犠 牲 と 平 和 (再録)

             及川 信
                創 世 記 8章20節〜22節
    ペトロT 3章18節〜22節

 ノアは主のために祭壇を築いた。そしてすべての清い家畜と清い鳥のうちから取り、焼き尽くす献げ物として祭壇の上にささげた。主は宥めの香りをかいで、御心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」

 今、お読みした創世記の記事は、言うまでもなくノアの大洪水の直後の情景です。神様が地上を見た時に、そこには暴虐が満ち溢れ、人が心に思い図ることは悪ばかりであった。その現実を前にして、神様は、人を造ったことを後悔し、ノアとその家族、そしてすべての動物を一つがいずつ箱舟に入れて、全世界を洪水で滅ぼされたのです、それは徹底的な裁きであると同時に、新しい世界の出発でもありました。
 私たち人類は今、開発という名の下の破壊、平和と正義の名の下の戦争により、地球環境を破壊し、人と人は殺し合う世界に生きています。神様が、この現在の地球をご覧になった時に、一体、どう思われるのか? ノアの時代と同じことを思われるのではないか? そう思わざるを得ません。
 ある本に、古代社会における犠牲に関してこんなことが書かれていました。犠牲は暴力の連鎖を止めるために必須のものであった、と。互いに争う勢力の暴力はどんどんエスカレートし、ついにはどちらかが滅亡するまで激しいものになってしまうことがある。そういう時に、罪なき子供とか汚れなき処女とかを犠牲として捧げることを通して、暴力の連鎖が止まる。そのために犠牲は、いつの時代でも必要とされていたのだ、と。
 また、洪水や日照りなども、人間を滅亡においやるものですが、その場合、神の怒りを収めるためにいわゆる人柱を建てる。誰かが、その貴い命を犠牲として捧げることを通して、豪雨が治まり、洪水が止み、また日照りが治まる。そう信じられていたとも言われます。たしかに人類学的に、そういうことが言えるだろうと思います。
 しかし、聖書は、今言ったような意味でノアが犠牲を献げ、また神がもう二度と破滅をもたらす大洪水を起こさないとおっしゃったのかと言うと、そんなことはないと思います。
 ここで問題になっているのは、単なる自然災害ではありません。自然災害の元である人間の悪なのです。洪水によっても押し流すことが出来なかった、人間の心の中にある悪です。幼い頃に既に抱え持ってしまっている悪、その悪が人間にはある。ノアは、洪水の出来事を通して、そのことをつぶさに知ったのだと思います。そして、このどうすることも出来ない自分たちの罪を赦して頂きたく、犠牲を捧げている。神様は、彼の心にある悔い改め、また神への信頼と愛を見て、その犠牲を受け容れて下さったのだと思うのです。
 しかし、その後も、人間の神に対する反抗は続いており、現在に至っている。人間の心の中にある悪は、犠牲を捧げることでなくなったわけではなく、忍耐をもって赦されているだけだからです。だから、悪の連鎖、暴力や破壊の連鎖は今も続いているのです。
 しかし、その絶望的な人間の歴史の中で、神様が一度、決定的なことをして下さった。私たちは、そのことに目を留めなければならないと思うのです。新約聖書は、そのただ一度の事実を告げている書物だと言っても良いと思います。今日は、その中で、ペトロの手紙一の言葉を選びました。もう一度、読みます。

 キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。

 ここで言われていること、それは、犠牲を神ご自身が捧げたということです。そして、その犠牲は単なる動物ではなく、ただの人間でもありません。キリストです。キリスト、それは神と一体のお方です。キリストにおいて神ご自身が現れている、そういう神にして人であるお方。歴史上、ただ一人、罪のないお方として生まれ、生きた方です。ただ一人、神の正しさを生き抜かれた方なのです。ですから、この方が犠牲になるとは、神ご自身が人間の悪、その罪のために犠牲になるということです。そして、それは単に戦争を止めるとか、洪水を終わらせるとか、日照りを終わらせるための犠牲ではなく、悪を抱え、罪に支配されている人間を、「神のもとへ導くため」の犠牲です。私たちが、この方において現れた神の愛を信じ、受け入れるとき、私たちは新たに造り替えられ、神に反抗し、互いに争い、自然を破壊する人間ではなく、神を愛し、互いに愛し合い、自然とも共生する人間に造り替えられて行くのです。
 そして、ただそこにだけ平和の基礎があるのです。人間の英知によっていつの日か世界が平和になるわけではありません。キリストにおいて現れた神の愛とその愛を信じる信仰によってのみ、私たちは、私利私欲から解放され、愛の中で愛に生きる者とされていくのです。
 私たちは今日、平和を求める祈りを合わせるためにここに集まりました。しかし、その祈りは、私たち自身がキリストを信じる信仰を新たに求めることを抜きに、ただ世の中が平和になりますように、と祈ることであるはずもありません。私たち自身が、今日も新たにキリストの犠牲を通して示された神の愛を平和の基礎として受け入れ、そのキリストに結びつき、神との平和に生きることが出来るように祈るのです。キリストの献身に応えて、私たち自身もキリストに献身する。身を捧げる愛に応えて身を捧げる愛に生きる。その十字架の愛に神様との平和があり、その平和が世界平和の基礎なのです。私たちの祈りは、私たちを含めて、世界中の人々が、十字架の愛を信じることを通して、神様との平和に生きることが出来るようにというものであるべきなのではないでしょうか。
【及川信牧師休養中のため、会報五三九号(二〇〇八年八月三十一日発行)所載の巻頭言を再録しました。】


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