あの方は復活なさって、ここにはおられない

             及川 信

                         マルコによる福音書 16章 1節〜 8節        

<font size=“3”><b>「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。ご覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。</b><br><br>  主イエスがエルサレムで殺され、三日目に甦るということ、そのことを主イエスは三度も弟子たちに預言をされましたし、その死が、多くの人の罪を贖う身代金としてご自身を捧げることであることも説明してきました。しかし、十二弟子も、ガリラヤから主イエスに従い、お世話をしてきた女たちも、誰も彼もその言葉を真剣に聞かず、信じることもなかったのです。<br>  その理由は様々に考えられます。<br> *主イエスが死んでしまうなんて考えられな い、考えたくもない。<br> *死人が復活するなんて、考えられない、信じ ることは出来ない。<br> *自分たちの罪がそんなに重いものだなんて、 考えられない、考えたくもない。<br>  いずれにしろ、誰も主イエスほど真剣に、そして真実に神を愛し、人を愛していたわけではないのです。ただ主イエスとその父なる神様だけが、罪なる私たちを真実に愛し、私たちの救いのために真剣に行動し、語りかけて下さっているのです。その真実、その真剣さが如何なるものであるか、それを誰も知りませんでした。<br>  十二弟子たちは、皆、主イエスを裏切り、そして逃げ去りました。自分を真剣に愛していたからです。しかし、彼らは逃げることで、一体、何を救ったのでしょうか。たしかに肉体の命を救ったでしょう。しかし、それも一時的なことです。死ぬ時を少し伸ばしただけであり、その間、主イエスを裏切ってしまった罪責感と挫折感に苦しみながら生きるほかにないのです。<br>  女たちは、他の弟子たちよりもはるかに深く主イエスの愛が身に染みていたでしょうし、主イエスを愛していたと思います。彼女らは,十字架の死を見届け、さらに埋葬された墓を見届け、そして、主イエスのご遺体に最後の奉仕を捧げたいと願って墓まで来たのです。<br>  彼女たちの愛を疑うことは出来ません。当時蔑まれていた女性を、一人の人間として、神に造られ生かされている尊い人格として愛して下さった主イエスへの愛は、他の男の弟子たちよりもはるかに強かったと思うのです。しかし、その彼女たちも、主イエスが預言どおり死から三日目に復活されると信じていたわけではないのです。復活される主イエスに会おうと思って墓に行ったのではなく、「油を塗りに」行ったのです。<br>  私たち罪人は、その罪に支配されている限り、主イエスのお言葉を信じることが出来ないのです。そして、その限りにおいて、肉体は生きていても、既に死が約束されており、死の闇に覆われて生きているのです。<br>  主イエスは、そういう私たちを愛し、罪を背負って十字架に掛かって死んで下さり、新しく生かすために復活して下さったのです。<br>  復活の主イエスは、弟子たち、そしてペトロに先立ってガリラヤへ行かれます。そこで彼らと新たに出会い、新たに召すためです。弟子として生きることが出来なかった彼らを、再び、併し、全く新しく、「わたしに従って来なさい。人間を獲る漁師にしよう」と招くためです。その招きをして下さる方が、自分の罪のために十字架に掛かって死んで下さった方であると信じることが出来る時、人は新しくされるのです。罪赦されて、全く新しく、キリストの弟子として生き始めることが出来るのです。<br>  私たちの毎週の礼拝、それは死んだ主イエスを思い出すために集まっているのではありません。生ける主イエスが、私たちを招き、命の御言葉、命の御霊を与えてくださり、聖餐の食卓を通して命の糧を与えてくださるのです。私たちはこの礼拝を通して毎週、新たにされ、新たに派遣されるのです。<br>  主は死んだまま墓の中におられる方ではありません。生きて私たちのただ中におられるのです。私たちは毎週の礼拝において、その事実を知らされ、確認し、力づけられて歩み始めることが出来るのです。<br></font>
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