わたしは必ずあなたと共にいる(再録)

             及川 信 出エジプト記 第3章11節〜12節

 モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」
 私たちキリスト者は、誰でも派遣された者、つまり使徒であることは明らかなことです。主イエス・キリストに(神に)召され、祝福され、派遣されるのです。招詞から始まり派遣・祝福で終わる礼拝の構造そのものが、そのことを示しています。
 しかし、それは礼拝堂の中に留まる主イエス・キリストに派遣されるのではなく、私たちに先んじて礼拝堂を後にしてこの世へと出て行かれる主イエスに派遣されるのです。主はただ背後から「わたしはあなた方を世へと遣わす」とおっしゃっているのではなく、「わたしが先立ち、わたしもあなたがたと共に出て行くのだ。出会う人々に祝福を与えるために」とおっしゃっているのです。
 「わたしがあなたと共にいる。」
 この言葉がなければ、またこの言葉を信じることができなければ、私たちは、派遣された使徒として生きることなど到底できるものではありません。
 聖書の中には、この言葉によって勇気を与えられ、望みを与えられることで生きた人々が何人も出てきます。冒頭に挙げたモーセは勿論のことです。彼はヘブライ人なのに神の導きの中でエジプトの宮廷で育ちました。しかし、ある時、同胞であるヘブライ人に対するあまりに理不尽なエジプト人の弾圧を見て、殺人を犯してしまい、その罪に対する裁きを恐れて身体一つで逃亡した人物です。しかし、神はその彼をエジプトに遣わそうとされる。その時の言葉が、「わたしは必ずあなたと共にいる」でした。そして、遣わす目的を告げるのです。
 創世記の族長物語にヤコブが故郷から逃亡せざるを得ない場面があります。その時、主は夜の夢の中で、「見よ、わたしはあなたと共にいる」と約束され、「決して見捨てない」と語りかけて下さいました。彼が晩年に約束の地を離れエジプトに難民として下らざるを得なかった時も、礼拝を捧げる彼に「恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする。わたしはあなたと共にエジプトに下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す」と約束して下さったのです。その約束が無ければ、彼がエジプトのファラオを祝福することなどあり得ない話です。
 多くの方が愛唱する詩編二三編には、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」という言葉があります。この主の言葉は、主イエス・キリストを信じる私たちにとって、死を超えた復活、永遠に主と共に生きる望みを支える言葉です。
 新約聖書に入ると、約束と使命は伝道と直接結び付きます。
 マタイによる福音書の最後の言葉は、こういうものです。
 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
 「すべての民」を主イエスの弟子(キリスト者)とする伝道のために、彼らは全世界に出ていくように命じられます。つまり、派遣される。しかし、その使命を生きる彼らと、主イエスは世の終わりまで、いつも共にいてくださるのです。この事実を抜きにして、彼らはその使命を果たすことは出来ません。
 パウロはコリントの町で、様々な妨害を受けつつ伝道している最中に、幻の中で、こういう言葉を聞きました。
 「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はいない。この町には、私の民が大勢いるからだ。」
 その言葉を聞いて、彼はその後一年半、その地に留まって伝道を続けました。
 私たちの教会も、九二年間この渋谷の地で伝道を続けてきました。一九五〇年代から六〇年代の終わりまで、日本各地の教会の伝道は進展し、開拓伝道も盛んになされていました。中渋谷教会も同じです。しかし、日本全体で見ると、七〇年代以降伝道の勢いは止まり、今は受洗者の減少、教会学校の激減によって衰退の一途を辿っています。しかし、聖書を通して私たちに語りかけてくる神様の言葉が時代に合わせて変わる訳ではありません。当然のことです。神様は勢いのある時だけ一緒にいてくださるのではありません。死の陰の谷を独りで通るときだって共に生きてくださっています。逃亡する時も、闘いに出かける時も、一進一退の我慢の連続の時も、矢張り共にいて下さるのです。
 問題は、私たちを派遣し、私たちに先立ち、また共に歩んで下さる主イエス(神)に従って生きているかどうかなのです。前進するにしても、立ち止まるにしても、後退するにしても、それが主イエスの命令に従っていることであれば、主は共にいて下さいます。そして、私たちを導き続けて下さいます。主の派遣も約束も関係なく、自分の願いに従って生きる所に主が共にいますわけではありません。
 私たちは、主の命令に従って、この町でこれからも伝道し続ける者たちでありたいと願います。その具体的成果がどういうものであれ、「語り続けよ」という命令は変わらないのです。礼拝においてはもちろんのこと、バザーを初め、すべての行事、そして私たちの生活において、その派遣命令に応える時、そこに主はいまし、主の御業をなして下さるのです。ただ、そのことが私たちを支え、その望みを確かなものとして下さるものなのです。
【及川信牧師休養中のため、会報五五三号(二〇〇九年十月二五日発行)所載の巻頭言を再録しました。】


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