ラザロ、出て来なさい

            及川 信 ヨハネによる福音書11章1-5節、38-44節.

 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスはそれを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。

 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 主イエスにとって、この世とは闇の世です。闇は死を意味します。命の光が輝く天から、主イエスは闇の世に遣わされてきたのです。
 それは、「神は、その独り子を与えるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」です。
 その独り子とは、闇の中に輝く命の光です。しかし、その光は、どのようにして輝くことになったのか? 地上にやって来て、様々な素晴らしい言葉を残したからか? 違います。地上において様々な奇跡的な御業をなさったからか? それも違います。そうではなくて、死の闇の中に自ら入って行ってくださったからです。その死とは、天寿を全うした死でもないし、病死でもないし、事故死でもありません。「十字架の死」です。
 「十字架の死」とは、私たちの罪を身代わりに負って、神様に裁かれた死ということです。その裁きとしての死が、私たちの罪の赦しになるのは、御子イエス・キリストが罪のないお方であるからです。最初から最後まで、その心においても行いにおいても、一貫して神の御心を尋ね、御心を生きてくださったのです。そういうお方だからこそ、その死が、罪人の贖いになるのです。
 主イエスから見ると、私たち人間はすべて病に罹っています。罪の病です。病の多くは、最初は自覚症状がありません。自覚する以前に病巣は私たちの内部に巣食っているのだし、私たちの内部を蝕んでいるのです。その現実を、私たちは知らないし、知ったところで、自分で病巣をえぐり出すことは出来ません。ですから、その病は必ず死で終わるのです。
 ラザロが、「ある病人がいた」と登場することは、「ある罪人がいた」ことの象徴です。しかし、主イエスはラザロとその姉妹を「愛して」おられました。その主イエスから見ると、その病は「死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」ということになります。
 これは一体、どういうことなのか? 主イエスは、ラザロが病気(これは危篤だ、ということでしょう)だと知らされてもなお二日滞在されて、ラザロのところに向かいませんでした。その間にラザロは死んだのです。そのことを主イエスだけはご存知でした。そして、ラザロを「起こしに」行かれます。
 主イエスにとっての問題は、肉体の病や死ではありません。病を癒すことが、主イエスの使命ではないのです。罪を赦すことが使命なのです。そして、罪の赦しを私たちに信じさせることが使命なのです。
 その使命を果たすために、主イエスはラザロが住む「ユダヤ」に向かわれる。そこは主イエスに敵対する者(ユダヤ人の支配者)が多くいるところであり、そこで死人を復活させるという業をすることは、主イエスが殺されることを意味していました。
 しかし、主イエスは「もう一度、ユダヤへ行こう」と言い、ラザロの姉妹であるマルタに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われます。マルタは、信じました。
 ここで問われていることは、主イエスの十字架の死と復活によって、人の罪が赦されることを信じるか、ということです。その信仰によってのみ、罪という死に至る病は癒されるからです。その信仰がなければ、病(罪)は死に至るのだし、信仰があるなら、いつまでも死なない命に生きるのです。それは肉体の死を超えた命です。その命を人に与えることが、神の栄光を現すことなのです。
 主イエスは、その栄光を現すために、闇の世に来られました。そして、自ら十字架を背負い、ゴルゴダの丘に向かってくださったのです。そして、墓から甦り、今は聖霊において語りかけてくださるのです。罪の結果、死の闇の中(墓の中)にいるひとりひとりの人間に向かって、「出て来なさい」と。この主イエスの声を聴き、その命令に従うことが出来る時、つまり、マルタのように「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と告白出来る時、私たちの罪は赦され、私たちは「死んでも生きる」命を生きることになります。主イエスと共に生きるからです。信じる者となれますように。 


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