「わたしの祈りに耳を傾けてください」

及川 信

       詩編 61編
61:2 神よ、わたしの叫びを聞き
わたしの祈りに耳を傾けてください。
61:3 心が挫けるとき
地の果てからあなたを呼びます。
高くそびえる岩山の上に
わたしを導いてください。
61:4 あなたは常にわたしの避けどころ
敵に対する力強い塔となってくださいます。
61:5 あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り
あなたの翼を避けどころとして隠れます。
61:6 神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り
御名を畏れる人に
継ぐべきものをお与えになります。
61:7 王の日々になお日々を加え
その年月を代々に永らえさせてください。
61:8 王が神の前にあってとこしえの王座につき
慈しみとまことに守られますように。
61:9 わたしは永遠にあなたの御名をほめ歌い
日ごとに満願の献げ物をささげます。

 敵

 人は、「自分はたった独りだ」と感じる時があると思います。自分の思いを分かち合ってくれる人はいない、と。目に見える現実としては周囲に人がおり、語らってはいても、深い孤独の中にいる。そういうことがあります。その孤独の中で「心が挫ける」、「心が折れる」。そういう時がある。もう何をしても駄目だ、との思いに駆られてしまうことがあります。
 この詩の作者は、今、そういう時なのです。彼には敵がいて、彼はその敵に勝てないのです。詩編に出てくる「敵」は、具体的な人々である場合もありますが、多くの場合はよく分かりません。そして、それは意図的なことだと思います。人は、病によって孤独に陥ることもありますし、職場や家庭の人間関係が崩れて孤独に陥ることもあります。具体的な事情は何であれ、「敵」とは人を孤独へ陥れて行く力であり、最終的には罪と死の力であると解釈されることで、詩編は多くの人々にとってなくてはならない書になっていったのだと思います。読み手が自分にとっての敵を深く洞察していくことによって、詩を自分のものとしていくのです。

 地の果て

 作者は、神に向って、自分が「地の果て」にいると言います。「地の果てからあなたを呼びます」と。「地の果て」にいる「わたしの叫びを聞き、わたしの祈りに耳を傾けてください」と。
 ある人は、「地の果て」とは、神に見捨てられた異邦人の地と考えます。神殿があるエルサレムから遠く離れた地です。しかし、エルサレムにいたとしても、自分は神から遠く離れていると感じることはあるでしょう。神に祈ってもその祈りは聞かれず、神からの語りかけの声も聞こえない。そういう時はあるのです。
 礼拝を捧げていても、何も感じない。讃美歌を歌う時も、目で字面を追って口を動かしているだけであり、言葉の意味など頭に入らない。説教の言葉も、自分の頭の上を通り過ぎて行くだけで全く心に響かない。周囲の人々の中で、自分だけは全く別世界を生きている人間のように思える。そういう経験は、多くの人がしていることだと思います。そういう感覚を、作者は「地の果て」と言っているのではないかと、私は思います。

 心が挫ける

 その「地の果て」で、人の心は「挫ける」のです。原語のアータプという言葉は、「衰え果てる」(詩107編5節)とか「なえ果てる」(142編4節)とも訳されます。すべての言葉が空しく、人との交わりが消えていく。その孤独の中で私たちの心は挫け、衰え、次第に萎え果てていき、もう自力では立ち上がることができなくなる。そのような経験をしたいと願う人はいませんが、せざるを得ない人はいます。それは、やはり不幸な経験と言うべきでしょう。
 そういう深い孤独の中で、神に向って叫ぶことができる人は幸いです。61編もそうですが、他の詩においてもアータプは「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶ」(107:6)とか「声をあげ、主に向かって叫ぶ」(142:2)という言葉と並んで出てきます。逆から言えば、人は心が挫け、衰え、なえ果てるような経験を通して神に向うということです。
 受洗前の自分の状況を思い起こしても、そこには深い孤独がありましたし、その思いをどこに向けて発したらよいのか分からないという苦しみがありました。そういう時に、人は神を求め始めます。飢え渇いた魂だからこそ、救いを求めるのです。
 毎週、説教を準備する時も、深い孤独の中に入っていくしかない面があります。そこでしか見えてこないものがあり、聴こえて来ないものがあるからです。そして、説教で語られる人間の言葉から神の語りかけを聴き取る人は、「地の果てからあなたを呼びます」と心の中で叫んでいる人である場合が多いでしょう。

