巻頭言の誘惑
2016年度会報は、これまで主任者として教会を導いて来られた及川信牧師と、なおリハビリテーションに多くの時間を割かねばならない及川牧師を主任代務者として補わせていただく大住が、隔月交代で巻頭言を執筆することになりました。 これは、危機的な状況です。主任代務者が立てられ、及川先生の後任者を捜さねばならない状況が危機的だというのではありません。もちろんそれは、教会の危機にほかなりません。しかしここで言う危機とは、実は、私が巻頭言を書くことそのものなのです。 「巻頭言」というのは、なぜそのようなものがあるのか、よく考えなければならない記事です。その月の第一主日の(とくに聖餐の食卓を指し示す)説教が掲載されるのではありません。教会を教え導く聖書研究でもなく、神学講話でもありません。むしろ、会報を手にされた方の心を惹くためのエッセイです。これを私が担当すると、言わなくてよいことを、いい気になってしゃべる危険があるのです。 及川牧師が病気になられる前にも、特別礼拝の折に、また先生が福島や石巻にお出かけの際のお留守番に、礼拝説教のご奉仕をさせていただいたことがあります。そのとき、報告の中で説教者紹介がありましたが、説教者がマイクロフォンを奪ってご挨拶することは、ほとんどなかったと思います。それは、私のことをよくよくご存知の及川牧師が、その場面で私にマイクロフォンを渡すと、折角の礼拝が台無しになるとお察し下さったのです。 礼拝説教は、私の場合、毎回大変緊張しますので、礼拝が終わると、その緊張が一遍にほぐれて多弁になる。それが失敗のもとです。用賀教会に仕えていた頃も、礼拝が終わって、長老会は緊張が持続しますが、教会学校教師会などは、どうでもよいおしゃべりが多くなり、出席していた妻が怖い顔になって、「早く終われ」という信号を送ってきたものです。 会報の「巻頭言」は、礼拝直後に書くものではありませんが、会報を手にされた方の心を惹くためのエッセイであるところに危険があります。ちょっと気の利いたことを言ってみたいという願望が、頭を擡げるからからです。しかも及川先生という名エッセイストを前に、ちょっと張り合ってみたいと、愚かなことを考えたりして。。。 そこで、この一年間隔月で巻頭言を担当させていただくにあたって、決意表明をお聞き頂きたい。それは、テモテへの手紙一の最後の言葉です。パウロは、若いテモテに命じます。「あなたにゆだねられているものを守りなさい」。主任代務者というのは、ゆだねられている事柄がはっきりしています。そのゆだねられていることを行わない怠慢は、もちろん悪ですが、ゆだねられている限度を超えて、自分勝手を行うことは、もっと悪です。牧師全般に通じるものですが、代務者はなおさら、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」(一コリント四章一節)であり、「管理者に要求されるのは忠実であること」(同二節)なのです。 巻頭言も、ゆだねられた分を逸脱しないことを第一としたい。「この時に中渋谷教会に連なる皆様全員にお伝えすべきこと」を掲載するのが会報であり、その巻頭言は、そのお伝えすべきことを、なぜ今、皆が全員で聞くべきなのか分るように申し上げるものです。そのためにならば、余計なことを言わないのは、当然のことでしょう。 さて旧約で、申命記の律法は、イスラエルが約束の地へ渡って行くその前夜、対岸のモアブの平野で、告げ知らせられました。なぜ約束の地に入ってからではなかったのか。実は、約束の地に入って、それぞれの落ち着き所にはいってしまうと、民は「それぞれ」ばらばらになってしまいます。だから、バラバラになる前に、まだモアブの平野で一つに集まっているうちに、全員に一つなる律法を告げ知らせたのです。 テモテに対して、パウロはさらに具体的なことを教えて、言います。「俗悪な無駄話と、不当にも知識と呼ばれている反対論とを避けなさい」(一テモテ六章二〇節)。「俗悪な無駄話」というのは、振り回して喜ぶもののようです。くだらない話を振り回すのは、やめなさいということです。「その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます」(同二一節)。知識を振り回して人を驚かせ、人の上に立とうとする傲慢を捨て、謙虚に、まじめに信仰の道に立ち続けること、それが私たち救われた者の、本来のあり方です。 天国は自分だけで行く所ではなく、一人も道を踏み外さずに一緒に行く所です。だから、「その知識を鼻にかけ、信仰の道を踏み外してしまった者もいます」と警告した後直ちに、パウロは皆を一つにし、一緒に天国に行く一同として祝福します。「恵みがあなたがたと共にあるように」(同二一節)。この「あなたがた」(「あなた」ではなく)という呼びかけは重要です。 巻頭言も、振り回して人を驚かせる言葉ではなく、「あなたがた」全員に祝福を語りかける言葉でありたい。 |