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報復を見て喜ぶ

             及川 信

                                

 人と人、また国と国の間に不信感が高まり、それが憎しみや敵意になっていき、殺人や戦争になることがあります。その場合、悪いのは常に相手です。自分は正しい。自分の言い分がすべて正しく、相手が悪いのです。
 作者は言います。
しかし、お前たちは正しく語り
公平な裁きを行っているというのか
人の子らよ

 詩編五八編で対比されているのは、「神に逆らう者」「神に従う人」であり、問題になっているのは「裁き」です。神に逆らう「人の裁き」と「神の裁き」が、この詩の中核的問題なのです。
 「神に逆らう者」は、神の名を語りつつ自分で攻撃し、また報復をするものです。それが正しい裁きだと思っているからです。神は自分の行為を認めると確信、いや盲信してしまっているのです。
 それに対して、神に従う人は神に任せます。
 「神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように」と。あくまでも「神が」なのです。神様が、彼の願いに従って、敵の歯を抜き去ってくれるかどうかは分かりません。彼は、思いのたけを神様に訴え、後は神様の裁きに任せるのです。
神に従う人はこの報復を見て喜び
神に逆らう者の血で足を洗うであろう。

 表現は血なまぐさいのですが、言っていることは神が勝利するということです。彼は、神に逆らう者に対して神様が勝利をすることを確信しています。それ故に、こう続けます。
神に従う人は必ず実を結ぶ。
神はいます。
神はこの地を裁かれる。

 問題は神がこの地を裁くお方として生きておられるということです。神が生きており、この地を裁く力をお持ちでないなら、「神に従う人」に希望はありません。
 「神はいます」。この言葉は、少年ダビデとペリシテ人の大男ゴリアトの戦いの場面に出てきます。素手のダビデは鎧兜で武装するゴリアトに対してこう言い放つのです。
「今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。……全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされない。」
 私たちの神様は、武力によってご自身がいますことも、ご自身の力も誇示なさいません。むしろ、その弱さを通して力を示し、ご自身に逆らう罪人に対する報復と裁きを現されるのです。
 そのことを最もよく示すのはイザヤ書五三章だと思います。そこでは、「苦難の僕」と呼ばれる人の姿が描かれています。人々の罪を自分自身に負って、身代わりに裁かれて死ぬ神の僕です。
主の望まれることは
彼の手によって成し遂げられる。
彼は自らの苦しみの実りを見
それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。……
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼が自らをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。

 屠られる小羊のように無力に殺された僕は、「戦利品としておびただしい人を受ける」のです。彼の執り成しの故に「正しい者」とされた人々が、彼の戦利品なのです。しかし、そんなことは、当時は誰も知り得ません。後に、神の啓示を受けた者だけが知り得たことです。
 その点では、イエス様の十字架の死も同じです。イエス様の十字架の死が何であり、何のためであったかを知ったのは、イエス様の復活の後に聖霊を注がれた人間だけです。
 パウロは、こう言っています。
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。
 イエス・キリストが十字架の上で流された血、それは詩編五八編の「神に逆らう者の血」です。神の独り子イエス・キリストが、神に逆らう「罪人のひとりに数えられ」、神の裁きを身代わりに受けてくださったからです。罪人とは神に逆らう者のことであり、それは神の敵です。その敵に対する神の報復、神の裁きは、ご自身の独り子を裁くことなのです。つまり、罪を赦す愛なのです。憎しみ、敵意への神様の報復は愛と赦し。そこにおいてこそ神の義、正しい裁きが現れたのだと新約聖書は語ります。そのように「神はいます」のです。だから、私たちは神の報復を見て喜ぶのです。
 私たちがこれから与る主の食卓は、罪と死に対して勝利した主イエス・キリストの食卓です。敵意と憎しみに愛と赦しによって勝利した主イエス・キリストの食卓です。そのことを信じてこの食卓に与る私たちは、主イエスにとっての「実り」であり、「戦利品」でもある。
 だから、私たちは親しい者とだけこの食卓を囲んで満足してはなりません。この食卓は、神に逆らうすべての者たちに対して開かれた食卓だからです。私たちも神に逆らう罪人であったのに、「神の恵みにより無償で義とされた」者たちなのですから。
 キリストの許にしか神との和解の場はないのだし、敵対する者同士の和解の場はありません。キリストの御前に罪を悔い改め、その血で罪を洗い清めて頂く。そして、洗礼を受けることを通して、復活の命に与らせていただく。その恵みをすべての人に宣べ伝えるために、今日も私たちのために食卓が備えられているのです。今は神に逆らい、互いに敵対する人々が、少しでも早く神と和解し、互いに和解し、一つとなれるように祈りつつ聖餐の食卓に与りたいと願います。
            (聖ヶ丘・中渋谷教会合同礼拝説教要旨)
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