「神こそわたしの岩、わたしの救い」

及川 信

       詩編 62編
62:2 わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。
神にわたしの救いはある。
62:3 神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは決して動揺しない。
62:4 お前たちはいつまで人に襲いかかるのか。
亡きものにしようとして一団となり
人を倒れる壁、崩れる石垣とし
62:5 人が身を起こせば、押し倒そうと謀る。
常に欺こうとして
口先で祝福し、腹の底で呪う。
62:6 わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。
神にのみ、わたしは希望をおいている。
62:7 神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。
わたしは動揺しない。
62:8 わたしの救いと栄えは神にかかっている。
力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。
62:9 民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。
62:10 人の子らは空しいもの。
人の子らは欺くもの。共に秤にかけても、息よりも軽い。
62:11 暴力に依存するな。
搾取を空しく誇るな。
力が力を生むことに心を奪われるな。
62:12 ひとつのことを神は語り
ふたつのことをわたしは聞いた
力は神のものであり
62:13 慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである、と
ひとりひとりに、その業に従って
あなたは人間に報いをお与えになる、と。

  幼児祝福式

 先ほど幼児祝福式を行いました。キリスト者の親にとって、第一の願いは子どもたちに神様の祝福が与えられることです。健やかに成長し、そして私たちと同じようにイエス・キリストと出会い、神様を「アッバ、父よ」と呼び、イエス様を「わたしの主よ」と呼ぶ信仰に生きる。それは親の願いだけでなく、私たち教会に集う者すべての願いですし、なによりも神様ご自身が願っておられることです。私たちは、その願いがそう簡単に実現しないということをよく知っています。だからこそ心新たに願い、牧師としての私は神様の委託を受けて祝福をしつつ祈るのです。

  この世の現実

 私たち大人は、人の世のせちがらさ、はかなさ、空しさ、欺瞞、恐ろしさなどを知っています。この地上には常に不和対立があり、争いが生じることも知っています。
 5節にありますように、私たち大人は、口先では祝福の言葉を述べていても腹の底では呪っている。そういう「欺き」が常につきまといます。私たちの誰も、そのことの例外ではないと思います。
 ある人を「亡きものにしようとして一団となり、人を倒れる壁、崩れる石垣とし、人が身を起こせば押し倒そうと謀る」。そういうこともしばしばあります。62編の作者も、ある人々の偽善的な策略によって「亡きもの」にされそうになったことがあるのでしょう。
 最近のウクライナ紛争に関するNHKの報道を見ても、人の世は偽善と策略に満ちており、暴力に満ちていることを思わざるを得ません。数が多く、力が強い方が結局はすべてを奪っていくのです。11節にありますように、人は、「暴力に依存し、搾取を誇り、力が力を生むことに心を奪われている」と言わざるを得ません。最近、200隻を越える中国漁船が赤さんごの密猟のために小笠原諸島近海に集まっています。海上保安庁の巡視船が対応できる数ではありませんから、実際には放任状態なのでしょう。富だけを求めて、国際法も自然環境も踏みにじる貧しい漁民の暴挙だとする見方もあります。でも、日本の海上保安上の弱点を見せつけて、日中首脳会談を有利に進めようとしているのではないかとも言われます。つまり、漁民たちは中国政府の手先だという見方です。どちらが真相なのか、両方とも当たっているのか、私には分かりません。日本の首相も、「積極的平和主義」とか「未来志向」と口では言いつつ、数え切れない人々を死に追いやった戦争責任者をも「英霊」と祀る神社に参拝したりするのですから、先の戦争を「正義と平和のための自衛戦争であった」と美化していると警戒されても仕方ないでしょう。

  息のように軽い空しさ

 政治家は、いつでも口では「正義と平和、互いの利益のために」と言うのです。それは「自分が考える正義、自分にとっての平和、自分の利益のために」という意味です。そういう言葉が自分自身と他人を欺いている言葉であり、息よりも軽い空しい言葉なのです。私たちは、そういう言葉を毎日聞き、そして語っています。政治家だけがそういう言葉を使うのではなく、「人の子ら」とはそういうものだと、この作者は言います。「空しい」「息」はヘベルという同じ言葉ですけれど、息のように軽く空しい存在の人間が語る言葉もまた空しい。自分自身を含めて、人間とはそういうものだと言っているのです。

