必ずあなたと共にいる

            及川 信 出エジプト記  2章23節〜 3章22節.

 久しぶりに会報の巻頭言を書きます。一昨年の一一月末に倒れてしまい、昨年の十二月二十三日に退院しました。今はまだリハビリの最中です。その間、会報の巻頭言に関しては過去のものを毎月載せてもらうしかありませんでした。今月から、私と後述の主任代務教師が隔月で書くことになりました。
その間、朝夕の礼拝は書記長老(伊吹兄)に労をとって貰い、友人の牧師たちに説教を担って頂いて、中渋谷教会は朝夕の礼拝を一回も欠かすことなく守ってこられました。これは当たり前のことではなく、神に感謝せざるを得ないことです。
その中でも何回かお見舞いに来てくださり、神学校時代から長きに亘って私の友人である大住雄一先生が、説教だけでなく聖餐式も助けてくださったことは感謝しきれません。先生には今年の二月から主任代務教師になって頂き、私は主任から担任教師になりました。主任代務教師である先生には、聖餐式の執行、長老会の議長や支区、教区の責任者を担ってもらっています。私は長老会で私が必要な部分の報告、分団の責任や朝礼拝の説教を今の所は月二回やっています。月に二回が体力的に精一杯です。夕礼拝は外部説教者にやってもらっています。
大住先生には、来年度以降の私の後任を長老会と共に決めてもらいます。中渋谷教会では残り一年となった私は、この体でも用いて頂ける規模の教会を探すことにしています。
 そこで「伝道者とは何か」に関して考えることが多くなりました。今までもそうでしたが、私はモーセのことをしばしば考えます。彼は、生まれはエジプト人にこき使われるイスラエル、育ちは支配者であるエジプトという数奇なものです。しかし、ある時、エジプト人を殺し、結局、ミディアンの地に亡命します。
 それから程なくして、モーセの罪を知るエジプトの王は死にます。しかし、イスラエルの人々は新しい王のもとで「労働のゆえにうめき、叫んだ」のです。神に向かってです。「彼らの叫び声は神に届」きました。そして、「神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」のです。
 この「聞く」(シャーマー)という言葉は大切です。神がその叫びを聞く、イスラエルの窮状を知る。そのことで神は動き出す。教会の出発はここにあるのです。教会の出発は人間にはありません。人間がいかに困っていようとも、そこで叫ぼうとも、神が聞かなければ本質的には何も変わらないのです。神が聞く、そして動く。それ以外に教会の出発はありません。
 そして、神は羊飼いをしていたモーセに語りかけます。燃える柴の木から。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」としてです。その神がモーセにこう言います。飛ばしながら読みます。
「わたしは・・・民の苦しみをつぶさに見、・・・
彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。・・・わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、・・・彼らを導き上る。・・・ 今、行きなさい。・・・わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」

 モーセには俄かに信じられない言葉です。その後のモーセと神様とのやり取りはこういうものです。
「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」
「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

 ここは教会の出発ではなく、伝道者の出発を表していると思います。伝道者は、神の御業をするには自分が小さすぎると知っている者たちです。人間の業ではありません。神の業です。その業に与るには自分は小さすぎると思っているのです。しかも、イスラエルの民とは思うほど従順ではありません。教会を見ればそれは良く分かるでしょう。
しかし、世の中に「伝道者」と呼ばれる人はいます。その人が考えていること、それは「わたしは必ずあなたと共にいる」という言葉を、何故か信じてしまったということです。私もそうです。私もその言葉を読み、いつしか信じるようになり、今も信じています。前任地でも中渋谷教会でもそうでしたし、まだ場所は分かりませんが、新たな任地でも同じです。
 そして、もう一つ固く信じているのは、教会は神のものだということです。神がすべてを見、聞き、動き出すのです。伝道者も同じです。そのタイミングは、教会や伝道者の願った通りではないでしょう。しかし、伝道者も教会も、神の御心だけがなるようにと願っているならば、その願いは何時の日か、必ず実現します。
 モーセは、アブラハム、イサク、ヤコブの神になかなか従いませんでした。でも、彼に現れ、彼を用いると心に決められた神も引き下がりません。彼が文句を言う度にあの手この手で彼を説得したり、怒ったりしながら彼を組み伏せて彼を用い続けました。その様は感動的です。
 私たちは誰しもが過程を生きています。神がまだ用いているのです。自分は神のものであること、神は見、聞き、動き、伝道者であろうがなかろうが「神は必ずあなたと共にいる」ことを信じて歩みたく思います。


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