渇くとは

             及川 信

                         ヨハネによる福音書 19章28〜30節        

「「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

 ここには、似た言葉が出てきます。「成し遂げられた」と「実現した」ですが、原文でも、前者がテレオーであり、後者がテレイオォーと似ています。そして、テレオーは、ヨハネ福音書においては、一九章二八節と三〇節の「成し遂げられた」にしか出てこないことから、著者のヨハネが、この語をイエスの十字架に結び付けて使用していると言って良いでしょう。
 テレイオォーの方は、一七章に出てきますが、そこは父なる神様への主イエスの祈りが記されている個所です。
 「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」(四節)
 「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(二三節)
 ここでの「成し遂げる」「完全に(一つに)なる」がテレイオォーです。
 また、「渇く」という言葉も、ヨハネ福音書では印象的な使われ方をしています。最初は、四章のサマリアの女と主イエスの対話の中に出てくるのですが、そこで主イエスはこうおっしゃいました。
 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
 また、永遠の命に関して主イエスに尋ねる人々に向かって、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(六章三五節)とおっしゃり、祭りの中で、大声でこう叫ばれたこともあります。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(七章三七、三八節)
 ここにも「聖書」という言葉が出てきますが、冒頭に挙げた個所における「聖書」、主イエスが十字架上で「渇く」とおっしゃったことによって「実現」された「聖書」とは、言うまでもなく、私たちキリスト者が「旧約聖書」と呼ぶ書物のことです。その聖書の何が実現したのでしょうか。
 明らかに言えることは、主イエスの「渇く」という言葉は、あの「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」から始まる詩編二二編一六節「口は渇いて素焼きのかけらとなり」の言葉が実現したということです。さらに二九節の「酸いぶどう酒」に関する記述も、詩編六九編二二節「人はわたしに苦いものを食べさせようとし、渇くわたしに酢を飲ませようとします」の実現と考えられます。いずれも、激しい卑しめと嘲りの中に苦しめられている信仰者の嘆きと、最後には力強い賛美が捧げられる詩編です。
 愛を説き、愛に生きたイエスは、ついに、その愛を理解されず(一章五節)、拒絶され、空しく殺された悲劇の人であると見る解釈は、歴史上しばしば現れてきましたし、形を変えて、これからも現れるでしょう。しかし、聖書は、そうは言っていないのではないでしょうか。聖書は、主イエスの死をもたらした十字架は、あらゆる意味で、神の御心の挫折ではなく、実現なのだと言っているのです。神の御心(それは既に旧約聖書において預言されてもいたことですが)は、神の独り子の死によって「成し遂げられた」のです。この死において、父なる神の栄光(一七章四節)は現され、また子である主イエスも栄光を受けるのです(一七章一節)。この死において、罪なる人間は、神と「完全に一つになり」、そして人間同士も互いに「完全に一つとなる」道が開かれたからです(一七章二三節)。
 ヨハネ福音書のイエスは、「成し遂げられた」(直訳「終わった」)と言いつつ、「息を引き取られた」(「霊を引き渡す」とも訳せます)のです。ここに、救いは完成したのです。ここには「既に世に勝っている」(一六章三三節)主イエスがおられるのです。
 主イエスは十字架の上で、「渇く」とおっしゃいました。しかし、本来「渇いている」のは、私たち罪人なのではないでしょうか。あのサマリアの女は、その一人です。欲望の赴くままに、飲んでも飲んでも渇く水を飲んでしまう。渇くから飲み、飲むからさらに渇くのです。それが、この世を肉をもって生きる罪人の悲しい現実です。誰もがその渇きを癒されたいと願い、永遠の命の水を求めている。しかし、ここにそれがあるとの誘いに乗って、さらに渇くようなことを繰り返すのです。
 聖書は、その水を与えて下さる方は、この十字架の上にいると、私たちに告げているのです。私たちの罪による渇きを全身に受け、自分の神に見捨てられる苦悩を一心に背負って下さることで、罪人なる私たちに「永遠の命に至る水」を与えてくださった方が、この十字架の上にいるのです。
 この方をキリストと「信じる者」は、誰であれ、もはや渇くことなく、永遠の命、救いを与えられます。その時、聖書の言葉が「信じる者」の中に「実現」するのです。この十字架の死こそ、復活の命への門であり、信仰を持ってその門から入る者は、誰でも復活の命を与えられ、主イエスとの永遠の愛の交わりに生かされるからです。
 「わたしを信じる者は、決して渇くことがない。」
 この宣言、この招きをいつも新たに聞き、応答する者でありたいと思います。
及川信牧師休養中のため、今月の巻頭言は会報四八〇号─二〇〇三年九月二十八日発行─所載のものを再録しました
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