  わたしの魂  民  人の子ら

 その人間社会の中で、彼は激しい攻撃にさらされたことがあったのでしょう。自分を「亡きもの」にしようとする一団によって、壁が倒され石垣が崩されるような攻撃を受けたことがある。
 詩編に収録されている詩の作者の多くは、自分は神につける正しい者であり、そういう自分を攻撃する敵は神の敵でもあるという意識を持っていると思います。しかし、この62編を読んでいると、この作者はちょっと違う感じがします。「お前たちはいつまで人に襲いかかるのか」から始まる言葉も、敵に対する非難であるだけでなく、自分を含めた人間に対する言葉という感じもするのです。
 この詩は、6節以降に命令形が続けて出てきます。命令の対象は6節では「わたしの魂」です。

わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向え。

 つまり、自分自身に呼びかけ、沈黙して神に向うように促しているのです。次は9節です。そこで呼びかけられているのは「民」です。神の民であるイスラエルです。同じ神を信じているはずの人々です。4節で「お前たち」と言われる人も、また作者自身もその「民」の中に入っているのです。

民よ、どのような時にも神に信頼し
御前に心を注ぎ出せ。
神はわたしたちの避けどころ。

 作者の視野は「わたしの魂」から「民」に広がり、民全体が神に信頼し、神様に心を注ぎ出して祈り、神様の中に避けどころを見出すことができるように願い、勧告するのです。その「民」の中に、自分も敵もいるでしょう。

 次は11節です。

暴力に依存するな。
搾取を空しく誇るな。
力が力を生むことに心を奪われるな。

 ここで呼びかけられているのは、イスラエルの民の枠を越えて「人の子ら」です。人の世はイスラエルであれ、異邦人世界であれ、弱肉強食の世界であり、力が力を生み出していく世界です。その世界の中では、暴力を使って搾取をし、富を増していくことが正義であり善です。そして、最も強大な存在になることが、自分にとっての平和なのです。だから、誰もが自分の存在、自分たちの民族とか国家を大きな存在、重い存在にしたがります。しかし、そういう欲望に心が奪われれば奪われるほど軽い存在になっていくのです。その人の存在は軽くなる。息よりも軽くなる。空しい存在になるのです。その軽さは、罪の重さと反比例するものでしょう。作者は、そのことを人々を観察することによっても知ったでしょうが、何よりも「沈黙して、ただ神に向かう」ことを通して深く知らされていったのだと思います。

  塵に口をつけよ

 この詩編を読み、その言葉を調べていく中で私が思い出したのは、哀歌の言葉です。滅多に読むことがありませんけれど、エレミヤ書の次に出てくる哀歌にはこういう言葉があります。

 3章25節から読みます。

主に望みをおき尋ね求める魂に
主は幸いをお与えになる。
主の救いを黙して待てば、幸いを得る。
若いときに軛を負った人は、幸いを得る。
軛を負わされたなら
黙して、独り座っているがよい。
塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ
十分に懲らしめを味わえ。
主は、決して
あなたをいつまでも捨て置かれはしない。
主の慈しみは深く
懲らしめても、また憐れんでくださる。
(哀歌3:24〜32)

 ここには、詩編62編に出てくる「魂」「救い」「沈黙する」「希望」「慈しみ」という重要な言葉があります。
 哀歌は、ユダ王国がバビロン帝国に滅ぼされた後に書かれたもので、その滅亡を自分たちの罪に対する神様の裁きとして捉えている人の言葉です。今お読みした箇所の少し先で、彼は主に向って「わたしたちは、背き逆らいました。あなたは、お赦しになりませんでした」と言っています。自分たちの罪に対して怒りを発し、お赦しにならない主に対して、最早、言葉がない。でも、望みがあるとすれば主にしかない。「塵に口をつけよ」とは、土下座どころか唇が地面にくっつくようにひれ伏すことでしょう。救いがあるとすれば、自分たちの罪をお赦しにならなかった神にしかないのです。しかし、その神に対して、何も言うことができない。ただ心を注ぎ出し、地にひれ伏して赦しを乞う他にないのです。

  救いは神から 希望は神から

 先週、放蕩息子が父の許に帰る時、彼は自分自身の中には何の希望もなかったのだ、と言いました。最早、自分の口から「わたしのお父さん」と呼ぶことができないその「お父さん」の中にしか希望はない。お父さんが赦してくださるか否かにすべてが掛かっていたのだ、と言ったのです。彼は、救われるかもしれないという希望を自らの内に見ることができなくなった時に、父の許に帰っていったのです。その彼を、父は家を飛び出して抱きしめ、「この子は死んでいたのに生き返った」と言ったのです。
 62編2節には「神にわたしの救いはある」とあり、6節に「神にのみ、わたしは希望をおいている」とあります。これはこれで含蓄のある訳だと思います。でも、「救いは神から」「希望は神から」が直訳です。救いも希望も神にしかない。そう言っているのです。「わたしの救いと栄えとは神にかかっている」と言っているのです。赦してくださらない時があったとしても、「主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」ことを信じて、沈黙の内に「神に向かい」「御前に心を注ぎ出す」ならば、神は必ずいつの日か、自分に対して語りかけてくださる。
 彼もまた哀歌の作者と同じく塵に口をつける日々を通して、そのことを知ったのです。そして今、そのことをイスラエルの「民」やすべての「人の子ら」に対して知らせたいと願っている。この世において暴力に依存(信頼する・バーター)し、資源の搾取を誇り、力が力を生む(富を作り出す、の意味)ことに心を奪われている人間に対して、神こそ「力と頼み」、どのような時にも神に「信頼し」、神のみを「避けどころ」とするよう幸いを知って欲しいと願っているのです。

