わたしの言葉にとどまるならば(再録)

            及川 信 ヨハネによる福音書 8章31節〜32節.

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」
(ヨハネ八章三一節〜三二節)

 イエス様を「信じた」ということが、その時点からずっと続く現実ではない場合があります。「あの時は信じたけれど、今は信じていない」ということがあり、「日曜日は信じたけれど、月曜日からは信仰とは無関係に生きている」ということもあります。
 「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」(二章二三節〜二五節)
 これは痛切な現実です。信じていると思っているのに、現実には信じていない、あるいはその信仰は誤った信仰であるというのは悲しく惨めな人間の現実ですし、イエス様にとっても、人間の信仰を信用できないというのは真に悲しむべき現実です。
 しかし、イエス様はその悲しみの中でも尚も諦めることなく語り続け、そしてその御業をなし続けてくださいます。私たちの希望は、そこにしかありません。私たちはイエス様を忘れる、見捨てる、遠ざかることがあっても、イエス様は私たちを忘れず、見捨てず、絶えず側近くにいてくださり、そして声をかけてくださる。ただ、そこにのみ希望があり、そこにのみ信仰に生きる可能性があるのです。
 そのイエス様がおっしゃること、それは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」です。「とどまる」は「つながる」という意味であり、木とその枝との喩えでも使われています。イエス様と一体の交わり、命の交流の中を生きることです。何故なら、イエス様の言葉は霊であり命だからです。
 その霊であり命である言葉につながるとは、具体的には主を礼拝し、御言を頂き、聖餐に与ることであり、そこで受けた言葉、霊、命を生活の中で生きることです。
 礼拝の場に集えない方たちもたくさんおられますが、しかし、日曜日の午前一〇時半、午後六時半の礼拝の時に合わせてご自宅で、病床で祈りを合わせ、霊において生き給う主を覚え、讃美し、祈ることは出来ます。主はどこにでもおられるのですから。そして、訪問聖餐を通して、ご自宅でも病床でも御言と聖餐に与ることが出来ます。その時、その人は「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(六章五六節)の御言が実現するのです。ここで「いる」とか「おる」と訳された言葉も「とどまる」「つながる」と同じ言葉、ギリシャ語では「メノー」です。
 しかし、イエス様がいつも側近くにいて、語りかけてくださっても、私たちが心を開き、迎え入れなければ、イエス様は私たちの中に入って来られないのです。そして、その現実をイエス様はこうおっしゃっています。
 「あなたたちは、わたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」(八章三七節)
 イエス様の言葉を受け入れない(直訳すると「わたしの言葉があなたたちの中に生きる場がない」)ということは即ち、イエス様を殺す、抹殺してしまうことであり、それは即ち、イエス様の中で生きることが出来るはずの、私たちの霊的な命、永遠の命を、自分で殺してしまうことになります。
 「信じている」と口では言い、自分では思っていたとしても、現実に、いつも新たにイエス様の言葉を自分の心に受け入れていないならば、その時はキリスト者の命を生きていることにはなりません。本当の弟子にはなれないのです。しかし、イエス様は、そういう私たちを諦めずに、いつも新たに「私の言葉にとどまっていなさい」と語りかけてくださっている。先ほども言いましたように、ただこの事実にのみ希望があります。
 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」
 イエス様は、「わたしは道であり、真理であり、命である」ともおっしゃっています。ですから、イエス様の言葉にとどまることによって、イエス様を知るということであり、イエス様が真理であり、命であり、父の御国に私たちを導く道であることを知るということです。その事実を受け入れるところに真の自由があります。なぜなら、そこにのみ、罪と死の束縛からの解放があるからです。
 イエス様は「昔いまし、今いまし、永久にいます主」です。ですから、イエス様を信じる私たちの信仰もいつまでも過去形にならず、絶えず現在形として、「今、私は主を信じます。主の言葉、霊、命に生きるキリスト者です」と証しできる信仰をもって歩みましょう。この世の束縛から完全に自由とされ、肉の束縛から自由とされるその日まで、信仰から信仰への歩みを、主の導きの中で、共々に歩み通していきましょう。
【及川信牧師休養中のため、会報五三十三号(二〇〇八年二月二十四2日発行)所載の巻頭言を再録しました。】


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