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会堂建築・教会形成2

             及川 信

                                

 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 ルカ24:36

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。 ヨハネ20:19?20

 昨年の会報十月号でも同じ題で書きましたが、今年も継続します。
 昨年の九月に芳賀力先生が「中心に主を迎える教会?教会を建てるということ」という講演をしてくださいました。
 その講演を受けて、私は、「私たちが特に覚えておくべきことは、説教卓と洗礼盤と聖餐卓を中心にして会衆がそれを囲むことの大切さです。御言と聖礼典が聖霊において結びつく礼拝空間としての会堂こそ、私たちが建てなければならないものなのだと思います」と書きました。
 以後、建築委員会の中で、長方形型と円弧型の礼拝堂(会堂全体の中心部)の設計案が作成され、二度の懇談会で皆さんに議論して頂きました。今号の「建築委員会NOW」にありますように、長老会としては、新会堂における礼拝堂の形状は円弧型とすることに決定しました。
 従来の長方形型は、礼拝堂が「講義所」と呼ばれていた当時の影響が反映していたと思います。私たちは、これまで五年もかけて「聖餐の食卓を囲む共同体」としての教会の学びを継続してきましたから、その学びを反映する円弧型に決まったことは、私としても嬉しく思っています。
 キリスト教会の礼拝の出発は、復活の主イエスの顕現にあります。十字架の死から三日目の日曜日の夜、神の御力によって復活された主イエスは、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように」という祝福の言葉を語りかけられたのです。
 この言葉の中には「あなたの罪は赦された」、「わたしはあなたがたと共にいる」という赦しの宣言があり「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」という派遣があります。だから、私たちの礼拝も、私たちの真ん中に立ってくださる主イエス・キリストによる「派遣と祝福」の言葉で終わるのです。牧師は、大牧者なるイエス・キリストに委託されて、「派遣と祝福」をするのです。
 この時の弟子たちは、絶望と後悔の思いでどん底にいたでしょう。誰も顔を上げ得なかったのです。主イエスに従うことを誓いながら逃亡したり、否認したりしてしまったのです。私たちも毎週、何らかの意味で弟子たちと同じ歩みをしています。
 しかし、そういう私たちを主イエスは顧み、愛をもって招き、いつも新たに真ん中に立って「あなたがたに平和があるように」と祝福してくださいます。この祝福を受けて私たちは派遣されます。

 「平和のうちに、この世へと出て行きなさい。
 主なる神に仕え、隣人を愛し
 主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。」

 この派遣の目的は、この世において「重荷を負って苦労している人」に主イエスを証することです。
 私たちの人生に重荷はつきものです。重荷のない人生はありません。多くの人が何らかの意味で重荷を負って苦労しています。
 主イエスご自身が、「町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる患いを癒された」(マタイ9:35)のです。そして、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れみ」、弟子たちに「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(同9:36?38)とおっしゃいました。
 私たちキリスト者は、先達のキリスト者を通して礼拝に招かれ、主の「深い憐れみ」を知らされ、主の者として収穫された者たちです。そして、今や主が共に重荷を背負ってくださることを知っており、また、主イエスが負う重荷を共に負う者ともされているのです。

  主イエスは弟子たちにお命じになりました。
 「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えな さい。……ただで受けたのだから、ただで与 えなさい。……その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい。家の人々がそれ を受けるにふさわしければ、あなたがたの願う平和が彼らに与えられる。」
            (同9:7?13抜粋)

 主イエスは今も、天の国の到来という福音を宣べ伝えておられるのです。そのために、私たちを招き、祝福し、派遣されるのです。
 礼拝堂は、復活の主イエスが、私たちの真ん中に立って私たちを招き、祝福し、派遣してくださる場なのです。
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