  一つのこと 二つのこと

 なぜそのように願うことができたかと言えば、沈黙して神に向い続けた彼に、神は一つのことを語りかけてくださったからです。12節の「ひとつのことを神は語り、ふたつのことをわたしは聞いた」は、神は一つのことを語られたけれど、作者はそこに二重の意味を見出したと解釈したいと思います。そのことは、後で述べます。

  心を奪われるな

 11節の最後の行の「力が力を生み出す」は、「富が増す」と訳されることが多い言葉です。この場合の力(ハイール)は、経済力とか軍事力の意味なのです。原語では、神を「力と頼む」(8節)の「力」(オーズ)とは違います。この世を生きる人間にとって経済力と軍事力は圧倒的な存在感を持っています。そういう力を持つ者が、暴力に訴えつつ搾取を繰り返し、さらに経済力とか軍事力を身につけていくのがこの世の習いです。だから、多くの人はその習いに従ってしまう。
 しかし、世の習いに心を奪われてはならないのです。そんなものに心を奪われることで、人は軽い存在になるのだし、結局は根底から動揺することになるからです。永遠に変わることのない体制とか現実などないのです。
 現在の世界情勢など、三十年前には考えられなかったことです。戦後の体制であった東西冷戦構造の壁が壊れた時は、これで世界は平和になっていくのではないかと多くの人が期待しました。しかし、それまで抑えつけられていた民族や宗教がらみの紛争が世界各地で起き始め、唯一の超大国が暴力をふるいました。それに抵抗するという大義名分のもとにそこかしこで大規模テロを引き起こす集団が現れ、今は「イスラム国」なる武装集団が勢力を持ち始めています。
 私たちの国と近隣諸国との力関係も劇的に変わりつつあります。かつて日本は経済力も軍事力も上だったのですが、今は下になりつつあります。三十年後には、どうなっているのか誰も分かりません。だから、この世の力を信頼している限り、いつの日か必ず根底から揺り動かされることになるのです。この世のものは、所詮バブル、泡に過ぎないからです。

  力 慈しみ

 62編の作者は、救いも望みも神様からしかやって来ないと確信し、沈黙して神に向った結果、「力は神のもの」であることを神ご自身から聞かされたのです。その力としての神を避けどころとする時、「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔」であることが分かったのです。この世の力関係がどのように変化しようとも、「力は神のもの」なのです。しかし、その「力」はどこに現れるのか。
 彼は言います。

「慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである。」

 これが、彼が知らされた二つ目のことでしょう。
 哀歌の作者もまた、「あなたは、お赦しになりませんでした」と言わざるを得ない神にのみ望みを置き、「主の救いを黙して」待ったのです。そのことを通して、「主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」ことを知ったのです。主なる神様は、真実に悔い改める者の罪を必ず赦してくださることを知ったのです。
 詩編の作者も同じです。主の御前に沈黙し、神に信頼して「心を注ぎ出す」ことを通して、彼は「力は神のもの」であり、「慈しみも神のもの」であることを知りました。それは普遍的な意味で、「神とはそういうお方である」と知ったのではなく、神は「わたしの罪を赦してくださった」という意味で知ったのです。神は「ひとりひとりに、その業に従って」「報いをお与えになる」ことを知ったのです。「沈黙して、ただ神に向い」「どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出す」という業に従って、ひとりひとりに主は報いをお与えになる。罪を赦すという慈しみをお与えになるのです。だから彼は、「慈しみは、わたしの主よ、あなたのものである」と言うのです。この時、彼は神を「わたしの主よ」と呼ぶことができる人間にされたのです。そこに救いがある。

  主イエスに現れる慈しみ

 旧約聖書で「慈しみ」と訳されるヘセドは、ギリシア語ではエレオスと訳されて、新共同訳聖書では基本的に「憐れみ」と訳されます。エレオスを新約聖書で一番たくさん使うのが、私たちが月に三回は読み進めているルカ福音書です。それも一章のマリアの賛歌とザカリアの預言に集中して出てきます。つまり、イエス様こそが神の「憐れみ」(慈しみ)の現れとして賛美されているのです。
 マリアは神を「力ある方」と呼び、その方の「憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」と告白した上で、こう賛美します。

