人はパンだけで生きるものではない(再録)

             及川 信

                ルカによる福音書  4章 4節

 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。(ルカ四章四節)

 悪魔はイエス様に囁きかけます。「人はパンを求め、パンを食べて生きる動物なのだ、と。食べて排泄して生きる動物なのだ。そのことをお前も認めろ。」
 しかし、イエス様は人がパンを食べて排泄する動物とは見做していません。
 「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる。」
 これは一体、どういう意味なのでしょうか?私は、エデンの園におけるアダムに対する神様の言葉を思い起こします。
 「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」
 食べることは生きることです。神の望みは人が生きることです。だから、「食べなさい」と言われる。それは「生きなさい」ということです。しかし、「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」とも言われる。ここでは食べることが「死ぬ」ことなのです。それはどういうことでしょうか?
 この後人間は食べてはならないと言われた木の実を食べます。蛇の言葉を女は信じ、そして男は女の言葉を信じ、二人は食べました。その結果、彼らはエデンの園から追放されました。しかし、彼らは死にはしませんでした。エデンの園から追放されただけで、その後二人の間には二人の男の子が生まれたりします。食物を得る苦労が始まりましたが、彼らは食べることで生き、そして子孫が生まれていくのです。
 それでは、彼らは死ななかったのか?神様の言葉は嘘だったのか、ただの脅しだったのか?蛇が言う如く、神様は人間が自分と同じ位に知恵をもった存在となることを恐れて、食べるなと言ったのか?
 そこで、考えなければならないのは、私たち人間の生と死は、はたして肉体だけのものなのかということです。たとえば、心から信頼し、愛していた人がいたとします。その愛と信頼は多くの場合、言葉をもって伝え合うのではないでしょうか?その愛と信頼の関係が真実なものであり、深いものである時、人はその関係性の中で生きることの充足、喜びに満たされるのです。
 しかし、不幸なことに、その愛と信頼が決定的な形で裏切られてしまうことがあります。あるいは裏切ってしまうことがあります。そして、裏切った相手を赦せない時、それまでの関係性は終わります。悲劇的な形で終わるのです。最早相手は自分にとっては死んだも同然の存在になります。肉体としては生きていても、愛し信頼し合う関係の中で生きる人間は死んだのです。相手が真実の謝罪をしてこない限り、そして、自分が赦せない限り。あるいは、自分が真実の謝罪をして、相手が赦してくれない限り、お互いは死んだも同然です。
 そこで考えます。あの「食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という神の言葉は何だったのか?
 「食べてはならない」とは、いつだって食べることができる状況が前提とされています。善悪の知識の木の実は、他の木の実と同じように手を伸ばせば食べることが出来る状態なのです。そして、その木の実には人を死に至らせる毒はありませんでした。彼らは食べても死ななかったからです。でも、神様も嘘を言ったわけではない。彼らはやはり死んだのです。「食べてはならない」という神様の言葉よりも「食べても死にはしない。むしろ神のようになれるのだ」という蛇の言葉を信用し、神様の愛と信頼の関係を裏切ったからです。彼らは、善悪の知識の木の実を食べなくとも生きてはいました。そして、善悪の知識を食べた後も肉体的には生きていました。でも、食べる前のように、互いに裸ではいられず、神の前に裸で出ることもできなくなったのです。もうかつての彼らはそこにはいないのです。死んだのです。男女の間も愛と信頼において一つの交わりを生きることが出来ない。そういう存在になったのです。
 そして、聖書はそういう存在として生きる人間を「罪人」というのです。パンを食べることで生きている。それが生きることだと思っている人間です。それは、蛇の言葉を信じている人間です。
 しかし、神様はそのような者として人間を造り、生かしているのではないのです。ご自身が語りかける愛と信頼の言葉を聞いて信じ、神を愛して生きる。そして、人と人との愛と信頼の交わりを生きる。そういう命を生きることを私たちに望んでおられるのです。そして、その望みは、裏切りの罪を赦すことにおいてしか達成できないものです。
 悪魔から誘惑を受けることによって始まった神の子イエス・キリストの地上の生涯は、罪人の一人として十字架に磔にされて死ぬというものでした。その死の直前、十字架の上で主イエス・キリストはこう祈られました。

 「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです。」

 十字架はその時三本立っており、主イエスの左右に二人の男が同じように磔にされていました。その内の一人が、主イエス・キリストの祈りを聞いて、自分の罪を知り、真実の悔い改めと謝罪をしたのです。するとイエス・キリストはこうおっしゃった。

 「あなたは今日、私と一緒に楽園にいる。」

 罪を赦されて、肉体の死を越えて、主イエスと共に生きるということです。それはパンを食べて生きる命ではありません。主の言葉を信じて生きる命です。この命を生きることが出来ますように、祈ります。    (六月九日 青山学院青山キャンパス礼拝説教要旨)
【及川信牧師休養中のため、会報五七四号─二〇一一年七月三十一日発行─所載のものを再録しました】

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