神の秘められた計画

      及川  信

ローマの信徒への手紙 16章25節

「神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。」

 私は一昨年の11月27日に脳梗塞などによって突然倒れ、手術をしたり、リハビリをして昨年の12月二13日まで一年一カ月も入院しました。
 その間、中渋谷教会では朝、夕の礼拝を守り、その出席者の数があまり変わらなかったことは、大住雄一先生を初めとする牧師たち(その多くは私の親しい友人ですが)の協力と祈り、長老の皆さん初め会員の皆さんの信仰と祈りがあってのことであり、私は心から感謝しています。
 病気になる少し前からのことですけれども、私は十年後に「説教」をさせていただく以外の中渋谷教会における自分の姿が見えてこずに困ったことがありました。この教会は、数年後には新会堂建築を控えており、何とか自分を奮い立たせるために努力しました。それと同時に、いずれも教会に関係するとはいえ、やるべき仕事が色々と増え、私の力量ではやりきれなくなっていたのだと思います。そんな折に病気になり、四か月ほどで退院のつもりが、一年一カ月の長きに亘って入院してしまうことになり、皆さまにご心配とご迷惑をお掛けしたことを心からお詫びします。
 長老会の方とは色々と相談していますけれども、昨年の九月には水耀会でモーセの話をさせて頂いたり、月末には創立記念礼拝(朝)で「神の国」に関して説教をさせて頂いたりしました。今も胃瘻と気切の穴が開いていますが、その頃はあまり声が出ず、お聞きになられた方にはご不自由をかけたと思います。もちろん、説教も当時は車椅子に座ったまま語りました。でも、「神様は最悪のことではなく最善のことをしてくださったはずだ」と私は思いました。「最善」のことが何であるかは、その時は分からず、今少しずつ分かり始めています。神様の計画は、いつもその当初は秘められているからです。
 私は、昨年の十二月頃には漸く退院できそうにはなってきました。しかしそれは「良くなって」の退院でなく、「なんとか自宅でリハビリが出来る」ことだと分かりました。それだけ、私の病は重かったのです。
 そういった状況を見て、私が再び中渋谷教会の牧師をすることには無理があると、長老会は考え始めてくれました。私も、以前から一人で朝夕の礼拝説教や、会員が沢山おられる教会で、これまでのような牧会は出来ないなと思っていましたし、新しい地域の中で新しい会堂になる教会の牧師は、退院しても出来ないと感じていました。そこで、両者が相談し、年が明けての一月三十一日の臨時総会をもって及川は主任担任教師を辞し、これまでもお世話になって来た大住雄一先生(東京神学大学)に主任代務教師をお願いすることにしたのです。その際、「後任牧師に関しては、主任代務者と長老会にお任せし、及川は一切関わらない」ということを言い、「私の新しい任地についても、私だけで捜すので教会は何の心配もしなくて良い」と言いました。
 その間、私の新たな任地として甲府市にある山梨教会が決まりました。それは、数年前に説教や講演に行かせて頂いて以来、交わりのあった牧師に、「他人から聞くのも嫌だろう」と思ったのと、甲府市にいくつもある教会の情報を聞こうと思って私が電話をしたことが切掛けです。すると、ちょうど同じ日の臨時総会で、その牧師の辞任と新たな任地への赴任が決まると言うことでした。以後、牧師、招聘委員会、そして長老会の合意、私の説教と会員との懇談を経て、七月二十四日の臨時総会で「及川信牧師招聘」の件が正式に承認されました。それと同時に、中渋谷教会の方々にも広くお知らせしたつもりです。そうすることが、皆さんの「安心」に繋がりますし、九月二十五日の教会研修会における「牧師招聘とは何か」という大住先生のご講演にとって良いことだと思ったからです。
 ご講演では「教団の教師」を招くとはどういうことかに、先生は集中をされました。その後、教会員の皆さんが自由に語り合い、先生に対する質問をしました。それなどを聞いていても、「礼拝こそ教会の中心である」ことを皆が分かっていると思いました。一年一カ月も牧師が入院で不在であったことが、むしろ「教会とは何であるか」を教会員の皆様にお教えしたのでしょう。不思議なことですが、私の病気によって私自身は多くを失いましたが、牧師として私が集中すべきことが何であるかを知り、中渋谷教会はその中心には何があるのかを改めて知ったのだと思います。
 日本の教会に時たまあるのが、「〜先生の教会」というものです。もちろん、その背後に牧師の教会に対する「愛」があります。しかし、「愛」ほど厄介なものはありません。
 先生もおっしゃっていましたけれど、「牧師の立場は教会の中では強い」のです。しかし、目に見える形では、どんな教会であれ、教会は牧師と長老を初めとする会員は対等でなければなりません。しかし、教会の中心にいますのは、肉眼の目には見えない神です。「礼拝こそ教会の中心である」とは、そういう意味です。牧師も会員も、父子聖霊なる三位一体の神を見上げ、その「秘められた計画」の実現だけを願って、働かねばなりません。
 中渋谷教会に対する神様のご計画は、今は私たちの目には見えなくとも進展しており、いつの日か私たちの目にも見える形になって現れてくるでしょう。その時、私たちは「教団の教師」を正規の手続きをもって迎えなければなりません。それと同時に、皆さんは、新しくなる渋谷に、新しい会堂を使って共に伝道する「伝道者」を迎えて欲しいと思います。それこそが、教会に対する正しい「愛」だからです。



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