十字架の言葉(再録)

             及川 信
                第一コリント 1章18節〜31節

 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(一章一八節)
 一九一七年(大正六年)九月二十九日、中渋谷教会は中渋谷日本基督教会として設立され、以来九二年にわたって福音伝道の業を継続してきました。それは、ただひたすらに「十字架の言葉」を語り続けてきたということです。「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決め」(二章二節)、十字架のキリストだけを宣べ伝えてきたということです。もちろん、その十字架のキリストは復活のキリストであることはパウロにとって自明なことであり(一五章参照)、私たちにとっても当然なことです。
 しかし、この十字架(と復活)は、この世の知恵をもって理解することは出来ませんし、知恵によって信じることが出来るものでもありません。
 「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」
 もちろん、この信仰に理性は全く必要がない、むしろ邪魔であるということではありません。パウロは、後に、「霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」「教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」と言っています。「鰯の頭も信心から」というように訳も分からぬものをただ闇雲に信じることが信仰なのではありません。そして、そういう信仰が教会を建て、形成し続けて行くわけでもありません。教会を建て、また形成し続けていくのは、その当初から、十字架の言葉であり、十字架のイエス・キリストにおいてご自身を現した神ご自身です。その神が送ってくださる聖霊によってイエス・キリストを信じるその信仰が、教会の信仰です。
 それでは、聖霊によって与えられる信仰とは、何を信じているのでしょうか? それは、イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪が赦され(贖われ)、復活によって私たちは新たに造りかえられ、神の義と聖(一章三〇節)に与る者とされるということです。二千年前の一人の人間の死、それも犯罪者として処刑された死が、全人類の罪の贖いとなっていることを信じる、そして、その一人の人間が死から甦り、今も霊において生きており、その愛と赦しを与え続けていることを信じる。それはまさに、「愚かな」ものとしか言い様がありません。どうしてそんなことを信じることが出来るのか、冷静になって考えてみると、私もよく分かりません。それは、自分の頭で考えたことではないからです。自分が救われるためには、神の独り子、罪なき独り子がその罪を背負って死に、復活しなければならないなどと、私たちは誰も考え付きませんし、もし考えることがあったとしても、実際にそのことが起こっていなければ、私たちの救いはありません。
 「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探す」(一章二二節)とありますが、その両者とも救いを求めるが故に、そうしているのです。私たちは誰もが、意識していようがいまいが、永遠なるものを求めて探しているのです。さほどの知恵がなくても、諸行無常の世の中であぶくのように浮かんでは消える命の儚さは感じています。しかし、その儚さを自分ではどうすることも出来ない。それなのに、そういう儚い自分の知恵に頼んで生きること(エゴイズム)以外には術を知らないのです。そこに人間の惨めさ(ローマ書七章参照)があります。救いを求めつつも「滅んでいく者」の悲惨があります。神様は、人間をその悲惨から救うために御子イエス・キリストを送り、その御子を十字架に磔にして裁かれたのです。その裁きを通して、私たちの罪を赦し、死を打ち破り、永遠に神に結ばれて生きる救いを与えてくださったのです。そこに「神の知恵」があります。決して、人間の知恵によっては知ることが出来ない神の知恵がある。私たちは、その「神の知恵であるキリスト」を宣べ伝えられて信じ、そして、宣べ伝えることによって生きています。それはすべて聖霊の業なのです。
 パウロはこう言っています。
 「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、霊≠ノ教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。霊の人は一切を判断しますが、その人自身はだれからも判断されたりしません。
 『だれが主の思いを知り、
 主を教えるというのか。』
しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。」
(二章一一節〜一六節)  私たちは、世の終わりまで、霊の導きの中で神を知らされ、霊と理性をもって十字架の言葉を語り続けて生きていきます。それが教会に与えられた使命であり、そこに教会の命があるからです。
 「自然の人」として、「塵から出て塵に帰る」ほかなかった私たちが、今や恵みによって「霊の人」とされたのですから、その霊を全身に受け入れて、己を誇るのではく、「主を誇り」(一章三一節)つつ、その歩みを継続してまいりたいと思います。
【及川信牧師休養中のため、会報五五二号(二〇〇九年九月二七日発行)所載の巻頭言を再録しました。】


巻頭言目次へ戻る