 あなた

 作者は、「あなたを呼びます」と言って神様を呼ぶことができます。彼と同じように神を「あなた」と呼べる人は幸いです。本当に幸いです。命の糧である御言と、命の水である聖霊を与えてくださるお方と出会っているからです。そのお方を知らなければ、その魂は飢えと渇きを深めて行き、恐るべき凶行を引き起こすことがあります。
 日常的に起きている様々な犯罪の背後には、飢えと渇き、孤独の中で傷ついた魂があるでしょう。その傷ついた魂が、「わたしの叫びを聞き、わたしの祈りに耳を傾けてください」と叫ぶ相手と出会えず、安心できる「避けどころ」を見出し得ない時、自傷行為の延長として他人を傷つけずにはいられなくなるのだと思います。そのようにして、さらなる孤独、絶望の闇の中に自らを追いやってしまうことが人間にはあると思います。

 御名を畏れる人々

 6節に、「御名を畏れる人に、継ぐべきものをお与えになります」とあります。原文では複数形ですから「御名を畏れる人々」です。「御名」は神ご自身のことで、「畏れる」とは信じ敬うことですから、「御名を畏れる人々」とは神を信じ礼拝を捧げつつ生きる人々です。この詩の作者は、そういう信仰者の群れの一員なのです。私たちで言えば、教会の一員なのです。だから、彼は地の果てで心が挫ける時に、誰に向って叫んだらよいかを思い起こすことができる。そのことが幸いなのです。
 4節5節では、三度も「あなた」と出てきます。あなたが私の「避けどころ」、あなたが私が宿るべき「幕屋」、あなたが私が隠れるべき「翼」。このような信頼を神様に告白できる人は幸いです。たとえ、その時点でどれほど深い孤独の中にあったとしても、やはり幸いです。

 神に委ねる

 彼は、これまで敵と戦ってきたでしょう。そして、敗れ、今や「地の果て」にいる。そこから叫んでいる。最早、自分の力で敵と戦わずに、神様の「幕屋」「翼」の陰を「避けどころ」として隠れると言っているのです。神様が敵と戦ってくださり、勝利してくださることを確信して、神様の許に帰ると言っているのです。神様を信頼して、身を委ねるのです。幼子が親を信頼し、安心してその腕の中に身を横たえるように、です。私たちの信仰の戦いは、最後にはそこに行き着くと思います。
 私たち大人は自分の力に頼みますが、自分の力では「地の果て」から「高くそびえる岩山の上に」登ることはできません。「高くそびえる岩山」とは、「わたしを越えて高い岩山」ということで、自分の力では登ることができない岩山のことだからです。「岩山」とは確固として揺り動かされないものです。その岩山の頂きに立つためには、主なる神様の力が必要です。その力に導かれるためには、徹底的に無力な者として「あなたの幕屋」に宿り、「あなたの翼を避けどころとして隠れる」以外にはありません。

 誓願

 彼は、神様への信頼を告白した後に、こう言います。

神よ、あなたは必ずわたしの誓願を聞き取り
御名を畏れる人に
継ぐべきものをお与えになります。

 「誓願」
と訳された言葉(ネデル)は、9節では「満願の献げ物」と訳されています。聖書に初めて出てくるのは、創世記28章のヤコブ物語の中です。ヤコブがエサウを恐れて逃亡し、全くの孤独に落ちたある夜、彼は夢の中で「見よ、わたしはあなたと共にいる。・・・わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、・・・決して見捨てない」という神様の約束の言葉を聞きました。翌朝、彼は石を建てて記念碑として神様を礼拝するのですが、そこに誓願という言葉が出てきます。

