最も大切なこと

             及川 信

                         コリントの信徒への手紙T 15章 3節〜 5節        

 「あなたにとって最も大切なことは何ですか」と問われたら、皆さんは何とお答えになるのでしょうか。極めて単純な問いです。普段思っていることを言えばよいのです。でも、この問いの前に、私たちは誰もがたじろいでしまうのではないかと思います。私もたじろぎます。「最も大切なこと」とはやはり重い言葉だからです。聖書を読んでいると、様々な所でなんと答えたらよいのか分からぬ思いになる言葉と出会います。先ほど読んで頂いた言葉もその一つです。
 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」
 この言葉は、パウロという人が自分の伝道によって建設した教会に向けて書いた手紙に出てくる言葉です。パウロは、彼自身が受けたことを多くの人々に伝え、その伝えられたことを信じた人々がキリスト教会を造り出していきました。キリスト教会とは、誕生以来二千年間、ずっとこの「最も大切なこと」を真理として語り伝えてきたのだし、キリスト教主義学校の根幹にもこの真理があり、真理を探求する精神があるはずです。
 その最も大切なこととは、「キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」と、パウロは言います。
 私が、この言葉の何にたじろぐのかと言うと、キリストにとって、罪人の一人である私はご自分の命を捨てても惜しくないほど貴重な人間だということです。「キリストがわたしたちの罪のために死んだ」とは、一面から言えば、そういうことを言っているのです。神の子であるイエス・キリストが、神に逆らい、自分の人生を好き勝手に生きているだけの罪人を、自分の命を捨てても惜しくない貴重な存在として見ている、いや実際に自分の命を捨てた、死んだのだと聖書は言っているのです。それほど、キリストにとって、私たち一人一人が貴重な存在なのだ、と。
 「命を捨てた」とか「死んだ」と言っても、それは自ら命を絶ったわけではありません。神を愛し生きること、人を愛して生きることを徹底的に求めたキリストを、人々はうとましく思い、キリストのことを神を冒?する罪人として処刑したのです。生きているイエス・キリストの体を、木で造られた十字架に掌や足の甲にぶっとい釘を打ちつけて、磔にしたのです。肉が裂かれ、骨は砕かれ、血をしたたらせつつ、「わが神、わが神、何故、わたしをお見捨てになったのですか」と絶望的な叫びをあげつつキリストは死んでいったのです。まさに心身共にぼろぼろの姿になって死んだのです。そして、そのことをキリストは望んでいたわけではないけれども、予想もしていなかったわけではない。神を愛し、人を愛することを徹底していけば、ついにそういう死に至ることは、ある時からはっきりと意識しておられました。
 その死は、「わたしたちの罪のためであった」。キリスト教会がその最初から伝えて来たことは、そのことです。それはつまり、キリストにとって、私たち罪人こそが最も大切なものであったということです。最も大切なもののために、最も大切な自分の命を犠牲として捧げてしまう。そして、神はそのキリストを死者の中から復活させ、キリストは、ご自身を見捨てて逃げ去ったケファ(ペトロ)を初めとする十二人の弟子たちに現れました。ここにキリストの愛、あるいはキリストを通して現された神の愛があると,聖書は告げているのです。
 ここに登場するケファ、一般にはペトロという名で知られている人が、歴史上最初のキリスト者、クリスチャンと言ってもよいでしょう。彼を含むキリストの十二人の弟子たちが歴史上最初の教会です。彼らが最も大切なこととして伝えたことを、パウロは受け取って伝えているのです。しかし、それは単なる教えではありません。人から人へと教えが伝達されていくということではない。ケファも十二人の弟子たちもパウロも、皆、キリストと出会った人々なのです。復活されたキリストに出会うとは、自分がどれほどの罪人であったかを知るということです。ケファを初めとする弟子たちは、例外なく、「あなたのためなら命を捨てます。一緒に死にます」と、キリストに対する愛と信仰の告白をした人たちです。しかし、彼らは皆、イエス・キリストが処刑されるために逮捕されると、掌を返したように、「あの人のことは知らない」と言って逃げてしまいました。彼らにとって、最も大切なものは自分の命だったからです。しかし、その命を守るために、彼らが、イエス・キリストを知らないと言って逃げた時、彼らの肉体の命はたしかに守られましたが、彼らを喜びと望みに生かしていたもの、つまり、彼らに対するキリストの愛と、キリストに対する彼らの愛は失われたのです。そして、彼らはまさに生ける屍となって行きました。最も大切なものとして守らねばならないのはこの愛だったのです。しかし、私たちはそのことを忘れ、あるいは知らずに、最も大切なものは自分の命であると思い、それを自ら守ろうとします。それが罪ということです。しかし、私たちが最も大切なものとしている自分の命を生かすものは、愛なのです。だから、本当の意味で最も大切なものは愛です。
 十字架の死から復活されたキリストが、ペトロを初めとする十二人に出会った時、またパウロに出会った時、彼らが何を知らされたかと言えば、それはキリストは、愛を裏切り、捨てた罪人である自分を今もなお愛して下さっているということです。つまり、罪を赦して下さっているということです。あの悲惨極まりない十字架の死とは、そのための死であったということです。
 その事実を聖書は最も大切なこととして今日も私たちに伝えているのです。皆さんが、その事実を信じることができますように祈ります。  (二〇一〇年一月七日、青山学院大学・青山キャン パス礼拝説教)   【及川信牧師休養中のため、会報五五六号─二〇一〇年一月三十一日発行─所載のものを再録しました】
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