「イエスは主である」(再録)

             及川 信

            創世記 18章26節
                             コリントの信徒への手紙T 12章 3節        

 ペンテコステに始まる教会の伝道の業は、爆発的な進展をする時もありますが、多くの場合は、困難を極めます。その理由の一つは、人間の裁きと神の裁きが徹底的に対立することにあると思います。
 ソドムとゴモラの裁きの物語において、アブラハムは「神はごく少数の正しい者の故に多数の悪人をも赦すべきではないか」と、訴えました。これは多数決の論理とは真っ向から対立するものです。先月から日本でも導入された裁判員制度は、一般市民の感覚を裁判に活かすことを目的の一つとすると言われていますが、有罪か無罪かを決定するのは多数決によります。それはある面、理にかなっています。教会における会議も多数決をもって決します。
 そして、人は愛をもって生きるべきだということは、世の多くの人が支持する教えです。そして、キリスト教が愛の宗教であることは広く知られており、多くの人がそのことに共感し、支持もしていると思います。日本全国のキリスト教系の幼稚園から大学までを合わせれば、そこに通っている園児、児童、生徒、学生は優に数万人を超えます。多くの親たちが、キリスト教に対して悪印象を持っていないことの証拠だと思います。しかし、その多くの親たちが、キリストを信じているわけではありませんし、子どもがキリストを信じることを願っているわけではない、いやむしろ、そんなことにはならないことを願っている。それもまた事実だと思います。
 多くの人々が、愛を善いものだと思っており、その愛の代表としてキリスト教に好印象を持っているのに、実際には信じない、信じようとしない。それは何故なのか? それは、結局、キリストの愛は、多くの人々が善いと思っている愛とは真っ向から対立する愛だからでしょう。
 愛は、裁きの場面でこそ問われるものです。悪人は有罪にする。それが多数の人々の価値基準です。しかし、神は、アブラハムの意見を受け入れるのです。五十人の正しい者がいれば、他のすべての人が罪人でも赦すというのです。そして、それはついに十人でもいれば、赦すという所に行き着きます。
 この神の裁きは、理に適ってはいません。現実には、その十人もおらず、ソドムの町は滅ぼされました。ある意味から言うと、ソドムのほぼ全員が罪人であり、自分たちを正しいとしていたのですが、神はその多数者の正しさを認めなかったということでもあります。
 新約聖書を読むと、圧倒的な多数決によって主イエスは有罪宣告を受けて処刑にされました。すべての人間が、主イエスは処刑されるべき罪人であると思った、あるいは裁判の過程で思わされたのです。それは、主イエスの説く愛が、あるいは主イエスが生きている愛が、私たち人間の価値観と対立するからです。主イエスは、徴税人を愛し、仲間とするからです。姦淫の女を愛し、その罪を赦すからです。商売女の愛を受け入れ、この女のように自分を愛してくれる者はいないなどと言うのです。私たちの教会においても、やはり、そういう主イエスの愛は困惑の対象なのではないでしょうか?
 教会に来て欲しい人々というのはいます。真面目な人です。つまり、付き合い易い人です。牧師も信徒も、そういう人に来て欲しいと心では願っている。もちろん、主イエスだって、そういう人も来て欲しいと願っている。だけれど、ホームレスも風俗店で働いている人も、心を病む人も、失業中の人も、引き籠もりの人も、来て欲しいと願っているでしょう。
 愛を否定する人がいないのと同じように、愛を生きること、少なくとも主イエスのような愛を生きることが出来る人もまたいない。そういう人間の現実が、ずっと続いていると思います。
 弟子たちもまた、そういう現実を生きる人たちでした。しかし、その現実を打ち破る現実が起こった。それがペンテコステです。聖霊が、彼らを打ち砕き、そして、彼らの説教を聞いた人を打ち砕いたのです。そして、教会にはあらゆる人々が集まってきました。そしてついに教会の迫害者であったパウロのことも受け入れたのです。
 そのパウロがこう言うのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」と。このイエスは、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分がしていることが分からないのです」と祈りつつ死んだイエスです。そのことの故に、三日目に神によって復活させられたイエスです。すべての人が「この人は罪人だ」と決め付けたイエスこそ、神はただ一人の「正しい人」と認められたのです。神が認める正しさ、それはすべての罪人を赦し、その身代わりになって裁きを受けるという正しさです。罪人の罪が赦され、罪人が神との交わりに入れられるために生き死にするという正しさです。神は、この唯一の正しい人を裁くことで、自分では正しいと思っているすべての罪人を赦す、そこに神の裁きの正しさがあるのだと聖書は告げているのです。
 「イエスは主である」という告白は、「自分はこの裁きによって罪を赦された人間なのです」という告白です。「十字架で死んでくださったこの方のみが、私たちの救い主なのです」という告白なのです。この告白を生きる。それはただ聖霊の御力をいただかなければ出来ないことです。
 教会は、人の正しさ、人の愛に対して、主イエス・キリストにおいて現れた神の正しさ、神の愛を宣べ伝える礼拝共同体です。この世からは敬して遠ざけられ、ある時はあからさまに迫害されるでしょう。しかし、聖霊の注ぎを絶えず新たに与えられつつ、「イエスは主である」と口で告白し、またその生きる姿で主の愛を証していく者たちとして歩めますように、祈りたいと思います。ただそこにのみ、神によって正しいと認められる道があるのだと思います。
(二〇〇九年六月一日西南支区常任委員会説教要旨)
【及川信牧師休養中のため、会報549号─2009年 6月28日発行─所載のものを再録しました】
巻頭言目次へ戻る