ヤコブはまた、誓願を立てて言った。
「神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」
(創世記28:20〜22)

 神様が自分の信頼に応えてあらゆる危険から守ってくださるなら、献げ物をすると誓う。神様の愛に応えて、喜んで自分自身を捧げる。献身する誓いを立てることを「誓願をささげる」と言うのです。  詩編61編の作者は、神様が誓願を聞き取ってくださり、礼拝を捧げる人々に「継ぐべきもの」を与えてくださると確信しています。その確信に基づいて、これからも御名を賛美し、献げ物をささげると約束をするのです。イエス様も「神を信じなさい。・・・・少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に与えられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」とおっしゃっています。そういう深い信仰の世界が、ここにはあります。

 王

 今、私は6節と9節を繋げて読みました。「御名」とか「誓願」という言葉が両方で使われていますから、9節は6節を受けたものであることは間違いありません。でも、現在の形では6節と9節の間に、王の長命を願う祈りが挟まっています。この部分は後の時代に付加されたものか否かで、議論があります。私は後代の付加と理解した上で、その理由を考える立場をとりたいと思います。
 ここに出てくる「王」とは誰かについても、ユダ王国の王かユダヤ人を支配する大帝国の王か、来るべきメシアとしての王かで見解が分かれています。一つを選択すると辻褄が合わない部分が出てくるので、難しい問題なのです。しかし、民主主義に基づく国民主権の国家であっても、その国のトップである首相とか大統領がどういう統治をするかは、国民にとって大きな問題です。トップが経済的格差を広げるような政策を採れば、一部の富裕層だけが笑うことになりますし、その人物が考える愛国心を国民に押し付ける政策を採れば、異なる愛国心を持つ人々は弾圧を受けることになります。そのことは、特に教育の現場で露骨に表れるものです。
 古代の王国であれば、王の存在感は圧倒的です。数年前から、私も朝鮮の王朝時代を描く韓国ドラマを熱心に見るようになってしまいました。そのドラマを見て思うことは、民にとっての王の存在の重さです。王が愚かな人物であれば、それは民の苦しみになりますし、賢い王であれば、民の生活も安定します。その上に、敵が襲ってくる時に守ってくれる王であれば、その王の支配が永久に続くことを民が祈るのは当然です。それは王のための祈りであると同時に、自分たちのための祈りでもあるのです。
 神の民イスラエルにおける王は、イスラエルの神である主(ヤハウェ)によって選び立てられた王、メシアです。だから、民は「王が神の前にあってとこしえの王座につき、慈しみとまことに守られますように」と祈るのです。王の王座は神の「慈しみとまこと」によって守られるべきであり、自分で身につけた権力で自ら守るものではないのです。「慈しみとまこと」は、しばしば「憐れみ」と共に「罪の赦し」の意味で使われる言葉ですから、自分たちも神の「慈しみとまこと」によって守られ、赦しに与ることを願っているのです。

