神様のなさること(再録)

            及川 信 創世記  25章23節

「二つの国民があなたの体内に宿っており/ 二つの民があなたの腹の内で分かれ争ってい る。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟 に仕えるようになる。」
(創世記二五章二三節)

 二〇〇八年を迎えました。しばらく休止していた創世記とヨハネ福音書の説教を再開します。いずれも厳しい局面を迎えていきます。創世記ではヤコブ物語が始まります。そして、ヨハネ福音書では、イエス様とこの世(ここには「イエスを信じた人々」も入ります)との厳しい対決が始まるのです。ヤコブ物語には策略があり、憎しみがあり、殺意があり、恐れがあります。ヨハネ福音書も同様です。人々は、イエス様と話せば話すほど、憎しみを募らせ、殺意を抱き、ついには策略をもって殺そうとするのです。
 そういう箇所を読み進めていくということは、実に厳しい経験です。人間の惨めさ、醜さ、弱さ、愚かさ、恐ろしさを読むほどに知らされていくことになるからです。
 しかし、同時に、そういう人間を選び、ご自身の救いのご計画を進めていかれる神様の不思議さ、ありがたさ、偉大さに触れ、ただ、「ああ、神様、あなたは何というお方なのですか?」と感嘆の讃美を捧げる以外にない思いにさせられるのです。
 ヤコブは、双子の弟です。兄はエサウ、ちょっとおっちょこちょいだけれど、憎めない男です。ヤコブはこの男と母リベカの胎にいた時から争っており、生まれるときには兄エサウの踵をつかんで出てきたというのです。そして、神様は、「兄が弟に仕える」と、当時の世界の秩序(長子の特権・相続権)を覆すようなことを既にリベカに伝えている。この物語は主人公が誕生する以前から、既に不穏な雰囲気に満たされています。そして、読めば読むほど、ヤコブは嫌な奴です。でも、神様はこの男をアブラハムの祝福を受け継ぐ男として選ばれた。その事実は変わらない。その事実を前にして、私は当惑します。「何故、こんな男を?」と。
 しかし、福音書を読んでも、あるいは使徒言行録や書簡を読んでも、同じ思いになることがあります。ペトロだって、パウロだって、人間的に尊敬できる人ではなく、また好きになれる人でもありません。ペトロは、張り切って信仰を告白しつつ、実は他の弟子たちと誰が一番偉いかと言い争っている。そして、他の人は知らないけれど、私はあなたと一緒に死にます、と立派な告白をする。でも、その舌の根も乾かない内に、「あの人のことなど知らない」と三度も口にする。使徒として伝道している時も、異邦人との食事に関して態度が曖昧なことがあります。パウロはそういう曖昧さは全くないのですが、迫害者時代のパウロは、あまりに過激な独善に陥った自信家ですし、回心後は、立派と言えば立派ですが、その過激さと自信の強さにはついていけない感じがします。
 私にしてみると、聖書に出てくる代表的な人物のいずれも心底尊敬できるわけでもないし、必ずしも好きになれるわけでもないのです。だけれども、気になって仕方ない人たちです。聖書を読みつつ、彼ら一人一人の人生を辿ることを、若い頃からもう三〇年もやってきているのですが、飽きることがなく、むしろ興味と関心は強くなるばかりです。
 どうしてなんだろうか? とよく思います。結局、それは彼らの中に自分自身を発見するからだと思います。自分自身の「惨めさ、醜さ、弱さ、愚かさ、恐ろしさ」が、彼らを通してまざまざと知らされるのです。そして、こんな自分が、まだ神の民の交わり(教会)に入れられており、神様を礼拝することが許されており、また求められてもいる。つまり、見捨てられていない。その事実に圧倒されるのです。
 私たちは誰も自分の顔を直接見ることは出来ません。鏡を通して見る以外にないのです。そして、私たちは、毎日毎日自分の顔を鏡によって見ています。そして、ああ今日は元気そうだとか、疲れているとか、よい顔だ、悪い顔だ……と様々なことを考え、また感じつつ生きています。自分に関心のない人はいません。しかし、その自分のことを、私たちは自分で見つめることが出来ない。他人の顔は直接見ることが出来るのに、自分の顔は鏡に映さないと見えない。
 聖書は、私にとってはそういう鏡なのかもしれません。そこに生きている人物は、まさに今も生きている。様々な挫折や失敗を繰り返し、また驕り高ぶり、嘆き悲しみつつ、生きています。そして、なんと神様は、そういう人間と、なおも共に生きてくださっている。天の高き所から、砂浜の小さな砂粒に過ぎないような一人の人間をじっと見詰め、その声に耳を傾け、必要とあれば天を裂いて降って来て、語りかけてくる。そういう神様が生きている。共に生きてくださっている。こんな人間と、それでも神様は共に生きてくださっている。愛してくださっている。救いへと導いてくださっている。それは神様が神様だからであって、他の理由はないのでしょう。
 「神は、その独り子を与えるほどに世を愛された。」
 これが神様の業、神様のなさることです。
 この神様に愛されている自分を見る。また、自分を愛してくださっている神様を見る。聖書を読むとは、私にとって、そういうことです。その聖書を、この年も、一緒に読んでいきたいと願っています。そして、その苦痛と喜びを共にしたいと思います。
【及川信牧師休養中のため、会報五三十二号(二〇〇八年一月二十七日発行)所載の巻頭言を再録しました。】


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