくくられています。

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。
だれが主の相談相手であっただろうか。
だれがまず主に与えて、
その報いを受けるであろうか。」
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
           (ローマ11:33?36)
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