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見よ、兄弟が共に座っている

             及川 信

                         詩 編 133編        

見よ、兄弟が共に座っている。
なんという恵み、なんという喜び。
かぐわしい油が頭に注がれ、ひげに滴り
衣の襟に垂れるアロンのひげに滴り
ヘルモンにおく露のように
シオンの山々に滴り落ちる。
シオンで、主は布告された
祝福と、とこしえの命を。


 詩編133編を読んでいただきました。この詩編は六月二十一日のプレフェスティヴァルの開会礼拝で、副支区長の清弘先生がお選びになったものです。
 その日も161番(21)を歌いました。先生は、この歌がバビロン捕囚以来のイスラエル民族の苦難と離散の経験から生まれてきたものであるとお語りになりました。国家滅亡や迫害の中を生きる者たちにとって、家族が共に座っていることだけでも「なんという恵み、なんという喜び」と言わざるを得ないのだ、と。その通りだ、と思います。
 その時から三カ月が経ちました。その間に私たちが報道で知らされたことは、世界各地の紛争です。なかでも、イスラエルとパレスチナのガザ地区との間の紛争には心を痛めざるを得ないものでした。今は停戦状態になっていますが、ガザ地区のパレスチナ人に残ったものは建物の残骸と、深い悲しみと憎しみ、怒りと復讐心でしょう。あの両者が和解することは不可能なのではないかと思うのは、私だけではないでしょう。しかし、日本と近隣諸国の間にも決して乗り越えることができない敵対感情があることも事実です。

 聖書の記述に基づけば、ノアの洪水後に世界中に広がった民族は、すべてセム、ハム、ヤフェトというノアの三人の息子から誕生したものです。つまり、元を辿れば兄弟なのです。
 また、エジプトからメソポタミア、アラビア半島にまで広がった民族は、アブラハムとサラの間に生まれたイサクと兄弟関係にあります。彼らは、アブラハムとハガルとの間に生まれたイシュマエルの子孫と、アブラハムとケトラの間に生まれた六人の子供たちの子孫だからです。アフリカ北部のエジプトからメソポタミア、アラビア半島一帯に広がった民族は、すべてアブラハムの子であり兄弟である。聖書は、そう告げています。しかし、イサクとイシュマエルは、イサクが乳離れをして以後、最早「共に座ること」は出来なくなりました。ケトラの子どもたちは、生まれた時既にイサクから遠ざけられ、兄弟として共に座ることはありません。イシュマエルの子孫である十二人の兄弟たちは、互いに敵対する部族となったのです。
 聖書は、その最初から、兄弟が共に座ることができない現実を厳しく描く書物です。アダムとエバの長男であるカインは、弟アベルを殺すのです。最初の殺人は、兄弟殺しだと言うのです。

 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」

 この言葉は、通常ならあり得ないことが起こったことに対する深い驚きと賛美の言葉なのです。
 161番は、133編冒頭の言葉を「見よ、主の家族が共に集まる」と解釈しました。それは、最後の言葉がこういうものだからでしょう。

 「シオンで、主は布告された
 祝福と、とこしえの命を。」


 「シオン」は、字義どおりに言えばエルサレムのことですけれど、神がその名を置いている神殿のことであり、さらに言えば、神殿で捧げられる礼拝のことです。そこに主は現臨し、「祝福と、とこしえの命を」布告されるのです。
 私たちにとって、「シオン」とは毎主日ごとに捧げる礼拝のことです。そこに、主イエスが現臨し、語り給うからです。
 あの十字架の死から三日目の夜、手とわき腹に傷跡が残る復活の主イエスが、弟子たちが集まっているエルサレムの部屋に現れました。そして、なんとおっしゃったか。

 「あなたがたに平和があるように。」

 彼ら弟子たちは、その罪によって父との交わりを失い、また互いに愛し合う兄弟の交わりを失ってしまっていました。しかし、イエス様は「あなたがたにシャローム(平和)がある」と言われた。それは、彼らの罪を赦すという宣言であり、神と人、人と人がとこしえに愛し合って生きることができる祝福を告げる言葉です。
 「祝福と、とこしえの命」とは、この方によって与えられるのです。この方の十字架の死による贖いと復活の命に与ることを通して、すべての人間が神の子とされ、兄弟姉妹とされるのです。パウロは、「キリストが十字架によって敵意を滅ぼし、平和を実現し、すべての者を神の家族にしてくださった」(エフェソ二 章)と言っています。その通りです。
 聖霊の導きによって「イエスは主である」と信仰を告白し洗礼を受けた私たちは、聖餐の食卓を囲む神の家族とされたのです。この食卓を通して主イエスから与えられる「祝福と、とこしえの命を」分かち合いつつ主を賛美する兄弟姉妹とされたのです。そのことが「恵み」、そのことが「喜び」なのです。この「恵み」と「喜び」を一人でも多くの方と分かち合うために、私たちは共々に伝道するのです。
 今回のフェスティヴァルも、私たちの肉の家族やこの世における友だちが、近い将来、礼拝の席に連なり、主が布告する「祝福と、とこしえの命を」聞く者となり、洗礼を受けて食卓につく者となることを願って開催しているのです。そのことを深く心に留めつつ、この時を分かち合いたいと願います。
 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵 み、なんという喜び。」   
                          〔二〇一四年九月二十三日(火) 於・渋谷教会〕
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