主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
(中略)
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。
(ルカ1:51〜55)

 ここで賛美されていることは、主なる神の力です。その力が、この世の権力者を引き降ろすことになると言っているのです。それは、最終的には世の終わりに実現することです。
 ザカリアは、生まれたばかりの洗礼者ヨハネにこう言います。

幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。
主に先立って行き、その道を整え、
主の民に罪の赦しによる救いを
知らせるからである。
これは我らの神の憐れみの心による。
(ルカ1:76〜78)

 ここで「主」と呼ばれている方は、主なる神ではなく主イエスです。主イエスは、「主の民に罪の赦しによる救い」を知らせてくださる。それは「我らの神の憐れみの心による」のだとザカリアは言うのです。詩編の作者が、知らされた二つのこと、力は神のものでありそれは慈しみにおいて現れるとは、この主イエスによって実現することなのです。
 その先に、生まれて八日目のイエス様が両親に神殿に連れて行かれる場面が描かれます。その時、いつの日かメシアに出会うことを神様から告げられ、待ち望んでいたシメオンはこう言って主を賛美します。

主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。(ルカ2:29〜32)

 彼は、イエス様は、異邦人にまで及ぶ「万民」のための救い主として、神の憐れみ(慈しみ)そのものの方としてこの世に到来してくださったと言って、主を賛美しているのです。

  沈黙して神に向った者たち

 天使から受胎告知を受けて主に身を委ねたマリアの魂は、ヨハネを宿しているエリサベトに会う時までは沈黙して、ただ神に向っていたでしょう。高齢だったザカリアもエリサベトから赤ん坊が生まれ、その子をヨハネと名付ける時まで口が利けませんでした。沈黙の中にただ神に向うことが強いられていたのです。シメオンも同様でしょう。彼らは、主の力は慈しみ(憐れみ)において現れることを目のあたりにする時まで、沈黙しつつ主に望みをかけ、主から来る救いを待ち望んだのです。そして、主イエスの降誕を通して、主の力と慈しみが現れたことを知った時に、賛美の言葉がその内から溢れ出て来たのです。それは、「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」と質を同じくするものだと思います。

  わたしは決して動揺しない

 私たちが生きる世は絶えず動揺するものです。上だった者が下になり、力ある者が無力なることを繰り返しているのです。かつて大帝国であった国々は数百年の歴史の中で消滅してきましたし、今の大国もいずれ消滅するでしょう。地球という星もまた、永久に今のままではあり得ないでしょう。かつては、火の球だったこともあり、氷の塊だったこともあるのですから。目に見える現実はすべて変化し、動揺します。
 しかし、神はその憐れみ(慈しみ)の心の故に、最愛の独り子をこの世に送り給うたのです。そして、独り子は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださいました。その様を見て、罪を悔い改め、赦しを乞う犯罪者に、主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃったのです。ここに主の「力」、その「慈しみ」が現れているのです。この主の力と慈しみによって創造される「楽園」、つまり神の国は、この世がどのように変化しようが、地球がどうなろうが天地の造り主なる神の国なのですから、いささかも動揺することなく存在し続けるのです。
 私たちが知るべきことはそのことでしょう。そして、幼児たちに伝えるべきはそのことです。主イエスの降誕、十字架の死と復活、昇天と聖霊降臨を通して創造された神の国は、いかなることがあっても些かも動揺することなく、私たちのためにある。
 人生の荒波を越えなければならない時、周囲を敵に囲まれたと思わざるを得ない時、自分自身の罪の重さに打ちひしがれて救いの希望が見えない時が、人生には必ずあります。しかし、何をしているか知らないままに罪を犯す私たちを、主イエス・キリストの贖いの御業の故に赦し、そして救い出してくださる力ある神、慈しみの神がおられるのです。その方の語りかけを聴くために、神を信頼して沈黙してただ神に向い、心を注ぎ出すことができるならば、必ず主が避けどころとなってくださるのです。私たちは、そのことを信じるし、今日祝福された幼子たちが、そのことを信じることができるように祈りつつ歩むのです。さらに、すべての「人の子ら」が、自分の存在の軽さ、空しさに気付き、暴力に依存せず、空しい搾取を誇ることなく、この世の富や軍事力に心を奪われることなく、力は神のものであり、慈しみも神のものであることを知り、神が送り給うた主イエスを「わたしの主よ」と呼ぶことができるように、祈りつつ歩むのです。そこにこそ、決して動揺することのない私たちの歩みがあるのです。
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