 王(メシア・キリスト)としてのイエス

 ここから新約聖書に入っていきますが、マタイ福音書でイエス様は「ユダヤ人の王」としてお生まれになったと告げられています。その王の使命は、「自分の民を罪から救う」ことです。ルカ福音書では、「永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」王としてイエス様はお生まれになりました。イエス様が王である国とは、この世の王国ではなく「神の国」です。教会は、この王に従い、その支配が永遠であるようにと祈る者たちの交わりであり、神の国の原型なのです。
 イエス様は洗礼者ヨハネが活動を開始した時から家を出て、ヨハネから洗礼を受けました。その時、聖霊を受けつつ「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声を聞きました。神によって、王に立てられたのです。その後、悪魔の誘惑に勝利をされ、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と神の国の到来を告げ、人々をその国に招き始めました。しかし、イエス様の言葉と業はすべてこの世の王国の秩序をその根底から覆していくものでした。今だって、それは同じです。この世において、地の果てに追いやられ、自分は神にも見捨てられたと思わざるを得ない人々はイエス様の招きに応え始めましたが、イエス様の言葉と業を正しく受け止め、理解する人は、その当初から少ないのです。群衆が群がって来ることがあっても、その人々が求めているのは現世利益に過ぎません。結局、誰も彼もが、イエス様には躓いていくことになり、イエス様が選んだ弟子たちの無理解と不信仰も次第に明らかになっていきます。イエス様は、ユダヤ人の中心であるエルサレムに近づけば近づくほど、地の果てに追いやられ、孤独に陥っていくのです。

 小羊としてのイエス

 過越しの祭りの時期にエルサレムに入った時、イエス様は大歓声で迎えられます。その歓声が「十字架につけろ」という怒号に変わることを、イエス様は既にご存知でした。そして、イエス様は弟子たちと過越しの食事をとります。イスラエルの民にとっては、出エジプトという救済の御業を記念する大切な食事です。エジプト脱出の前夜、民は各家庭に集まり、小羊を屠り、その血を鴨居に塗りました。その血が目印となり、血が塗られた家の前を死の使いは過ぎ越し、血が塗られていないエジプトの家では、その家の初子が死にました。小羊の血が生と死を分けたのです。
 イエス様は、弟子たちと過越しの食事を食べた翌日には、ご自身が救済のために血を流す小羊とならねばならないことをご存知でした。その食事で裂くパンはご自身の体の徴だし、その食事で飲む杯は、「罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」なのです。イエス様が、過越しの食事の小羊として、「自分の民を罪から救うため」に血を流されるのです。イエス様は、続けてこうおっしゃいました。

「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」(マタイ26:29)

 この言葉の意味を、その時理解した弟子はいません。イエス様は「父の国」の王となるために死に、世の終わりの時には、その国を完成させることを預言しておられるのです。
 その神の国の王となるために、イエス様は「地の果て」に行くのです。完全な孤独の中に入って行くのです。行かざるを得ないのです。それが父の御心だからです。でも、イエス様の願いは違います。イエス様は弟子に裏切られ、神様に見捨てられ、十字架に磔にされて死ぬことを願ってなどいないのです。人間に対する神の「慈しみとまこと」を示すために、人間の罪を赦すために、罪なき神の子に罪を負わせて裁くことが父の御心であると分かっており、その御心に従う決意をなさっていますが、でも、自分の願いは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」というものです。「過ぎ去る」と訳されたパレルコマイという言葉は、過越しの食事の時に死の使いがイスラエルの家を「過ぎ越す」のと同じ言葉です。小羊の血によって、死の使いはイスラエルの家の前を過ぎ越して行きました。でも、小羊の前を死の使いが過ぎ越すことはありませんでした。小羊は死ななければならない。
 イエス様は、ゲツセマネの祈りの中で、その御心を改めて知り、最後には「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。

 地の果てからの叫び

 父の御心によって、イエス様は十字架に磔にされます。しかし、その時、イエス様はこう叫ばれたのです。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)

 ここに「地の果て」からの叫びがあるのです。神の子でありメシアである方が、茨の冠を被せられながら、地の果てから叫んでいる。心が挫け、衰え果て、なえ果てる思いの中で叫んでいる。
 その叫びは、詩編61編の「高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください」に通じる祈りです。
 この祈りは、いつどのようにして聞かれたのか。ご自身を「満願の献げ物」とされた十字架上での祈りは、いつどのようにして神様に聞かれたのでしょうか。

 復活

 イエス様の十字架の死から三日目、日曜日の朝、マグダラのマリアたちは、イエス様が葬られた墓に行きました。そこで天使に出会ったのです。天使は、彼女らにこう語りかけました。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」(マタイ28:5〜6)

