キリストは神の身分でありながら(再録)

            及川 信 フィリピの信徒への手紙  2章 6節〜11節

 人生は極めて不平等だし、不公平です。そして、世界は不条理なことで満ち満ちています。あのヨブは、こう叫びました。

「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ、年を重 ねてなお、力を増し加えるのか。……
また、ある人は死に至るまで悩み嘆き
幸せを味わうこともない。
だが、どちらも塵に横たわれば
等しく、蛆に覆われるではないか。」

(二一章七節、二五〜二六節)

 この不公平な現実を前にして、私たちは神の愛を疑います。そして、私たち人間同士は、決してお互いの立場に立つことはできません。そして、教会においても、慈しみや憐れみの心がなく、同じ思い、同じ愛を抱き、心を合わせたり、思いを一つにすることが出来ないという(フィリピ二・一〜五参照)ことがいくらでもあります。
 しかし、そういう罪の世にキリストが突入してこられた。それがクリスマスの出来事です。そして、教会はやはり、クリスマスの出来事がなければこの世に誕生しなかった共同体です。だとするならば、教会とは、この世にありながら、この世とは全く違う秩序を持った共同体であるはずだということでしょう。
 パウロは、人間世界の罪なる現実を直視し、そして、あのローマ書の七章にもあるように、自分自身の惨めな罪の現実に七転八倒の苦しみを味わいつつ、「それはキリスト・イエスにも見られることです」と言って、この讃美歌の引用を始めるのです。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現われ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 私たちは同じ人間です。でも、同じ人間だって人の立場には立ちたくありません。それも、自分よりも低いと思える人の立場、自分よりも悪いと思える人の立場に立つなんて屈辱以外の何ものでもないのです。さらに死刑にされるような被告人の立場に立つことなど絶対にしないのです。あるいは、意志も尊厳も認められない奴隷の立場に、自ら立つことなどしないのです。
 キリストは、神の身分だったのです。キリストは人間ではありません。ヨハネ福音書の冒頭にあるように、天地創造以前に神と共におられた言として神なのです。独り子なる神なのです。この神の身分、栄光に満ち満ちたお方が、その身分を捨てる。お立場を捨てる。そして、何になったか。人となったのです。つまり、違う者になったのです。王として君臨しておられるべき方が、僕、奴隷になったのです。何をしても報われない奴隷です。最後は、使い捨てのボロ雑巾のように捨てられる。そういう存在になった。自らです。上からお金をばら撒いたのではなく、自分で上から下までやってこられた。プールもテニス場もゴルフ場すらあるような豪邸から、すべてを捨ててスラムの中にやって来て、そこで死ぬというようなことです。
 何のために、キリストはそのようなことをなさったのか。それは、私たちが「イエス・キリストは主である」と告白するためです。私たち、罪の奴隷として生きている私たち。同じ思いになどなれず、利己心と虚栄心でのみ生きており、自分のことだけ考えて生きている私たち、そのことの故に、格差を生み出し、互いの敵意を生み出し、そして互いに警戒し、恐れている私たち、この惨めな罪の奴隷である私たちを解放し、神の僕として新しく生かすために、それも肉体の死を超えて、永遠に礼拝する者として生かすために、キリストは神と等しいお方であったのに私たちと同じ人となって下さった。それも、十字架に磔にされて殺される人、死刑囚という最低最悪の境遇の人になって下さったのです。
 イエス様は、ご自分に何の利益もないどころか、最低最悪、考えるだけでオゾマシイ最期が待っているであろうことを知りつつ、神の身分を捨てて、人間となって下さった。私たちと徹底的に関わって下さるために。この醜い私たち、あくどい私たち、偽善的な私たちを、少しでも愛に生きることが出来る人間に造り替えるために、天から降って来てくださった。こんな愛はないのです。こんな愛はどこにもないのです。このキリストにしかないのです。
 このキリストを信じる。そして、跪いて「イエス・キリストは主である」と告白し、讃美する。こんな喜びと感謝はありません。この喜びと感謝の中でだけ、私たちはキリストにおいて一つの交わりを作り出すことが出来るのです。キリストの愛を分かち合う。クリスマスの喜びは、そこにあります。この喜びは、教会の中にしかありません。キリストが神の身分でありながら、人となって下さったことを記念し、祝うクリスマスの喜び、それは私たちが罪人でありながら、キリストの僕、神の子として新たに生まれさせていただける喜びなのです。この「教会にしかない喜び」を今日ここで分かち合い、そしてその喜びをまた家族や友人とも分かち合っていくことが出来ますように。主の祝福を祈ります。
      (婦人会合同クリスマス説教要旨)
【及川信牧師休養中のため、会報五一九号(二〇〇六年十二月二十四日発行)所載の巻頭言を再録しました。】


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