主よ、どのような人が

             及川 信

                         詩篇 15編 1節〜 5節            

「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り
聖なる山に住むことが出来るのでしょうか。」


 これは、「どのような人が、あなたを礼拝することが出来るのでしょうか」という問いです。

「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び/悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。」

 私たちにひきつけて考えれば、極めて親しい間柄の家族や友人の交わりにおいても、教会内の交わりにおいても、社会全体の中でも、完全な道(責めるところのない行い)、正しい行いをしている人間こそが、主を礼拝するに相応しい人間だ、ということになります。
 そのことに、私たちは異議を唱えることはできないだろうと思います。聖なる神様を礼拝する者は、礼拝堂の中だけでなく、むしろ外において、聖なる神の御前で聖なる者として生活をすべきである。それが嫌なら、「主を礼拝したい」などと言う資格はないのです。
 私たちがこの詩編を読む時、自分自身の分裂の罪を知らされますし、礼拝を守らせて頂くことに後ろめたさや躊躇いを感じさせられるのではないでしょうか。礼拝堂の中では、キリスト者らしく振舞い、外に出れば、この世の人間として暮らす。そういう分裂や偽善、あるいは欺瞞を、私たちは誰でも抱えているのではないでしょうか。しかし、だからこそ、礼拝をさせていただきたい、させて頂かなければならないという思いをも強く持たされるのです。そして、その両方の思いを持たされるところに、この御言葉の本質があるようにも思うのです。
 詩編を読んでいて、時々思うことは、少なくとも表面的な次元においては矛盾する詩が並んで出てくる場合があるということです。この一五編の直前一四編は、こういう詩です。

「神を知らぬ者は心に言う/『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」


 地上に生きる人間は皆、汚れている。善を行う者はいない、ひとりもいない。これを一五編に当てはめるならば、「完全な道を歩き、正しいことを行う人はひとりもいない」ということになるのではないでしょうか。そして、そうであるならば、主の幕屋に宿り、聖なる山に住むことが出来る人はひとりもいないということにもなるはずです。
 この詩編一五編は、神殿の庭に入る時にその資格を問い、祭司に答えられるという、神殿入場典礼詩と呼ばれる体裁を取っていることは学者たちが指摘する通りです。しかし、現実には、いわゆる身の潔白を言葉だけで証明できるわけではないのですから、もし、そういう儀式が行われたとしても、それ自体が何か効力をもって、入場を拒むということはあり得なかっただろうと思います。それは、この礼拝堂に誰でも入れるのと同じことです。
 しかし、現実にはそうであろうと、この詩編のような問いを胸に抱かずに、そして、自分の無資格さ、神の御前に出ることなど出来得ようもない無資格さを思わないで、つまり、神への恐れを持たずに、この礼拝堂に入ってくる者にとって、その礼拝は一体何なのでしょうか。
 この詩編を読みながら、思い起こす聖書の言葉はいくつもあります。その中の一つは、ルカによる福音書一八章に出てくる主イエスの譬話です。自分は正しいとうぬぼれ、そういう自分であることを神殿において神に感謝するファリサイ派の人と、遠くに立ち、目を天にあげもせず、胸を打ちながら「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と叫んで帰っていった人の話です。主イエスは、「義とされて帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」と仰いました。
 礼拝とは、罪人が神に義とされるためにあるのです。その礼拝に与るためには、自分の罪を知り、激しく悔い、その赦しを求めることがなければなりません。
 しかし、自分の罪は礼拝の中でしか知り得ないということもまた事実です。礼拝において、主イエスの十字架の死を知らされ、復活を知らされる。その出来事の中に現されている神様の愛と赦しを知る中でこそ、私たちは、自分の犯した罪の深さ、酷さ、醜さを知るのです。そして、その愛と赦しの中で、悔い改めることが出来るのです。そして、新しくしていただけるのです。毎週の礼拝はそのためにあるのです。
              (2003年 9月 7日夕礼拝・説教要旨)
及川信牧師休養中のため、今月の巻頭言は会報四八〇号─二〇〇三年九月二十八日発行─所載のものを再録しました
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