 「復活なさったのだ」では、イエス様ご自身の力で立ち上がったかのようですが、イエス様の復活に関して、新約聖書は一貫して受身形で記します。イエス様は「復活させられた」のです。誰によってか?言うまでもありません。父なる神によってです。この神様が、イエス様の祈りを聞き取り、復活させたのです。イエス様は、疑問も苦しみも信頼もすべて父にぶつけつつ、その身を父に委ねられました。父だけを避けどころとされたのです。父が、最強の敵である罪と死に対して勝利してくださることを信じて、ご自身を十字架の上に捧げられたのです。神様は、そのイエス様の祈りを聞き、「高くそびえる岩山に導き」、「継ぐべきものをお与えになった」のです。誰も自分の力では到達できない天の高みにイエス様を引き上げ、神の右に座らせ、ご自身の国の王としてお立てになったのです。私たちキリスト者の王はこのイエス・キリストであり、教会の頭はイエス・キリストです。だから、私たちも、この王のもとで復活させられるのです。

 パウロはコリントの信徒に向けてこう言っているでしょう。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。……最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。(Tコリント15:20〜26 抜粋)

 私たちを支配し導いてくださる王は、このイエス・キリストです。私たちキリスト者は、この王が支配する国の一員なのです。だから幸いなのです。これ以上の幸いはありません。この方は、「地の果て」で心が挫ける孤独を誰よりも深く味わった方ですから、私たちの孤独を知らないはずもありません。そして、私たちのインマヌエル、共にいます神として今も生きてくださっているのです。

 椎の木が一本立っていた

 私の前任地である松本の教会にTYという方がいました。幼い頃から体が弱く、ろくに学校も行けず、深い孤独の中に生きてきた方でした。いくつもの詩を残されました。その中にこういうものがあります。

だれもいない
だれもいない

あたりを見回したら
椎の木が一本立っていた

 孤独の極みの中でイエス様と出会えた喜び、「わたしの叫びを聞いてください」「わたしの祈りに耳を傾けてください」と、一本の十字架に磔にされながら祈るイエス様と出会った喜び。この方だけが、自分の孤独を癒してくれる。悲しみを知ってくださる。この方だけが人知れない自分の罪を知った上で、身代わりに裁きを受け、赦しを与えてくださる。この方を甦らせた方だけが、罪の結果としての死を滅ぼし、世の終わりに完成する神の国で復活の体を与えてくださる。そのことを知った喜びが、この詩にはあります。この詩は、王なるイエス・キリストを称え、感謝する賛美です。

 賛美

 私たちの礼拝は、賛美で始まり賛美で終わります。特に、永久に生きたもう父・子・聖霊なる三位一体の神を称える讃詠とか頌栄は、公同の礼拝においては必須のものです。
 聖書の最後に置かれているヨハネの黙示録には、その賛美が満ち満ちています。

「屠られた小羊は、
力、富、知恵、威力、
誉れ、栄光、そして賛美を
受けるにふさわしい方です。」
(5:12)

「玉座に座っておられる方と小羊とに、
賛美、誉れ、栄光、そして権力が、
世々限りなくありますように。」
(同13)

 これらの賛美は、詩編61編7節8節の王のための祈りを受け継ぐものでしょう。そして、私たちは毎週の礼拝の中で、「聖なるかな、主なる神、昔いまし、今いまし、とわにいます主をたたえん」と賛美し、「父のみ神に、み子に、きよきみ霊に、昔ながらのみ栄えあれや、ときわに、アーメン、アーメン」と賛美するのです。
 これから与る聖餐の食卓の主は、十字架の死を経て復活し、天に挙げられた王なるイエス・キリストです。その方が、今日もご自身の体と血を与えてくださいます。信じる者を高くそびえる岩山の上に導くためです。どうして、この主イエス・キリストを賛美しないでいられようかと思います。
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