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墓前礼拝説教

             及川 信

            コリントの信徒への手紙T 15章54〜58節            

この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。
 「死は勝利にのみ込まれた。
 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。


 日本人は墓参りをします。そこには様々な思いが込められているだろうと思います。先祖代々の血の繋がりを確認する。そのことで自分が何者であるかを確認する。ご先祖様の霊を慰める。ご先祖様の霊に見守ってもらいたいと願う。ご先祖様が残してくれた財産などを、大切に受け継ぐことを約束する。一族の結束を確認する。ご先祖様に様々な悩みや願いを告げる……。それぞれに貴いことだと思います。
 私たち中渋谷教会の者が、なぜ毎年この墓地の前に集まって墓前礼拝を捧げるのかと考えます。私たち教会員は父を同じくする神の家族ですから、この墓に遺骨や遺品が収められている方たちは信仰的には先祖です。私たちの場合は、もちろん「ご先祖様」とは呼ばず、「信仰の先達」と呼んだり、「兄弟姉妹」と呼んだりします。肉や血によって結びついているのではなく、主イエス・キリストへの信仰において結びついているからです。
 その「信仰の先達」とか「兄弟姉妹」のご遺骨を墓に収めるための礼拝をしたり、その墓の前に集まって礼拝をすることと、ご先祖様の「お墓参り」の違いは明確です。私たちは、いかなる意味でも、「人」を礼拝しないのです。生きた人はもちろんですが、死者を礼拝することもしません。人を尊敬することはあっても、崇拝はしませんし、人が死ねば神になるとか仏になるとか、霊魂が不滅で慰めを求めて漂っているとも考えません。人は人であって、神ではないからです。
 私たちキリスト者は、生きている時に既に自分の身を主イエス・キリストに委ねています。私たちの罪の赦しのために十字架に掛かって死に、私たちに復活の命と体を与えるために復活し、天に挙げられ、今は神の右に座し、聖霊と御言葉を通して私たちを守り導いてくださっている主イエス・キリストを信じ、全身全霊をお委ねしているのです。そして、それは死においても変わることがありません。生きている時の「主」と、死ぬ時、また死して後の「主」に変わりはありません。
 私たちの死は、主イエス・キリストの御手にすべてをお委ねすることです。朽ちる肉体はなくなります。骨は肉体があったことの徴ですけれど、これもいずれなくなります。しかし、私たちは御子主イエス・キリストが「生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」日に、「朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」ことを信じて、すべてを御手に委ねるのです。
 私たちは、十字架の死を経て復活された主イエス・キリストにおいて、死は私たちに対する勝利をしているのではなく、死が勝利に呑み込まれてしまったことを信じているのです。だから、「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝」することが出来るのです。私たちの死は滅びや消滅ではなく、埋骨は「永眠」の徴ではなく、御国における復活への道程だからです。
 私たちは、毎年、中渋谷教会の墓の前に集まり、信仰の先達、主にある兄弟姉妹の生前の面影を偲び、信仰の歩みを回顧しつつ、復活の主イエスの勝利を確認し、主を賛美しているのです。そして、いつの日か、必ず私たちに臨む死は、神が与えてくださった「命」の消滅や滅亡や敗北を意味するのではなく、この世における交わりの終焉でありつつ、そうであるが故にこそ、勝利の主イエスをこの目で見る時への旅立ちであることを確認し、主を賛美するのです。そして、再会の希望を新たにするのです。
 だから、パウロはこう言うのです。

わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 今年も、この墓前において、私たちに与えられた信仰を確認し、心新たに主の業に励む思いを与えられたことを、主に感謝致します。
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